冬に降る雨・復刻版 hachikun Kanon、相沢祐一、相沢(川澄)舞、倉田佐祐理。舞エンドの12年後を想定。 (注意: 祐一が大学時代に二輪免許をとった事になっていますが、これはオフィシャル設定ではありません) [#改ページ] 深夜と雨[#「 深夜と雨」は中見出し]  メットのシールドに、冷たい雨がへばりついていた。  真っ暗な空に、今にも|霙《みぞれ》に変わりそうな雨が降り続いていた。  夕暮れ時に着込んだ合羽も最早その用をなしていない。防水というのは水を防ぐから防水というのだけど、ならばこれはもう合羽とも防水とも言えないだろう。長年使い込んだそれはもはや疲れ切っていて、あちこちの隙間から入る水が下着にまで到達していた。まぁそれでも防寒機能が残っているからいいものの、それさえなかったら大変な事になっていたに違いない。  冷たい風が、雨と共にびゅうびゅうと過ぎていく。  手足はとうに感覚がなかった。濡れたあげくに冷えきったせいで、スロットルに添えていた手も今は操作感が全くない。しかしこういう経験は初めてではなかったから慌てる事はなかった。  それでも「これでは事故って当然」という危機感覚だけはある。そしてその感覚がおそらく無意識に単車の速度を落としていた。握ったかどうかもわからない両手、踏ん張ったかどうかもわからない両足を機械的に操作し、きちんとマニュアル通りに走らせていた。まぁバイク乗りというのは基本そういうものなのだが、もちろん危険なものは当然あぶない。  単車乗りとは、危機的状況になればなるほど神経が太くなる傾向がある。  たとえば、何もない山間で事故ったり突然立ち往生した場合。誰も看取る者なく簡単に果てても不思議ではないと知らぬわけはないのに、「あー壊れたらだるいなぁ、町までどうやって帰ろうか」という、あくまで単車中心な不安を申しわけ程度に抱かせ、胃を痛めるに留まるのだ。  しかもそれが逃避でなく、なかば本気でそう思っているから恐ろしい。まぁ、その程度の事であたふたしてたら単車なんて乗っていられないのかもしれないが。  だが、俺は何も考えていなかった。というより、全く別の事で頭の中がいっぱいだった。 「……」  空は相変わらず真っ暗だ。深夜のうえに雨が降っているのだから当然だ。  ライトに照らされた僅かな範囲だけ、絶え間なく降り注ぐ冷たい雨が線を作り、俺の視界は次々とぶち当たる雨粒に|煙《けぶ》っている。  身体の前面には、走る事により相対的速度のついた雨粒が、かなりの物理的威力をもってバチバチバチバチ、とさっきから当たり続けている。  まぁ仕方ない。  時速80kmで雨の中を走るとはそういう事だ。もしノーヘルだったら、顔に当たる雨粒の激痛で悲鳴をあげなくてはならないだろう。  バイパスの向こうの信号が、珍しく赤に変わる。俺はスロットルを戻すと、エンジンブレーキを使ってゆっくりと減速をはじめた。 [#改ページ] 事情[#「 事情」は中見出し]  妻の葬儀が終わり、もう二年になる。  無口で無愛想な、しかし美しくも可愛かった彼女を突然に失い、意気消沈した俺は周囲の人々が止めるのもきかずにあの北の街を出た。  誰よりも強く、誰よりも優しかった、風のような炎のような、かけがえのない彼女。その夢を毎夜のように俺は見て、都会のおんぼろアパートの一室で毎夜のようにむせび泣いた。  そう。明日はあいつの命日なのだ。  あいつと過ごした北の街に向かって、俺は単車でひた走っていた。四号線を北上し、|野辺地《のへじ》から函館に渡り、五号線の道端で、いつも立ち寄るGS兼コンビニで遅い夕食をとった。あの街に向かって、ただ走り続けていた。  冷たい雨。  いつ果てるとも知らず、降り続ける長い、長い雨。  その中を、もういない女の墓に参るためだけに単車を駆る俺……はぁ、俺ってどうしようもなく馬鹿者だったんだな。  たしかに単車でなら誰にも気付かれずに墓参りには行けるんだが、別に東京からはるばる走って行く事ぁねーだろうになぁ。いや本当、ばかじゃねえのか?  内心の自嘲に同意するかのように、風がビュウビュウと強く流れていく。  ふと、その風の匂いと空気の色が|俄《にわか》に変貌したような気がする。  どうやら雨の区域を抜けかかっているらしいが、雨がやんだからといって暖がとれるわけではない。ここは北国なのだ。  それでなくとも、冷たい風が俺の濡れた身体から更に体力を搾り取っていくのだろうから、降ろうが止もうが事態はちっとも改善されてはいない。  まぁ、水がなくなるだけでも少しはマシなのかもしれないが。 「お?」  突然、力がスッと抜けた感触がきた。それが意味するものを頭が理解するとほとんど同時に、  ……グゥゥ……グゥゥ……  おなじみの変調、ガクガクと力を失う単車……そう、ガス欠だ。 「しょうがないな」  まだまだ最寄りの街まではある。それに北海道の場合、第一級幹線道路だったとしても深夜にスタンドはやってない事が多い。  リザーブに燃料コックを切り替え、手ごろな停泊地を探す。 「む」  前方に閉まっているGS。|側《そば》にはお|誂《あつら》え向きに自販機だ。どうやら休憩地点は決定のようだな。  閉店中のコーンと虎ロープの間をすり抜け、単車を中に入れた。屋根の下をちょっと借りる。場所代は自販機で買い物するって事でどうよ、とここにいない主人に頭の中で断った。  単車から降りると、リヤシートの最前部に固定してある国防色のリュックを外した。中に入っている携行缶の重みが、疲労で綿のようになりかけた左手にずっしりとかかった。 [#改ページ] 着信[#「 着信」は中見出し]  俺の愛車、ホンダCL400の航続距離は満タンで約250kmといったところだ。  もちろんこれでは北海道の夜間走行には全然足りないので、函館で後ろに積んだ10リッターの携行缶に注油ずみである。ようするに、そこから燃料タンクに燃料を移せばいいわけだ。  そいつが空になるまでには、24時間のGSが開いている旭川まで到達できるという寸法。  愛車の航続距離とGSの把握は長距離を行く者の基本である。昼間ならともかく夜間では、燃料ぎれは致命的な予定の狂いを招くからだ。  ガチャン……キュッキュッ。コポコポコポコポ……。  携行缶からタンクに燃料が流れ込み、それに伴ってタンクに冷たいものがたまり、携行缶の方が軽くなっていく。  やがて、ほとんどの燃料をタンクが飲みつくしたのを確認すると、携行缶を元どおり、荷台の方に固定し直す。もちろん燃料コックをリザーブから元に戻すのも忘れない。  少し単車から距離をとり、煙草に火をつける。  強靭な防水ケースに入れてあるおかげで煙草はまだ、ほとんど水に濡れていない。だがほんのわずかに水気を感じ、苦笑する。  それは、俺自身の手から煙草に付着した水のせいだった。 「……」  その水っぽい煙草を咥えたまま、俺は携帯に手をやった。  型落ちではあるが防水携帯だ。なんならシャワーを浴びながらでも電話ができるという代物で、実際俺は集中豪雨の中で使った事もある。ガラパゴスなんて言われだして久しい携帯だけど、彼らの言う「進んだ携帯」とやらで防水携帯なんて未だ見た事も聞いたこともないから今もこれだ。俺の愛用の一品。  だが、かかってきた事などいまだに一度とてない。  当然だ。ただ日々の暮らしをこなすだけ、決まった友人すら誰もいない、そんな俺の携帯の番号を知る者など、誰もいるわけがなかった。  