ファタ・モルガーナ はちくん SchoolDays、言葉・刹那 『SchoolDays』、『鮮血の結末』の後日談。ネタばれ。[『すれ違い』|../sanji/]の分岐話なので、先にそちらを読まないと状況がわからないと思います。 (注:私はSummerDaysをまだやってませんので、そちらのみに登場しているはずの人物描写がおかしい可能性があります) (七月十一日改定・『監察』→『観察』) [#改ページ] まえがき[#「 まえがき」は中見出し]  狂った笑い声が響いている。  もういない女、ここにはいない女だ。その女の狂った笑顔とけたたましい笑いは完全に耳にこびりついていて、毎夜の如く夢に現れた。 「あははは、あははははははははは!」  ノコギリを手にした女が、血まみれでけたたましく笑う。  その目はなぜかまっすぐに誠を見据えている。狂気の光を湛えたまま、まっすぐ誠を見つめてくる。  動けない。  うっとりとみつめてくる、目。その目は愛に溢れた女性のものだ。  ──その姿が、たとえ鮮血にまみれていようと。  どんなおそろしい狂気に身を染めようと、この女の愛だけは曇らない。泥にまみれようと暗黒の闇に沈もうと、誠に向けて伸ばす、すがるような、しがみつくような柔らかい手だけは絶対に変わらない。  だが、その想いはあまりにも盲目的で、あまりにも強すぎる。  誠の愛が欲しい。この女にはそれだけしかない。それだけしか持っていない。  無垢なる愛。純粋すぎた何か。  まだ幼すぎた精神が手にしてしまった、強すぎた想いの果て。  無垢なる想いを抱えきれるのはやはり無垢なる想いしかない。あるいは純粋にその想いを包み込み、痛みをこらえきれる強い保護者だけだ。  ひとの心は鏡のようなものだから。 「……誠くん」  血まみれの手にやんわりと、しっかりと抱きしめられた。 「……すき」  耳許で囁く声。  濃厚な血の匂い。まだ温かい。世界の血がべったりと誠にもついて、その狂気までもが誠に熱となって伝染していく。  くすくす、うふふと響く狂気の笑いはどちらのものか。 「……あ」  と、その時、光が溢れた。  眩しい光は無理矢理に誠を捕まえた。有無をいわさず誠を闇から引き上げ、血とヘドロとぬくもりの泥濘からずるりと引き抜いてしまった。  離れていく。遠ざかっていく。  誠くん、誠くんいかないで、誠くん──そんな悲しげな声が響きわたった。狂女の慟哭が聞こえた。 (──ことのは)  光にとろとろに融かされつつ、誠はぼんやりと遠い女の名に思いを馳せた。 [#改ページ] はじまり[#「 はじまり」は中見出し]  伊藤誠は学力的には平凡な日本人の少年である。だから外国語、ましてや触れたこともないフランス語の理解など到底不可能だった。  当初彼は、自分を日本から連れ出した刹那とふたりで日本人学校のフランス語学級に在籍していた。刹那の母親の勤務がいつまでになるかはわからないがよい機会でもあったし、何より言葉が通じないというのは不便だ。先に勉強を進めていた刹那のフォローもあり、若さも手伝ってしばらくのうちにはなんとか片言を話し、簡単な書取りくらいは可能になった。  やがてこちらの普通の学校にもしばし編入したりもした。『子供のような小さな彼女をつれ歩く』誠は西洋人からみると彼自身も幼い容貌をしていたせいか、日本のあの頃のように恋愛のドタバタに巻き込まれる事もなかった。片言で語ればその人当たりのソフトさもあってか『フランスのお姉様』たちに刹那もろとも可愛がられそうになったりする事もあったのだが、そのたびに皆は側にいつもいるちっちゃな女の子の正体と『実は小さな彼女の方が誠をつれ歩いている』という事実を知ることになるのだった。  つきあいが悪いわけではないが、いつも誠を手放さず寡黙がちな刹那。そんな刹那を頼りにし社会的に振る舞わせようとする、お人好しの少年。そのさまは『ほほえましいお子様カップル』と周囲には見えて色恋抜きに一時期、まるでマスコットのような人気者になった。  まぁ、言葉が通じないのはお互いにとって僥倖なのだろうと誠は思っていた。誠より語学力のある刹那が時おり赤くなったり怒ったりしているところをみると、知らぬが仏を決め込んでおいて後で刹那をフォローする方が賢いと誠もだんだんおもいはじめていたからだ。  いつしかだんだんと、誠と刹那の距離は刹那が演出した範囲を越えて接近しはじめていた。       「うん、これがいいんじゃないかな」 「……じゃ、そうする」 「だけど問題は予算か。これはちょっと……なんとか今の貯金を頭金にできればいいんだけど」 「そっちは問題ない。でもいいの?わたしも協力するのに」 「ダメだ」 「どうして?」 「おれの意地だからだ」 「……」  ちょっとためいきをつくと、誠はその中古車を見た。 「住むとこから何から全部刹那と刹那のお母さんに頼りっぱなしなんだぞ?今さら甲斐性なんてどの口が言うんだって感じだけど、これくらいはさせてほしい。ダメかな」 「……わかった」  子供のようなむっつり顔の誠に、刹那は納得しつつ内心くすっと笑った。  異国の空気でゆっくりと回復した誠は文字どおり、誠実で行動力のある男の子になった。女の子に翻弄されてなければ昔のように普通に元気で優しい男の子になるだろう、と考えた刹那の読みは当たりに当たったといえる。  そんなわけで、今ではすっかり誠も清浦家の一員だった。誠を迎えた時の母親の反応はさすがに複雑だったが、今やその母親も誠がすっかりお気に入り。名前こそ伊藤だが、これは遠からず刹那の方が伊藤刹那になるべく話が進みはじめようともしている。誠の願いで「ちゃんと就職してから」という事になってはいるものの、そういう話が出る時点でもう決定したも同然だ。いちおう故郷の母に航空機一回分プラスα程度の貯金を持たされて日本を出てきている誠だが、そのお金はいまだ一円、もとい一ユーロたりとて使われていない。  つまり、ふたりの車を誠だけの力で買いたいというのは、まさに誠の意地以外の何者でもなかった。そんなものより、いずれ必要になる婚約&結婚指輪の方にお金かけてほしい、なんてさすがの刹那も一瞬思ったのだけど、女の子の家におんぶにだっこでずっと御世話になっているというのは男の子にとって本来名誉なことではないだろう。そう考えると、刹那も誠の意地を尊重してあげたいと思うのだった。  しばらく刹那はディーラーのスタッフと何かフランス語で話していた。中古車だし、エンジンの音を一度聞いてみたいという誠の願いもあり、試乗できないかと交渉しているようだった。  話がすんだらしい。スタッフが刹那にキーを渡し、刹那はそれを誠に渡した。 「いいの?」 「当然」  いつもの無表情で刹那は応えた。  誠は都合により免許の取得が刹那より遅れた。金銭的問題で誠が遠慮したことと、日本と違い終身免許ながら取得条件は日本なみに厳しいフランスの免許制度のためだ。