川の字 hachikun CLANNAD、ことみ(ただし渚ルートのずっと未来) ことみSS。ただしCLANNAD全クリア(枝葉はともかくメインルートは)してないとネタばれ食らいます。 [#改ページ] 『夜道』[#「 『夜道』」は中見出し]  今日の仕事にひと区切りつけたことみが|朋也《ともや》のアパートを目指したのは、もう陽もとっぷりと暮れ夜の帳も降りてしまった頃だった。  最近には珍しく夢中になった。新しい理論の組み立てというのは一度勢いがつくと時間を忘れてしまう。学者夫婦のひとり娘であり根っからの学者肌であることみもその点は同じで、ふと気づくと既に時遅し。平素ならとっくに朋也のアパートで団欒しているはずの時間、夜の町を駆ける事になったのだった。 「さむ」  気温の低下は早くことみは眉を寄せた。少し暖まりたい、そう思った。  しかしあまり遅くなると今度は朋也の娘が寝てしまう。それはちょっと寂しいし、何よりことみ本人がそういう場面を嫌った。すやすや眠る可愛い子をその父と共に眺めるのも悪くないが、ことみちゃんと笑うあどけない顔を見られないのはもったいないとことみは思っているのだった。 「……」  角を曲がった。朋也たちのいる岡崎家はすぐそこだ。寒いから朋也は中にいるだろう。朋也ひとりなら時々外に出て待つかもしれないが、そうすると幼い汐までその真似をして出てきてしまうからだ。  ことみはそんなふたりを想像しつつ、微笑んでまた駆け続けた。 [#改ページ] 『きっかけ』[#「 『きっかけ』」は中見出し]  ことみが朋也と再会したきっかけは、朋也の娘、汐の幼稚園についての記事を見たからだった。  卒業と共に都心に出、父母の研究を文字どおり追いかけるように同じ研究に没頭していたことみ。彼女の目にその地方記事が届いたのは文字どおりの偶然である。とある文献について検索していた時に、「岡崎汐」の文字を見てしまい、その名と顔に何かひっかかるものを感じたからだった。  幼稚園のある地名、そしてたまたま偶然にもあの町に「岡崎」姓は非常に少なかった。両親の残した強い人脈が未だに機能し続けていた事、ことみが他人に興味を示した事を快く思った後見人の好意もそれを後押しする形になった。たちまちことみの元には懐かしい「岡崎朋也くん」の現在の情報が報告書と共に届けられる事になったのだ。  だがその結果は、昔の「朋也くん」と高校時代にただ一度名前を聞いたきりの彼しか知らないことみには衝撃的にすぎたのも事実だった。  生まれてまもなく母をなくした朋也。父との諍いからバスケの選手生命を失い、軌道を踏み外していった朋也。そして、そんな朋也の支えともなった古河渚という娘の存在。そしてついにはその支えたる渚をも失い、残された娘の育児すら放棄してしまったこともその報告書には隠さず記されていた。  ことみはその報告書をじっと見ていた。まるまる二日、飲みも食べも眠りもせずにその報告書を繰り返し読み、窓の外を見つめてじっと何かを考えているようだった。  そして数日後、ことみは突然に都心のキャンパスを退く旨を告げた。  大学側は驚いたが後見人の紳士は特に驚くまでもなく、ことみに休学を認め両親と暮らした思い出の町で休息させる旨を大学に了承させた。さらにいくつかの機関も動きだし、一ノ瀬夫妻も愛したあの町に娘までもが戻ろうとするのには何か意味があるのかもしれないという意見まで出た。一部にはささやかな誤解もあるようだが結果として言えばことみの休学は認められ、どうしてもという場合は地元の大学内に特別研究室を構えてもよいという旨の同意まで交わされる事になった。  それは父母の威光ゆえではない。  ことみ本人には自覚がなかったが、一ノ瀬ことみという人物自体の人徳の方がむしろ大きかった。本来ならライバルであるはずの同門の教授陣にすら一目おかれ、そして個人的に目もかけられる。故郷に戻ると言えば利害を越えていくつもの学閥が支援を申し出た事からもそれは伺えるだろう。  とにかく一ノ瀬ことみというキャラクターにはそういう面があった。  ややもすると閉鎖的な日本の象牙の塔ではあるが、ことみの幼女のごとき性格と行動、しかしそれと裏腹の飛び抜けた知性は非常にうまく機能したようだ。何よりことみ本人には物欲や功名心というものが徹底的に欠けており、そのくせ研究については妥協がない。さらにどんな相手だろうとマイペースに近寄りその独特の空気に巻き込んでしまう。  結果として、そうしたことみが信用におけると判断した者たちが彼女のまわりには集まりやすい。彼女を間に置くとうまくいかない交渉もスムースに進むケースが多い。そんなわけで、ことみを媒介にして本来ありえない共同研究などがスタートした例もあった。もはや一ノ瀬ことみの名は単に理論物理学の若き博士号もちというだけには留まらなくなっていた。  もっとも、研究面でのフレンドリーさやその愛らしい立ち振舞いとは裏腹に私生活、とくに昼食時は孤独を好む習性も知られてはいたが。必ず複数の箸を用意し、まるで誰かを待つように半分だけ弁当を食べる。その奇矯な行動も有名だった。いったい誰を待ちつづけているのか。それもまた、わけ知り顔の業界人たちの噂にたびたびのぼるのだった。  はたして、ことみは故郷に戻ってきた。既にあの家には住めずアパートを借りた。女性用のものでアパートというよりマンションに近いものだが、それはネット経由で研究の続行を求める学会側の強い要望の結果だった。部屋には大学でことみが愛用しているワークステーションが移設され、これくらいは要るだろうとギガビットのネットワークが直結された。それはまさに破格の扱いであったが純粋に研究者であることみには料理の値段はわかっても愛用するUNIXワークステーションの価格なんて知るはずもない。ただ「ありがとう」とお礼を言うに留まった。  閑話休題。  そんなわけで戻ったことみはまず古河パンを尋ねた。そこで事情を尋ねた。朋也のもとに行く事をそこの主人には止められたがことみは黙って首をふり、あの遠い日にそうしたようにお弁当と二膳の御箸を用意した。そんなことみの姿は遠い日を知る者ならことみが昔に戻ったように見えたかもしれないが、それは違うだろう。なぜならことみは待つために行くわけではない。待ち構えるために自ら赴くのだから。  そして一年の半分の時、ことみは弁当と本を片手に朋也のアパートに通い詰めた。何があろうとことみは絶対にひかず、翌日には平然と弁当をもって現れた。雨の日も風の日も、一日とて休まず亀のように粘り強く。  のほほんとしているがひたむきで頑固なことみ。手ずから作り持参する弁当。渚を失い荒れていた朋也にそれはおおきな意味を持った。弁当だけなら古河の者も作れたろう。ひたむきな愛情をかたむけられる者もいたろう。しかし両方できる余裕のある者はそうそういないし、ましてやずっと休まずである。さらに言えば、渚を思い出すだけなら朋也はむしろそれを拒んだろう。実際最初、ことみは冷酷なほどの扱いを受けたのだ。  ひたすら辛抱強く毎日毎日通いつめることみに、とうとう朋也がゆらぎだした。