海外にいる両親や、北の国の住人である親戚の親娘、それに、あいつの親友にして俺の友人でもあった女性だけはそれを知ってはいたが、肝心の俺が出ないんじゃかけてきても仕方ないというもんだ。  そして、何度もかかっていた電話はいつしか減り、そしていつしか、携帯電話は宅急便からの着信専用になってしまっていた。 「ん?」  はたして、そこには、俺の知らない番号からの着信記録があった。  誰だろう?  怪しいセールスなら番号非通知だろうし、知人にもこんな番号の者はいない。なんだろうと思いつつ、俺はつい通話ボタンを押していた。  プップッ……プツッ……プルルルルー……プツ。 「もしもし」 『祐一さんですか?』 「!!」  予想だにしなかった声に俺は正直面喰らった。あわてて消そうとしたのだけど、 『切らないで!』 「……」 『切らないで……ください。祐一さん』  そんな切ない声で言わないでくれ。指が動かなくなっちまったじゃないか。 「佐祐理さん。番号変えたの?」 『えぇ。一年前ですけど』  噂をすればなんとかって奴か。電話の主は、あいつの親友だった女……倉田佐祐理だった。 「珍しいな。佐祐理さんが携帯にかけてくるなんて」 『普通のお電話の方は、何回留守録に吹き込んでもお返事くださいませんし』 「いや、だってそりゃ……別に用があるわけではないし」 『佐祐理はあったんですけど』 「……そっか」 『……』  冷たい言葉を吐いている自分に、苦々しいものを感じる。  それは良くない事だった。少なくとも俺にとっては凶兆以外も何者でもなくて、今すぐにでも電話を切るべきだった。 「まぁそんなわけだ。切るぜ」 『ちょっと待ってください祐一さん。本題はまだなんです』 「なんだよ。深夜だし俺、眠いんだけど?」 『明日、お会いしてくださいますか?』 「はぁ?……あのね佐祐理さん」 『?』  唐突に何言い出すんだこの人はと思ったが、同時にそれは如何にも佐祐理さんらしくもあった。 「俺、東京だぜ?どうやって佐祐理さんとこまで行くのさ?」 『お待ちしてますから』  そう言うなり、電話はプツリと切れた。 「……なんなんだ。いったい」  いったいどうしろってんだよ。  そもそもだな、彼女は、あいつと俺が住んでいたあの街に今もいるはずだ。   それなのに場所も時間も指定せずにどうやっ……!?   「ま、まさか……墓の前で待ち構えてたりしないよな……は、ははは……」  彼女ならやりかねない気がして・・・一瞬、冷や汗が出た。  雨は、しとしとと降り続けていた。 [#改ページ] 三人[#「 三人」は中見出し]  俺とあいつが出会った時、佐祐理さんは既にあいつの親友だった。  友達もなく言葉少なく、周囲から誤解されきって完全に宙に浮いた存在だったあいつ。だけど佐祐理さんだけは正しく理解し、それゆえに二人は固く結びついた親友だった。ふたりとも同性の友達が非常に少ないタイプだが、両者がお互いのマイナスを相殺していたのだろう。ほとんど会話の成り立たない舞と違い、もともと社交的な佐祐理さんの側にはちょくちょく人が集まっていた。  俺は、ひとつ年上でもあった二人の美少女がとても羨ましく思っていた。  時としてあいつの奇矯な行動に振り回されたりはしたものの、あいつに惹かれ、近づいていった俺を佐祐理さんは普通に迎え入れてくれた。いくら俺と舞には過去の事があったとはいえこの時点では少なくとも俺はそれを覚えてなかったし、普通ならこの状況で突然やってきた俺をいぶかるのが普通だろうに。  ま、舞があまりにも悪い意味で目立ってたからな。この状況で佐祐理さんでなく舞にコナかけるような酔狂な奴なんていなかったろうし、そのあたりにきっと理由があったんだろうが。  こんな事書くと何かやましい事があったかのようだが、誓って言うがそれはなかった。  あれはきっと、佐祐理さんの精神年齢の高さもあったんだろうと思う。本格的に三人でつるむようになってからは、佐祐理さんが姉的存在で束ねる事が多くなっていった。それは後に俺とあいつが結ばれ、夫婦となる事になっても変わる事がなかった。三人でいる時は佐祐理さんプラス俺たちではなく、常に「三人」であり続けたんだ。  ……そう。あいつが帰らぬ人になった、あの日まで。 「……」  赤に変わった信号が前方に見え、俺の思考は突然現実に引き戻された。ゆっくりと減速し停止する。  ……今日、はじめての赤信号。  第一級幹線道路である国道五号や十二号を使っているにもかかわらず、道内では深夜ほとんどの信号が点滅に変わってしまう。  だからずっと点滅の信号を見つづけていたのだけど、さすがにもう朝が近いのだろう。何時が境目になっているのか知らないが、どうやら一部の信号が動きはじめていた。 『旭川48km』  そんな標識が目につき、俺はブルっと震えた。  一晩中、冷たい雨の中を走り続けたせいか、どうも体がだるかった。  手も足もさっきから感覚が全然ないが、それ以上に身体のどこかで警告シグナルが鳴っている。 「……まずいな」  思わずそんな言葉が口から出た。これは……本格的にまずい傾向だな。  さっさと墓に行き、お参りを済ませたらとっとと消えなくてはならない。  下手に休むと寝込むかもしれない。少なくとも二日は完全休養が必要だろう。  だからこそここでは休めない。行かなくては。  信号が変わった。  軽くスロットルをあおると、重たい俺の気分をそのまま現わすように、400cc4スト単気筒がブロロと音を立てた。 [#改ページ] 駅[#「 駅」は中見出し]  旭川でガソリンを満タンにした。もちろん携行缶にも燃料を入れ、南に向かって走り出した。  大きな峠を二つほど越えて南に走ると、懐かしいあの街が見えてくる。 「……」  心地よい風が、びゅうびゅうと俺のまわりを舞っている。  性能的には旧時代のそれにすぎない大きな古い400ccにとり、北海道の広い国道はまるで高速道路のようであり、峠道といえど不必要に重心移動をする必要もほとんどなかった。  天候のせいか放射冷却が抑えられていた。本来ならば凍えるような寒さのはずなんだが、身を切るような冷たい風に体力をとられずにすんでいた。ただし全身に真綿のようにまといつく脱力感、それに反比例するかのような異様にハイな精神状態が、最近なかった最大級の危険を告げている。  疑う余地もなく、それは最悪のコンディションだった。  このまま用をすませて、そのまま東京に帰れるのだろうか?  途中で事故って、そのまま帰らぬ人になりそうな予感さえした。  体調ガタガタ、気分はハイという状況がどれだけやばい事かというのは、長距離を走り慣れた者なら誰しもが知っている事だろう。  車なら間違いなく仮眠をとるところだ。しかし単車ではそうはいかない。  しかも今は雨。公園で気軽に仮眠というわけにもいかないのだから。 「……駅か」  国道から外れ、脇道に入る。しばらく走り、懐かしい駅の前で単車を止めた。    駅。    高校、大学、就職以降も通じて、俺はこの駅をほとんど使わなかった。  俺がここを使ったのは、誰かとの待ち合わせがほとんどだ。  実際、両親の海外出張のせいでこの街にある親戚宅に身を寄せる事となり、引っ越してきた高校二年のあの冬の日でさえ、俺は寒さに震えながら、いとこがここに来るのを二時間も待っていたのだ。 『うぐぅ、遅いよ祐一君』 『遅いです祐一さん』 『祐一。遅い』  懐かしい声が、ひとのいない古ぼけたベンチから聞こえるような気がした。  