日本でいえばまだ若葉マークがとれたばかりであり、その点で刹那より微妙にキャリアが短い。  もっとも、ふたりはもちろん刹那の母連れの時すらも誠がハンドルを握らされるので、誠の運転時間は若葉とは思えないほど長いのだが。  つまるところ、それはふたりに欠けている『男性の家族のポジション』だったのだろう。それを敏感に察知した誠はいつも優しく微笑み、文句ひとつ言わずにハンドルを握るのだった。  今日もそう。刹那にキーを渡された誠は苦笑すると、わざと執事のようにドアをあけ、わざと丁寧に一礼して刹那を車に誘った。どうぞお姫様、というわけだ。  刹那もそれを見てクスッと笑い、どこぞのお嬢様のように仰々しくナビゲータシートに乗り込んだ。  それを、なんともほほえましいものを見る目でディーラーのスタッフたちは見ていた。       「ふうん……」 「どう?誠」 「悪くない。さっきエンジンかけた時も異音もなかったし、レスポンスも言うことなし」 「そう」  清浦家にはワゴンが一台ある。荷役にいいからという実用用途に買ったものだが、家族でドライブにはちょっと武骨すぎるかなと誠は考えていた。  女ふたり、しかも活発とはいえない刹那と仕事に忙しい母親ではそんな暇も趣味もなかったのだろう。誠が来てからそういう事が増えたが、それ以前はどこにも出かけていなかった、ということだった。  フランスの郊外を、滑るようにコンパクトカーが走っていく。  この国に来て数年になるが、誠はつい最近まであの世界の死の瞬間に囚われていたといっていい。突然に怯え出すような重傷ではなかったものの、積極的に外に出たり誰かと関係をもったりというのはさすがに腰がひけてしまっていた。  刹那と結婚するかどうかという話が出るにいたり、誠はやっと、自分が遠い異国にいるということを本当の意味で自覚したといえる。  刹那の家におんぶにだっこするばかりで、自分なりのテリトリーをまだ誠は持ってない。この国に根をはるかどうかはともかく、活動領域まで刹那におんぶにだっこというのは、さすがにひとりの人間としてどうだろうか。あの苦く苦しい思い出を踏まえてなお、少しまわりを見る余裕が必要なのではないか。  就職にあたり、セカンドカーの購入を誠が提案したのはそういう理由もあった。  借りてきた猫のような暮らしはもうやめるべきだと。 「オートマチックなのがちょっとさびしいけど、これは仕方ないな」 「あ……うちの車、マニュアル」  武骨なだけあって、今の車は古いしマニュアルだった。 「運転だけに集中するならマニュアルって楽しいと思うけどね。ま、そのうち中年おやじになったらスポーツカー買ってアウトバーンにでも行ってみるかな。そこまでこっちにいればの話だけど」 「誠」 「ん?」  ふと笑いつつ横をみると、これまた微かに笑う刹那の顔。 「……誰といくの?」 「そりゃあ刹那だろ」 「どうせなら週末キャンプの方がいいかも。子供たちと」 「あー、それもいいな。って子供って誰の?」 「私と誠の」  他に誰がいるの?と刹那は表情を変えずに言った。 「あー……それはその」 「心配いらない。そろそろ仕込みはオッケー」 「は?」  どういうことだ、と誠は聞こうとしたのだが、 「今月、生理きてない」 「!」  一瞬、誠はハンドル操作を誤りそうになった。慌てて減速する。  はー、はー、と大汗をかく誠。ちょっと血の気がない。 「嘘」  あたりまえのように刹那はつぶやいた。ぴくりとも動かず顔色も変わっていない。顔も前を見たままだ。  動転しまくっている誠とはあまりにも対照的だった。 「……あのなぁ。脅かすなよ」 「どうして困るの?毎日してるし、なんの不思議もないよ」  ちら、と目だけ誠の方に向けて刹那は言った。 「いや……困っちゃいないけどさ。子供作るとなったらちゃんと計画たてた方がいいっていうか、避妊してるのにできちゃったっていうのは正直嬉しくない」 「計画?」  きょとんとした顔で刹那は聞き返した。 「そ。刹那の体調とかおばさんの都合とかもあるだろ?無計画に作るのは感心できないと思うぞ」 「……どの口が言ってるんだか。けだもののくせに」 「うるさい」  気まずそうに眉をしかめる誠に、刹那は小さくクスッと笑った。 「そう。それが問題」 「は?」  誠にはわけがわからない。わからないから問い返した。  対する刹那は、ちょっと言い淀むように俯いてから続けた。 「世界には中だししてたでしょ?どうして私にはそうしないの?」 「……それは」  いきなり涼しい顔で生々しい話を切り出した刹那に、誠は言葉に詰まった。  その時だった。   『……誠、くん』 『誠』    突然のことだった。  懐かしいふたりの少女の姿が、誠の脳裏にフラッシュバックした。最近では夢にみることも少なくなりつつあったはずのふたりが、両手を広げて誠に向かって微笑みかけていた。  ──首から今も鮮血を流し続ける世界。  ──右手にノコギリを持ち、狂った瞳で愛しげに誠を見つめる血まみれの言葉。  |死《タナトス》を連想させる、凄惨極まるふたりの少女──   「……誠?」 「!」  不審げな刹那の言葉に、一瞬で我に返った。  どうやらフラッシュバックを起こしたのは一瞬らしい。誠はあわてて首をふった。 「どうしたの?疲れた?運転代わろうか?」 「いや、いい」  誠は指先が震えるのを感じつつ、車を走らせた。 [#改ページ] 災厄の妖精(1)[#「 災厄の妖精(1)」は中見出し]  それからしばらくたち、誠と刹那は刹那母の勤める会社に就職した。  名目上は現地雇いであるがもちろんふたりは日本人だし社員の縁者でもあるので、扱いも給料も特別枠となった。新人のうちは現地の新人同様だが、きちんと研修を終えて一般職になったり日本に転勤となれば、日本スタッフと同様の扱いになるということだった。  誠はというと、あのフラッシュバックが起こることは二度となかった。あれはいったいなんだったのか、誠自身にもわからない。いつしかそれについて考えることもやめ、日々の暮らしに埋没していった。  そんなある日のことだった。  いつものようにメールを開いた誠は、読めない文字化けだらけのメールに気づいた。 「あれ?」  海外と日本でメールのやりとりをしていると、時としてこういうことがある。誠のパソコンでももちろん日本語を扱えるが、それは追加機能である。あくまでそれはフランスで売られているパソコンであり、国際化機能によって日本語も使えるようになっているにすぎない。システムのデフォルト設定が日本むけとは違うのである。  差出人も知らないアドレスだ。スパムメール、つまり無作為な宣伝メールであろうかと思った誠はそれをそのまま消去しようとしたのだが──。 「……」  ふと誠はそのメールが気になった。マウスを握り、文字コード切り替えをJIS日本語にあわせた。  そしてその瞬間、 「!」  