新しい日 hachikun TSナデシコ、ルリとアキト  よくあるナデシコ逆行ものです。アキト視点。 [#改ページ] 光[#「 光」は中見出し]  光の中。白い世界にいた。  上も下もない。ただの白だった。白い闇といってもいい。自分の身体すら見えない暖かい闇の中、俺はひとりで揺れていた。  ……誰もいない。  ここは死後の世界だろうか。俺は死んだのか。  闇は別に恐くはない。この闇は不安をもたらすものではなかったし、もともと俺の目はほとんど見えなかった。黒い闇が光になったからってどうなるものでもないだろう。だから見えない事に特に不安はなかった。  心残りはいくつかあったが……  あれ?  思い出せない。俺、どうして死んだんだ?  ラピスは……あの子は結局俺のせいで死んでしまった。そう。俺のせいでだ。  ユリカも死んだ。ルリちゃんが看取ってくれたらしい。最後に再会した時ルリちゃんはそう言った。さすがのルリちゃんもかなり本気で怒ってたっけ。もう許さないって。  ──あ。  そうか。ちょっと思い出したぞ。  ルリちゃんだ。俺の死因には確か……  確か…………。 [#改ページ] 覚醒[#「 覚醒」は中見出し]  目覚めは重い。血圧の低さのせいか、全世界が鈍重でゆったりとしている。 「ルリ。起きなさい。ルリ」  うるさいな。聞こえてるからちゃんと起きるよ。 「覚醒波長は出ていますよルリ。いつから貴女は狸寝入りなんて覚えたんですか。起きなさい」  あのなぁ……ルリルリって、なんで俺がルリちゃんなんだよ。 「うふふ、寝ぼけてるのね。まぁ仕方ないわ。脳死状態からよみがえっただけでも大変なことですものね」 「ホキ女史。本当に意識が回復するんでしょうか。やはり遺伝子操作の弊害が」 「……覚醒してるわよ。大丈夫」 「しかし」  男の声と女の声がする。女の声は随分となれなれしそうだった。 「お偉がたたちはもうダメだなんて言ってたけど、私はそうは思わない。まぁ教育も最初からやり直しかもしれないし能力も落ちちゃったかもしれないわ。蘇生したものの致命的な脳組織の死滅が起きたんですからね。……でも」  女はためいきをついた。 「いいじゃないそれでも。意識さえ戻ればそれでいい。記憶が飛んでいようと白痴になっていようとかまわない。最悪、私が娘として引き取るわ」  はん、と男たちを馬鹿にするように女の声が響く。 「この子には生きる権利があるし、事実上の保護者である私たちにはこの子の行く末を決める義務がある。それだけよ。科学者にあるまじき感傷と受け取るならそれでも結構。私の行動が理解できないというのならここにとどまる必要もないでしょう?すぐこの部屋から出ていきなさい」  そして一瞬女の声は消えて、そして 「変な顔しなさんな。ほら」  どうにも前後関係がわからない。世界が重く思考が回らない。俺はいったいどうなったのか。何もわからない。 「……」  俺は考えた末、目を開ける事にした。 「ん、おはようルリ」  目の前には、ミナトさんにちょっと似た女性がいた。もっと年嵩で眼鏡をかけている。典型的な女性科学者といった顔だ。  名前。名前は──そう。 「……えっと……ホキさん」  ホキ・ホシノ女史。科学者。俺の中にある「何か」が|識《し》っていた。 「大丈夫ルリ?気分はどう?」 「……悪い。何がどうなってるのか全然わからない」 「そ」  少し考えてから、ホキさんは小さく微笑んだ。 「自分が誰かわかる?」 「……すみませんわからないです」 「あら、それでも私の事はわかるの?」 「……なんとなく」  このひとは大丈夫。俺の中の何かがそう言った。 「状況が知りたいです。今はいつでここがどこで、そして私はどうなったのか」  よどみなく俺はそう答えた。  だが、変だ。目に映る全てがおかしい。  とにかくおかしかった。見えないはずの目が見えているし聞こえないはずの音が聞こえる。感覚もちゃんとしているようだ。  なのに、俺の声はやけに女の子っぽい。少しハスキーだが女の子としか思えない。  おまけに俺ときたら『俺』という一人称を使う事をためらったのだ。どうしてだろう? 「わかったわルリ、ゆっくり説明してあげる。  ほらあんたたち、わかったら出なさい。こんな小さな子の裸が見たいの?」  そう言うとホキさんは他の連中を全て追い出しにかかった。 [#改ページ] 自覚[#「 自覚」は中見出し]  いきなり風呂に入れられるとは思わなかった。  だけど抵抗なんかできなかった。何より服を脱がされ鏡の前に立たされた途端、俺は抵抗する気すらなくしてしまったんだから。 「そんな……そんなばかな」  そこには、全裸のルリちゃんがいた。  正しくは「幼女時代のルリちゃん」だ。中年女性に支えられて立っている俺は、なんとルリちゃんになっちまっていたんだ。それもおそらくナデシコ以前の。 「ふふ、面白い混乱の仕方するのねえ。男の子ですって?  ま、そういう思い込みも貴女の年頃じゃ悪いことじゃないけどね。他ならぬ貴女がそんなロマンチックな妄想に取りつかれるっていうのは興味深いわ」  ホキさんはケラケラと楽しそうに笑った。 「……笑いごとじゃない」  目を閉じろと言われた。閉じていると闇の中、優しい手が俺の頭をゆっくりと、しかし力強く洗いだした。  しかし……客観的な絵柄なんて想像もしたくないぞ。なんで俺がルリちゃんになってて、しかもあの頃のイネスくらいの女に風呂に入れられて頭洗ってもらってるんだ。 「本当に俺は男なんだ。なんでこんなになっちまってるのかわからないけど嘘じゃない。頼むから話を聞いてく……!!」  ふにふにと胸を揉まれた。のけぞって逃げようとするがどうにもならない。 「や、やめ!」 「あらあら、目は開けちゃダメよもう。  こんなにささやかでも、ちゃあんとおっぱいあるでしょう?それに」 「!!」  股間に手の平を添えられた。ビクッと身体が反応する。 「や……ぁ……」 「ほら、おちんちんもないでしょう?ん?」 「……」  そのまま、ぽんぽんと股間を優しく叩かれる。確かに「そこにあるべき感覚」がない。 「貴女がもう少し大人なら、もうちょっと艶っぽく身体に教えてあげるのだけどね。今はこれで充分でしょう?」  声が耳許で囁く。 「……どういう意味ですかそれは」 「私はここの女性スタッフよ。それも本来はここの人間じゃない。貴女が女の子だという事で、ばかげた事にならないよう回された専任の担当ってわけ。あらゆる意味でね」  ふわり、と包み込まれる。 「性的虐待の対象ですか。それなりのところに出てもいいんですが」  社会的な登録があろうとなかろうとホシノルリの法的カテゴリーは人間だ。現在の所属がどこであろうと、後先考えずに行動すれば人間として最低限の保護くらいは受けられる。  もっとも、その後には軍かネルガルに身柄を捕獲されるだろうから事態は余計にややこしくなるのだが。 「あらやだ、そんなに警戒しないで欲しいわね」  うふふ、と笑う。なんとも危険な女だ。 「確かに貴女のことはお気に入りよルリ。だけどね、それ以上に私は貴女を守りたいと思ってるわ」 「……」  確かに、先刻の会話でもホシノルリを庇おうとする態度がありありと見えた。少なくとも、実験材料に対する態度ではない。 「確かに私は善人とは言えない。部外者のくせにこんな法的に危険な施設に平気で出入りしてるんだもの。その異常さは賢い貴女にもわかるでしょう?  だけどね」  頭を洗い終えたらしい。タオルを頭に巻いてくれた。 「さ、湯舟に入りなさい。百数えるまで出ちゃダメよ」 「……」  その口調は、まるで昔なくした母さんを思わせた。 [#改ページ] 状況[#「 状況」は中見出し]  風呂の後は食堂に向かった。  設備の中は冷暖房完備なのだが、それにも増して今はぽかぽかしていた。湯上がりの身体は火照っていて心地よいし、病み上がりのため乗せられている車椅子の揺れも気持ちいい。おなか空いてなきゃウトウトしてしまったかもしれない。  そうこうしているうちに食堂についた。ホキ女史が椅子をひとつどけてくれて、俺はそこに車椅子ごと着席した。  途中経過は省かせてもらう。トイレにも行ったりしたのだけど、とても描写する気にはならない。あえていうなら「ルリちゃんごめん」と千回くらいは謝罪したい気持ちでいっぱいだった。  今は自分の身体とはいえ、これはルリちゃんのものだ。股間を拭いている時なんて、情けないやら申し訳ないやら。  あるべきものがなく、あるはずのないものがある。それだけでも凄まじいストレスなのに、それがルリちゃんのものだってのが……なぁ。  おしっこやうんちの落ちる音ですら申し訳ない。本来これは俺が絶対聞いちゃいけないものなのだから。    さて。それではホキ女史の事を続けよう。  ホキ女史は今、カウンターでふたりぶんの食事を受け取っている。  聞けばこの『人間開発センター』には女性があまりおらず、コンピュータとの会話以外は無能者に等しいルリちゃんに、女の子としての最低限の事を教えるのは以前から彼女の役目だったらしい。