少しずつ態度が和らぎ、やがて不思議な懐かしさを伴う食事風景を共にするようになっていく。  そしてついにある日、朋也の記憶のほつれが解けた。会話の中でことみが口をすべらせた事が原因で朋也は一冊の本と巡りあう事となり、それがきっかけになって遠い記憶の蓋が開いてしまったのだ。  朋也は忘れ去っていた自分を恥じことみに謝った。けれどことみはそんな朋也を喜ぶのではなくその手を引き、古河パンに連れていって娘にあわせたのである。  全ての時間が、ゆっくりと動き出していた。  遠いあの日と今は違う、そうことみは言った。ふたりとも大人だし朋也は既婚者、さらに妻の忘れ形見である娘もいる。ことみもそういう現実を理解していて、だからまず朋也が朋也としての自分を取り戻す事を求めた。大切な娘を二度と泣かせないように。  そうしてついにふたりは長い時を越え「朋也くんとことみちゃん」に戻った。 [#改ページ] 『疑惑』[#「 『疑惑』」は中見出し]  とある夜半。とある町はずれの民家の居間。  二十代とおぼしき長髪の女と、それと瓜ふたつの顔をしたショートカットの女が向かい合い応接用ソファに座っていた。それに寄り添うのは優男。一見して双子の姉妹と、その片方の相方といった感じのメンバーだった。  長髪の女の傍らには何故か立派な猪が蹲っている。成獣の猪というと怒れば熊も逃げ出すとんでもない猛獣なのだが、まるで主に忠実な大型犬のように女の側に待機していた。小さなウリ坊の頃からよほど可愛がられているのだろうが、それは一般的にいってかなり異様な光景ではあった。 「しかしボタン、大きくなったよなあ杏ちゃん」  ボタンとはこの猪のことだった。  しみじみと男が言うと長髪の女…藤林|杏《きょう》の目が少し厳しくなった。知り合った頃、まだウリボウだったボタンを鍋にしようとした事がいまだに尾を引いていた。 「そんなことはどうでもいいの。それより、この一ノ瀬ことみって女についてなんだけど。何かわかった?|椋《りょう》」  長髪の女はふたりに向かい、何か知らないかと声をかけた。 「うん、そのひとの事はわたしも調べたけど……正直、お姉ちゃんが知ってる以上のことは」 「そう。勝平は?あんた、昔はマスコミ関係にも顔効いたんでしょ?」  杏のおはちが妹の旦那、|柊勝平《ひいらぎ かっぺい》に向いた。 「そりゃ昔のことだよ。それに僕はスポーツ関連だから学者さんとかはちょっと」 「使えないわねえ」 「お姉ちゃん。無茶いわないで」  少し苛立った感じの姉に、妹が苦笑いで反論した。とはいえそれは意訳すれば「何か名案ない?あんた」「今のところないよお姉ちゃん」「そっかー」という意味の予定調和であって、実は口論でもなんでもない。  で、それを理解している勝平もニコニコ笑っている。 「ただねえ。このプロフィール見る限りじゃ、あの朋也にどう接点があるものかまるでわからないのよね。日本の学会期待の星の若き理論物理学の権威である一ノ瀬ことみ博士。これと……あの甲斐性なしの朋也よ?まぁ確かに私たちの同学年だったのは事実だけど接点なんてそれだけでしょ?朋也相手じゃ会話もネタもありえないし。正直、宇宙人同士の方がまだマシなんじゃないかしら?」 「お姉ちゃん……それ、ひどすぎ」  ひどいと言いつつその妹も限りなく笑顔だ。哀れ朋也。 「これがね、坂上さんとかならわかるの。今はOLだっけ彼女?朋也とはあの頃から知り合いみたいだし」  坂上智代。後は市長かと囁かれている女性である。一ノ瀬ことみとは別の意味で有名人だったが、浮世離れの感の強い前者と違いこちらは普通に才女である。  そんな智代であるが、実は朋也と知り合いなのも承知の事実だった。渚の卒業のおりに現れふたりと親しく会話しているのが目撃されているし、本人にも「朋也はバカ仲間」だという話を聞いている。 「……ふう」  杏は憮然とした顔でテーブルのお菓子を三つ摘んだ。  ふたつは床のボタン用の皿の入れた。自分はひとつ。食べるのも手癖ならボタンにもわけてやるのも手癖。ぼりぼりとお菓子を食べる音が足元で響くのを確認し、杏もたべはじめた。  そんな姉を妹が優しい目で見ているが当の姉は気づいていない。またそんな椋も、夫が微笑んで自分を見ているのには気づいていなかったりする。  なにげに、まったりとした空気が流れていた。 「とにかく敵の真意を知りたいのよね。どういうつもりで朋也に近付いてるのか。いったい何がしたいのか。単に好奇心じゃないのはわかってるつもりだけど、汐ちゃんや朋也の話を総合すると、もう一年近く朋也のとこに通い続けてるらしいし」 「敵ってお姉ちゃん、それは……って一年!?」  姉の暴言に苦言を発しようとした妹だったが、尋常でない時間の長さにはさすがに驚いたようだ。 「何より理解できないのが朋也よ。嘘みたいに無警戒なんだから。それでいて渚の話持ち出したら相変わらず忘れてないみたいだし。正直わけわかんないわ」 「もしかして……そのひと、汐ちゃんの送り迎えなんかも来たりしてるの?お姉ちゃん」  だがそんな椋の懸念を杏は首をふって否定した。 「一度も来てないわ。汐ちゃんにもそれとなく聞いてみたけど、朋也に一度頼まれて断ったりもしてるみたい。理由は知らないけど」  もし来たら追い込みかけてやるのに、といわんばかりに眉を寄せる杏。  そんな姉の怒りとは別に、椋はふと思い当たった事を口にする。 「もしかして……汐ちゃんに気を使ってる?」 「まさか。いくらなんでも」  ふるふると杏は首をふった。  普通、父子家庭の男性と仲良くなった女性なら、子供とも打ち解けようと努力するものではないのか。子供がどうでもいいのなら話は別だが、朋也が渚の忘れ形見である汐を無視して他の女とくっつくなんてそもそもありえない。だから朋也を落としたいなら汐と仲良くなるのは絶対条件のはずだし、そのためなら送り迎えというのはよいチャンスではないか。少なくとも自分がその立場なら間違いなくそうだと杏は思った。  だが、一ノ瀬ことみは父親の送り迎え要請すら断ったという。それが何を意味するのか。 「とにかく情報がたりなすぎるわ。一ノ瀬ことみについてもっと知らなくちゃ」  しかし、唯一朋也と接点がある可能性のある高校時代のデータがまるで存在しない。同じクラスだった子を何人か探したり友人の伝手で聞いてみても何も出てこないのだ。印象が弱かったのか接点がなさすぎたのか、同じクラスでも名前はともかく当人の印象となるとまるで覚えてないひとが大多数であった。 「杏ちゃん、その事なんだけど」  ふたり顔つきあわせて思考モードに入りそうな姉妹に口を挟んだのは、さっき使えないと言われた男、柊勝平であった。 「ちゃんづけはやめなさいよいい加減に。椋の立場がないじゃない」  長髪の義姉、杏に言われてアハハそうだねと無邪気に笑った勝平。しかし傍らの妻はあまり気にしていないようだが。  どうでもいいことだが、勝平が杏をちゃんづけにするのは理由がある。初期にはお姉さんとか杏さんだったのだが、とある事件が元になって椋ちゃん杏ちゃんと呼ぶようになった。