誠の顔は凍りついた。   『お久しぶりです誠さん。|桂心《かつらこころ》です。おぼえておられますか。  このメール、本当は出しちゃいけないんです。ですが誠さんには伝えたくて書いてます。お手間ですみませんが、後でそのまま消してくだされば幸いです。あるいは忘れてくださってもかまいません。  まず、お礼です。  あの事件の時、あんなことした姉をかばってくださって本当にありがとうございました。おかげさまで父も仕事を続けられてますし、私があまりいじめられずに普通に暮らせているのもそのおかげだと思います。今も父や母と誠さんの話をします。あんな事件がなければ、あんないい青年が言葉の側にいてくれたらどんなに幸せだったろうって、いつもそんな話になります。西園寺さんのお家のことを思うと、そんな望み持つなんて事自体許されないことですけれど』 「……」  誠はそのメールを、じっと読んでいた。  心ちゃん。言葉の妹である可愛らしい女の子のことは覚えている。大きくなったら姉さんのように美人になるだろう、そんな可愛い子だった。  ──ただし、誠が知っているのは事件後の泣きはらした顔ではあったのだけど。  誠は、読み続けた。 『さて、本日の主題です。  これは内緒ですが、姉さんはうちに居ます。姉さんは心神喪失状態のため罪には問われませんでしたが、かわりに厳重な監視つきでしばらく病院に隔離されていました。ですが非常に安定し、落ち着いてきたので自宅療養でもいいだろうということで、保護観察という扱いになったんです。  そして、秘密ですがその保護観察が先日解けました。といってもまさに名目上のことですし、関係者の方々の勧めで今までと同様に振舞っています。起こした事件が事件ですし、保護観察が解けたということがいきなり広まると、事件を思い出して騒ぎ出すひとがいるかもしれないと危惧されたんです。  姉さんは旅行をしたいといっています。誰も言ってないはずなんですが、どうやら誠さんがパリにおられるのを知っているようなんです。とても、とても逢いたがっていますがもちろんそんなことできませんよね。ですからちょっと困っています。  ですがせっかくですし、旅行には行くことになりました。ていうか今、旅行中です。こちらの伝手をたどって車を手配してもらったんです。このメール、実はスイスのバートラガーツというところの近くにあるカフェで書いてます。  フランスには○○月××日に到着、マルセイユ近くの△△ホテルというところに何日か滞在するつもりです』 「……」  誠はメールを読んでいた。  だがその目線はどこか虚ろだった。夢の中にいるかのように目つきがぼんやりとして、どこか遠くを見ているようだった。 「!」  突然我に返り、誠はあわててそのメールを消した。  その直後、フロアに誰かが入ってくる音がした。誠は何事もなかったかのように仕事を再開した。       「ファタ・モルガーナ?なんだそれ?」 「んー、そうだなぁ」  時間がたち、今は昼。誠は同僚たちと近くのレストランで昼食を食べていた。  いつもいつも刹那と一緒というわけではない。刹那には同僚のつきあいがあるし、誠も同様だ。同じ部門にいるというわけではないし、やはり人間関係は大切だ。こういう時間もまた必要だった。  誠の周囲はもちろんほとんどフランス人だ。だが日系企業の強みか日本語の堪能な者が多く、また人柄のよい誠にフランス語を教えつつ日本語でも会話してくれる、という親切な連中も存在した。  言葉の壁があるのがあたりまえの土地柄、こういうケースも日本ほど珍しいものではないのだろう。 「日本語でなんていうのかは俺にもわからん。強いていえば『悪い妖精』かな」 「悪い妖精?」  ああ、と言いつつその男はソーセージを口に運んだ。 「ドイツのローレライは知ってるだろ?綺麗な女が岩の上で全裸で歌ってて、それに引き寄せられた船が次々に難破するって奴だ」 「ぜ、全裸っておまえ」  いきなりの発言にちょっと引く誠。もっとも元ネタが何かを知らないから、それが正しいことなのかその男の誇張なのかはわからなかった。 「こういう伝説は各所にある。イングランド、北欧、その他もろもろな。俺はそういうの詳しくないから出所はどこか知らんが、こういうのは元々ファタ・モルガーナっていう男を破滅させる妖精が伝説の元なんだそうだよ。  なんでもその妖精は、ここぞという男を破滅させちまうんだけど、最後は破滅した男の魂を優しく導いて、理想郷みたいなとこに連れてってくれるんだと」 「へぇ。……あれ?」  ふと誠は、男の発言に首をかしげた。 「おれ、似たような話知ってるぞ。なんだっけ、アーサー王伝説の」 「モルガンな。それがイングランドの奴。伝説も似てるだろ。アーサー王を破滅させたモルガンはその魂を妖精の理想郷に連れ去るんだっけ。……んー俺はそっち専門じゃないからうろ覚えですまんが、だいたいそんなとこじゃなかったか?」 「うん。おれが前に聞いたのもそうだった」  誠の返事に、男はうんうんと笑った。どちらもうろ覚えだから大間違いかもしれないが、とりあえずここでそれを論じても意味はない。 「で、だ」  がす、と音がするほど激しくソーセージにフォークをつきたてた。ちょっとだけ目がマジである。 「あまりに伝説が有名なせいで、男を破滅させる女、やばい悪女のことを称してファタ・モルガーナって言うようになっちまったんだな。まぁようするに、おまえんとこの可愛いセツナちゃんとは正反対に位置するタイプの女だなこれは」 「いや、そこまで刹那がいい子といわれると如何におれでも断言しかねるけど……まぁ実際、可愛いか」  ふわ、と優しく笑う誠。男は呆れたような顔になる。 「あのなぁ……いちいちフィアンセの名前聞いただけで惚気るなこのロリコン野郎が」 「い、いや、別に惚気てるわけじゃ……そもそもロリコンっておまえ、刹那はおれとおない歳なんだぞ」  まったくこいつ泰介かよ、と困り顔でつぶやく誠。 「かぁー!日本人妻ってのは総じて幼くて儚い可愛い子が多いけどよ。おまえのアレは犯罪だぞ犯罪!」 「おまえそれ凄い偏見だし。それにやばいって」  ちなみに日本語で記述しているが、この男と誠の会話は日本語とフランス語のちゃんぽんである。日本語の意味のわからない客も、なぜか(*)『|ロリコン《rorikon》』の意味はわかるらしい。ひそひそとつぶやくような声がそこかしこから聞こえる。  欧米は幼女犯罪に非常に厳しい。とっても居心地が悪かった。  とにかく、そんな会話が続いた。幸いにも誠の面が割れているおかげでそれが刹那の話だと気づいたのだろうか、気づくとヒソヒソ声と見つめるまなざしはなくなっていた。  ただ『ファタ・モルガーナ』という言葉だけがいつまでも誠の耳に残った。    誠の脳裏で、血まみれの少女たちが優しく微笑んでいた。   (*:ロリコン・元は Lolita Complex という英語でシスコン、ブラコンがそうであるように少女への強い想いを示す。しかし海外ではあまり使われない。むしろ日本でよく使われ誤用もされた、『rorikon』『roricon』という言葉のほうが海外にも広まっている) [#改ページ] 災厄の妖精(2)[#「 災厄の妖精(2)」は中見出し]  いつかの夢だった。  血まみれの少女がいた。狂笑を浮かべたいつもの少女が、愛しげに誠をみつめていた。  血と泥濘の暗黒だった。暖かい闇と血の匂いと、死が蔓延していた。血みどろなのに少女はどこまでも純粋でどこまでも美しく、夢の中の誠はその壊れかけた精神で、うっとりとそれにみとれた。  ──それは、誠だけの|破滅の妖精《ファタ・モルガーナ》。 『あぁ』  誠は自分の胸をみつめ、そしてそれが血にまみれているのに気づいてしまった。少女に触れられてもいないのに。 『……そうか』  そして誠は気づいた。気づいてしまった。    少女は誠を血に染めていたのでなく、血で染め上げることで誠の胸の血を隠してくれていたのだと。    誠の精神の底は未だ、癒えてはいなかった。  刹那のおかげで救われたのは事実だ。彼女に他の思惑があったのかどうかはわからないが、彼女が身をもって誠を助けてくれたことは疑う余地もない。他の誰にもそれは為しえなかっただろう。  だけど。  だけど結局のところ、それはそう簡単に癒えるものではなかった。  多感な少年時代の恋人の死というのは、大人のそれより遙かに大きなトラウマとなる。ひどい場合はまるまる生涯引きずり続ける大きな傷跡として当人の胸に深く、深く刻まれるものなのだ。  いかに刹那が手を尽くしたとて、たった数年でそこまで届くわけがない。 『うぅ……うぁ……』  誠は泣いた。号泣しながら|蹲《うずくま》った。 『殺した……おれが、おれが世界を、世界を……』  眩暈がした。もう立っていることもできなくなり、誠は泥濘の中に倒れた。  ばしゃり、という音がした。 『……』  血まみれの少女はゆっくりと誠に近づいた。泥の塊のようになっている誠を優しく抱き起こし、顔についている泥を拭い、  そして、くちづけした。 『……誠くん』  優しい声が響く。 『大丈夫ですよ誠くん。わたしがいます。  誠くんが殺したっていうんならきっとそうなんでしょう。わたしは違うと思いますけど、でも誠くんがそれを罪と感じているのなら、わたしもそれを背負います。  いつまでも、いつまでも。  だってわたしは──』  血と泥にまみれた顔。狂った瞳。 『だってわたしは、誠くんの彼女ですから──』  嬉しそうに、愛しげに頬ずりする少女。狂った笑顔と、蕩けたような女の顔。やさしく、しっかりと、今度こそ逃がさないといわんばかりに誠を抱きしめて。  誠もまた泥まみれの、狂気を帯びた瞳でそれをみあげる。 『あぁ──そうだ。そうだったね、言葉』 『はい』    かちゃり。  何かが落ちる音がした。 [#改ページ] 疑惑[#「 疑惑」は中見出し]  その日、刹那は今年の帰国についてあれこれ考えていた。  世界の命日が近い。誠の件もあり単独の帰国が続いていたが、今年は誠を誘うつもりだった。PTSDも随分軽くなったようだし、そろそろ過去の克服も考えなくてはいつまでも世界のことで苦しみ続けるだろう。そしてそれは、誠にとっとも刹那にとっても不幸なことだと思われた。  まだ日は特定できないが、とりあえず予定のたちそうな日について空席がありそうなのも確認してある。誠は帰るなりごめん、ちょっと疲れたからひと眠りするといって寝室に引っ込んでいる。だから夕食の時にでもその話をするつもりだった。  日本の感覚でいうと清浦の家は大きい。ささやかながらに一軒家だ。これなら子供が四〜五人生まれても大丈夫よねと、母と冗談を言いあって笑ったこともある。  だが、未だ刹那は子供がなかった。原因は誠にある。  誠は確かに頻繁に刹那を抱いていたが、完璧なまでに避妊を徹底していた。それはそれで誠実なことでもあるのだが、同様に世界としていた頃は、誠の部屋からコンドームがみつかっていないのだ。未使用のものはもちろん、空箱のひとつすらほとんど見つかってないことを刹那は誠の母から聞いて知っていた。誠は確かに男にしては綺麗好きの方だが、使用済みコンドームはきちんと始末するにしても、しょっちゅうセックスしていたようなのに空き箱に至るまで完璧に始末しきれるのだろうか?  ずっとコンドームを使い続けている刹那には、それはありえないと断言できた。少なくとも誠はそのへんが抜けていて、使用済みの本体はきっちり自分で始末しようとするが、得てして空箱は忘れてしまうのだ。後で刹那が始末しようとして「おれがやる」と慌ててもっていってしまうことも結構あった。  もちろん世界がきっちりフォローしていた可能性もあるが、世界はそんなに掃除がうまいわけではない。ああみえてわりとずぼらな方だ。  ──つまり、世界との時はコンドームの使用率は今よりはるかに低かった、あるいは圧倒的に中だしが多かったのだろう。  そして実際、死亡時点の世界には誠の精液の反応があったし、妊娠初期でもあった。世界の自宅には、誠がどんな顔するか楽しみ、なんて手記までご丁寧に残されていた。  そのあたり、どうにも刹那の腑に落ちなかった。  衝撃的な経験から女の子へのそういう気遣いも覚えた、という可能性もなくはない。だがどうにも違うような気がする。気遣いで避妊しているというより、まるで何かがブレーキをかけていて子供を作りたくない、そういう気持ちが働いているような気がしてならなかったのだ。  不安だった。  考えすぎなのかもしれないが、それは刹那を非常に不安にさせていた。 「……そろそろかな」  刹那は誠の部屋の前にいき、こんこんと小さく叩いた。  返事がない。やはりまだ寝ているようだ。 「……」  少し考えると、扉を開いた。  中はきちんと整理されていた。日本の誠の部屋にもどことなく似ている。このレイアウトが好みなのだろうと刹那は思っていた。  誠は魘されていたようだ。寝乱れている。考え事をしていて気づいてやれなかったことを少しだけ刹那は後悔した。今でも時折誠は昔の夢を見る。そのたびに刹那は起こしてやった。セックスの後の気だるい眠りでさえたまにそういうことがあったため、刹那はそれに慣れっこになっていた。  起こしてやるか、それとも汗を拭いてやろうかと近づいた。  が、そのとき、誠が寝言をつぶやいた。 「あぁ──そうだ。そうだったね、言葉」 「!!」  ぎょっとした刹那は固まってしまった。  誠は嬉しそうに眠っていた。よほどよい夢なのか、それとも夢の中で悪夢から救われたのか。誠は見たこともないほど幸せそうに眠りこけていた。 「……」  刹那の中に、持ち続けてきた不安が急速に頭をもたげはじめた。    かちゃり。  なんとなく手に持ったままだった家の鍵が落ちた。    