まぁ彼女は行動心理学が本来の専門らしいから、遺伝子細工された女の子がどういう行動を示すかというのもそれなりに面白いものではあるらしいのだけど。  会話の中で、彼女はこう言ったものだ。 『そりゃあ貴女は正式には研究対象、つまり実験動物と同じにすぎないわルリ。だけどね、実験室で純粋培養しただけの存在が外部で能力を発揮できるのかしら?だいいちそんな存在が欲しいのならわざわざヒトから作る必要すらないじゃない。  「人間開発センター」なのよここは。生み出すのは歩く成体コンピュータじゃない。コンピュータなみの力を持ち、同時に「人間」じゃなくてはならない。だから貴女は人間として扱われ、人間として過ごさねばならないわけ。わかるかしら?』 『わかります』  そうは言うが、とても義務や職務からそうしているようには見えないぞ。  目覚めたばかりだから、という事で俺はまだ身体がちゃんと動かない。そんなわけで車いすに載せられているのだけど、行く先行く先で「お、やっと起きたのか」「どうだい気分は?」などといろんな職員に声をかけられた。  そして、それらに「ども」とか「ありがとうございます」とか返すと非常に喜ばれたりもした。  ──なあルリちゃん。ここが君の史実と変わらない過去なら……もしかして結構いい環境だったんじゃないか? 「さ、おまちどう」 「!あ、はい」  いつのまにかホキ女史が戻っていた。目の前にチキンライスがどんと置かれる。 「それにしても興味深いわね」 「そうですか?」 「ええ」  ホキ女史は俺の反対側に座った。  火星丼を食べようと思ったのだけどいちおう警戒し、ルリちゃんらしくチキンライスを頼んだ。味のほどはわからないけど、調理自体は悪くないようだ。  口にしてみる。──へえ。これはかなり美味いな。  なんだかお腹が空いている。ルリちゃんの身体のせいだ。この身体はたくさんのエネルギーを消費するって事なんだろう。一日に必要なカロリー量すらこの頭は、身体は理解している。 「以前の貴女なら」 「?」  いきなり、ホキ女史が自分の定食を食べながらつぶやいた。 「以前の貴女ならジャンクフードで間に合わせたはずなのだけど……興味深いわね。昏睡から目覚めたかと思うといきなり普通の食堂にくるなんて」 「あ」  そういやそうだ。この頃のルリちゃんは食堂になんて来なかったはずだ。 「変、ですか?」 「変じゃないわ、むしろいい事ね。ジャンクフードも現代人の食事ではあるけれど、子供の頃から食べつけるのは決してよくはないもの」  昔の病院みたいに流動食って手もあったけど貴女の場合は問題ないしね、などとホキ女史は付け足した。 「……では、今までのホキさんはそれをそのまま看過していたわけですか?」  以前からルリちゃんの世話をしていたんなら、こういうとこに誘わなかったんだろうか? 「うふふ……それを言われると痛いわね。  ただ、あえて言い訳をすれば貴女の行動理念が面白いとも思っていたという事もあるかな。科学者の悪い癖ね。ヒューマニズムより興味を優先していたわけ。  ま、それを本人に非難されるというのも妙な気分だけど」 「……」  ちょっと冷たい目で睨んでやると、なぜかホキ女史はにっこりと笑った。 「何かおかしいんですか?」 「おかしいんじゃない、うれしいの」 「嬉しい?どうしてですか?」 「どうしですか、ですって?」  ホキ女史はその瞬間、イネスによく似た『科学者の』笑いを浮かべた。 「以前の貴女なら自分があからさまに研究対象に見られたって眉ひとつ動かさなかったわ。あきらめてたわけでもなんでもない。その事をあたりまえととらえ、関心も持たなかったのね」  ふむ、とホキ女史は食べる手を休めて腕組みをした。 「それは悪い事なんですか?」 「悪いわよそりゃ。  繰り返しになるけど、ここは『人間開発センター』なの。優れた人間はそりゃ歓迎するけど、人間として欠落があるのは好ましいことじゃないわ」 「……生まれてからずっと実験体だった人間には、それも仕方ないと思います。  腹立たしい事ではありますけど、生き延びる手段としては異常ではないでしょう。違いますか?  ……ホキさん?」 「……」  どうしてか、ホキ女史は嬉しいような、愛しいような不思議な顔をして見ている。 「あの、どうしてそんな目で見るんですか?」 「もう、ほんと可愛くなったわね貴女♪」 「??あ、あのー、頭なでないでください」 「うふふ、いいのいいの♪」 「よくありません」  ルリちゃんが「子供じゃない、少女です」と言い続けた理由って案外この人にあったんじゃないかな。  なんだかよくわからないが、異常にゴキゲンなホキ女史だった。 [#改ページ] 交流[#「 交流」は中見出し] 「……すみません、おかわり」  そうこうしているうちに食べ終わってしまった。 「ええいいわ。やっぱりチキンライスでいいの?」 「火星丼を」 「ん、わかったわ」  ホキ女史は机を立ち、新しい食券を買いに行った。  ひとりで座っていると、あちこちから「おいあの子」「あぁ、あの子か」みたいな会話が聞こえてくる。ほとんどざわめきに近いのだけど、ひどく興味をもたれているのがわかる。  ちょっと、いい気はしない。  もしかしたら本当に心配されているのかもしれない。だけど俺には、その視線が邪なものであるか心配されているかの区別がいまいちつかないのだ。殺意ならわかりやすいのだけど。  つまるところ、俺の精神が女の子ではないから……かな?やっぱり。 「やあ」 「……」  男のひとりが声をかけてきた。科学者ではない。セイヤさんとかに近い匂いがする。 「きみ、どうしたの?以前みた時は車椅子なんて使ってなかったと思うけど」  明らかにこの男の権限を逸脱している。純粋な興味か、それとも邪心か。 「……」  だけど、その視線にはむしろ「大丈夫かな?」という気遣わしげなものを感じる。 「ご心配ありがとうございます。実はしばらく具合を悪くしてて身体がなまっちゃってるんです。もう大丈夫なんですけど、無理するなって事で車椅子に載せられちゃいまして」 「そっか。今は大丈夫なの?」 「はい。ご心配おかけしました。えっと──」  会話しながら脳裏ではこの男の素性を調べている。車椅子がIFS仕様なので、それ経由でセキュリティにアクセスしているというわけだ。  う〜ん……はじめて使ってみたが、すごい能力だなルリちゃん。  さて、男は資材や機械類のメンテ担当らしい。やはりセイヤさんに近い。ここの施設には必要な面々なんだけど、研究自体には関与してないのでここでの扱いは決してよくないようだ。 「ごめんなさい」 「え?どうしてさ」 「いえ、ここ病院じゃないのにこんな子供が偉そうに車椅子なんか乗ってて……やっぱりおかしいですよね。がんばって早く元気になります」 「ううん、そんな事はないさ」  男は破顔した。なんか、こんなとこにいるとは思えないほどおひとよしのようだ。  と、そんな時、 「こら、そこの男。整備屋がうちの子になれなれしく声かけるんじゃない」 「うへ」  ホキさんが火星丼のトレーを持って立っていた。途端に男は顔をしかめた。 「やれやれ、うるさい人がきたよ。じゃあね、えっと──」 「ルリです。ホシノルリ」 「ルリちゃんか。早く元気になりなよ」 「ありがとうございます」  ウンウンとにこやかに笑うと、男は同じ制服の面々のいるテーブルに戻っていった。  テーブルでは他の面々が興味しんしんという顔でこっちを見ていた。男が戻ると口々に、このロリコン野郎だの、あの子どこか悪いのか、なんの話をしたんだ、なんて言葉が飛び交っている。 「どうしたんですかホキさん?」 「……」  ホキ女史は俺と連中を見比べ、へぇ、と不思議そうにつぶやいた。 「本当に興味深いわね。貴女ってば面白すぎよルリ」 「?」 「あ、いいのいいの。これは私の専門分野の事だから。さ、お食べなさい」 「???」  わけのわからないまま、火星丼を受け取った。  ここのが旨いのかルリちゃんの身体のせいなのか、火星丼はホウメイさんの作るもの以上においしく感じられた。 [#改ページ] 親娘[#「 親娘」は中見出し]  それからの毎日は、新鮮な事の連続だった。  もとより、ルリちゃんのルリちゃんとしての昔の日常について俺はよく知らない。この身体にもいくばくかの記憶はあるみたいだけどそれは記録にすぎない。ぶっちゃけプライベートに関してはあまりにも新鮮だった。  それでなくとも「女の子になってしまった」という異常事態でもある。これだけでも大変なのに、本当に困り果てるような事ばかり。気がつくとホキ女史に頼ってしまうという情けない状態が続いた。  気づくと、俺はプライベート中もセンター内をパタパタ飛び回るような生活になっていた。 「う〜ん、筋力や瞬発力は全然だめですねえ……」  体質の変化も期待したのだけど、そもそもルリちゃんの身体はそういう風にはできていないようだ。筋力は多少つくのだけどそれは「ルリちゃんとしては」の範疇を出てくれない。 「文句いわないの。