そして今、冷たい雨の寒さに震えながら、単車の上からそこを見る、俺。 「……」  メットのシールドを、上げた。 「……」  雪はない。寒さ、冷たさも当時とはまるで異質のものだ。だが、全身にまとわりつく寒さが何故か、とても懐かしく感じた。 「……」  とりあえず、単車を脇に寄せて、降りてメットを脱いだ。  思ったより冷たくない風が頬を叩き、走ってきたので体が冷えきっている事を今さらのように実感する。  トイレと、暖かいコーヒーが無性に欲しくなった。  歩くたび、ブーツがくちゃくちゃと水音をたてたが気にしない。どうせ中の足は究極の防水装備……平たく言うと靴下ごとスーパーの袋に収まり、そのままその上にブーツを履いているのだ。ブーツカバー?そんな|玩具《おもちゃ》は長距離乗りの役には立たないので却下である。  まだ、通勤通学の人の波は始まっていない。暖まる時間くらいはあるだろう。  とりあえず俺は、トイレの中に入っていった。 [#改ページ] WC[#「 WC」は中見出し]  トイレに落書き、というのはあまりいいものではないが、日本全国どこでも見られるものである。  結構、地方色もあったりして見ていて面白いものがあるのだが、そのほとんどに共通するのが、あからさまに下品で露骨である事。  女子トイレがどのようになっているかは俺の知るところではないが、男の方はまさに全国共通。つまり男性器のいやにリアルな絵があったり、脚を広げた女性・・・年上らしいものが多いのは書いている奴が主に中高生だからだろう。この年頃は大人の女に興味を持つ奴が多いからな。 「あれ?」  ふと、見覚えのある古い落書きを俺は見つけてしまい思わず苦笑する。  だが、その苦笑はちょっと涙混じりのものだったかのしれない。 『舞』その落書きはたった一文字、それだけだった。  それは、あいつの名前。そして俺の字だ。  昔、俺が大学のコンパの帰りに、泥酔して書いたものに相違なかった。  あいつとの仲を悪友たちに冷やかされ、酔った勢いで上機嫌になって、持ってたカッターかなんかの先でガリガリ壁を削って書き込んだものだ。  当時の他の落書きはもちろん完全に消されていたが、書くのでなく削りこまれていたそれは、たまたま生き残ったんだろう。   「舞……まいぃ……」    ……いかん。  俺は泣かない。この街で泣くのはいやだ。  こみあげてきた感情に抗い、無理やり押し殺した。  泣くなら帰ってから泣けばいい。ここでそんなことをしているひまはない。  とっとと用をすまして帰ろう。  手を洗いトイレの外に出た。  自販機を目で探すが、移動されたのか去年あった場所に自販機はなく、かわりにバス停の近くに自販機のコーナーが設置されていた。  自販機まで移動する。  まだ、冷えた関節が重い。  ぎくしゃくした足取りで俺は自販機にたどりつき、レモンティーの缶を買う。  熱い缶を手に持ち、プルタブを開けると、シュコッともプシュッともつかない微かな音と共に、レモンティーの匂いがつんと鼻をついた。  駅の時計が、七時を指そうとしていた。 [#改ページ] 丘に眠る者[#「 丘に眠る者」は中見出し]  あいつは「ものみの丘」の外れにある、静かな墓地に埋葬されている。  かの母親はこの地のひとではない。母娘ふたりで昔この地に移り住んだからだ。まぁ色々事情があったのも事実で、俺は悩んだ末、あいつにとって知らない者ばかりの相沢の家でなく、母親の住むのこの街の墓地で眠らせると言い、そしてそれは了承された。  あいつを気に入っていた俺の父母は渋ったが、俺は頑として押し切った。なぜなら、あいつはやたらと人なつっこく寂しがり屋のくせに不器用を絵に描いたような性格で、おまけになかなか他人に心を開かなかったからだ。あいつが少しでも安心てきる場所がいい、そう思ったんだ。  ま、おかげさまで墓参りの旅に日本の北半分近くを往復するハメになったんだが、それは自業自得って奴だな。 「よう、舞。きたぜ」  俺は、途中のコンビニで買った線香に火をともし、テイクアウトの牛丼を供えた。  墓に供えるのに牛丼というのもいささか妙な気もするのだが、あいつは牛丼とか納豆とか大好きな奴だったからな。何しろ、高校の卒業式の日に、晴れ着姿のまんまで平然と牛丼屋にのしのしと入っていき、くたびれた背広のおっちゃんが呆然と見ているのを全く意に介する事なく、つゆだく大盛りの牛丼に卵を落としてぐりぐりかき回していた豪の者なのだ。  いや、別に晴れ着に牛丼が悪いというわけではないのだけどな。  ただ、あいつは身内としてひいき目に見てもすげぇ美人だったからな。腰までかかる長髪を平然とふりみだし、牛丼にガッつくんだなこれが。その外観と行動のギャップの凄さはただでさえ目立つあいつを更に際だたせたもんだ。 「……」  俺は、まだ濡れているコンクリの地面に、どっかと腰をおろした。  墓は、ただ静かに立っていた。  母親が時々掃除にきているんだろう。周囲の墓に比べると小さくて地味な墓なのだが、きっちりと手入れされぴかぴかに輝いていた。そのさまは何となくだが、どんな豪華な墓よりも居心地のよさそうなものに感じた。 「幸せにやってるみたいだな、なによりだ。だが牛丼はここじゃ食えないだろ?遠慮せずに食え」  寒風で冷えかかった牛丼は、うまそうな匂いを発する事ももうなく、燃えている線香の匂いの方がむしろ俺の鼻を刺激し続けていた。 「……」  ほどなく、眠気が襲ってきた。  凍える寒さの中でも、ひとは眠くなるものだ。そして、雪の降る寒さでもなく十分に体力の余裕があれば、そのまま寝てしまってもたしかに問題はない。  だが、今の俺の体調では、命はともかく熱出して倒れるかもしれない。 「……」  しかし、眠気はたちまちのうちに俺を包みこみ、抗う術もなく俺は眠りに落ちてしまった。 [#改ページ] 夢[#「 夢」は中見出し] (祐一……祐一)  呼び声が、する。  誰かが、俺を呼んでいる……懐かしい声だ。  そいつが、俺をゆり起こそうとしている。 (祐一)  誰だ。  眠い。もう少し眠らせてくれ。 (祐一……起きて……祐一) 「……」  目を開くと、そこには舞……俺の大切な、あいつがいた。 「……舞」 (祐一)  長い髪。物静かで、人形のような端正な顔。凪いだ海原のように、底を全くのぞかせない、深い瞳の色。  ……何故か、あの頃の制服姿で。 (祐一) 「舞!」  気がつくと、俺は舞を抱きしめていた。  懐かしい、不思議な香りのする胸に顔をうずめ、子供のように大声をあげて、俺はおいおいと泣きじゃくった。  夢でもいい!夢なら・・・・夢なら、さめるな! (……)  舞はただ、そんな俺の頭を静かに、静かに、なで続けてくれた。 「舞!舞!」 (祐一、泣いては駄目) 「舞!!」  ……もう、行かないでくれ!!  おまえのいない人生なんて、いらない。ひとりぼっちで過ごす夜なんて、もう嫌だ! (……)  だが、舞は寂しそうに俺をゆっくりとつき離すと、ポケットからハンカチをとりだし俺の涙をぬぐってくれた……そして、 「……んん?」 (ほら、ちーん) 「ガキかい俺は」 (……ほら)  鼻までかまされた。 「……あいかわらず、ムードもへったくれもねぇなおまえは」 (鼻が出てるとみっともない) 「馬鹿。鼻水だ鼻水。寒かったからな」  なんか、一気に雰囲気がバラけてしまった。 (……)  舞は、そんな俺をやっぱり寂しそうに……しかし、ちょっと心配そうにじっと見ていた。  