部屋を飛び出した。  そのままリビングに飛び込むとメモをひっ掴んで携帯をポケットから取り出した。  ふう、とひと呼吸して気分を落ち着け、電話をかけた。 「アロウ。刹那です。突然ですがちょっとお願いがあります。本当にすみませんが至急どうしても調べたいことがあるんです。  桂言葉さん……ええそうです、あの桂さんです。あの方が今どうされているか調べることはできますか?はい、できれば今すぐでも。  保護観察中ですか?本当ですか?実はある程度の自由がきいて、国際電話とか普通にかけられるような状況にあったりはしませんか?  ……ええ、確認はとれていませんが非常に嫌な予感がするんです。後でおわびでもお礼でもしますから、なんとか裏づけをとってくださいませんか。  本当にすみません。お願いします。  あと、もし最悪の事態……つまりですね、彼女がEU圏内にいる、なんて事態がもし判明しましたら、速やかに誠をつれて日本へ行きたいんです。いえ笑わないでください、誠の様子がおかしいんです。笑い事じゃないです、本当にあのひとだとしたら大変なことになりますよ。  ……はい、そうなんです。すみません感情的になって。  はい、わかりました。ではその線でお願いします」  電話を切った。  既にその時点で、もう刹那は落ち着いていた。深呼吸をひとつして、そしてつぶやいた。 「……絶対、渡さない」  その言葉は静かに、部屋の中に溶けていった。 [#改ページ] 空港にて[#「 空港にて」は中見出し]  シャルル=ド=ゴール空港に向かう道は、穏やかに晴れ渡っていた。  適度に流れている車の中を一台のワゴンが走っている。清浦家のものだ。空港を目指して車の流れに乗り、雪交じりの路面をものともせず淡々と走っていた。 「しっかし、いきなり墓参りとは驚いたな」 「ちょうど予定が空いたから」  誠の質問に、すました顔で刹那は答えた。  実際は焦るだけ焦っていた。だけどそれを誠に知られてはならぬと、刹那は鉄壁の意思でそれを隠し、いつもの表情を維持していた。今日は珍しく母君がハンドルを握っているのだが、その母君も何も言わない。日本のことなどたわいもない事を話しつつ、ふたりをただ輸送することに専念していた。  桂言葉についての調査結果。  保護観察はすでに解けていて、桂一家はささやかな身内のお祝いに欧州旅行中である。数日前にスイスにいたことがわかっているが、バートラガーツのホテルに車を預けてどこかに向かったらしい。現在位置は不明だが、フランスに向かった可能性がある──。  そう。まさに刹那のいう最悪の結果が出ていた。  なにより一家が突然に移動手段を変えたのが不気味だ。行き先を選んだのが他ならぬ言葉本人だという未確認情報もあったほどだ。こちらに悟られるのを予測したうえで、突然に交通機関を変えて行方をくらましたのではないか?  清浦親子の懸念はもう極限に達していた。  まぁ、ここに至っても刹那本人はともかく清浦母が誠を見捨てるよう刹那に進言しなかったのは驚きに値するかもしれない。誠さえ放り出してしまえば娘や自分に危害が及ぶ可能性は大幅に減少するのにそれをとらず、むしろ誠を娘と一緒に一時避難させるなんて方法をとるくらいなのだから。既に日本の伊藤母にも事情は連絡ずみ。あちらでも受け入れ態勢ができているはずだった。  ようは、すでに清浦母も息子のように誠が可愛かったのだ。  彼女は学園時代の誠を知らない。凄惨な事件の後に打ちひしがれていた誠が刹那の元で元気を取り戻し、女性に対してはどうしても一歩引いてしまうが誠実で元気な笑顔を見せているその姿しか知らないのだ。かつての誠を知っていれば態度は違ったのだろうけど、なに、女性問題さえなければ誠はこれで結構身内に優しくマメで父性愛に満ち、家庭的な人間でもある。気に入らないわけはなかった。 「もうすぐ着くな。準備はいいか?」 「うん」  刹那にしては妙に気合いの入った返事に、誠はちょっと首をかしげた。なんだろうと刹那の顔を見ようとしたのだが、 「誠、準備は?」 「ない。時間がなかったから着替えと財布しかないし」  膝のうえのアウトドア用リュックをぽんぽん、と叩いてみせた。 「なんか妙に気合入ってるなぁ。大丈夫か?」  誠は微笑むと、なでなでと刹那の頭をなでた。  普通、こうすると刹那は嫌がる。子供扱いされるのが彼女は最も嫌いなのだから。  だが、 「……」  それでも刹那は、不安と焦りの混じった目で誠を見つめるだけだった。 「……ほんとに大丈夫か?調子悪いんじゃないか?」 「大丈夫。飛行機に乗ったら休めるから」 「そっか」  誠はちょっと心配そうに、だけどいつもの笑顔で刹那を見た。 「……」  だが、その笑顔はどこか、吹っ切れたような寂しげな光を湛えてもいた。        空港に着いた時、それは起きた。        空港に着いた時、空はまさに快晴だった。  風はなかった。寒さは結構なもので雪も積もっていたが、ぽかぽかと照りつける穏やかな日差しとあいまって、そう居心地の悪い気候ではなかった。  奇しくもそれは、あの悲劇の日の感じにも似ていた。  母君は仕事で忙しいのか、ふたりと荷物を降ろすとすぐに立ち去った。もっとも何か心配ごとがあったらしく刹那にちょっとはなしかけていたが、誠は親子の会話に気をつかい、忘れ物はないか改めてチェックしていた。  だが母と別れいくらもたたないうちに、刹那はギョッとした顔で固まってしまった。 「……」 「……」 「……」  桂言葉がいた。  ふたりの進行方向、ど真ん中に静かに佇んでいた。少し俯き、少し悲しげな顔で。  さすがの刹那も青ざめた。まさか真正面で平然と待ち構えているとは。ストーキングの果てに愛するひとの恋人を惨殺したという話の意味が、ようやく彼女にも飲み込めたようだった。  ──このひとに関わってはいけない。  この場所に居たことが驚きなのではない。それは確かに凄いことだが、それはある程度の情報網があれば不可能なことではないだろう。そんなことは問題ではない。  いかなる理由があるとはいえ、発狂して誠の恋人を誠の目の前でノコギリで挽き殺したのだ。普通の人間なら、少なくとも誠の前に平然と出られるわけがない。そんなことができるわけがない。  そんなこと、まともな神経の人間にはできるわけがないのだから。  だが刹那は次の瞬間、さらに驚くことになった。 「やぁ」  なんとその言葉に、見たこともない透明な笑顔で誠が語りかけたからだ。 「!」  次の瞬間、刹那は誠に全力でしがみついていた。 「お、おい、刹那」  戸惑った顔で誠は、刹那の顔を見下ろした。 「だめ、行っちゃダメ!」  ほとんど絶叫のような叫びをあげ、なりふりかまわず刹那は誠にがっちりしがみついた。  誠はそんな刹那を見て、本当に嬉しそうに微笑んだ。そして、 「──行かないよ。ただ話をするだけ」 「……」  刹那は動かない。