ムキムキになっちゃったら可愛くないしこの程度で充分よ。  むしろ大変なものよ。れっきとした大人の男性をぽんぽんなげ飛ばしちゃうんだもの」 「それは」  瞬発力と勢いなんだよな。武道の心得があれば一般人なんて大人も子供も大差ない。  この身体では格闘なんてもちろんできない。だから基礎からやり直した。一度は刻んだことをもう一度やり直すのは苦痛だったけど、未来の事を思えばのんびりと過ごすなんてとてもできない相談だったし。  結果として、数ヵ月でホキ女史が言うくらいの動きはなんとかできるようになった。  だけど当然、きちんと格闘を学んだ軍人相手にはかなわない。まして、プロスペクターや月臣じゃ文字どおり大人と子供でしかない。  同年代の武道家にも勝てるかどうか。いや、「殺し合い」なら勝てるかもしれないけど、正式な試合なら勝つのは無理だろう。 「ま、健康体としては立派なものよ。コンピュータがお友達なんて暮らしだとどうしても不健康になりがちだけど、今のルリに関しては全く心配ないわね」  ホキ女史はけらけらと笑った。 「肝心のアクセス能力の方もまぁ、以前ほどじゃないけど悪くないわ。今のままでも立派に『成功例』ね。経験を積めばもっともっと伸びるでしょうって担当も言ってたし」  それはそうだろう。  中身が俺である以上そういう能力の低下は避けられない。身体だけルリちゃんでもオリジナルの経験には及ぶべくもないのだから。最初はもう本当にぼろぼろで、担当はもう半分あきらめたような顔をしてたっけ。  それに食いついたのは、他ならぬホキ女史だ。  彼女は『ホシノルリ』の人格面での急成長を盾に実験の継続を迫った。いわく「歪な人格が整理され、より優れた人間として正しい成長の軌道に乗ったと思われる。一時的な能力低下は些事にすぎない」と。  なんとなく、それは嫌な発言だった。かつてのルリちゃんが否定されているのだから。  だけど、そのおかげで俺は御役御免になって処分される事もなかった。そればかりか、能力が低下した事で過度の期待もされなくなり、施設の中を我が物顔に闊歩しても文句を言われなくもなった。  そうしているうちに俺はあちこちのひとと交流をもち、施設内で活動するための拠点をこしらえていったわけだ。  以前のルリちゃんではありえなかった、筋トレ設備や道場の利用もそのひとつだ。  そうした結果、今の俺がいる。 「そういえばホキさん、ネルガルの担当からオファーがあったと聞きましたが」 「ええ、きたわ。うちの人と話してたみたい」  そう。書類上はホキ女史は俺の母親なのだ。これは以前も今もそうだったりする。  だけど、それはあくまで書類上の事にすぎない。ルリちゃんに聞いたかつてのホシノ夫妻は、大金もらって親権を手放したそうだけど…… 「以前のルリならOKしたかもしれないけど、うちの人も貴女を娘のように可愛がってるものねえ。私も乗り気じゃないし、まぁOKは出さないかな」 「……」  う、う〜ん……やっぱりそうなるか。これはこれで嬉しい事だけど、もう完全に史実と変わっちまったな。  弱ったな。ナデシコに乗るかどうかはともかくナデシコの面々には会いたいものがあるんだけど。  ええい、ままよ。 「ホキさん。お願いがあるんですが」 「ん?なに?」 「そのお話、正式にお断りしてしまったのでないならば、少し考えさせてほしいんです」 「……」  ホキ女史は俺の顔をじっと見た。 「難しいわね。どうしてもというのなら話は聞くけど、貴女を手放すのは正直ごめんだわ」  もう私たちの娘みたいなもんだし、だいたいあの人がそれ聞くかしらとホキ女史は眉をしかめた。 「……そこをなんとか。あ、それとこれも私からのお願いなんですが」 「なに?これ以上面倒事なの?」  はい、と俺は答え、そしてこう言った。 「私の親権はホキさんに持ってて欲しいです。センター所属という意味ではなく、貴女の娘という意味で」 「え……?」 「ダメですか?」 「……」  ホキ女史は、あっけにとられた顔で俺を見ていた。  この数ヵ月で、ホキ女史とその夫、つまりホシノ夫妻がどういう存在であるかは理解できていた。書類上の両親であり実質の保護者はセンターである事も。もともとホシノルリをここに買い取ったのはセンターなわけで、夫妻は『夫がセンターの職員であり』養父母としての立場を貸したにすぎないのだ。引き取るとなれば法的に、または金銭的に大変な苦労をさせてしまう事もわかっている。  だけど……ルリちゃんの接していたホシノ夫妻とホキ女史たちはもはや完全に別人だといえる。少なくとも、テンカワアキトのココロを内包してしまった今の『|ホシノルリ《じぶん》』には安心して頼れる両親だと言える。 「……そ」  ホキ女史はしばらく悩み、そして、 「あ」  『私』をそっと抱きしめた。 「あ、あの……」  ぐしゅ、と鼻をすするような音が頭の上で聞こえた。 「嬉しいこと言ってくれるじゃない、もうこの子ってば!」 「……」 「いいわよ、あんたは今から私の娘。今までは単に書類上だったけど今からは違う。ええいいわ、もう放さない。ええ、金輪際絶対放してやるもんですか!」 「あ、あの」 「いいのいいの、あんたは何も心配いらない。これでも手がないわけじゃないんだから。  何よりうちの人も大喜びで協力してくれるでしょうしコネもないわけじゃない。それに私らが親ならセンター側もあんたと手が切れないって事で同意しやすいでしょうしね」  言葉遣いだけは今までと大差なかった。けれど泣き声というか嗚咽が混じり、いつもの冷静な科学者の面影はどこにもなかった。 「……」  『娘』にならなければ……そう思った。  こんな優しい人に『私』は守られていた。それゆえに今までやってこれたのだ。かつての自分に未練がないわけじゃないけど、それに応えるのも今の『私』の義務だ。  『私』は今、本当の意味で『ホシノルリ』になる。  ──さようなら、ルリちゃん。  『私』を抱きしめているホキ女史の身体を、抱き返した。女史の力も強くなる。 「──よろしくお願いします、お母さん」 「……」  うん、うん、と、ホキ女史はぽろぽろと涙をこぼしていた。 [#改ページ] 再開[#「 再開」は中見出し]  ナデシコ乗艦の話が進み始めた。  かつてのルリちゃんがどういう風に乗り込んだのかは今となってはわからない。だけどおそらく、その決定などにルリちゃん本人の意向は全く反映されてなかったんだと思う。ルリちゃんにしてみればそれは「新しい場所に売られた」だけの話であって、彼女本人の意志なぞそこには関与できなかった、または「しなかった」だろうから。  だけど今、私はホキ女史と並びプロスペクターに向かっている。 「なるほど、わかりました。親権までは手放すおつもりがないということですね」 「ええ」  元来、ホシノルリはオペレータとしてナデシコに雇われたのではない。ナデシコの一部、悪く言うと部品として『購入』されたのだ。親権がネルガルという企業体に委譲された事からもこれは伺える。ひととして扱っていたわけではない。  だが、それは許さない。たとえ『私』がかつてのルリちゃんではなく、あのルリちゃんにとっては過ぎた事でこれが単なる私の自己満足にすぎないとしても、そうであっても許す事はできない。  そしてそれは、実質ともに私の母と宣言したホキ女史にしても同様だった。 「お金の問題ではありませんよプロスペクターさん。どこの世に娘をどうぞと企業に売り渡す母親がいますか」 「いえ、時代と場所によってはありえますが。ちなみに現代においても」 「貴女は黙ってなさいルリ。まぜっかえすんじゃないの」 「はい」  う、う〜む……なんとなく最近、自分自身がルリ化しつつあるような気がする。  変な話だけど、ホキ女史の娘になると決めた日からどうも私はおかしい。人格に異変ありというか、自分でも気づかずにかつてのルリちゃんっぽい言動や行動をする事があるようだ。  あまり考えたくもない事だが、かつての自分が消えつつあるという事だろうか。  よくよく思えば確かに私はおかしい。十かそこらの女の子に成人男性の人格が突っ込まれてしまった存在なのだから。脳の構造も違うだろうし、むしろ今まで無理がでなかった方がおかしい。  私が消えるのはかまわない。そりゃ怖いけど、もうとっくに死んでいたはずの人間なのだ私は。これは仕方ないだろう。  だけど、残されたこの私はどうなる? 「困りましたなぁ。ネルガルとしては、最新鋭の実験鑑でお仕事していただく以上迂闊なご契約はできれば避けたいのですが…」  プロスペクターとホキさんも悩んでいる。  オモイカネのシステムは確かに最新機密だ。それと日常的に触れ合う少女を迂闊に扱うわけにはいかない。これは当然のことだろう。  こっちもこっちで問題だ。どうしたものか。 「……それじゃあ、私も乗るというのはどうかしら?資格はありませんが医学は一応納めましたのよ。医師業務自体は資格が必要でしょうけれど補佐くらいはできるのでは?」 「え?それは本当ですかな?」  プロスペクターはまさに鳩マメな顔をしていた。