やがて何か決意したかのように、俺の頭に手をやった。 (祐一) 「……なんだよ」 (……私はもういいから) 「!?」 (佐祐理を助けてあげて) 「な、何言ってんだよおまえはっ!!」 (なんとかしてあげて……お願い、祐一) 「……」 (ふたりが泣いてると……私は、眠れない) 「……」 (ふたりいればきっと笑える。笑っていられる) 「……いやだ」 (……) 「佐祐理さんが嫌なわけじゃない……でも、俺の連れあいはおまえだけだ」 (……私はもういない) 「だったら!俺を連れていけ!!」 (……) 「舞!!」 (……)  だが、舞は昔のように無表情に……ただ、微笑むだけだった。 [#改ページ] 倉田佐祐理[#「 倉田佐祐理」は中見出し]  目ざめると、そこは暖房のきいた車の中だった。 「………」  助手席で、俺は毛布にくるまれていた。  窓の外を見ると……そこは舞の眠っている墓地の駐車場だった。俺の乗ってきたCLもその場所に止まったままだ。  いつのまにか振り出した雨が、ちらちらと雪に変わりつつあった。単車乗りとしては最悪のコンディションを意味していた。  俺は運転席の方を見もしないで、そのままドアを開けようとした。 「開かないですよ祐一さん」 「……開けろよ」  後ろ……つまり運転席から、女性の声が響いた。言うまでもない。佐祐理さんである。 「今うちの者を呼びました。倉田家まで運びます」 「何いってんだ、雪が本降りになる前に帰らなく……!?」 「……」  頭が……くらくらする。完全に終わってるようだ。 「……これは」 「佐祐理が見つけた時、祐一さんは舞のお墓の前で倒れてました。……凄い熱でしたよ。本当に驚きました」 「……」 「今の体調でこの天候の中、東京まで帰るなんて自殺行為です……それにこのオートバイはキック始動しかありませんよね。今の祐一さんでは始動すらできないんじゃないですか?」 「……やけに詳しいな、佐祐理さん」 「……勉強しましたから」  佐祐理さんは何を思ったのか、どこか複雑そうな顔でクスッと笑った。 「……」  俺は観念して、佐祐理さんの方に向き直った。 「おひさしぶりです、祐一さん」 「……老けたな、佐祐理さん」 「再会のひとことがそれですか?佐祐理は寂しいです」  嘘だった。  もう、三十路のはずの佐祐理さん……なのに、舞が死んでこの地を去る前、最後に見た時とほとんど変わっていなかったのだ。  舞より淡い、やはりロングの長い髪。  すらりとした長身は、実は結構着痩せするタイプである。おそらくその中身も、三人で海とかによく行っていたあの頃とそう変わっちゃいないんだろう。  田舎の旧家のお嬢様だけあり、地味な服装ながら趣味はいい。俺にはよくわからないが昔の舞を思わせる、しかし舞より明るい黄緑系の色を好んで纏う傾向がある。だがその明るい色調にかかわらず、活動的なイメージには決してならないのが佐祐理さんという人の特徴だったと言える。  スカートは履いてない。  実は彼女、ウインタースポーツが結構好きだ。それどころかひととおり何でもこなすんだが、特に単車に乗りだした俺に影響されてか、三人で遊ぶようになってから本格的にスノーモービルにも手を出した。冬場はそのせいもあって、スキー用、しかもクロカン系の質実剛健なウェアを好んで着るようになった。  まだ冬の到来には早いので長靴などは履いていないが、そのかわりにジョギング用のスポーツ・シューズを履いていた。 「……あいかわらず美人で結構なことだ」 「くすっ……ありがとうございます。うれしいです祐一さん」 「というわけでロックを開けてくれ。俺は帰る」 「いーえ、帰しませんよ」 「体調が悪いなら宿に泊まる。佐祐理さんの世話になるわけにはいかない」 「はい?どうしてですか?」 「どうしても何も……わかってるのか?佐祐理さん。俺なんかの世話焼いてたら、世間体も悪いし旦那にも何言われるか」 「佐祐理は独身ですよ?それに、病気の方を助けて世間体が悪いなんて事はないですよ……まして祐一さんじゃないですか」  え? 「ちょっと待った」 「はい?」  今、聞き捨てならない事が聞こえたが?まさか 「佐祐理さん、まだ結婚してなかったのか!?」 「はい?ええ、そうですけれど?」  ……ちょっと驚いた。  たしか佐祐理さんにはあの頃、縁談が大量に来ていたはずだ……あれ、全部断ったのか?  家柄、容姿、性格と三拍子揃っているくせに浮いた話の一つもない佐祐理さんはいつも、家の関係にはじまり果ては待ち伏せ告白やストーカーまがい野郎に至るまで、とにかく多くの男がゲットせんと常に群がっていたような記憶がある。  とはいえ佐祐理さん本人はそういう事には全く興味がなく、俺や舞と一緒に三馬鹿トリオよろしく楽しく過ごしていたのだから、その責任の一旦はもしかしたら、俺や舞にもあるのかもしれないが。 「どうして……相手ならいくらでもいるだろうに」 「……実は、一度だけ結婚しかかったんです」 「……しかかった?」 「ええ。でも、おつきあいをはじめた途端、佐祐理にはわかってしまいました。この人と添い遂げる事は、佐祐理にはできないって」 「なんだ?なんか、とんでもない奴だったのか?」 「そうではありません……とてもいい方でした。……問題があったのは、佐祐理の方なんです」 「へ?どういう事だ?」 「……」  佐祐理さんが、困ったように顔色を曇らせた途端だった。  ……ゲシッ!!  まるで、後頭部を、舞にぶん殴られたようなどこか懐かしい……しかし、強烈な頭痛が俺を襲い、思わず俺は頭を抱えた。 「ぐ、ぐぁ……」 「祐一さん!?」 「な、なんでもない……それより、ロックを解除してくれ」 「何言ってるんですかその体調で!怒りますよ祐一さん!!」 「頭に響くからしゃべらないでくれ……わかった。世話になるよ。でも、単車のハンドルロックを外さないと運べないだろ?どちらにしろ」 「オートバイの鍵でしたら、佐祐理が預かってます。心配しないで休んでください」 「でも……でもな」 「休んでください」 「……わかった」 [#改ページ] 倉田家[#「 倉田家」は中見出し]  ある種のストイックな単車乗りにとっては、旅先で動けなくなるのは恥になるらしい。  だが、それは間違いだ。たしかに単車で来たのだから単車で帰りたいものだが、命の危険まで犯してそうするのは間違いだろう。  忘れてはならない。  熱狂的な単車乗りは時として、自分の生命より単車を選ぶ事すらあるのだが、生き延びれば走り続けられるのだ、という事だって忘れてはならない。 「……」  とはいえ、今の俺はかなり間抜けだった。  死んだ妻の墓参りをし、颯爽と去る……ただそれだけの事ができず、妻の親友で俺の友人でもあった女性に拾われ、介護されている身なのだから。 「ふぅ。熱、だいぶさがりましたね」 「ごめん。助かったよ佐祐理さん」  あれから、数日が経過していた。  俺は単車もろとも倉田家に運ばれた。倉田家はこの地域ではかなりの名家であり、そこのお嬢様である佐祐理さんは現在結婚もしていないばかりか、正式にはご両親の名前とはいえ事実上の家長状態で、倉田本家としての全ての活動を仕切っていた。  学生時代は呑気でお人好しのお嬢さんという感じだったのだが、時折、俺の看病中に訪れる人との応対を見るにつけ、俺は自分の見識が完全に誤りであった事を痛いほど実感していた。  そうそう、知ってるか?  佐祐理さんは自分の事を名前で呼ぶが、これは例外こそあれ、基本的にはごく一部の人間に限られるみたいなんだ。