つまり親愛のあらわれなのだ。後に椋と結婚したが杏だけ呼び名が変わらず今に至っている。  これがもし、朋也も巻き込んでひと波乱あった末ならもう少し違うのかもしれないが。 「ふたりの関係なんだけどさ。渚さんの実家……古河パンの方で聞いてきたんだよ僕」  え、という顔をした掠。どうやら奥さんにすら話してなかったようだ。 「何よそれ?どういう事?」  眉を寄せる杏にウンと頷く勝平。 「えっとね、僕が聞いたのは一ノ瀬さんというひとが岡崎さんの幼なじみらしいって事なんだけど」 「……おさななじみ?」  姉妹は勝平の言葉に一瞬口を閉ざし、そしてお互いの顔を見た。何かを確認するようにウンウンと頷きあうと、 「それ本当!?嘘じゃないでしょうね!」 「勝平さん!いつのまにそんな事調べてたんですか!」  姉妹同時に攻められ、ちょっと慌てた勝平。あははと冷汗をかいた。 「いや、それが本当らしいよ。詳しい事は古河のひとも知らないみたいだったけど……杏ちゃんはあのひとたちともよくお話してるんでしょう?聞いてないの?」 「残念だけど知らないわ。だってあのひとたちが汐ちゃんの迎えに来てたのは朋也が迎えに来る前までなんだし」  杏が渋い顔をした。 「いくら受け持ちの子の保護者だからって『この子のお父さんは岡崎朋也ですか』なんて聞けるもんじゃないし。『この子、あの岡崎なんだろうな』って思ってたくらいで朋也の子だって確信があったわけじゃないのよね」 「なるほど。そりゃそうだよね」  納得したように勝平も頷いた。 「今も言ったように古河のひとたちもあまり詳しくは知らないんだよ。でもこれだけはわかってる。一ノ瀬さんは岡崎さんを尋ねていく前、古河パンに寄って汐ちゃんにも会ってるし古河夫妻にも岡崎さんの状態を聞いていったらしいんだ。でもね、だいたいの事情は前もって全部わかってたんじゃないかって言ってたよ。あとはお弁当箱を持参しててね、古河パンの台所を借りてお弁当作って岡崎さんとこに向かったらしい」  三人は知らない。その後半年にわたり、ことみが雨の日も風の日もお弁当を抱えて朋也のアパートのドアの前に座り続けた事までは。 「お弁当……?手作り弁当で釣ったっての?まさか」  高校時代の朋也ならともかく、渚と住み子供まで設けた朋也がそんなことで釣られるわけがない。そう杏は思った。そしてそれは確かに正しかった。相手がことみでなければだが。  もちろん三人はそんな事情など知らない。だが言いしれぬ不安は駆け抜けたようで、面々の顔に少しずつ翳りがさした。 「とにかくだね」  最後に口火を切ったのは、勝平だった。 「僕らじゃ岡崎さんにも古河の家にも接点がなさすぎる。だからこれ以上は難しいと思う。これ以上動けるとすれば、それは杏ちゃん……あとはボタンかな」 「ボタンが?どうして?」  考えごとをしていたのだろう。勝平の言葉に単にあいづちを打っていた杏が顔をあげた。ボタンの名に反応したのだ。同時に名前を呼ばれたと感じたのか、ボタンも耳をピクリと動かした。 「杏ちゃんは汐ちゃんの先生だけど、それ以上は踏み込めないわけでしょう?でもボタンは違うよね。汐ちゃんとボタンは仲良しなんでしょ?」 「まぁね。ボタンと汐ちゃんはほんとに仲良しだもの。この子、ひとりで匂い辿って古河の家まで遊びに行った事すらあるみたいだし」  その日杏は自宅にいた。幼稚園経由で古河パンから連絡があった。ボタンを汐が遅くまで引き留めてしまったため、気をきかせた家人が幼稚園に連絡してくれたのだった。  もしかしたら。あの時に朋也のことを聞いていれば、それがきっかけで古河の家と交流できたのかもしれないと杏は思う。結局は園児の事とはいえ他人の家庭内事情に踏み込むのをためらった杏と、そして破滅的なまでのタイミングの悪さがそうさせなかったのだが。その日は妹夫婦が実家である自宅を尋ねてくる日であり長居はできなかったし、後日あらためて早苗さんにでも聞こうとしたらその日からは朋也本人が送り迎えにやってきたからだ。汐に聞いた話では杏とボタンが引き上げていくらもたたないうちにことみが朋也を連れて現れたらしいから、今思えばまさに間が悪いとしかいいようがない。あと少しいればそれだけで、全ての事情もふたりの口から聞けたかもしれないのに。  ふと思考が脇道にそれているのに気づき、杏は姿勢をただした。勝平はそんな杏を|椋《つま》を見るのとはまた違う優しい目で見ていた。  それは子供をみる時と同じ、家族をみる目だった。 「だったら簡単だよ。幼稚園の先生としてでなく、ボタンの飼い主がボタンの友達やその家族とお話するのさ。それで問題にはならないでしょう?」 「……あんた、結構卑怯な性格ね。そんな面があるとは知らなかったわ」 「スポーツは駆け引きも重要なんだよ。知らなかった?」  元悲劇の天才スプリンターはそう言うと、心折れていた自分を支えてくれた優しい女、そしてその義姉ににっこりと笑いかけた。ちょっぴり微妙な沈黙が生まれた。  ごふっという声がした。ボタンが優しい|杏《しゅじん》の身体にすり寄っていた。それはものいわぬ猪であるボタンがいつも示す、親愛の情だった。 [#改ページ] 『尋問』[#「 『尋問』」は中見出し]  翌日、杏は仕事の合間を狙い一ノ瀬ことみの現住所を調べにかかった。しかし思ったよりそれは難航する結果になってしまった。そもそも彼女の職種である保育士(かつては保母と呼ばれた)という仕事は非常に忙しい。また作業の内容上、汐には知られたくないわけだがその汐は自分の受け持ち担当の園児。でただでさえ教育に携わる仕事は低年齢ほど忙しいというのに余計な気遣いまで必要になるわけで、結局ある程度のことを調べあげた頃にはとっくに昼を回っていた。しかもそれすら『高校経由では連絡のつけようがない』という事実を確認したにすぎなかったのである。  友人は不明。大学に問い合わせるにも一ノ瀬ことみは今正式な研究室に詰めているわけではない。いわば自宅勤務であり、連絡するという事はすなわち個人的なコンタクトになる。正式な問い合わせはもちろん可能だが、今すぐというわけにはいかないらしい。  とりあえずメールアドレスは教わったのだが携帯のものではない。その時点で杏は躊躇してしまった。今の世の中メールで連絡くらいあたりまえとはいえそれは携帯での話。パソコンが得意でない杏は携帯からパソコンあてにメールが出せる事は頭では知っているものの、パソコンと携帯でメールをやりとりすると面倒が多い事もよく知っている。  現実には、メール慣れした人間なら携帯相手と見るやそれにあわせて打ち返すのがあたりまえなのだが園児の父兄にそれを求めるのはまだ無理があるだろう。若い親ならともかく歳をとった親もいるのだから。 「う〜ん…」  閑話休題。  参ったなと頭を抱えている杏。学生時代よりいくぶん荒れた髪が垂れた。本当は忙殺の日々の中、手間のかかる長髪なんて明日にもざっくり切りたいのであるがそうもいかない事情もある。猪のくせに職員扱いで出入り自由のボタンの存在といい、杏はこの界隈にしがらみがとても多かった。  