そりゃそうだろう。私だって初耳だ。 「私の専門は行動学ですけれど、昔は事情があっていろいろやりましたのよ。地方の無医村の出身なのはご存知でしょう?近郊のお医者様に応急処置などをよく教わりに行っていたのですけれど、おかげさまで資格はなくとも救急医療レベルなら何とかなると思いますわ。  行動学の研究のために赴いた地域でも、医療の心得のある学者という事で色々と重宝がられましたし」  この子の体調管理にも役立ちましたしね、と、私の頭をなでてホキ女史は言った。 「それは願ってもない事ですな。  医師の乗艦のあてもなくはないのですが、医療担当は他業務と兼任になる可能性が大きいのです。小回りのきく方であり、さらに専門知識もお持ちの方が乗り込んでくださるのは大変心強い」  プロスペクターは得たりと笑った。  正直、この笑みの裏で何を考えているのかわからないのがプロスペクターという男である。厄介ではあるのだけど、ここで前向きに判断してくれたのは素直にありがたい。  むしろ問題は、 「……ホキさん、いいの?研究は?」 「私の第一研究対象はあんたなのよ今も昔もね。忘れてないかしら?そりゃあんたは私の娘だけど、同時に研究対象であるって事も忘れてもらっちゃ困るわ」 「……」  それは確かにその通りだけど、同時に嘘でもある。  確かにこの身は貴重だろう。だけど、それは『成功例』としての調査対象という事であり継続的にデータがとれればそれでいいはずだ。  他の研究放り出してまで、ついてきていいものじゃないだろう。 「ま、そこらへんは娘が気にやむ事じゃないわ。私に任せておきなさい」      その日の午後、来客があった。  その人物は私を指定していた。ホキ女史はまだプロスペクターと打ち合わせがあるということで、ふたりから見える場所がいいだろうという事で私は中庭を指定した。  かくして、その人物は私を中庭で待っていた。 「こんにちは。えーと……ルリちゃん、でいいのかな?」 「……はい、それでいいです」  応えつつ、不覚にも涙が出そうになった。    ミスマル・ユリカだった。    むろん、このユリカは私が誰だか知らない。  どういう歴史の歪みがあったのかはわからない。史実ではナデシコで初対面だったはずのユリカが、わざわざ時間を作ってホシノルリに会いにきた。最初それを知った時、実はユリカも時を越えたのではないかと思ったのだけど……話してみてどうやら違うらしいと気づいた。  それは安堵でもあったが、同時にさびしくもあった。 「それで今日は、どのようなご用件でしょうか」  ちょっと冷たいかなとも思った。  だけど、私にはこうとしか応対できない。気を許せば抱きつき泣いてしまいそうだったから。これからの事を思えば、そんな応対をして問い質されたり不審がられたりするのはやめた方がいい。時を越えてきたなんて異常事態に彼女を巻き込んでしまうのはよくない。  つらい事だったけど。 「……うふふ」  ユリカはそんな私をどうとらえたんだろう。ゆっくりと近付いてきて、 「!」  ひし、と抱きしめられた。 「かっわいい!やだもう、お人形さんみたい!」 「ちょ……放してください」  だぁぁぁ、抱えこまれちゃいましたよ?このうえもなく、もうがっちりと。 「う〜んユリカ嬉しいなぁ。すごく優秀でお料理も上手で、とっても可愛い子だって聞いてたけど仕事上ずっといっしょでしょう?お友達になれたらいいな、どうかなーって思ってたんだよ?」 「……それで、わざわざ見にこられたわけですか」  まるで、もらう予定の猫をあらかじめ見に行くかの如く。 「で、どうでしょうか。お眼鏡にかないましたでしょうか」  冷たく言い放つ。ユリカの腕から逃げ出そうともがきつつ。  いや、冷たいと思われるかもしれないけど本当に勘弁してほしいのだ。ユリカに罪はないのだけど、あまりに近付きすぎると私の事情にユリカを巻き込まないとも限らないのだから。  あんな未来はもう見たくない。嫌なのだ。  だから突き放す。仲良くなるわけにはいかない。  察してくれとはいわない。だけどユリカ、お願いだから『近寄るな』という意志だけでもわかってくれ。 「♪」  しかし、よくも悪くもユリカだった。  ユリカは確かに天才だ。天才的なのではない。本当に彼女は天才なのだ。それはよくわかる。  だがそれは同時に、ゴーイングマイウェイで他人の話をこれっぽっちも聞かないという意味でもある。 「うふふ、本っっ当に可愛いなぁルリちゃんは。真っ赤になっちゃってもう。うりうり♪」  ほっぺたなんか突つかれちゃったりする。ぷにぷにすんな、ぷにぷに。 「……本当に失礼なひとですね。私は嫌がっているんですが?」 「うんわかってる、だから少しでも仲良しになろうねルリちゃん♪」 「ひとの話を全然聞いてませんね。お願いですから人間の会話をしてください」 「ん、おなかすいた?んーユリカもおなかすいたかな。ルリちゃんどこでお昼にするの?連れてってくれる?」 「……」  だめだこりゃ。  昔、ユリカがあまり好きじゃないって人がいた。女性だった。どうもユリカはあまり同性に好かれていないようで、男からみると天真爛漫に映る部分が女性には嫌味に見えるのかな、なんて事を考えた事もあった。  確かにこれはそうだろう。私はユリカのこういう性格嫌いじゃないけど、常にこのベタ甘の性格だとしたらどうだろう。しかもこの裏では彼女をして天才艦長と成した頭脳も動いていて、お馬鹿な会話の途中でいつその片鱗が表れて事態を冷静に計算しているとも知れないのだ。  普通の女の子がいきなりこんな子に遭遇したら……どうなるだろう。最初は男に日和る能無しと|冷笑《わら》い、後で天才ぶりを見せられてゾッとする事にはならないか。  そう……まるで彼女の全てが演技であり、馬鹿にするはずが実は馬鹿にされていたのではないのかと。 「るーりちゃん♪」 「……馴れ馴れしい人ですね。ま、いいですけど」 「うんうん♪」  誓ってもいい。ユリカは他人を馬鹿にはしない。計算ずくで動いてる時ですら相手を馬鹿にする事はないし、親しい人間をぺてんにかけるような事もしない。ある点が天才ゆえに他の部分が単純かつ直情的というだけの話なのだ。実際今もそうで、なんらかの底意を感じる事はできない。単に「ルリちゃんと仲良くなりたい」という気持ちを全面に出しているにすぎないのだ。  そう、まるで犬が無心に懐くように。  ん〜、でも気になるなぁ。史実からどうずれてこうなっちゃったんだろう。  危険かもしれない。だけど確認は必要かもしれない。 「よければ来ませんか、えーと」 「ユリカって呼んでくれるかな?」  すかさず指定された。う、うーむ。 「ではユリカさん。食堂はこちらです。どうぞ……?」  あれ?なんか『それ違うの』って顔してるな。 「どうされたんですか?」 「あのねルリちゃん。ひとつわがまま言っていい?」 「……ひとつというか、貴女のは徹頭徹尾全部自分勝手でわがままだと思いますけど」  あははは、とユリカは苦笑した。驚いた事に少しは自覚があるらしい。 「じゃあ、わがままついで。よかったらルリちゃんのお料理食べてみたいな」 「はぁ」  い、いきなりナニ言い出しますかねこのひとは? 「私が料理するってご存知ですか……いったいどこから?」 「クルーの名簿だけど?だって私、艦長だし」 「はぁ……それはわかりますが、そのデータの出どころって」 「ごめん、それはわかんない」 「……でしょうね」  履歴書にだってそんな事書いてないぞ。どうやって調べたんだネルガル。 「言っておきますが、私の料理はあくまで見よう見まねです。母は喜んで食べてくれますけど、他のひとが食べておいしいかどうかなんて私にはわかりませんよ」  それでもいいんですか?と聞いてみる。 「そう?ラーメンなんか本職そこのけって聞いたけど?」 「……ずいぶんと地獄耳ですね。本職そこのけなんてとんでもありませんが、ラーメンも確かに作ったことがあります」  もちろん仕事ではない。ホキ女史に夜食で出した事があるんだけど……ちょっと思い出したくない事件があり、たぶんセンターの職員の大部分が私がラーメン作る事を知っている。  正直いうと、あれは大失敗だった。  後で知ったことだけど、一般人はラーメンを作るのにあまり手間をかけない。少なくとも、麺打ちからスープの作成まで凝りに凝りまくりラーメンを作るというのはあまり一般的な行為ではないらしいのだ。料理に対する目線がやはり私は普通とズレているのか、指摘されるまで迂闊にもそれに気づかなかった。  そう。あの日はホキ女史の誕生日だった。彼女は誕生日を祝うのをあまり好まないタイプの人間で、だったらと二週間ほどかけてかつての『テンカワ特製ラーメン』を再現し、ちょうど夜勤していた彼女に届けたというわけだ。  最悪なことに、ラーメン屋でバイト経験があるという職員の目にそれが止まってしまった。  コンピュータとお友達のホシノルリが本格的なラーメンをこしらえた。