ますます力を込めるだけだった。 「なぁ刹那。おれ、言葉に言い忘れたことがあるんだよ。  おれが刹那や、刹那のお母さんとこの先ずっといるためには、どうしてもそれを言わなくちゃいけないんだ」 「……」  刹那は、じっと誠の顔を見上げた。 「頼む。五分だけ時間をくれないか」 「……」  刹那の目は誠から離れない。 「頼むよ」 「……」  刹那は少しだけ、悲しげな顔になった。 「な」 「……わかった」  そういうと、刹那は悲しげに誠から離れた。  誠はそんな刹那にうん、と一度頷くと、言葉の前に立った。        言葉と誠は向かい合っていた。  言葉の表情は読めない。ただ無言で、少し俯きがちにそこに立っていた。目線は誠の顔でなく、少し下を見ていた。 「久しぶり」 「はい」  しばしの沈黙の後、ふたりの会話はそこから始まった。 「元気そうでなによりだよ」 「……ありがとうございます」  言葉の表情は変わらない。ただ、それだけを答えた。  だが次の瞬間、 「謝りたいことがあるんだ」 「!」  え、という声は言葉から聞こえた。驚き、目を見開いた顔が上がり、まっすぐに誠の顔を見た。 「おれ、本当に言葉も、そして世界も苦しめるだけ苦しめちまった。世界はあの通り死なせてしまったし、言葉に至っては今も苦しめ続けてる。それら全てが元はといえばおれから始まったことなんだから。  おれ、死んだら間違いなく地獄いきだよな」 「そんな!だって西園寺さんを殺したのは」  うん、と誠は頷いた。 「世界を殺したのは確かに言葉だ。おれだって忘れるわけがない。いや、あの瞬間はたぶん一生忘れないよきっと。  だけどさ、あの状況を作り出したのは誰だと思う?」 「……それは……あの」  言葉はいい淀んだ。ひとことに誰、と言い切れないのだろう。  だが、誠は言い切った。 「おれだよ言葉。おれが全ての元凶なんだ。  言葉に憧れてた俺が言葉の写真を携帯で撮って、それを世界に見られた。あの瞬間が全ての始まりだったんだ」 「そんな、元凶だなんて!」  叫びだそうとした言葉を、誠は手で制した。 「……ごめん、ちょっと言い方悪かったか。でも最後まで聞いてくれないかな」 「……はい」  悲しそうに、何か言いたそうに、でも言葉は言われたとおりに口を閉じた。 「いいとか悪いとかじゃない。きっとさ、おれと言葉ってあまりにも相性が悪いっていうか、本来近づくべきじゃない存在だったんだよ。  覚えてるだろ?はじめてのデートで言葉の手握ろうとして、言葉がそれを拒んだときのこと」 「……はい。あのときは……ごめんなさい」  いいよそんなこと、と誠は苦笑した。 「こんなこと言ったら自己陶酔の馬鹿だと思われるかもしれないけど……おれ、思うんだよ言葉。  おれたちってさ、きっと、物語の中で出会えたら本当に幸せになれたと思うんだ。言葉はお姫様で、おれはお姫様に惚れちまったよその貧乏国の王子様でさ。ほら、そんな関係ならきっと、おれたちは永遠にずっと一緒で、いつまでも幸せに暮らせたはずなんだ」  誠は悲しげに空をみあげた。 「まだ昨日のように思い出せるんだ言葉。世界がおれのために言葉に渡りつけてくれて、それでいっしょにお昼する事になったあの日のこと。  言葉、本当に純粋だった。物語の中から抜け出てきたお姫様そのまんまでさ。ほんとに綺麗で、ほんとに可愛くて、この世の誰よりも輝いて見えた。  おれは舞い上がった。どうにかなっちまいそうなほどメチャクチャに夢中になった。どうしてもお姫様が欲しかった。おれだけのお姫様になって欲しかったんだよ。  結果として世界を選んだしその気持ちにだって偽りはなかった。でもあのときの気持ちだって嘘も偽りもない。今だってそう思ってる。  ……だけど」 「!」  言葉はその次の言葉を聞きたくない、という顔をした。  だが誠の顔を見て、その言葉をこらえたようだった。 「おれはさ、言葉……王子様にはどうしてもなれなかった。なれなかったんだよ、言葉……」  誠の顔から、涙が流れた。 「……誠、くん」  言葉の顔にも涙が浮かんでいた。 「ごめん、ごめんよ言葉。  あの頃ちゃんとしていれば……いやそもそも、世界がおれの気持ちを知って言葉とおれの橋渡しをする、なんていい出した時にどんなことをしてでもきっちり止めていれば、少なくとも言葉をここまで苦しめることはなかったのに……それなのに!」 「い、いいです、もういいですから誠くん!」  涙をふきに寄ろうとした言葉を、誠は首をふって手で制した。  だが、その手は震えていた。 「……幕、引こうよ言葉。今度こそ」 「……」  いやです、と言いかけた言葉だったが、その前に誠が続けた。 「おれは別れたくない。言葉もきっとそうなんじゃないかって思ってる。他の女の子にこんなこと言ったら自信過剰だとかキモイとか間違いなく言われるだろうけど言葉は別だ。そうだろ?」 「はい」  ためらいもなく返答する言葉に、誠は悲しそうに眉を寄せた。 「だから別れよう言葉。好きだから別れよう。  本当なら一緒になりたい。いつまでも一緒にいたい。そう思う。  だけど」  ぽた、と誠の涙がコンクリートの地面に落ちた。 「きっとおれたち、近づけば近づくほどダメになる関係なんだよ。  あの時は世界と世界のお母さんを死なせた。次は誰だ?きっとまた誰か犠牲になる。どうしようもないんだ。  だってそうだろう?ここはおとぎの国じゃない。現実なんだよ。  せっかくここにお姫様がいてくれるのに、おれを好きだといってくれるのに、おれもお姫様が大好きなのに、なのに、なのに、なのに!」  ガツン、と音がした。誠が地面を蹴った音だった。 「おれ、どうして王子様になれなかったんだろう……畜生!!」  恥も外聞もなく、誠は泣き始めた。  言葉が泣きながら、それを抱きしめた。 「愛してる、愛してるんだ。本当に、本当なんだよ言葉」  言葉はもう何も言えないようだった。はい、はい、とそれだけをいい、わたしもです、とかろうじて小さく頷いた。  そして……ゆっくりと、離れた。 「私……忘れません」  びく、と誠が反応した。 「どんなに時間がたってもきっと私、誠くんが好きです。  他の誰かと結婚しても、そのひとの子供を生んで育てても、暖かい家庭を作っても、ずっと私の中には誠くんがいます。ずっと、ずっと、忘れない。忘れられるわけない」  少し経ち、そして誠も口を開いた。 「……おれもそうする。  おれ、好きな子がいる。こんな修羅場見せちまってもうさすがにダメかもしれないけど、それでもいいって言ってくれるなら彼女と結婚する。おれの時みたいに離婚もしないで、両親そろったいい環境で育てられるよう努力して、そして、言葉んちみたいに暖かい家庭を作る。  ……おれも忘れない」  うん、うん、と涙ながらに言葉はそれを最後まで聞いた。  少し俯き、そして涙を拭った。