ほとんど無意識に左手で髪をもて遊ぶ。杏が苛ついている時の最近の癖なのだが本人に自覚はない。  その背後に小さな影が近付いてきた。 「せんせー?」 「え?」  あわててふりむくと、そこには汐がいた。 「せんせー?どうしたの?」 「う、ううん、なんでもないのよ。それより汐ちゃんこそどうしたの?」  子供ゆえの敏感さなのか単なる偶然なのか、汐の登場はあまりにタイミングがよすぎた。杏はドキリとする内心を抑えつつ、勤めて平静を装うしかなかった。  だが。 「んー、わたしじゃないの。せんせーなの」 「あら、先生はどうもしないけど?」  ん?と汐の目線までかがみ、にっこりとわらいかけた。杏としては最大限の演技をしたつもりだった。しかし、 「どうしたの汐ちゃん?」 「せんせー、うそついてる」 「!」  純粋な目にまっすぐ射貫かれて、杏は二の句が告げなくなった。 「いや、あのね汐ちゃん」 「どうしてうそつくの?わたしにはいえないこと?」  子供というのは時として、大人よりはるかに敏感に虚偽を見抜く。純粋であるがゆえのことだろう。それはよくある事であり杏とてそういう事態に対応するスキルがないわけでもないのだが、  しかし、汐の目線は少しばかり他の子と違っていると杏は思った。  考えてみれば、実の父にずっと放置されていたような子である。本来なら性格に歪みのひとつもあろうというのに汐はちょっとオドオドするところがあるくらいで普通の子となんら変わらない。それはそれで凄い事なのだが、この非常な敏感さもそれに由来するものではないだろうか。  杏はじっと考えた末、ええいままよと頭を切替えた。 「ねえ汐ちゃん。実は相談したい事あるんだけどいいかな?」 「そうだん?うん、いいよ。ふたりだけで?」  一瞬、相談という語彙がないのではと思ったのだが杞憂だったらしい。汐はにっこりと笑った。 「それが一番いいけど、ここでもいいよ。あのね汐ちゃん、先生、ことみちゃんってひととお話してみたいの」  単刀直入。こどもの純粋な疑問に対しありのままをぶつけてみる。杏らしい方法だった。  対する汐は杏の意図をどこまで理解しているのか、首をかしげた。 「ことみちゃんと?おうちにくればお話できるよ」 「あー、ふたりだけでお話してみたいの。とも…パパには内緒でね」  朋也にいられては困るという言葉は意図的に伏せた。しかし敏感な汐に変な疑念を抱かせたくないと思い、朋也には内緒という言葉は正直に混ぜた。  対する汐はその言葉を反芻するようにじっと考えていた。そして顔をあげ、 「おんな同士のお話?」 「え、ええそう。汐ちゃんもそういうのわかるの?」 「うん!早苗さんとそんなおはなしした事があるの。あっきーにはないしょって」  どんな話をしたのだろう。杏はその内容が気になったが今重要なのはその事ではない。 「そうなの。できれば、ことみちゃんとふたりだけで」 「んー…」  汐は少し悩んでいたようだが、やがて「ちょっとまっててね」といって姿を消し、通園用の手提げを持って戻ってきた。 「えっとね、れんらくさきのうら」 「連絡先の裏?…あぁ、連絡先の紙の裏ね」  汐から手提げを受け取ると父兄連絡用の名札をつまんだ。中を見ると一枚の紙片が挟まっている。 「これね…どれどれ。んー」  はたして、そこには一ノ瀬ことみ博士の研究室兼自宅と思われる直通番号、それに携帯の番号までも記されていた。少し子供っぽくはあるが繊細な女性の字だ。 「ねえ汐ちゃん。これって、ことみちゃんが書いてくれたの?」 「うん。パパはおしごとでおそとにいるから、どうしてもつうじないときはこっちにって」  しかし、それなら第二連絡欄があるはずだ。どうしてそちらに書かないのだろうか。見るとそこには古河パンの電話番号が記されている。朋也がくる前は第一連絡先になっていたものだ。  杏が悩んでいると汐がにこっと笑った。子供の笑みだ。 「えっとね、ことみちゃんはおともだちなの。だから『ふけい』のとこには書かないんだって」 「なるほど」  連絡先を持たせるほどに親しいのにこういう点は頑固なまでに線を引いている。なるほど、送り迎えすら拒否するのだからこれも当然といえば当然なのだろうが、 「納得…するべきなのかしらね?これは」  なんとなく朋也とことみの微妙なスタンスというか、そういうものを象徴しているかのように杏には思えた。  とにかくその連絡先をメモする。そして紙片を丁寧に元に戻し、汐に名札を返した。 「ありがとう汐ちゃん」 「うん。それでいつくるの?」 「え?」 「せんせー、うちにくるんじゃないの?」 「…あー」  どうやら汐の中では「ことみと逢う、イコール家にくる」となってしまっているらしい。それに気づいた杏は苦い顔をした。 「あのね汐ちゃん。家だとパパがいるでしょ?」 「あ、そっか」  むむ、と顔をしかめる汐。その顔が考え込んだ時の朋也に似ている気がして、杏は内心くすりと笑った。 「だったら『あぽ』とらないとダメだね」 「へ?あぽって?」 「んーと、ことみちゃん言ってたの。いそがしいひとは『あぽ』とらないとダメなの」 「…あぁ、アポね。うん、そうそう」  まさか五歳の幼児からアポなんて言葉を想像するわけがない。杏は自分の顔が盛大にひきつるのを感じていた。 [#改ページ] 『たんぽぽ娘(1)』[#「 『たんぽぽ娘(1)』」は中見出し]  一ノ瀬ことみへの連絡は実に簡単だった。  たった1コール、携帯にかけただけだった。即座に相手は出た。しかもそればかりか、こちらが何も言わないうちに『汐ちゃんどうしたの?何かあったの?』とあわてた若い女性の声。  杏は一瞬、いやな予感がした。  類似の反応を見せる父兄は少なからず存在したが、子煩悩を通り越して性格破綻直前まで逝っているような者もいたからだ。この手の輩には人間の会話が通じないことが多い。自分の子供が可愛いのはわかるが、自分とこの子さえよければ他なんぞ死のうがどうしようが知ったことじゃないという態度はいかがなものか。幼児相手とはいえこちらは団体生活の初歩の初歩もいちおうカリキュラムに入っている。あんたこそ入園しなさいよと言いたくなるようなろくでもない親は杏程度のキャリアでも既に両手に余るほどに遭遇していた。素直なぶん子供の方がはるかにましだ。  胃が痛みそうになるのをおさえつつ、杏は言葉を継いだ。 「すみません、一ノ瀬ことみ博士でしょうか。わたくし、汐ちゃんの担当で岡崎くんの元同級生でもある藤林杏といいます。失礼ですけど汐ちゃんからこの番号を教えていただいてお電話さしあげてます」 『!』  電話の向こうでは一瞬だけ音が止まり、そして、少し困ったような声に代わった。 『…汐ちゃんに何かあったんじゃないのね。よかった…』  心底安堵したような声だった。  杏は胃の痛みがさらに増したような気がした。賭けてもいい、この指定電話番号は汐専用だ。それもたぶん余程のことがないと使ってはならないと言い含めたものに違いない。だから即座に汐に呼びかけたわけだ。汐がかけたか、汐に何かあって名札を見た者しか絶対かけて来ない番号だから。  