ホキ女史自身はあまり料理をしないせいか「すごいんだよこの子は」くらいの自慢だったようだけど、元バイト君とはいえ本職のラーメンを知ってる人間の目には「気軽に作ったものではない」事が一発でバレてしまった。で、これは凄いと予想以上の大騒ぎになってとうとう『ホシノルリ・ラーメン試食会』が開催されるまでに至ってしまったのだ。  ああ、話の出どころはそのあたりかな。私についての聞き込み調査をネルガルかしたのなら、あのラーメン騒動くらいは伝わってもおかしくないだろう。  いや、私としては単に軽い気持ちだったんだけど……うーん。特別な贈り物を特別な日に受け取ってくれない人のために、ならば気づかれないようにと作ったラーメンだもの。なかば自己満足なんだからやるならとことんやっちまえと、封印したはずのテンカワ特製ラーメンの再現を試みてみた。ただ、それだけの話なのだ。  思えば、うちにラーメンの麺がない事を思い出した女史に製法を尋ねられ麺から自分で打った事を白状しなければ、それを横で聞いてた人が麺打ちにどれだけの体力が必要なのかを知らなければ、あんな厄介ごとにはならなかったと思うのだけど……。 「で、そんなわけだからルリちゃん。ラーメン」 「だめです」  期待全開のユリカにすげなくダメ出しする。えー、と悲しそうな顔をするユリカ。 「そんな顔されてもラーメンはダメです。あれは仕込みに時間かかりすぎますから、今から作ればできるのは明日ですよ?」 「え?そんなにかかるの?どうして?」 「はい、かかります」  ユリカが首をかしげるので、仕方なく説明してやる。 「麺も時間がかかりますが一番厄介なのはスープです。ユリカさんも普段なにげなく食べておられるラーメンですが、あのスープは時間をかけて仕込むものなんです。私は本職じゃありませんからスープの作りおきなんてしてないですし、しかもスープの仕上りは誤魔化しがききません。  ユリカさんがどういう味覚をお持ちかは私にはわかりません。けれど、まがりなりにも『おもてなし』で振る舞うラーメンでスープの手抜きだけは絶対したくありません」 「……」  ユリカは、そんな私の言葉をなかば呆然として聞いていた。そして、 「すご……そこまで本格的なんだ。麺も自分で作るの?」 「はい。こちらは時間がかかるもののスープほどではありません。まぁ多少は重労働なので非力な私が作るには工夫が必要なんですが」 「そっかぁ……」  うーんと残念そうにうなるユリカ。  なんていうか……同一人物なんだから当然だけど、こわいくらいユリカそのものだなぁ。 「じゃあチャーハン作ってくれる?チキンライスでもいいなー」 「……別にかまいませんが、私が作るという事自体は変わらないんですか?」  どうでもいいが、メニューの内容が異様に作為的な気がするのは気のせいなんだろうか? 「うん、お願い。  実はねルリちゃん、私ってお料理全然ダメなんだぁ。だからかな、ルリちゃんができるって聞いて是非とも食べてみたいって思ったの。……ダメかな?」 「……わかりました。ではついてきてください」    この時のユリカの嬉しそうな顔を、きっと私は忘れないだろう。  私は自分の予感を信じるべきだった。ユリカの来訪はもちろん偶然ではない。その意味をもう少し、しっかりと考えるべきだったのだ。  しかしまあ、それが私の運命だったという事かもしれない。 [#改ページ] ナデシコへ[#「 ナデシコへ」は中見出し] 「ルリちゃん、元気でね」 「無事で帰っといでよね、ルリ坊。あんたの白衣は残しとくから」 「ホシノちゃん。さびしくなったらいつでも戻ってくんだよ〜……」 「ルリ君。ネルガルの仕事がすんだらいつでも戻ってきたまえ。今度は職員としてちゃんとお給料もあげるからね」 「だぁぁぁ、あんたら、うちの娘ばっかで私はどうでもいいのかい!」 「あ、ホシノ君。ルリ君の体調や検査レポートよろしく。これだけは私情を混ぜないよう頼むよ」 「所長まで……いちおう私も、これの母親以前にいち研究者なわけで、ぺーぺーの新人研究者でもないんですが……」  ……これは……なんといってコメントすべきなんだろうか?  見送りしてくれるのは嬉しい。  だけど、たかが実験体ひとりとその研究者をネルガルごときに送り出すのにこの見送りってのは少々度が過ぎてるような気がするのは気のせいか。まるで誰かがノーベル賞でもとって受賞式典に送り出すような騒ぎじゃないか。  誰が作ったのか横断幕まであるぞ。それも、私が「行って帰ってくる」事を前提にしたものばかり。 「ま、人徳よねあんたの」  見送りに手をふりつつ走る車の中、ホキ女史はしみじみとそんな事を言った。 「いやぁ、ルリさんは人気ありますなぁ」  プロスペクターが感心したように微笑む。ゴートは無言のままハンドルを握っている。 「そりゃ当然、うちの娘はセンターの看板娘状態だったからね。  プロスペクターさん、そんなうちの娘を拉致ったんだ。応対についてもそれなりの配慮は期待させてもらうよ?」 「ええわかってますとも。そのために契約につきましてもかなり譲歩させていただきましたし」  あ、ちょっとひきつってる。ホキ女史、きっと無茶な条件つきつけたんだろうなぁ。  やれやれ。  さすがに申し訳ないし、せめて少し点数稼ぐか。わざわざ敵対する必要もないしな。 「プロスペクターさん。ナデシコの方にはもう誰かいるんでしょうか?」 「おや、仕事熱心で嬉しいですな」  私の思いがわかってくれたんだろう。あからさまに嬉しそうにプロスペクターは微笑んだ。 「オモイカネのセットアップの都合上、ルリさんの乗艦は他の方よりだいぶ早いのです。たとえば今日の時点では厨房も稼働しておりませんので、申し訳ありませんが本日は自炊していただくか、あるいはナデシコの外にあるネルガルの施設の方で食事していただく事になりますな」 「あ、それは聞いてます。厨房お借りする事になりますが」 「かまいませんよ。料理長のホウメイさんはもう到着しておりますし、彼女にもその可能性については伝えてありますから」  ありがとうございます、と頭をさげた。  そうか。ホウメイさんはもう来ているのか。それでも厨房が稼働してないってことは、食材がまだ何も届いてないって事なんだろうな。  ホウメイさんとの交渉次第では、明日からは自炊しなくてすむかもしれない。 「格納庫に数名、あとは設備、それから艦長とブリッジ要員が一名くる事になっております。艦長は事前視察となっておりますが目的はおそらくルリさんですな。艦長として貴女を歓迎されたい、という事でしょう」 「あ……ユリカさんも、ですか」 「おや、艦長は苦手ですか?ずいぶん懐いておられたようですが」  あれはむしろ、ユリカ『が』私『に』懐いていたというのではなかろうか? 「いえ、苦手ではありません。ただ、ゆっくりとオモイカネとお話したかったので。ユリカさんはお話好きですので、ついついそれにおつきあいして時間が長くなってしまいます」 「ははは、ルリさんはまじめなんですなぁ。  まぁ一週間以上ある事ですし、艦長は別の用件で滞在は今日一日だけとなっております。あとはゆっくり作業できますかと」 「わかりました」  ま、それはそれか。なんとかなるだろう。 「他のブリッジ要員というのはどういう方なんでしょうか?まだ通信士や航海士のお仕事はないと思われますが」  提督がどういう人物かはわからないけど……フクベ提督なら、ゆっくり見物にくる事くらいあるかもしれないな。退役されてるはずだから時間もあるはずだし。  あの頃はできなかった話……こんな小娘にちゃんと話してくれるかって問題もあるけど、いればちょっと話を聞いてみたい気もする。  しかし、ここでプロスペクターの発言は完全に予想外だった。 「いえ、おられるのは副オペレータですよ。ルリさんほどのオペレート能力はありませんがサブとしては十二分だと思われます。なにせ、もしルリさんが来てくださらなかったらこの方がメインオペレータだったというほどでして、はい」 「そうなんですか」  という事は、少なくともナデシコを単独、もしくは多少の補助で運航可能ではあるわけね。  ちょっとびっくり。  この時期、私の他にもオモイカネと話せるひとがいたとは。  ……あ。 「もしかして、その方は私と同じ髪の色をもつもっと大きな女性でしょうか。それとも、ピンクの髪のもっと小さな…?」  もう半分あきらめていた、ふたつの可能性。  すなわち、本物のルリちゃんが私のように逆行したか、それともラピスか。  しかし、 「……どちらでもありませんな」  そうプロスペクターは首をふった。 「まもなく到着いたします。私がご説明さしあげるよりご本人に会われた方がよろしいでしょう」 「はぁ……ではひとつだけ。その方の性別と、あと私より大きいか小さいかを」 「……」 「プロスペクターさん?」  プロスペクターは何もいわず、ただ心配ありませんよと言わんばかりに微笑んだ。 [#改ページ] 激震[#「 激震」は中見出し] 「機動戦艦ナデシコにようこそ。私が艦長のミスマルユリカです。  ようこそホシノ博士。お待ちしておりました」 「こんにちは艦長。