そしてにっこりと微笑み、 「……愛してます、誠くん」 「……おれもだよ、言葉」  頷きあい、  そして言葉は踵を返し、  おそらく家族が待つのであろう、空港の中に向かって消えていった。       「ちょっと、そこの主人公」 「は?」  突然わけのわからない声をかけられ、誠は振り向いた。  と、 「へ?」  いきなり誠はドンと突き飛ばされ、路肩の雪に頭から突っ込んでしまった。 「ぶ、ぶは、なんなん……!?」  起き上がろうとしたところで今度はパン、と派手な音がして視界がブレた。  痛ってぇ、と思いつつ誠はその方を見たのだが、 「……」 「……」  そこには当然といえば当然だが、腰に手をあて仁王立ちになっている、怒り心頭の清浦刹那の姿があった。 「い、いや、あのその」 「……」  刹那はというと、呆れに怒りに泣きまで入り、なんだかぐちゃぐちゃの物凄い顔になっていた。  誠はそれを見てさすがにバツが悪くなったのか、神妙な顔をした。 「ごめん刹那。でも、これできちんと幕切れしたから」 「……うん、そうだね。でもさすがに目の前で愛してる連発された時には、この馬鹿どうして殺してやろうかと思ったけど」 「はは……は…………ごめんなさい」  困ったようにうつむく誠に、刹那はふうっと肩を落とした。 「いい。正直はらわた煮えくり返ってるけど、あのひとときっちり幕切れするにはあれしか方法なかったのもわかるから」 「……刹那?」  刹那は、眉をしかめて言葉が消えていった奥を見ていた。 「すごいひと……だけど、とても悲しいひと」 「……そうかもな」 「いこう。もう時間がない」 「ああ……りょーかい」  苦笑しつつ誠は立ち上がった。 「誠ぼろぼろ。汚い」 「って、誰がそうしたんだよ」 「自業自得。貧乏国の王子様」 「あー……それは勘弁してくれよ」 「だめ」  ぽりぽりと頭をかきつつ、誠はのんびりと歩き出した。その横には刹那がいて、労わるように背中に手を回していた。  そんな光景を遠くから一台の車が見ていた。刹那母のものだ。  しばらくして車は小さな音をたて、すっとその場を離れた。   「誠」 「ん?」 「別れの言葉、いつ考えたの?」 「あー……それは」 「誠のくせに決まりすぎ。ぶっつけ本番とは思えない」 「なんだよそれ。……実はさ、前に心ちゃん、あぁ言葉の妹な。その子からメールがあったんだ。こっちの方にくるって。  逢うつもりはなかったからメールは捨てた。だけど言葉だから」 「きっと逢いに来る、そう思ったんだ」 「ああ」 「以心伝心?」 「ばか。言葉が読みやすい性格ってだけだ」 「……どうだか。似たもの同士のくせに」 「ん?なんかいったか?」 「なんでもない」 [#改ページ] エピローグ[#「 エピローグ」は中見出し]  町外れの小高い丘の上に桜が咲いていた。  この丘からは町の全てが見渡せる。再開発にさらされたり学校がいくつかなくなり新設され、いつしかすっかり町の姿は変わっていた。変わってないのは線路くらいだが、これも完全に高架となった。かつてのホームの風景はもうない。  そんな景色を見ながら、ひとりの老人がベンチに座っていた。  古いスーツ姿に日よけの帽子。舶来の上質のものなのか、ずいぶんと古めかしいスーツながらそれはよく老人の姿に馴染んでいた。老人はステッキにもたれて、ゆったりと町を眺めている。  その古ぼけたベンチには何度も修理した跡があった。すっかり桜の下の風景に溶けこんではいたが、おそらく元々は町のどこかにあったのを、破棄の際にこっそりここに移設したのだと思われた。 「……いい陽気になったなぁ」  ぽつり、そうつぶやいた。  老人の隣には弁当箱、そして額に入った古い写真がある。半世紀以上も前の女学生がそこには写っていて、撮影者であろう誰かに向かって甘やかな、優しい笑顔を浮かべていた。 「それにしても遅いな彼女。さては孫か嫁さんにでも捕まったかかな?」 「誰が捕まったんですか?」  にやにやと悪戯っぽい笑いを老人が浮かべようとしたちょうどその時、石畳の舗道の影からふわり、と上品そうな老婦人の姿が現れた。こちらはいまどき珍しい見事な和装だ。  老人の表情が、とても優しくなった。 「やれやれ……そんなとこに脇道があったのか。知らなかったよ」 「遅れそうになりましたからね。近道です」 「そっか」  婦人が大切そうに抱えた弁当箱を見て、くすくすと楽しそうに目を細めた。    「大変だったんですよ本当に。おばあちゃんのお弁当が食べたいって曾孫たちにまとわりつかれちゃってもう。まぁ嬉しいですけど、私のお弁当なんかのどこがいいのかしら?」 「いや、悪くないんじゃないか?ずいぶんと上達したぞこれ」  どうやら、孫たちに作ったものの余りらしいそれを老人は少しだけつまみ、そして満足そうに笑った。 「そうかしら?まだまだ到底かなわないと思うのだけど」 「そんなことないって。どれ、君も少しだけ食べてみるといい」 「遠慮しときます。そっちのお弁当が目当てなんですし、私はもうほとんど食べられないから」 「──そうか。じゃあちょっと待て」  老人はつぶやくと自分の弁当を紐解き、少しだけ取り分けて写真の前に置いた。 「──」 「──」  そして、ふたりでその遺影に手をあわせた。 「食えよ世界。もう五十年過ぎて神様になっちまってるだろうし、今さらだろうけどな」 「私のも本当はいただいて欲しいですけど……だめですよね、やっぱり」 「悪いけどそれはよそうぜ。あの世で刃物片手に追い回されたくない」 「あー、それいわれると弱いですねえ。なんたって私が殺しちゃったんですし」 「あっけらかんと言うなぁ言葉。女ってやっぱ怖いや」 「あら、いまごろ気づいたんですか誠くん?」  くすくす、あははとふたりは笑った。      桜の下で『三人』が会うようになったのは、数年前のことだった。  誠の妻、刹那が急逝した。仕事と家庭を両立して生きた女性だった。誠は妻の最後を見送り、そして丁重に葬った。最後の最後まで妻の前から離れず、周囲は後を追うのではないかと心配したほどだった。途中で仕事をやめ主夫になった誠にとり、妻は誰よりも自慢の愛しい女だった。  妻を失い子供たちもひとりだち。故郷に戻り死んだように静かに暮らしていた誠の元に、ある日ひとりの老女がやってきた。和服に身を包んだ上品なその女性を見た途端に誠は目に涙を浮かべ、懐かしそうに微笑んだのだった。  桂言葉と伊藤誠。実に五十年ぶりの再会だった。  言葉の状況も似たようなものだった。夫は既に見送り、時々孫たちが遊びにくる他は退屈な日々だった。老人会にも時々顔を出していたがその時に懐かしい誠の名を聞き、刹那をなくして沈んでいると聞き、いの一番にかけつけたのだった。  それから、ふたりのお茶会がはじまった。  数十年が過ぎた今、あの凄惨な事件はもう風化していた。老人たちには覚えているものも結構いたが、それこそ今さらだろう。