昔はどうか知らないけど今はそうで、佐祐理さん曰く家の仕事をする時は家長らしく「私」と言うらしい。いつからそうしたかは本人も覚えてないそうだ。しかも驚いた事に、俺たち三人だった頃には既にそうなっていたらしい。  迂闊にも俺は知らなかった。  まぁ今回ずっと寝込んでいたおかげで図らずも、「|私《わたくし》」と自称するキリッとした顔の佐祐理さんを随分と見てしまったわけなんだが。  ……それにしても。  屋敷の人たちが俺の事を覚えていたのはまぁいいとして、なんか、異常に親切な気がするのは俺の気のせいなんだろうか? 「期待されているんですよ、祐一さん」 「へ?」  佐祐理さんはうふふと小さく笑った。 「祐一さんの事は皆さんよくご存知ですし、佐祐理が……その、自分から男の人のお世話をするなんて滅多にない事ですから。いっそこのまま祐一さんといい仲にならないかと期待されているんだと思いますよ」  はぁ!? 「な、なんだそりゃ……あ」  ……頭がくらくら〜っと……くそ、情けねぇ。 「もう、無理をしては駄目です祐一さん」 「ご、ごめん……けどよ」 「ええ、そうですね」  佐祐理さんはあくまで優しかった。あの頃と同じに。  だけど、 「祐一さんは、舞でないと駄目なんですよねきっと」  そんな事を言う佐祐理さんは、なぜだかあの頃時々見せた寂しそうな顔だった。  いや、だからさ。そんな悲しい顔をしないでくれ。だって、 「ごめん。佐祐理さんは全然嫌いじゃないんだけどね」  情けない俺はつい、こんな言い訳じみた事を言い出しちまうから。 「……」  だが、そんな俺を見た佐祐理さんは唐突にクスクスと笑い出した。な、なんだ? 「祐一さんって、あの頃も思ったんですけれど……本当に舞に似てますよね」 「へ?」 「わからないんですか?」 「???」  きっと俺の頭の上には今、盛大に?マークが立ちまくっているのだろう。そんな俺を見て佐祐理さんはまた楽しそうに笑い、 「祐一さんって、本当に、ほんっとうに大好きなものの話になると、舞みたいに『嫌いじゃない』って言い出しますよね?」 「!!」  そんな事をのたまってくれたりするわけで。  いやちょっと待て佐祐理さん。そりゃ男って奴の基本であって、別に俺が舞に似ているとかそういうわけじゃないだろう?  『好き』という言葉は男にとり、大なり小なりこっぱずかしいものなのだ。  それが好きであればあるほど、好きというのが恥ずかしくなる。だから、『嫌いじゃない』なんてひねくれた言い方も飛び出すものだし、人によってはそれが言葉ではなく、ぶっきらぼうな態度や悪戯となって現れる。  ようはそれだけ、男とはいくつになっても「男の子」なのだ。 「うふふ」  だが俺がそう言っても佐祐理さんは笑いを止めない。なぜだか顔が紅潮しているようにも見えるが……むむむ? 「いや、いいんだけどさ。佐祐理さん何かいい事でもあったの?」 「さて、どうなんでしょうね?」 「???」 「いや、わからないから聞いてるんだけど」  どうやら教えてくれるつもりはないらしい。  だがまぁ佐祐理さんが超がつくほどご機嫌なのは俺にもわかった。俺はとりあえず、そのご機嫌なうちにやる事をやってしまおう。 「佐祐理さん。単車のキーどこにある?」 「はい?」 「整備したいんだ。何せほったらかしだったから、いい機会だし」  そう言うと佐祐理さんは少しだけ躊躇するように俺の顔を見、むむっと人差し指を口元にやり思案げな顔をした後で、 「えぇ、いいですよ」  いつもの穏やかな顔に戻ってそう言った。 [#改ページ] 追憶の車庫にて[#「 追憶の車庫にて」は中見出し]  倉田家は大きいだけあって車庫もバカでかい。いくら来客もあるとはいえ、高校時代にお世話になっていた水瀬家の家屋そのものがすっぽり収まってまだ余る。正直、この中だけでフリーマーケットが開けそうな規模だ。はじめて見た時はさすがに驚いたっけなぁ。  だが、北海道の田舎の家ではそもそも車庫はでかい。歴史的事情があるのだ。  現在の北海道民のほとんどは内地からの移住者の子孫であり、就農などの形で移り住んできたわけだ。そういう理由から、道具類や運搬車両等を整備するための設備が当たり前のように揃えられていた。村に鍛冶屋がいるとは限らない、だから自前で揃えようというわけだ。  俺は以前、ごく普通の農家に200V電源やでかいコンプレッサーがあるのを見て非常に驚いたんだが、北海道では別に珍しい図じゃないんだなこれが。もっと気のきいたところだと、下手な自動車整備工場なみの設備があったりもする。  まぁ、一般農家と言えど大規模になると、10,000ccを越える排気量を持つキャタピラ仕様のトラクターなんかも置いてたりするからなぁ。機械好きには本当、北海道ってたまらない環境だよな。  って、ありゃ? 「あれ?なんか奇麗になってる」 「あ、錆止めしておいたんです。迷惑かと思ったんですけれど、随分汚れて、濡れてましたし」 「……ごめん。ありがとう」 「整備って何をするんですか?」 「なに、チェーン張りと注油さ。錆対策もしておくつもりだったけど不要みたいだな」  北上時、雨と一緒に海風もかなり食らっていたのだ。錆止めしてくれたのはありがたい。  さて、と工具をとりだし、注油をする。CLはメインスタンドがないので、当然左右どちらかを持ち上げて浮かせる必要があるが、 「あ、佐祐理が支えます」 「いいよ別に」 「いえ、大丈夫です」 「単車をいじった事はないだろ?」 「ありますよ。お父様のお手伝いですけれど」 「……へ?」 「あれです」 「……」  佐祐理さんの指差す方を見ると……なるほど。たしかにやたらと巨大なカバーのかかった単車らしいものがある。 「へー……」  この車庫は昔にも一度借りた事があった。だけど奥にあるものにまで注目した事はなかった。ま、ひとんちの車庫だしな。 「体を壊されて随分乗ってらっしゃらないですけれど、整備は時々されてます。それでも佐祐理が中学くらいの頃は整備のお手伝いとかしたんですよ。女だてらに機械なんて触るんじゃないって言われましたけど、そう言いながらもお父様、目が笑ってましたね……」 「……」  そりゃ嬉しいだろう。単車乗りにとって、娘や息子が自分の愛車に興味を持つのは嫌な事ではないだろうから。 「……して、あれ何?見ていい?」 「はい、いいですよ。」  そう言うが早いか佐祐理さんは立ち上がり、しずしずと歩いていった……勿論、俺もついていく。 「えらくでかいな。|大陸《ツ》|横断《ア》|仕様《ラー》か?」 「とても古いものなんです。お爺様から譲りうけたものなんだそうです」 「へー凄いな。どれ、失礼して」(注意: 乗り手に内緒で単車を見たりするのは本来とても失礼な行為です。真似しないように)  ……だが、俺の手はカバーを半分くらいまくったところで、ピタリと止まった。 「……なんだこりゃ?」 「はい?オートバイですけれど?」 「いや、それはわかる……しかしこれって……」  バカでかいペダル、どうやらキックペダルのようだ。しかし、その先には自転車のペダルの先のような、あれがついている。  見た事がないとは言わない。だがそれは非常に古い、しかも大型車以外ではまず見る事のない装備だ。 「エンジンとミッションは別体か……??なんかフラットヘッドみたいだな」  フラットヘッドっていうのは戦前などの古いハーレーのサイドバルブエンジンの事だ。写真以外ではあまり見た事がないんだが、どうもそれっぽい。  