ホキでいいわ」 「わかりましたホキさん。よろしくお願いいたします」  へえ。ユリカもきちんと挨拶できるんだなぁ……なんてちょっと失礼なことを考えたりもしていた。 「こんにちはルリちゃん。これからよろしくね♪」 「……よろしく」  うっへえ。なんか、ホキ女史相手の時と目の色が違う。  な、なんか私、ユリカの妙なフラグでも立てちゃったんだろうか?  参ったな。ユリカに懐かれるのは嬉しいけど、厄介なことにならなきゃいいんだが……。  そんな事を考えていると、プロスペクターがにっこりと笑った。 「さて艦長。私はホキさんとこれから打ち合わせがありまして。つきましては、ルリさ…」 「はい、元よりそのつもりです。ごゆっくりどうぞ」  っておい、ひとの話を途中で遮るなユリカ。それ悪い癖だ。  いやだなぁ。なんでいきなりユリカ節炸裂なんだろう。とてつもなく嫌な予感がするぞ。 「ユリカさん、せっかくですけど案内はいりません。私は」  そう言って逃げ出そうとしたのだけど、 「あ、ルリちゃん待って。ダメだよひとりでいっちゃあ」  逃げる間もなく、むんずと首根っこを掴まれてしまった。 「それでは、娘をよろしくお願いしますね艦長」 「はい、おまかせください」  ホキ女史はそんな私とユリカを面白そうに見て、そして私の前に立った。 「ルリ」 「?はい」  私の目線まで屈み込むと、ホキ女史は一度目を閉じた。  ふと気づくと、プロスペクターもユリカもあさっての方向を向き仕事の話などしている。どうやら『私たちは何も聞いてませんよ』という意志表示のようだ。  そして、ホキ女史の口が開いた。 「一度しかいわないよルリ。よくお聞きなさい。  私は何があってもあんたの母親で、あんたは私の娘。これはもう絶対変わらない。  その事だけは絶対忘れるんじゃないよ、いいね」 「……はぁ」  いきなり、薮から棒に何言い出すんだろうかこのひと。 「いいたい事はそれだけ。さ、艦長についてお行き」 「あ、はい」 「さ、いこうルリちゃん。……ではホキさん、ルリちゃんをお預りします」 「ええ、よろしく」  優しく頭をなでられ、そして私は歩きだした。    いったい、何がどうなってるんだろう?  ホキ女史とユリカ、それにプロスペクター。三人が私に何か隠しているのはわかる。おそらくそれは大きな衝撃を伴うもので、だからこそホキ女史は『私は何があってもおまえの母親だ』と宣言するように言ったんだろうと思う。  実の親子ではない私たち。だからこその事だろう。 「ユリカさん」 「なに?ルリちゃん」  横を歩くユリカに、思いきって私は問いかけた。 「ブリッジにいるのは誰ですか?そんなに私が仰天するようなひとがいるんでしょうか」  もしかすると、やはりそこにいるのは『私の知る・史実のホシノルリ』なんだろうか。  私は肉体こそルリちゃんだけど、この時代のルリちゃんの身体に宿ってしまったというだけで中身は別人だ。だから、オリジナルの……といういい方は変だけど、ルリちゃん本人だってなんらかの形で逆行しててナデシコに乗り込んだとしても決しておかしくはない。  そしてそれは、確かに驚くような事で……そして秘密なんだろう。何しろ逆行者なんだから。だったら、ゴートもいる車の中でプロスペクターが言わなかったのも納得できる。  そして、ユリカはそれをなかば肯定するようにクスクス笑った。 「うん、びっくりすると思うよきっと」 「そうですか」  そこまでわかっているという事は……それはすなわち、ユリカも巻き込んでしまったという事だ。 「すみませんユリカさん。おかしな事に巻き込んでしまったようで……びっくりしたでしょう?」 「うん、びっくりしたよ。でもまぁユリカの場合、ちょっと複雑な思いもあったんだけど」 「複雑……ですか?」  うんそう、とユリカは頷いた。 「さ、ブリッジに着いたよルリちゃん♪」  満面の笑みを浮かべるユリカが、ものすごい悪戯っ子に見える。私はちょっとだけ口を尖らせた。  私の正体を知りつつそういう態度か……ううむ……あとでとっちめてやらなくちゃ。 「そんな怖い顔しないの。さ、入って入って」 「あ」  ユリカに背中を押され、そしてプシ、という気密音と共にドアが開き、そして、 「……」      ブリッジの中に、その人物は居た。      それは成人男性だった。制服でなくラフなトレーナー姿で、こちらを背にオモイカネのセットアップに既に入っているようだった。  いくつもの文字が流れていく。作業は意外に流暢だった。両手にあるIFSのタトゥーはオペレータ用ではあるがわりと一般的なものに近い。おそらくは試作品で、遺伝子をいじられていない普通の人間がつけるものとしてはおそらく最高峰のもの。常人では制御どころか昏倒しかねないクラスのIFSを軽々と扱い作業しているあたり、本人の能力のとてつもなさがわかろうというものだった。  凄い。  確かに私は彼よりオペレートができるかもしれない。だけどそれは未来の話。あの頃、火星の後継者事件の頃の、魔女だの妖精だのといわれた時代になってからの話だ。現時点ではおそらく、オペレート能力は私より彼の方が遙かに上だろう。  いや、それすらも叶わないかもしれない。  彼には何かがある。  遺伝子細工により特異なオペレート能力を身に着けたこの身体とは別の意味で、それらの能力を使うための「何か」を、彼は持っている。 「……」  ごく、と唾を飲み込んだ。  その音に気づいたのか、それとも既に気づいていたのか。作業中の男性はゆっくりと手を止めた。パネルの輝きが止まり、そこから手が離れた。 「……ルリちゃん連れてきたよ、アキト」  どこか不服そうな、まるで焼き餅焼いているようなユリカの声が……って、|アキト《わたし》!? 「ああ、ありがとユリカ。おまえも立ち会ってくれ」 「いいけど……お邪魔虫じゃないの?私はふたりとは違うんだよ?」  え?え?ええ??? 「馬鹿いうなよユリカ。  俺たちは家族だ。たとえおまえがそれを知らなくても、おまえが嫌だって言わない限り俺たちは家族のつもりだ。俺も、ルリちゃんだってそう思ってる。  ま、さすがに今回のアクシデントには参ったけどね」  そう言うと、その男は私たちの方にゆっくりと振り返った。 「…………うそ」  私はその瞬間、たぶん頭の中が真っ白になった。      そこには、『テンカワアキト』がいた。 [#改ページ] 結末[#「 結末」は中見出し] 「や、ひさしぶりルリちゃん」 「…………」 「アキト、ちゃんと話してあげないとダメだよ。ルリちゃん困ってる」 「ああそっか。まぁ事情が事情だしな。よしちょっと待ってろ、お茶いれてくる」 「ってアキト!アキトが説明しなくてどうするの!」 「いや、だから言ったろ。『奥さん』であるユリカが説明した方が『ルリちゃん』の精神衛生にはいいんだって。俺なんか、はじめて見た時はショックで熱出したんだからな。ルリちゃんは俺より強いだろうけど、それでも相当きてるはずだぞ」 「そ、そりゃ私にはそういうのわかんないけど──」 「だからな、頼むユリカ!後で埋め合せはちゃんとするから、な!」  そう言うと、|アキト《わたし》は私に見えるように笑って手をふって見せると、すたすたとブリッジを出ていった。 「……」  後には、呆然とした私とユリカだけが残された。 「……」  一瞬、目の前が暗くなった。  次の瞬間、私はユリカに抱き起こされていた。 「ルリちゃん!ルリちゃん大丈夫?」 「あ……す、すみません」  失神しかけたのか。……我ながら情けない。 「ちょっと待ってねルリちゃん。今、オペレータシートに座らせてあげるから」  シートに座らせてくれたらしい。背もたれは寝かされ、半分寝転ぶような楽な姿勢になっている。  まだ時間の感覚がおかしいようだ。 「ルリちゃんどう?説明は明日にしたほうがいい?」 「いえ、よければ今説明してください。……逆に気になっておかしくなりそうですから」  とはいえ、事情はもうだいたい理解できたんだけど。  ユリカはためいきをつき、そして口を開いた。 「そう、もう想像ついたと思うけど……そうだよ『アキト』。あっちのアキト、中身はルリちゃんなの」 「……なんてこと」  入れ替わったっていうのか。逆行の時に。 「よその人間に入っちゃったならともかく『入れ替わる』なんて。いったいどんな確率ですかそれ」  そもそも、逆行時に人格だけ飛んじゃう事自体がとんでもなく異常事態なのに。 「それにしても、無責任だなアキト。元がこんな可愛いルリちゃんだなんて信じられない」  ぷんぷん、とちょっと怒っているユリカ。 「それ違いますよ。あれは『私たち』に気をつかってくれたんです。だから怒っちゃダメなんです。  『ルリちゃん』はとても優しい子です。好きなひとが目の前で結婚しちゃうのに、本当に満面の笑みで祝福してくれるばかりか、ふたりのために世話まで焼いてくれるような子なんですから。  とても、とても辛くて悲しかったろうに」 「そ……えへ、当のルリちゃんが言うと説得力あるね」 「ばか」  ユリカはそれが誰の事かわかったんだろう。