たったそれだけで、ことみがいかに汐をかわいがってるか杏にはわかりすぎるほどわかってしまった。 「驚かせてすみません。実は一ノ瀬博士におりいってお話があるんです。とも…いえ、朋也の件で」  岡崎と言い直そうとした杏だったが、結局朋也と名前で言った。初対面の相手なのにどうしてなのか、自分自身でもわからなかった。 『朋也くんの……?』  対する一ノ瀬ことみは、くんづけで返答してきた。  なるほどと杏は思った。朋也も呼び捨てのようだしこれは相当深い関係、あるいは余程この一ノ瀬博士が子供っぽい性格かに違いないと杏は速攻で結論づけた。  どちらかはさすがにわからない。やはり直接話してみたいものだ。 「あまりお時間をとらせるつもりはありません。ですが、できれば直接お会いしてみたいです。なにより私は朋也の友人であると同時に汐ちゃんの教育担当ですし、他にもちょっと色々ありまして。博士もお忙しいとは思いますが、できればどこかでお時間をいただければ」  言外に、時間をとれという意志をこめて杏は話した。なんとしてでも会わねばならない、そんな強迫観念が杏の中で急速に育ちつつあった。  どうして自分がそこまで敵意を燃やすのか、杏自身もわからずに。 『そうですね……』  対する一ノ瀬ことみは、ちょっとオドオドした雰囲気の声になった。杏が今まで一度も聞いた事もないような速さでキーボードをタイプする音が背後で聞こえ、そして 『……二時間後、午後二時まででどうでしょうか。そちらは幼稚園ですか?』 「はい、そうですけど二時間後ですか?そちら遠いんでしょうか?」  それではほとんど「昼食ついで」くらいしか時間がとれないではないか。こっちは一日あけたというのに何様だこの女、と杏は自分のことを完全に棚にあげて思った。  少しイラつくような反応をしてみる。簡単に言えば相手を萎縮させる手だ。どうにもこの一ノ瀬博士、押しが弱そうだと判断してのことだった。  はたして、一ノ瀬ことみは少し戸惑ったあとにぽつりと言った。 『新しい式の演算依頼を出すのと学生からの質問依頼の返答に約九十分必要とするの。あとは幼稚園近郊への移動に徒歩で二十四分少々、午後二時までの理由は夕食の材料を買うための吟味と商店街の往復に平時で平均一時間から一時間四十五分の時間と調理に約一時間四十分。さらに……』 「わかりました。その時間でいいです」  まさか分刻みの予定に詳細な解説までつけられるとは思わなかった。杏はあわててことみの言葉を遮った。 「で、場所ですけど」  これ以上計算違いの事態でも起きたらたまらない。杏はさっさと細かい場所の指定にはいる事にした。  そんな杏のかたわらで、ボタンが平和そうに目を閉じていた。 [#改ページ] 『たんぽぽ娘(2)』[#「 『たんぽぽ娘(2)』」は中見出し]  一ノ瀬ことみの居室は、ほとんど町外れに近い郊外の新築マンションにある。  かつては交通の便が悪かった場所なのだが駅がひとつ新設されたために一転、大変便利な場所となった。未だ急行電車は止まらないが、このまま住人が増え続ければ遠からず一等地になるのではないかと言われている。当初は大学の名で部屋を借りていたが現在はことみ名義に変更。何かがあった際には朋也たちを迎え入れる事も可能なよう考えた結果である。大学名義だと正式な親族以外と大学関係者以外を入れるのに問題が出る可能性があったからだ。ちょっと泊めるくらいなら問題はないのだが。  もっともそんな事、これからその一ノ瀬邸に乗り込もうとする藤林杏には関係なかった。時間あわせに難航したあげく、だったらこちらから行きますと言ってしまった杏なのだが、ことみはそんな彼女にあわてたそぶりも見せず、ではお昼を用意してお待ちしてますと言ったのだ。まぁ学者先生だから店屋物でもとるのだろうと判断した杏は考えた末に了承した。後にそれを杏は後悔する事になるのだが、いくらか頭に血が昇っていた事もあるのだろう。あまり深く考えた行動ではなかった。 「へぇ。このあたりってこんなになってたんだ」  いささか古ぼけ、子供達のいたずらで落書きつきのスクーター。それを杏は山の斜面に立つ大きなマンションの前で停止させた。  保育士の仕事をはじめてから、のうのうと遊びに出る機会も減った。スクーターもあの頃のやつを未だに乗りつづけているのだがそろそろ御役御免に近い。だからあまり無理もさせられない。寒い日などはエンジンを温めないと年老いたエンジンは十分な速度を得る事もできず、職場では「ボタンに乗ってくればいいのに」等と冗句まで言われるありさまであった。  いやこれは半分笑い話ではない。杏はとある雪の朝、本当にボタンに乗せてきてもらった事があったりするのだが…これはまぁ今回語るべき事ではないだろう。いずれ機会があれば。  さて、いよいよ到着したようだ。杏はヘルメットとグローブをメットインフォルダに納めてロックすると、ことみに聞いた通りの入口から入っていった。 「へぇ」  ここらの町ではまだ珍しいセキュリティマンションだった。一流ホテルとはいかないが結構立派な入口から入るとこれまた落ち着いた雰囲気のロビーになっており、郵便受けも一般的に見るものとは違う。さらに、各部屋に進むには住人に開けてもらうかパスワードが必要という周到さであった。 「まぁ、日本を代表する学者先生の家って事かしらね」  肩をすくめると杏はパネルのようなものに向かった。汐に写させてもらった住所メモの番号をなぞってみる。 「あ、これか」  杏はその部屋番号の書かれたパネルを押した。すると、 『The password number please.』  いきなり硬い男性の機械音声で、そんな言葉が響きわたった。 「へ……?」  まさか英語で反応されるとは思わなかった杏は一瞬、ギョッとして立ちすくんでしまった。が、次の瞬間、 『The password number please within thirty-seconds, twenty-nine, twenty-eight, twenty-seven..』 「え?え?えぇぇぇっ!!」  突然のことに杏は軽いパニックに陥っていた。そうしている間にもみるみる数字は減りつづけていったが、途中でプツリと音がしてその無機質なカウントダウンは停止した。 『そこ押しちゃダメ』 「……あ?」  突然響いたことみの声だが、杏は未だ固まっているようだった。 『だから、下に着いたら携帯にかけるかインターホン押してって言ったのに…』  困ったようにつぶやく声。杏はなんとか理性を取り戻したのか一度だけ深呼吸をし、そして 「もう。なんでいきなり英語なのよぉ」 『ここお世話してくれた教授の|悪戯《いたずら》なの。好きな声や言葉が設定できるらしいから』 「……」  まるっきり子供の悪戯だった。  要は玄関に変なものを仕掛けて来訪者を驚かすノリなのだろう。なまじ大人で変に知恵があるため悪質さに研きがかかっている。たとえばもし言語設定にラテン語の設定が可能だったり、文字に古代メソポタミアの楔型文字が使えるなら彼らは喜んでそれを選んだに違いない。