なるほど、これなら大仰なペダルもわかるか。1200ccとかのロングVツインを始動するんだからな。 「はい?ふらっと……何ですか?」 「いや、いい……あぁ、やっぱりフラットヘッドだ……すげぇな。……!?」  いや、ちょっと待て。 「なんだこれ」 「はい?」  横で首をかしげる佐祐理さんに答える余裕もない。タンクに書かれているロゴの文字をなぞる。 「R....i....k....u....o....h……陸王!?マジでか!?」 「???……えっと、凄いんですか?」 「す、凄いもなにも……こんなの、博物館でしか見た事ないぜ」  のほほんと不思議そうな顔の佐祐理さんに、俺は頷くしかできなかった。    陸王。  戦前、Harley Davidsonを日本でノックダウン生産する事になり、日本での名称が募集された。そして最優秀に選ばれ正式名称となったのが「陸王」だった。  低重心で非常に安定しており、耐久性に優れた陸王はまさしく「陸の王者」にふさわしく、戦前から戦中、戦後の復興期をまたにかけてこの国を駆け巡った単車の帝王である。  製造元である陸王内燃機がやがて閉鎖になるまでの長い、長い間、ほとんど大昔のサイドバルブ仕様のモデルを延々と作り続けたが、やがて純国産の単車の性能が上がってくると基本設計の古さや大きすぎる車体が災いとなり、いつしか消えてしまった。  今は一部の好事家と、伝説の彼方にのみ存在するマシンである。   「……全部見ていいか?」 「あ、はい。いいですよ」  失礼とは思ったがもう手が止まらない。カバーを全部外した。  間違いない。とんでもなく古い型だが俺はこの伝説的オートバイを少しだけ知っていた。  舞がいなくなる前の事だ。オートバイだとどうしても二人で限界なんで、いっそサイドカーはどうだと検討した事があったんだ。内地と違って北海道だし、すり抜けとか考えなくてもいいからな。  まぁ結局それが実現する前にあんな事になってしまったが、当時覚えた知識だけでも、このクラシックマシンの正体を知るには充分すぎた。 「……」  エンジンの横にしゃがみ、クランクケースからタンクまで|睨《ね》めあげてみる。  もちろん詳しい年式はわからない。だが戦前のモデルのように見える。  今の単車ではただのグリップである左側のそれが変な装置につながっているのがわかる。噂ではそれは進角調整につながっていて、坂道などで使っていたはずだ。上り坂では進め、下り坂では遅らせたんだとか。  オイルの循環だって自動ではない。サドルシートの横に手動のオイルポンプがありこれを時折操作する。確か操作をさぼると焼きついてしまうって話だったっけ。  なんてこった。まさに往年の陸王そのものじゃないか。 「……たまげたな。まさか、よりによってこんな化け物だったとは」 「そんなに凄いものなんですか?」 「すごいなんてもんじゃないって」  俺は思わず肩をすくめた。 「たぶんだけど戦前の陸王だろこれ。この年式でこのコンディションだと……たぶん貴重なんて生易しいもんじゃないと思う。推測だけど、これでエンジンかかって動いたら価値なんて想像もつかないよ」  車やバイクの場合、不動車はいくら貴重でもスクラップである。動態保存こそ価値を持つんだと誰かに習った覚えがある。  とはいえ、これはもう金銭に換算するようなものではないかもしれない。戦前のモデルなら軍の徴用をすり抜けて生き残ってたって事だし、動こうと動くまいと歴史的遺構という意味ではその価値は大差ないのかもしれない。  だが、そんな価値まではわからない佐祐理さんである。当然の事ながら平然と、 「動きますよ」 「!?」  なぁんてのたまってくれるのである。 「ちゃんと走りますよ。毎年、整備をした後に少しだけ乗るんです。そうしないと機械だから駄目になるって」 「……はぁ」  ここ笑うとこか?いやいやむしろ感心するべきか。  ふと、大学の時にもらったポンコツバイクを思い出した。  卒業・上京するって先輩ににもらったバイク。高校出る前に免許をとる時、ついでに自動二輪もとっておいたのが本当に役立つなんて思わなかったよなぁ。三人乗りはできないから主に買い出しの足だったけど、舞か佐祐理さんが留守の時は、残っているどちらかと二ケツして出かけた事もあったっけ。  そんな事を考えつつ、目の前の陸王にまた目をやった。 「……」  ピカピカというわけではないが、細部まできっちりと整備されているのがわかる。それだけ見ても、どういう使い方をされていたのかがわかるというものだ。  往年の……ここの家人の歴史とともにあっただろう伝説のビッグツイン。  これが、金に任せて買ったコレクション等というのなら俺はなんの興味もなかったろう。そういう「貴重な単車を所有」している馬鹿はごまんといるし、床の間に飾られた貴重品や、公道を走れないレーサーにはスクラップほどの興味もない。  だが、爺さんの代からこれを受け継ぎ体が許さなくなるまでは乗っていたというのは、俺の興味をそそるにはあまりにも十分すぎた。 「どうされたんですか?」 「……いや……悪い、カバーかけてくれ。俺には目の毒すぎる」  一瞬、陸王にまたがり、佐祐理さんを後ろに載せた自分を想像してしまったのだ。  そして、俺は、そんな事を考えてしまう俺に無性に腹がたった。 「……」  俺は、何故か沈黙している佐祐理さんを放ったまま、CLの整備に戻った。 [#改ページ] 夢[#「 夢」は中見出し]  夢。  夢を、見ている。 「……」  ここしばらく、毎日のように見る、夢。 「……」  ……悲しい、夢。 「……」  窓の外に月が煌々と輝いていた。長い廊下にさすその光を見ながら俺は、あいつの姿を探し歩いていた。  夜の、学校。  闇の中に静まりかえる学校は、寂しいというより恐ろしくさえあった。  いつも見慣れたはずの教室も、立ち並ぶ窓も、ふと気を抜くと無数の|魑魅魍魎《ちみもうりょう》を吐き出す恐ろしい世界となりそうで、俺は恐怖にちぢみあがりながら、子供のように半泣きになって、あいつを探してうろつきまわっていた。  ……舞……どこだ。  出てきてくれ。俺をひとりにしないでくれ。  頼むよ……舞。 「!」  闇の向こうに、舞の姿が見えた。 「……」 「舞っ!」  だが俺がそこに向かって駆け出そうとすると、舞は微笑み、|霞《かすみ》のように闇に融けて消えた。 「舞!……舞ぃぃぃぃっ!」  俺は、舞の消えた場所まで必死にたどりつくと、何もないコンクリの壁を、バシバシと叩き続けた。 「舞!舞!……まいぃ……うぅ……」  涙で、目の前の風景がゆがむ。俺は……やがて力つきると、壁に向かってへなへなとへたりこんだ。  ……なんでだよ、舞。  ……なんで、こんな意地悪するんだよ。  と、その時だった。   (……しくしく……)   「!?」  その時俺は、どこかで女の子が泣いている声が聞こえた。 (誰だ?)  どういうわけか怖いという気はしなかった。俺はその声の主を知っているような気がした……だから、俺はその方向に向かって、とぼとぼと歩いていった。 「……」 (……しくしく……グス……)  果たして、泣いていたのは佐祐理さんだった。  佐祐理さんも舞と同じく、あの頃の……高校生だった昔の制服姿だった。  今と同じ長い髪を後ろでたばね……しかし、いくぶん今より子供っぽい顔だった。冷たい床にぺったん座りして、子供のようにしくしく泣いている。 「どうしたの、佐祐理さん?」 「舞がいないんです。