一瞬泣きそうになり、そして無理矢理笑った。    今度はきっと、ルリちゃんの役目は私がするんだろう。  さっきの会話からして、ふたりはもうつきあってる。過去の私が何者であろうと、ユリカにとっては私がホシノルリであっちがテンカワアキトなのだから。  だから、今度は私がふたりの結婚式に笑顔で出席する事になるんだろう。    さびしいけど……かつてルリちゃんはその何倍も辛かったはずだ。祝福してあげなくちゃ。   「話はすんだ?」  ふと気づくと、そこには『アキト』が立っていた。トレーを持って。 「はい、これはルリちゃんの。これはユリカね」 「ありがと。で、アキトもここ座って」 「いや、だから俺は」 「変な遠慮しないで座りなさい!」 「!」  ユリカの一喝で、『アキト』は困ったように私の横にひざをついた。  私の視界に、ふたりの顔が入った。 「ルリちゃん、アキトに何でも聞いていいよ。アキトもちゃんと答えなさい。私はここで聞いててあげるから」 「……」  困ったように頬をかいている『アキト』。私は聞いてみる事にした。 「状況を教えてください。いったい何がどうなってこうなったんですか」 「……いいけど、ずいぶんと『私』に馴染んでますね」 「お互い様」  お互いがかつての口調でつぶやきあい、そして困ったように笑った。 「『ルリちゃん』は元々言葉遣いが丁寧だったけど女の子女の子してなかったから。それによくわからないけど……」 「ああ、わかります。もともとの『こちらのルリやアキト』と混じったんですね。だから口調や性格も影響を受けて変わってしまった」 「そう、それだ」  ユリカは、なんか面白そうに見ている。ルリ口調のアキトとアキト口調のルリという珍妙な組合せのせいだろう。まぁ仕方ない。 「どうしてこんな事になったのか……『ルリちゃん』は何か知らない?」 「そうですね。それはきっと」  『アキト』はちょっと苦々しい笑いを浮かべた。そして、 「私の願いをオモイカネが真正直に受け取ってしまったんでしょう。つまり『テンカワアキトが絶対逃げられないようにする』という願いを」        それは、何度めかのアキト探索の途上のことだった。  ホシノルリや仲間たちの懸命の工作により、テンカワアキトの扱いはテロリストではなくなっていた。事情が事情ということで身柄を拘束はされるものの、余命が長くないこともあり病院で保護される事も確定している。暗殺やリンチを避けるためネルガル系列の特別な病院が彼のためにスタンバイしており、そこには既に彼の妖精であったラピスラズリが社会復帰のための療養に入っていた。  そんな中、とうとうルリはアキトとユーチャリスを発見した。  追っても追っても逃げていくアキトにルリはいい加減憤慨していた。ユリカが亡くなる時だけこっそりと誰にも告げずにユリカの病室に現れたようだがそれ以降は誰にも会っていない。何度か捕まえかかったのだが『もうユリカもいない。君も君の幸せをみつけるんだ』なんて勝手なことをほざいて逃げていくばかり。  その日とうとう、通信機の向こうに向かってルリは激怒した。  どんな言葉を吐いたのかルリは覚えていない。だが蒼白になっていたアキトの顔は覚えているし、艦内の面々の呆然とした顔もよく覚えている。  たぶん『わたしの幸せは貴方なんだから逃げられちゃ困る、いや絶対逃さない』みたいな言葉を支離滅裂に言いまくったのだろう。言葉にすれば綺麗だが女の情念をがっつり込めたほとんど呪いのような宣告だったはずだ。おそらく皆には鬼女にも見えたに違いない。  狂愛の果てに相手を殺したり家に車で突っ込むひとの気持ちが、ルリにもちょっとわかる気がした。  そしてその後、ジャンプさせまいとナデシコからアンカーを打ち込みエステバリスでユーチャリスにとびこんだまではよかった。アキトはルリが宇宙でエステに乗れる事に驚いたがこれくらいどうしたというのか。あらゆるシチュでのアキト捕獲を想定したルリは、宇宙でのエステの運転についてもきっちりマスターしていたのだから。  だが次の瞬間、計算違いの事態が起きた。ユーチャリスのジャンプシステムが暴走したのだ。  そしてそれが、ふたりの奇異なる旅路のはじまりでもあった……。       「しかし、本当に『私』になっていたんですね。驚きました。  一度スカンジナビアまで見に行った事があるんですが、あの頃はまだ『私』のままだったのでこれは違うなと思ってたんです。まさかこんなに年数がたってからジャンプアウトしてくるなんて」 「……あの、無理にルリ口調で話さなくていいですよ。ちょっと変です」  むう、と顔をしかめる『アキト』。なんだかなぁ。 「変はお互い様だと思うけどな。いやほんと、なんだよその口調。昔の自分としゃべってるみたいで正直不気味だし」 「すみません、それこそお互い様です。鏡に移った自分と喧嘩してるみたいで猛烈に不愉快です」 「なんだと?」 「なんですか?」 「ちょ、ちょっとふたりとも、喧嘩しないの!」  ユリカがあわてて私たちの間に入ってきた。 「ま、まぁ、入れ替わっちゃったなんておかしなアクシデントはあったわけだけど、ふたりとも生きて再会できたわけでしょう?まずそれだけはお祝いするべきだとユリカは思うな。どう?」 「……」 「……」  ユリカをはさんで、私たちは睨みあう。  考えてみたら、最後の頃なんて私たちは罵声を飛ばしあいつつ追いかけっこしてたような気がする。女々しいだの馬鹿女だの、今から考えたらとんでもない問題発言をバカスカくりかえしつつ、宇宙を舞台に軍まで巻き込み、とんでもない規模の痴話喧嘩を延々と繰り返していたわけだ。  う〜ん……今のこのでたらめな状況って、そう考えたらある意味においては「正しい未来」なのかもしれない。  でもなぁ。 「……」 「……」  もう一度睨み合う。 「……」 「……」 「……」 「……やっぱり腹立つな」 「ええ、立ちますね。ほんと」  『アキト』が腕組みをして私を睨み付ける。私も睨み返す。 「よりにもよって、本当に俺になるなんてな。なんか凄い腹立つぞ」 「こっちこそ。ひとを勝手に女の子に変えたうえにそれに対して怒るなんて自分勝手にも限度があります。今度という今度は私も頭にきました」 「言ったな?」 「ええ、言いました」 「……この野郎!」 「おや、いたいけな少女に手をあげますか?テンカワアキトはドメスティックなロリペド変態ですか。ふ〜ん、これで社会的地位も全ておしまいですね。ああ、かつての私の身体をそんなふうにしてしまうなんて情けない」 「誰がいたいけな少女だ!だいたいその身体は俺のだ!返せ!」 「戻せるもんなら戻してみてください。まぁ無理でしょうが。肉体は元に戻せたとしても、この世界のテンカワアキトとホシノルリに精神が融合してしまってますからね。オモイカネだって遺跡だって、一度混ざったものを元に戻す事なんておそらくできませんよ?」 「だぁぁぁ!あの素直だった『アキトさん』がどうしてこんな狡賢さ全開の嫌味女になっちまったんだか!悲しいよ俺は!」 「そりゃあ、ホシノルリの身体と人格がそれだけアレなんでしょう。高潔な精神も土台がアレだと汚染されちゃうんですねえ。おおこわい」 「んぬ……この……だぁぁぁっ!!」  睨み合いはもはや極限に達しようとしていた。私と『アキト』は視線でひとが殺せるなら千人はぶっ潰せそうな睨み合いを続け、今にもどつきあいをはじめそうな程になっていた。  そうして、それが限界に達しようとしていたその時に、      『 い い か げ ん に し な さ い ! 』      その罵声が響いた瞬間、私と『アキト』は同時に凍り付いた。 「い、いやそのユリカこれは」 「やめなさいアキト!ルリちゃん相手になにやってんの!大人げないと思わないの?」 「いや、だからこいつは」 「問答無用です!」  いつのまにか大魔人と化したユリカが、猛烈な勢いで『アキト』にどなりだした。『アキト』はたじたじで、何か言おうとしてるんだけど言い訳すら言わせてもらえないみたいだ。  ふう、やれやれ。おっかないけど、とりあえず危機は脱したか。 「ルリちゃん!」 「ひ、ひゃいっ!」  いきなり怒鳴りつけられ、私は変な返事を返してしまった。 「ルリちゃんもダメ!アキトもそりゃ悪いけど返す言葉も態度も辛辣すぎ!男の子が聞いてたらみんな恐がっちゃうでしょ!そういうのはもっと歯に衣着せなさい!」 「い、いや、それはもっと陰湿な気がするんですが──」 「言い訳しない!」 「は、はぃぃぃ!」  あわわわわ…………こ、腰ぬけそう。  滅多に怒らないひとが激怒すると何よりも怖いという。今のユリカはまさにそれだった。なんだかんだでユリカが怒る事って実はそう多くない。怒ったとしてもそれは静かなもので、むしろその静けさが恐ろしい。ユリカは本来そういうタイプの女の子なのだ。  それが大噴火した。  私たちはふたりとも完全に言葉をなくしてしまい、もうただ言われるままにぺこぺこと謝るだけだった。       