あわれな来訪者を驚かすには奇矯であるに越したことはないからだ。  しかし実のところ、それを知りつつそのままにしてあることみもやはり世間の感覚からはズレているといえる。これくらいは軽いお茶目の範疇なのだろう。 「…はぁ」  盛大にためいきをつきつつ、カチャリと外れて開くオートロックを杏は見ていた。      豪華ではあるがいかつい造りのエレベータで昇ると、その先はことみの部屋であった。   学者の家というのを杏ははじめて見る。当然興味しんしんだったが、内装は驚くほど簡素なものだった。女性らしい家具など皆無に近く、無味乾燥ですらある室内。しかし書籍類だけは膨大で、専門書らしいものから何を書いているのかさっぱりわからない外国語までが一画を完全に埋めつくしている。そしてその奥には素人目にも普通のパソコンとは一線を画した大きなワークステーション。画面も杏の使うWindowsとも職員のひとりが使うMacintoshとも違うもので、見たこともない画面が表示され英文のメッセージが次々と流れている。  たしかにそこは、日本を代表する若き理論物理学者の部屋なのだという事を杏にも自覚させるものだった。  どこかから漂う煮物の匂いが、むしろ違和感を感じさせていた。 「いらっしゃいなの」 「あ、どうも」  ただし、目の前にいる女性はどう見てもその学者然とした光景とはアンバランスだった。  たしかに、盛大に浮世離れはしている。もの言いも態度も異常に子供っぽいのだ。少し癖のある長い黒髪は色を除けば杏の方がむしろ綺麗なほどなのだが、よく暖房のきいた部屋で薄手の地味なセーターを着込み微笑む姿はたしかに大人だ。なにげにかなりのナイスバディでもある。その体格に杏は密かに敗北感をおぼえた。  しかし、なんだろう。この全体に漂う悪い意味でない子供っぽさは。へたすると今どきの子供たちより澄んだ瞳で、じっと杏をみつめている。  ここまで来る間に抱いていたことみへの敵愾心が、杏の中でみるみるしぼんでしまっていた。 「えっと、改めて自己紹介いいかしら」  このまま見つめあっててもしかたない。杏は予定をすすめる事にした。 「私は藤林杏。電話で言った通り朋也の友人で、今は汐ちゃんの受け持ちをしてる保育士でもあるわ。よろしく」  とりあえずフレンドリーに話しかけてみた。今後どういう応対をするにしろ、まずは話してみなくては始まらない。実際そのために来たのだし。  対することみは姿勢をただし、丁寧におじぎをした。そして、 「一ノ瀬ことみ。ひらがなみっつでことみ。呼ぶ時はことみちゃん」 「……」  まるで幼女のような挨拶に、さすがの杏も一瞬だが唖然としてしまった。だがすぐ気持ちを切替え、 「ことみね。私のは漢字一文字。あんずと書いて杏よ」 「杏ちゃん。いいお名前」 「ありがとう。ことみもいい名前ね」 「ありがとう。お父さんとお母さんにもらった大切な名前なの」  なんとも子供っぽい会話だが、たしかにことみの雰囲気にはよく似合っていた。  杏は知らないのだがが平時のことみはこんな挨拶はしない。一ノ瀬博士として挨拶する時は歳相応とはいかないがもっときちんとした挨拶をする。それは大学での生活や後見人の影響でもあった。  ようするに、朋也の友人であるから朋也に対するのと同じ挨拶をしたわけだ。この時点で杏はことみにかなり好意的な応対をされているといえる。 「座ってて。今、お昼持ってくるから」 「ええ」  一瞬手伝おうかと思ったが初対面の人間の台所にいきなり行くのもなんだろう。それに店屋物なら食器の数なんかも少しだろうしと杏は思い、素直に応接用の椅子に腰かけた。  だが約三十秒後、居間に現れたことみを見た杏は自分の間違いに気づいた。 「おまちどうさまなの」  あらかじめ準備してあったのだろう。大きなお盆にことみが載せてきたものはさっき感じた煮物の匂いの正体だった。 「……ポトフ?」 「元はポトフなの。でも毎日少しずつ色々入れちゃってるから、今はただの煮物なの」  ありあわせでごめんね、とことみは恥ずかしそうに笑った。ようするに店屋物ではなく、いつもの自分の食事と同じものを杏にも用意してくれたらしい。自分が学者という生き物に対して持っていた偏見に今さらながらに気づき、杏は内心赤面する自分を感じた。  だがそれよりも杏には気になる事があった。ことみの運んでくるおかずや食器群だ。  とんでもなく使いこまれた、しかし綺麗な食器類。生活感のにじむ塗装のはげた鍋。中に入っているものもメインディシュのポトフもどきにつけあわせの浅漬けやその他の雑多な食べ物たち。若い独身女性ひとりの食卓にあるものとしてはあまりにも家庭的すぎはしないか。  杏自身は一人暮しの経験はない。だが友達の部屋や妹の新居などを見て多少の知識はある。ことみの食卓はどう考えても仕事のある独身女性のそれではない。明らかに度を越している。  そして、趣味で料理をするひとのそれのようにも思えない。一部の食器の年期の入りかたからしても、一年や二年毎日使って程度のものではない。少なくとも十年単位の時間が過ぎている。  じり、と杏の中で違和感が疼いた。  やがて食器や食材が並べ終わった。女ふたりが食べるにはいささか多すぎる量だった。 「食べられるだけ食べて。食べきる事よりむしろ種類を多くとるのがいいの」 「なるほどね」  もう何も言うことはなかった。杏は素直にうなずいた。 「いただきましょう」 「……いただきます」  まるで子供のようにお行儀よく、ふたりは食事をはじめた。  たくさん並べられた料理は、どれもとても美味しいものだった。ただの煮物と自称するポトフもどきですら、食べてみるとちゃんとポトフの味を残している。煮すぎて味がボケているさまを想像していた杏は少し驚かされた。ありあわせとことみは言うがとんでもない。見た目が地味ではあるがどれも立派な料理だ。そしてどこか懐かしい。本格的なところと家庭的なところが、微妙にミックスされていた。  自分もそれなりに料理ができるつもりだったが、そんな杏にもここまでやれる自信はなかった。 「実はお弁当の残りなの」  そんな杏の疑問に、ことみは的確な解答をよこした。 「お弁当?」  ここで仕事しているのにどうしてと言いかけて杏は気づいた。要は朋也のところへ持参しているというわけだ。 「朋也くんはやっぱり男の子だから、簡単な炒め物中心で凝ったお料理はあまり得意じゃないの。だから私が色々持っていくの。私にできる事はそれくらいだから」 「……それは朋也のため?」  食事をいただきつつ、一番聞きたかった質問を杏はしてみた。だが、 「違うの。朋也くんのためじゃない」  ことみの反応は杏の予想を完全に裏切っていた。とても悲しげだったからだ。 「……話してみなさいよ」 「え?」  杏は思わずつぶやいていた。 「朋也や汐ちゃんには言えない事でしょ?それは」 「……」 「初対面の人間に言う事じゃないかもしれないけど、私も朋也と無関係な人間じゃないわ。そして身内でもない。愚痴こぼす相手としては悪くないかもしれないわよ?」  何を言ってるんだろう、そう杏は思った。  