六十年たって人が変わったように社交的で明るくなった言葉が今も『誠くん』発言をするのを見るにつけ、もう言うだけ無駄だとあきらめモードに入っているようだった。  それはそうだろう。愛憎の果てにあれほどの事件を巻き起こし、あまつさえ半世紀以上が過ぎているのだ。まさか本当に今も愛しつづけているなんて、いったい誰が想像しただろう。  十年想うのは夢のようなもの。二十年想いつづけるのは幻のようなもの。  だけど、生涯想い続けるというのは……どういう気持ちなのだろうかと。       「しかし……こうして会えて本当によかったな」 「あら、もしかしてもう危ないですか?」  ちっとも深刻そうでない顔で、老いた言葉がつぶやいた。 「ああ、実は絶対安静なんだ。今ごろ病院じゃ孫たちと先生が大騒動してるかも」 「まぁ」  くすくす、と言葉は笑った。 「偶然ですね。私も本当は病院逃げだし組です。お互いまだ動けてよかったですね」 「笑うなよ。ほんとはここ来る間に心臓止まるんじゃないかって、すごい不安だったんだぞ。  言葉の顔見ないで死ぬのだけはごめんだからな」 「似たようなものです。曾孫たちは何も知りませんからね。なんとかお弁当作って持たせてやって、いちばん年長の子がさすがに気づいて病院に連絡してる間に逃げ出したんですよ。  やれやれです。まさか、二十年も前にやんちゃっ子の孫に教わった裏道を今ごろ使うなんて」 「なるほど、そういうことか。最後の最後まではた迷惑だよなぁおれたち」 「ええ、ほんとうに」  ふたりは笑った。大笑いしたはずだがその声はもう小さかった。 「ああ……なんか気が抜けたら眠くなってきたな。ちょっとひと眠りすっか」 「ふふ……いいですよ」  え、と誠が問いかける間もなく、言葉は膝をそろえてぽんぽん、と叩いた。 「はい、どうぞ。こんなおばあちゃんでごめんなさいね」 「膝枕かよ……いいのかな、おれ」  さすがに躊躇した誠に、言葉はにっこりと微笑んだ。 「いいんですよ誠くん。よぼよぼになっちゃいましたけど、いちおうお姫様の膝の上です」 「じゃあおれは歳くった貧乏国の王子様か。なんだか冴えないなぁ」 「そりゃあもう。悪人同士ですから」 「それもそっか」 「はい」  何十年も昔の話をまるで昨日のことのように応じ返し、ふたりはウフフと笑った。 「さて、それじゃ騙された王子様はお姫様に化けた|悪い妖精《ファタ・モルガーナ》の膝の上でおやすみさせてもらうとすっか」 「それじゃ私だけ悪いみたいじゃないですか。ずるいですよ誠くん。  あ、でもその役割だと、私の膝は理想郷ですか?あいかわらずお上手なんだからもう」  そんなこんなを話しつつ、誠はベンチにねころがり、言葉の膝に頭を載せた。 「重くないか?言葉」 「ちょっと。まぁ……誠くんが眠っちゃうまでくらいなら」 「そっか」  お互い、もうそれが近いのには気づいていた。互いの顔が急速に生気を失っていくのを見て、近付いてくるそれを確かに感じていた。  だからこそ、ふたりはそこから動かなかった。 「……誠、くん」  万感の想いを込めて、霞んだ目で優しく|老人《まこと》を見つめる|老女《ことのは》。 「……ことの、は」  少し苦しくなってきたのか、辛そうに眉をひそめた。 「……愛してる」 「ああ……おれ、も、だ」  老人は嬉しそうに微笑み、そのままゆっくりと動かなくなった。ふう、と長い息がこぼれた。  老女はその老人をみて少し涙を浮かべた。そのまま口づけしようと顔を寄せ、そこで何か糸が切れたように力をなくし、そのままゆっくりと老人にからみつくように倒れた。長いが狭いベンチからふたりの身体がずれ、そのままふたりはまだ幼い春の柔らかい草の上に、抱きあうようにころげ落ちた。写真立てがそれを追うように、ぱたんと落ちた。    お互いの家族がそこに駆けつけた時、ふたりはまるで物語の主人公のように手をとりあい、まるで眠るように死んでいた。    ふるぼけた写真立てが、その手に重なるように倒れていた。       (おわり) [#改ページ] あとがき[#「 あとがき」は中見出し]  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。  あの鮮血のエンドの後に言葉の救済、なんて考えた時、私の脳裏をよぎったのがこのラストシーンでした。それぞれがそれぞれの人生を送り、月日が流れ年寄りになってから、世界の写真立てと『三人』でまた集まる。死を間近に控えたふたりは素直な気持ちで改めて世界に詫びて、そしてふたりで静かに生涯を閉じる。まるで『物語の王子様とお姫様』のようなドラマチックな、手をとりあった静かな終焉。  刹那よりの『すれ違い』とまったく対照的に、くどいほどドラマチックな、悪くいえば御都合なネタばかりを突っ込んでみました。    言葉のグッドエンドは大きくわけると二種類ありますが、その片方はまさに『お姫様を救い出す王子様』といった感じのエンディングなのは御存じの通り。  実際、言葉は『現実に迷い込んだ物語のヒロイン』そのものです。ヒロインであるがゆえに誠はひきつけられますが、本物の御伽話のお姫様と下半身全開の生々しい誠がうまくいくのはとても難しい。  そして言葉も『物語のヒロイン』であるがゆえにどうしようもなく盲目的に『王子様』を愛してしまう。生々しい等身大の女の子たちとは当然相容れない。フェロモン全開、あるいは化け物じみた異様な存在に見えてしまう。それはSchoolDays本編の言葉の姿そのものなわけですが、そこのところを集中して考えてみたつもりです。    実は当初、このエンドと別のエンド、どちらにしようか迷いました。そちらは刹那を捨てた誠と言葉があちこち放浪してまわる話になる予定でしたが、どうにも幸せになれそうな要素がない。どこかの田舎に落ち着き小さな幸せを得るというのもちょっと考えたのですが、どうも無理がある。そこまで考えて、やはりこちらのエンディングを採用しました。    刹那ファンの方、まるで当て馬のように描いてごめんなさい。でも違うんです。  誠も言葉もきちんと配偶者や家族を愛し、普通に生きてます。その相方もなくなり生涯の終わりが近付いて、何もなくなってはじめてふたりは『王子様とお姫様』に戻れた。若さゆえの肉欲の暴走もなくなった誠は言葉の気持ちに穏やかに応え、ふたり仲良く最後までいっしょにいた。ただそれだけの話なんです。    こういう締めかたはいまどき珍しいのかもしれませんが……。    それでは、ありがとうございました。     追伸:バートラガーツとは、『アルプスの少女ハイジ』に出てきたラガーツ温泉のことです。ハイジの舞台になったマイエンフェルトのすぐ近くにあります。もともとハイジ由来の地として同作のファンには知られていましたが、日本製作のあのハイジのアニメがヨーロッパで評判になってからというもの、かなりメジャーな観光地のひとつにもなっています。