「さて」  そんな時間がしばらくたち、唐突にユリカの口調がいつもの調子に戻った。 「まぁ色々あったようだしこれからも大変だけど、とりあえず再会できてよかったねという事で」 「……」  いやユリカ、そんな大雑把というか能天気というか、そんな単純な話ではナインデスガ? 「ん?まだ何かあるのふたりとも?」 「……」 「……」  ユリカをはさみ、私と『アキト』は顔を見合わせた。 (よせよせ。かんべんしてくれ) (ええ、こっちも同意見ということで)  アイコンタクト成立。とにかくユリカを刺激しない、という一点でとりあえず私たちは休戦となった。  そんな事態を知ってか知らずか、悪戯っぽい微笑みを浮かべるユリカ。 「さて、いこうかふたりとも♪」 「はい?えっと」 「いくって……どこ行くんだユリカ?一応だがまだ仕事中だぞ?」 「ええそうですユリカさん。いろいろありますが私情と仕事は別ですし、私は『アキトさん』と手分けしてオモイカネのセットアップをしなくちゃいけませんし」  うん、と『アキト』も頷く。そこらへんについては同意見のようだ。ありがたい。  若さがないと言えばその通りなのだけど、お互いに死線を潜ってきた存在。そこらへんはしっかりわきまえてる。  でも。 「んー、それは後でいいと思うな。それより今必要なのはお互いに打ち解けることだとユリカは思うよ?  幸いにもふたりは元家族だし、私はふたりにとってのユリカじゃないけどやっぱりユリカだもの。もっと打ち解けたいしいろんな話も聞かせてほしい。私だけ仲間外れは嫌だよ」 「あー……それは確かにそうなんだけどなユリカ」 「シャラップ!」  言い返そうとした『アキト』にチョップを食らわすユリカ。う、う〜ん……傍目にみるとただのバカップルだよなぁこれ。  私もこんな感じだったのかなぁ……うっへぇ。 「……はぁ。ばかばっか」  思わず、あの頃のルリちゃんの言葉をつぶやいてしまう。    だけど私は、ユリカという存在に対する認識がまだ甘かったらしい。   「さて、こんな時の解決法はずばり、ごはんとお風呂!」 「……はあ?」  あっけにとられた『アキト』に、にんまりと笑うユリカ。 「同じ釜の飯を食うことで親交を温める。うん、昔のひとは頭いい!私たちもさっそく便乗させてもらいましょう!さ、いざいざ♪」 「ちょ、ちょっとまてユリカ」 「なに?アキト。善は急げよほらルリちゃんも♪」  あわててる『アキト』。うんうん、私も同じ考えだし。 「いや、飯はいい。それは確かにその通りだ。ユリカの考えもわかる。じっくりこれからの事も話したいしな」 「うん、そうでしょアキト。だから今からごはんとお風呂にゴー!あ、それともお風呂先がいい?」 「いやだから、そこでどうして風呂なんだ?まさかとは思うが」 「え?……あぁ当然でしょ?いっしょに入るんでしょ?」 「!!」  あたりまえのように言うユリカ。当然私たちは大慌て。 「こら待て!まずいだろそれは!」 「えーどうして?家族じゃない」 「それは昔の事!それに、いくら家族でも三人いっしょに入った事はあの頃だってないぞ!」 「えーどうして?ルリちゃんたちのユリカはお風呂に誘わなかったの?  それって変。だって家族だよ?」 「いや、そう言われても」  むう、と眉をよせ、ユリカは仁王立ちで腕組みした。 「あのね二人とも。  そもそもふたりは入れ替わっちゃってるんでしょう?あたりまえだけど今の身体でお風呂も入ってるんだよね?ルリちゃんはアキトの身体で、アキトはルリちゃんの身体で。  それってつまり、お互いの身体の事はすみずみまで知ってるってことでしょ?今さら何恥ずかしがる必要があるの?」 「あ……いやそれは……」 「いいかげん覚悟なさいふたりとも!」  言い返せず「あーうー」とかやってる『アキト』に、ユリカふたたび怒る。 「ユリカはもう覚悟決めたんだから!万が一ふたりに間違いがあっても咎めません!いえむしろ間違いなさい!ぜーんぶユリカが受け止めてあげるから!」 「……うわ、それ堂々と言う事ですかユリカさん」 「ルリちゃん!まぜっかえさないの!」 「あ、は、はい…」  うぅ……まるで言い返せない。 「とにかくこれは決定!言い訳は認めません。さ、いくよふたりとも」 「ちょ、本気ですかユリカさん!」 「当然」  うわぁ、完全に居直ってる! 「だいたいルリちゃんは元アキトなんでしょ?未来じゃユリカと結婚もしてたんでしょ?自分と奥さんの裸じゃない、何がダメなの?」 「……それは」 「アキトだってそうだよ。あっちじゃユリカとお風呂してただろうしルリちゃんは昔の自分じゃない。はずかしがる必要がどこにあるの?  ま、ユリカに欲情して襲いかかるっていうんなら……う、う〜んちょっと恥ずかしいかも。で、でもユリカは嬉しいよ?」  んふふー、とかおめめキラキラのユリカさん。    だめだ。こんなの私じゃ論破できません。絶対、無理。   「さ、そんなわけでお風呂にゴー。ごはんはその後でゴー!」 「あの、私ホウメイさんにお話がってちょっとユリカさん放して!」 「ん?厨房のお話ならもうプロスさんがしてるはずだよ?大丈夫大丈夫、二時間ご休憩くらいなら遅くなったって♪」 「……ユリカ、頼むからこれ以上危険な発言はよせ。オモイカネのシステムはもう動き出してるんだぞ」 「え〜?プライベートの会話まで記録するのオモイカネって?」 「論点違いますユリカさん。オモイカネはAIです。えっちな子に育ったらどうするんですか」 「ほええ。そんな事まで学習しちゃうんだ。すごいねえ。じゃ、じゃあ、私たちの愛の営みとかも学習しちゃうのかな、ねえルリちゃん?」 「いえ、そこで私に振られても。ていうか何するつもりですかユリカさん!」 「え〜。そこはやっぱり、愛し合う男女が結ばれてこう」 「私のいないとこで、おふたりでどうぞ」 「え〜三人にしようよ〜」 「……ユリカって、こんな性格だっけ?」 「夢壊すようで悪いけど、俺たちのユリカさんもこんなだったぞ。あの頃アキトだった『|ルリちゃん《きみ》』がどんなイメージで見てたかは知らないが」 「……マジ?」 「マジ。ま、気持ちはわかるけどな。こればっかりは両方の性を経験してみた人間にしかわからない世界だし」 「……うぅ」 「あきらめろって。夢は醒めるもんだ」 「う……なんかストレスで毛が抜けそう」 「そりゃ俺も同じだよ。あの、ちょっと情けないけど誠実でかっこよかった『アキトさん』が、そうやって昔の自分の顔で乙女ちっくぶりぶりやってんだもの。正直泣きたい」 「……面目次第もないっす。ていうかこの言葉そっくり返しますよ『ルリちゃん』」 「……」 「……」 「こらそこ!まだ喧嘩してる!」 「!い、いやその、悪い」 「……あはは。ご、ごめんなさい」 「よろしい♪」       (おわり) [#改ページ] 独自設定解説[#「 独自設定解説」は中見出し] 『ホキ・ホシノ』  ホシノ夫妻の片割れにあたるもの。捏造オリキャラ。逆行アキト(ルリ)の保護者。 『行動学』  この呼称は学問上正しくない。これは彼女の自称であり、元々の彼女の本分は動物学者である。センターで動物学者を名乗るのは違和感があるのでこう自称するようになった。  霊長類全般に関する動物学の博士号をもち、遺伝子操作された猿を使った臨床実験や観察などを通じてセンターとの間にコネができた。ホモ・サピエンスを見る羽目になったのは「なりゆき」ではあるが、人間も霊長類であり実質の彼女の分野ではある。  危険な仕事にも少しかかわるが、表の世界でも一部の論文で知られている存在である。またそれが保険になっており、守秘契約を交わすカタチでセンターに関わりをもつ数少ない「外部の人」である。  夫も同業。ただしこちらは奥さんほどは有名人ではない。 [#改ページ] あとがき[#「 あとがき」は中見出し]  こんにちは、hachikunです。お読みいただきありがとうございました。  本作「新しい日」はある意味実験作です。以下の点に着目して書いてみました。   ・『えろいシーンを無くす』    うちのTSものはほぼ全部18禁です。それを覆すものをと書きました。まぁちょっと際どいシーンがありますけど(ホキ女史がTSアキトの胸とか股間とか触ってるあたり)、それ以外は何もありません。   ・『カップリングものではない作品』    うちの女性化TSはヒロインにゲットされちゃうんですよねみんな。  で、そういうのがないものにしました。本作のTSアキトは『家族』を得ますがカップルにはなりません。いずれ彼女は……いえこれはまた別の話。   ・『モノローグ中心の物語』    これはまだまだ消化不良のようです。がんばります。      このSSには後日談があります。  アキト(中身はルリ)はエステに乗れますがかつてのアキトのようにはいかないのです。ガイは史実通りいきなりリタイヤ。初日早々から大ピンチになっちまいます。  そして、虎視眈眈とルリ(中身アキト)を狙うなぞの──  まぁ、このあたりは機会がありましたら。