自分はことみを糾弾しに来たのではないか。渚を失い荒れていた朋也の心の隙間を利用し、岡崎親子の間にまんまと後から入り込んだ異物。その化けの皮を剥ぎに来たのではないのか自分は。なぜ敵に味方するような行為をするのか。矛盾しているではないか。  いや。それも違うと杏のどこかがつぶやいた。  藤林杏。おまえはただ、朋也を見知らぬ女に奪われるのが許せなかっただけだとそれは言った。渚には勝てなかったがもうその渚はいない。なのに、そう思った矢先に別の女が朋也にすり寄っていた。それが憎くて許せなかっただけではないのかと。自分が悪いのを他人のせいにしていただけではないのかと。  違う、と杏は否定しようとした。そんな事はないといいたかった。  だけど。 「…うん」  目の前で悲しそうにうつむくことみ。それが答えだった。  おそらく彼女もまた、渚に負けた者なのだろう。どういういきさつがあるのか知らないが、幼なじみという情報が本当ならことみの朋也への思いは非常に古くて深いものだろう。なぜなら高校卒業以降にふたりの間に接点はないのだから、ことみが朋也への思いを募らせたのは少なくとも高校かそれ以前なのは間違いないだろうから。  それでもことみは負けてしまった。渚がそれだけの女の子だったのか、それとも単に自分やことみが悪かったのか。おそらくは後者なのだろう…口惜しい事だが。  そして、それでもことみは踏み出した。自分が日々に忙殺され朋也のことを忘れかけていたその時に。ことみ自身だって一ノ瀬博士として立派な仕事をしていたというのに、それでも朋也の現状を知り、なんとかしようと駆けつけたのだろう。それは大変な事だったはずだ。距離的には目と鼻の先にいた自分と違いことみは都心の大学で研究生活をしていたのだ。どれだけの犠牲を払ってことみが戻ってきたのか、杏にはもはや想像すらもつかない。  ことみの内側ではたぶん今も変わらず朋也への思いが燃えつづけていたのだろう。純粋に、そして激しく。自分のそれなど問題にならないほどに。  根拠はない。だがおそらく事実だと杏は思った。自分がことみに対して感じた反感の正体もそれだ。自分にはできない事をことみはやっていたから。それを感じ、それに対して苛立っていたのだと。  完敗だった。  朋也にとってことみの位置づけがどうなっているのかはわからない。だが自分にことみの真似は逆立ちしてもできない。自分もおそらく昔も今も朋也を忘れてはいない。だけど自分は朋也を一時的にせよ忘れ、ことみは忘れなかった。そういう事なのだ。 「聞かせてくれる?ことみ。私もできる事なら協力したげるから」  杏は内心自嘲していた。こりゃ今夜は|自棄酒《やけざけ》かしらね、そんな事をまるで他人事のように考えた。ライバルに塩を送るどころか手を貸して自滅しようというのだ。もはや馬鹿を通り越して笑うしかなかった。  でも、どうせ馬鹿ならお人好しの大馬鹿の方がいいだろう、そう杏は思った。    夜。  朋也たちの元へ駆けていったことみ。その背中を杏は見つめていた。 「やっと行ったわね」  杏がことみの元を辞したのは四時間ほど前だった。しかし杏はそのまま帰る事はしなかった。その手には大きな買い物袋がある。中身は酒とつまみだった。隣町のバイク屋でカーボンの詰まったマフラーを交換し、時間潰しに近くの大きなデパートで歩き回ったあげくさんざ迷い買い込んだものだ。飲みたい気分だが安酒を食らいすぎると二日酔いで仕事に響く。滅多に飲まないお気に入りの高価な酒と、普段なら高くてちょっぴりしか買わないつまみ。ボタン用のおみやげもあるので自然とその量は多くなった。  そして帰りに寄ってみたら、ちょうど大きな包みを持ったことみを見掛けたというわけだ。おそらく弁当なのだろう。肉体労働をしている朋也と育ち盛りの汐のため、かなり多めに作ってあるのは言うまでもない。 「お姉ちゃん」 「椋」  振り向くとそこには軽のワゴン車が止まっていた。椋がひとりで乗っている。 「あんたどうしたの?こんなとこで」 「お姉ちゃんとこに行くつもりだったの。ちょうどよかった」  助手席に包みがある。酒とつまみらしい。理解のありすぎる妹だった。 「あんた仕事は?旦那と子供はどうしたのよ」 「勝平さんは子供たちと遊園地のイベントだってこの寒いのに。仕事は非番」  気をきかせて椋を送り出してくれたらしい。夫婦そろってお人好しは健在のようだ。 「あんた、やっぱり何か知ってたわね。残らず吐かせてやるから」 「知ってたんじゃない。知ったの。昼間に古河パンで汐ちゃんたちに聞いて」 「あ、そ」  どうやら椋は椋で色々聞き回っていたらしい。そして姉の状況を予想したのだろう。 「なんかムカつくわねあんた。いいわ、とことんつきあってもらうから」 「はいはい」  杏はそっぽを向いてスクーターのエンジンをかけた。姉の意地で、妹にだけは涙を見せないように。  そして椋も姉の顔を見ないようメーターパネルに視線を落とした。  そのさまは、何年たっても変わらない仲良し姉妹の姿そのものだった。 [#改ページ] 『終章・川の字(1) 食卓』[#「 『終章・川の字(1) 食卓』」は中見出し]  アパートの中では、既に連日恒例になった夕食会が催されていた。  いつもより二時間ほど時間が遅かったのだが、朋也と汐はことみを待っていた。朋也は汐だけ先に食べさせようとしたのだが汐はそれを断固として拒否した。みんなで食べる方がおいしいよと言われれば、確かに朋也も納得せざるを得なかった。  それは渚の考えかたであり古河の家の伝統でもあったからだ。  そしてことみはやってきた。遅れてごめんなさいと頭をさげることみの荷物を朋也は奪い取り、汐はストーブの前にことみを連れていく。いつもの場所にことみがコートをかける間に、冷やすものはあるか必要な皿はと朋也が質問する。その間に汐はまだ拙い手つきでテーブルを拭いている。  もはや、来るのがあたりまえといった応対だった。実際ことみは一日も休まず来続けていたのだが。 「今日はこんばんわなの」  そして食事の前、ことみは必ず渚の遺影の前で手をあわせる。これもいつもの事だ。どうして食事前なのか朋也は尋ねた事があるがことみは苦笑して答えない。汐には話した事があるのだが、その時朋也は外に追い出されて教えてもらえなかった。汐も『やくそくだから』と朋也にも古河の人達にも絶対話そうとしない。  ただひとつわかるのは、それ以降のことみと汐が今まで以上に仲良くなったことくらいだ。 「いただきましょう」 「いただきます」 「いただきます」  ことみが音頭をとり朋也がそれに続く。遠い昔の光景そのものだった。違うのはふたりが大人になっていることと、朋也の横で汐も復唱していること。それはとても微笑ましい姿だった。  そしてそれは、ここしばらくですっかり日常となった岡崎家のいつもの光景でもあった。  渚と同居時代に買った小さなテーブル。それとことみのお弁当のために朋也が買ったもうひとつのテーブルにたくさんの食べ物が並んでいる。今日は洋風の食卓だ。