探しても探しても、どこにいるのかわからないんです」  佐祐理さんは滅多な事じゃしくしく泣いたりしない。か弱く見えるが彼女は見た目よりはるかにタフなのだ。  その佐祐理さんが、ここまで凹むなんて。よほど探し疲れたんだろうな。  思わず胸が痛くなり、気づけば手をさしのべていた。 「わかった。一緒に探そう」 「ええ」  俺は佐祐理さんの手をとり、立たせた。 「……」  佐祐理さんは、子供のようにまだ少しグズっていた。  だけど、そんな佐祐理さんがとても可愛くも見えた。むしろこちらが本当の彼女の姿であるような気がしたんだ。 「見つかるでしょうか?」 「見つかるさ」  刹那、切り返すように俺はそのまま答えた。 「あいつが、俺や佐祐理さんを置いてくわけがないじゃないか。ほら、もう泣かないで」 「……はい」  もちろん、そんな事はその場しのぎの言い訳に過ぎない。二人ともわかってる。舞がいない事は、その最後を見届けた俺達が一番よく知っている事なのだから。  だけど同時に二人はわかっていた。それでいいのだと。  確かに舞は死んだ。もう戻らない。  だけど自分たちがいる限り、舞だっていつもここにいるのだと。  そしていつか俺たちの時が尽きた時、あの世だか常世だか知らないが、俺たちは再び三人に戻れるのだと。 「さぁ、行こう」 「はい!」  佐祐理さんは今度こそ、にっこりと笑った。 [#改ページ] 悲哀[#「 悲哀」は中見出し]  目覚めは唐突に、しかし気持ちよく訪れた。 「……」  白い部屋の中。白いベッドに俺は寝ていた。  寝汗で全身はぐっしょりだった。だが、心身ともにすっきりとしていた。考えるまでもなくはっきりと身体で理解できる。  そうだ。ようやく全快したのだ!  チュン、チュンとどこかで小鳥のさえずる声がした。 「……くー……すー……」 「……」  ベッドに、佐祐理さんが突っ伏したまま眠っていた。見るからに看病真っ最中という姿のまま。  その姿を見た途端、俺は、自分の中にずっと以前からあった感情を、とうとう認めざるを得なくなってしまった。    ……そうだ。  俺は……舞と一緒だったあの頃から、佐祐理さんが好きだった。  浮気とかではない。舞への気持ちに偽りがあったわけでもなかったんだ。ただ俺は、なんと二人とも愛してしまっていたのだ。    二人はいつも一緒だったから。  舞を追えばそこには必ず佐祐理さんがいたから。  いわゆる「親友」なんて言葉が全く空々しく聞こえてしまうほどに強く、強く、二人は結びついてしまっていたから……舞に惹かれた俺はどうしようもなく、佐祐理さんにもまた、惹かれてしまったのだ。  最初はもちろん気づかなかった。そして気づいてからも知らぬふりをした。  それが一般的に考えて異常なのはわかっていたし、そういう感情が三人の関係を破壊する事も恐れたからだ。  舞がいなくなった時、俺は慌てた。  今はいい、舞の死に囚われているうちはいい。だがその先が怖かった。まるで舞の代わりのように佐祐理さんに近づいてしまう自分が醜い男に見えたし、そんな感情を見せて軽蔑させるのも嫌だった。  だから俺は逃げるように都会へ戻ってしまったのだと……今にして俺自身、やっと気づいた。 「……」  佐祐理さんはまだ眠っている。  俺の看病で体力をあらかた使い切ったのだろう。あのカンのいい佐祐理さんが、泥のようにこんこんと眠りこけている。童女のような安らかな顔で。  まるでメイドさんみたいな白いエプロンがなんだかまぶしく見えて、俺は思わず、視線をそらさずにはいられなかった。    逃げよう。  俺はここにいちゃいけない……お世話になっといて後足で砂をかけるようで申し訳ないけど、このままいたら俺はもっとひどい事をしかねない。  そう……舞を裏切って佐祐理さんも傷つけるかもしれない。 「……」  こっそりとベッドから抜けだす。佐祐理さんを起こさないように。  そろそろと壁に行き、壁にかけられた俺の上着をとった。クリーニングされていて新品のようだった。  側にあるズボン一式をそそくさと履き、キーをポケットにねじこんだ。 「……」  ドアをそっと開け、ふりかえると…… 「……」  佐祐理さんはまだ、夢の中にいるようだった。 [#改ページ] 逃走[#「 逃走」は中見出し]  キィ……。  車庫に入ると、ひととおりの整備を終えたCLが冷たい空気の中に鎮座していた。  着替えなどの荷物はたぶん洗濯に回されているのだろう、そこにはなかった。まぁ着替えなんて非常用の一回分だけだし、置き去りにしてもかまわない。燃料と工具、お金があれば間に合う。  工具を積みなおし、ガソリン携行缶を定位置に戻した。  ミラー位置をちょいちょいと直し、ギアをニュートラルにしてサイドスタンドをはらう。  壁ぎわギリギリに押し歩き、目指すところまで来たら右手を伸ばし、シャッターのスイッチを押した。  ……ガタン!  静かな作動音がして、巨大なシャッターがせりあがりはじめた。  一応、ぎりぎり単車が出るくらいまでの高さまで、ゆっくりと開けなくては出られない。 「……」  外の空気が開くシャッターの隙間から感じられた。  異様に冷たい空気だ。おそらく今夜にも雪が降り、下は凍結するのだろう。  季節からいっても、今度降り出したら完璧に積もるだろう。もしかして峠で雪に出くわすかもしれないが、夜間でなければ凍結には至りはすまい。石狩地方まで逃げ出せればこっちの勝ちだ。最悪、苫小牧からフェリーで出ればいいからだ。 「フッ……雪の中ではライダーは生きられないのさ」  などと、バカっほいふざけた台詞をつぶやいてみる。  別に意味はない、ただ半分ヤケクソになっているだけである。わはは。  正直言うと、ここまで崖っぷちぎりぎりの強行軍はもう何年ぶりだった。  次に降ったら根雪は確実という激烈にヤバい状況での南下である。雪中行軍の装備なんて持ってきてないわけで、最悪、今日中に苫小牧方面に逃げ出さないと帰れなくなってしまう可能性が高かった。  シャッターが開いた。  外に出ると、重くて低い雲……まぎれもない雪雲が空を被っていた。  まだ空全面には広がっていない。それに雪が降っている間は気温は下がらないものだから、今ならギリギリまだ間に合う。  ハンドル左についている、チョークレバーを手前いっぱいに引く。  キーをオンにするとニュートラルランプがつき、ライトが点灯する。  右側の長い、大排気量4サイクル独特のキックスターターを引き出し、地球の重力と勢いにまかせて思いっきり踏み込む。    ……ガシュッ!!!!  バッ……バッバッバッバッバッバババババババーーーーーー!!!!    単気筒とはいえ現代的なショート・ストロークであるCLのエンジンは、一瞬だけ重苦しそうに息をついだ次の瞬間、元気よく目覚めた。  たかが400ccとはいえ古式ゆかしい空冷エンジンのさだめ、延々と長い暖気の時間がここからスタートする。だが今の俺にはそれを待ち続ける余裕はさすがにない。エンジンに負担をかけない範囲でそろそろとクラッチをつなぎ、倉田邱の外までCLを引き出しにかかる事にする。 「祐一さんっ!?」 「!!」  佐祐理さんの声が聞こえ、さすがにギョッとした。  やべっ!さすがに気づいたか!  エンジンは……当然まだ暖まってない。だがここから離れるくらいはしなくてはなるまい。 「……」  佐祐理さんの姿はまだ見えなかった。さっきの声の方向からして、今は廊下を走っているのだろう。  見えない佐祐理さんに一応手をあげて礼をしておく。 (ふ、決まったぜ。やっぱり単車乗りは去りぎわが肝心だよな)  よし、クラッチ切ってギアをローに入れて(カコン)、さぁ帰るぞ東京にっ!!  ……と、その時だった。 「……あれ?」  ……ぽろろ……ぽろろ……  唐突にエンジンが息をつきはじめた。 「ちょ、ちょっと待ていっ!」  やめろ、なんでこのタイミングでトラブルなんて!! (パニックしてスロットルをガンガン開いている)  だが無情にもエンジンはみるみるストールし、やがて「ぼろろ……ぼるぼる……ぽすん」と止まってしまった。 「わぁぁぁぁぁっ!ちょ、ちょっとぉ〜〜っ!」  な、ななななななぜこのタイミングでエンストするかっ!!(大泣) (左足を出して単車を支え、キックペダルを出している)  スコッ!……スコッスコッスコッスコッスコッ……!!! 「ず、すわわわわわぁっ!な、ななななななな、なんでやねんっ!!(蒼白)」 「あ、祐一さん。燃料コックがオフですよ〜」 「お、サンキュな佐祐理さ……!?」 「……」 「……」  いやその……今、真後ろでした声はというと、 「……」 「……」  おそるおそる振り向くと……そこにはいるのはやっぱり佐祐理さんなわけで。 「……あ、あの〜……」 「はい?」  佐祐理さんはニコニコ笑いながら何故かメットを手に持っていた。  う、うぐぅ……お間抜けな俺(泣)。  だがそんな余裕もなく、佐祐理さんからにこやかに言葉がかけられる。 「祐一さん♪」 「は、はいい〜(大汗)!」 「もうすっかり風邪も治られたみたいですね。よかったです〜」 「は、はは、ははは……」  ひぃ……笑ってるけど手はしっかりと|荷台《キャリア》握り締めてますよ? 「どちらに行かれるんですか?」 「いや、ちょっと街までパーツを買いに」 「藤○サイクルは日曜日、お休みですよ?」 「あ、そ、そうなんだ。モ○スターは?」 「ご存知なかったんですか?あちらはもうずいぶん以前に閉店されたんですよ?」 「へ!?そうなの!?」 「はい。ですから」 「?」  佐祐理さんはいたずらっぽく笑うと、俺の肩に手を置いた。  走ってきたのか……いや実際そうだろう。俺が逃げだそうとしている事くらい、佐祐理さんが気づかないわけがないからな……頬がちょっぴり赤くて、こんな事言うとちょっとアレなのだけど、なんだか可愛い。 「佐祐理を、お買い物に連れていってください」 「か、買い物!?」 「はいー……駄目ですか?」 「い、いやその……ゆ、雪が降る前にほら」 「どこかにお出かけになるんですか?」 「う、うんそう。遅くなったらやばいし」 「大丈夫です。峠はこれから積雪になりますけど、街はまだ問題ありませんよ♪」 「い、いや、そうじゃなくてね」  う、うわっ!!マジかよ!!な、なんとか逃げ出さないと、マジで雪に閉じ込められるっ!! 「祐一さん」 「?」 「……ヘルメットとってください」 「え?」 「……」 「……あぁ、わかった」  メットを脱いだ。ふさがっていた耳が風にさらされ、びゅうっという風の音が鮮明になる。 「なに、どうし……!?」 「……」  唐突に、佐祐理さんに俺は抱きしめられていた。甘い、佐祐理さんの香りがいっぱいに広がって、俺の頭はしばしパニックに陥った。    ……いかないで。    言われるまでもなかった……彼女の背中が、肩の震えが、どうしようもなくその意思を俺に伝えてきていた。  暖かく、柔らかい佐祐理さんの感触の前に俺はどうしようもなく、ただ、その場を動く事ができなかった。  だめだ。  俺は、いけない。  彼女を……佐祐理さんを置いていくなんて……できやしない。 「……」  一瞬、震えている佐祐理さんの姿が、夢の中の泣いている佐祐理さんの姿と重なった。 「……わかったよ。佐祐理さん」 「!?」 「しかし、その格好じゃちょっと寒くないか?」 「あ、大丈夫です」 「?」  にこにこと佐祐理さんは笑った。けど、どこか含みのある笑いだ。 「佐祐理は風の子ですから。それに、祐一さんの後ろで小さくなってますから♪」 「うわ、それずるいなぁ」 「あははは、それより祐一さん」 「あぁわかってる。ちょっと待て、携行缶降ろしちまうから」 「はい」 「あ、あと佐祐理さん」 「はい?」 「14ミリのボルト二本、ある?タンデム用のステップ外してあるんだよ」 「あ、はい。わかりました」  とてとてと走っていく佐祐理さん。 「……けど」  佐祐理さんの背中を見ながら自問する。本当にいいのかと。やっぱりそれは舞を裏切るって事なんじゃないかと。  だけどその瞬間、    ……ゲシッ!!!   「!」  なんか、また舞に激しく頭をどつかれたような気がした。 「どうされたんですか祐一さん!?」  気づくと佐祐理さんは戻っていて、俺の顔を少し心配そうに見ていた。 「まだ調子悪いですか?でしたら」 「いや、なんでもない。なんか、いきなり誰かに頭をどつかれたような」 「佐祐理はそんな事しませんよ?……祐一さん?」 「あぁ、大丈夫……しかし、なんか懐かしい一撃だったな。まるで舞のツッコミ……!?」 「……あ」 「……」 「……」  思わずふたりで顔を見合わせた。 「……やっぱり、これはそういう事かな」 「……」  佐祐理さんは何も言わないが、その表情だけで何を言わんとしているかはわかった。 「佐祐理さん」 「はい?」 「途中で牛丼買って行こう。テイクアウトで」 「……あ、はい!そうですね」  穏やかな顔で、また佐祐理さんはにっこりと笑った。    冬の雨は、あがった。  大地には冷たい風が吹き荒れ、空には重たい雲がたれ込め、遠くに見える山々は、白い冠雪が既に|麓《ふもと》のすぐ近くまで迫っていた。  この街を単車で縦横無尽に走れる季節は、あとわずか。時がめぐれば長く、白く、凍てつく冬が全てをすっぽりと包み込むのだ。  でも、だからこそ人は暖かくなれる。  だからこそ、ひとは悩み、苦しみ……その苦悩の数だけ、優しくなれる。 「……」  CLの静かな排気音が、俺と佐祐理さんを優しく包んでいた。  街までのちょっとしたひとっぱしり……ただそれだけなのだが、俺にはその道のりが、長い長い季節の果てにやっと掴んだ、かけがえのない季節のはじまり。そう思えてならなかった。  そうだ。  俺と佐祐理さんの季節は、今やっと、長い年月をへて、ようやく始まろうとしていたのだった。   (おわり) 完(2001/3/20) 第一改訂版(2009/12/07) 最終復刻版(2009/12/21) [#改ページ] あとがき[#「 あとがき」は中見出し]  うちの数少ないKanon SSで最も感想メールの多かった一編『冬に降る雨』の復刻です。復刻といっても加筆がだいぶあるのでリメイク版に近いのですが。PCごと原稿がすっとんでいたので最後の手段、裏技で復活させました。  しかしこのSS、書いた当初はこんな未来は全く想像してなかったものです。リアルの私本人の方はこの後数年に渡り『冬に降る雨』が続きました。  もちろん佐祐理さんのような人のいない身でありその意味では今も雨は止んでいないですし、現実のCL400の方は少々くたびれてしまいました。世の中は回復どころか政権交代を謳った新政権がこの国をいよいよ滅ぼさんとしているし、何も問題は解決していない。    個人的に、わずかに覗いた晴れ間の瞬間からこの一編を送ります。どうか皆様に幸いあれと。よいお年を。  ありがとうございました。