野菜類が多めだが汐にも食べやすいようさまざまな工夫がことみの手でなされている。おいしそうにそれを次々と食べていく汐を朋也は複雑そうな目で見ていた。それを見たことみはクスッと小さく笑った。 「なんだ?俺の顔に何かついてるか?」 「思い出したの。お母さんが朋也くんに野菜を食べさせてた時のこと」 「え?そんな事あったっけか?」  朋也の返事に『ええ』と頷いてことみは続けた。 「お母さんの残してくれたものの中にお料理メモがあったの。昔朋也くんと食べたお菓子や軽いお食事のレシピがいっぱいいっぱい書いてあったんだけど、ひとつひとつの料理について朋也くんの好き嫌いとその克服方法まで細かく記してあったの」 「初耳だぞそれ」  むむむ、と首をかしげた朋也だったが、 「あれ?でもおかしいな。俺、ことみのお母さんに嫌いなものなんて食べさせられた記憶ないぞ。嫌な事だから忘れちまったのかな」  そんな朋也の疑問に、ことみは首をふって続けた。 「それはお母さんの魔法。お料理も物理現象も知らないひとには魔法と同じなの」 「魔法?」  ええ、とことみは夢見るように頷いた。 「朋也くんは朋也くんの嫌いなものもたくさん食べてた。私もそう。けど朋也くんも私も何ひとつおぼえてない。おいしかったこと、それだけしか覚えてない。そうでしょう?」 「ああ」 「なのに身体は覚えている。これは食べられるものだって認識する。そして大人になればきちんとそれを普通に食べられる。それがお料理の魔法。根拠はないけどたぶんそういうものだと思う」 「へぇ」  そうして『おかわり』と差し出された汐のお茶椀を微笑んで受け取る。 「朋也くん用のお母さんのレシピは今も役立ってるの。知ってる?汐ちゃんの好き嫌いって昔の朋也くんとほとんど変わらないの。朋也くん、きっと無意識に自分が苦手だったものを避けてお料理してるから」 「それは」  朋也は否定できなかった。確かに思い返せばそういう部分はあるように思えるからだ。 「それは別にいいの。今は私がいるし、私がいなければ早苗さんが同じ事をしていたと思う。だから朋也くんはその事を気にする必要はないの。汐ちゃんのお父さんとして、できる事をすればいいんだと思う」 「そっか。ありがとな、ことみ」 「お礼なんかいいの。やりたくてやってる事だから」  朋也はこの時点で知らない事がたくさんあった。今日ことみが遅れたのは杏の来訪で時間がずれたからだがそんな事ことみはひとことも言っていなかった。いや、そもそもことみが携帯の番号を汐に持たせている事すらも朋也はまだ知らない。正式に記録されている第二連絡先は古河パンだし、汐の祖父母である古河の両親以上にでしゃばるつもりもことみにはなかったからだ。自分は「友達」であって家族にはなりえてないから。  しかしそれは明日にも朋也の知るところとなるのだが……今はそれはいい。とにかく今三人はまったりとした平和をむさぼっていた。 「……」  そして汐は、パパとことみちゃんの距離が次第に詰まっていくのを今日もにこにこ笑って見ていた。ちょっとだけお姉さんになった気分で。   [#改ページ] 『終章・川の字(2) ふれあい』[#「 『終章・川の字(2) ふれあい』」は中見出し]    さてその後。  いつものように帰ろうとすることみだったが、もともと来たのが遅かった事もありほとんど真夜中になってしまった。そのため朋也が送ろうと言い出し、大丈夫と言うことみと真っ正面から激突してしまった。頑固者ふたりが膠着状態になりかけた時、汐がふたりの間に割り込んで一石を投じた。すなわち、 「ことみちゃん、おとまり」  ようするに、泊まれと言ったのだ。  突然の汐の発言にことみは一瞬固まった。だがことみより劇的に反応したのは当然ながら 「な……!?」  そう、朋也だった。  実の所、汐はかなり人見知りのする子だった。朋也と住むようになる前は大変おとなしい子で、幼稚園でも友達などいずいつも「なべーなべー」とボタンと遊んでばかりいる子だった。また渚の恩師であり伊吹先生の妹にあたる風子という女の子がいるのだが、彼女など汐ととても仲良しであるにも関わらずその風子にすら泊まれと言った事もない。それどころか祖母である早苗さんにすら自分から勧めた事なんて一度たりとてないのである。  アパートの狭さもある。しかしそれ以上に汐にとり、この家は『パパとママと自分の空間』なのだろう。古河パンと違って部屋が事実上ひとつしかない事もあり、家というより部屋に近い認識なのに違いない。だから「よそのひとは泊められない」のだ。たとえどんなに親しくとも。  それを朋也は知っていた。だからこそ汐の『泊まれ』発言に仰天したのはむしろあたりまえだった。相手がことみである以前にまずそれに驚いた。 「汐……おまえ今」  なんて言ったんだ、と朋也が聞こうとしたがその前に汐はことみの服を裾を掴み、こう言った。 「ムサクルシイトコロデスガ、ヨロシケレバドウゾ」  ものすごく棒読みだった。どうやら意味がよくわかってないらしい。 「汐。おまえそんな言葉どこで覚えたんだ……ってことみ?」  ことみは朋也に『心配ない』と微笑むと汐の手をとり、うやうやしくおじぎをした。そして、 「はい、よろしくお願いしますなの」  そう言ったのだ。  さて、そうなるとおいてけぼりの朋也が黙ってはいない。一瞬『ぽかーん』状態だったのだがやがてハッと我に返ると、 「ま、まてまてまてまてちょっと待てことみっ!」  遅まきながら朋也も事の次第に気づいた。汐の行動も驚きだがそれ以前に大事だった。なにしろこの部屋には渚とその母である早苗以外、大人の女性が泊まったことなど一度たりとてないのだ。あたりまえの話だが。  もちろん、非常に打ち解けたとはいえことみと朋也もそういう関係ではない。 「汐ちゃんの許可はいただいたの。朋也くんとおやすみするのはえっと……たぶん十五年ぶりくらいなの。とっても楽しみ」  ことみはとても嬉しそうだった。子供のようにニコニコ笑い夢みるように頬を染めた。 「えー、いっしょにねたことあるの?パパと?」 「うん、お昼寝だけど。汐ちゃんくらいの時かな」  汐と楽しそうに昔話なんかはじめちゃったりしている。 「っておいっ!待てってのにことみっ!」  朋也は大慌てでことみの肩を掴み、自分の方に向かせた。 「どうしたの朋也くん」 「おまえ、この狭い部屋に泊まるって意味わかってんのか?布団はあるが、三人で寝ようとしたらくっつけて寝るしかないんだぞ?」 「わたしはかまわないの。……朋也くんが、わたしなんか嫌だって言うなら帰るけど」 「う」  そう言われると朋也は何もいえなかった。  なにより、朋也は背後から無言のプレッシャーを感じていた。汐だ。振り返る必要もないほどあからさまに、どうしてそんな事言うのいいじゃない泊まるくらいパパのけちんぼーと言わんばかりの視線が朋也の背中にビシバシ叩きつけられていた。  そも、ひとり娘を敵にまわして勝てる子煩悩パパなぞ存在するわけがない。ことみと汐に前後から挟まれ、朋也は頭を抱えた。 「ダメ?」 「かまわないが……本当にいいのか?」 「問題ないの」  ことみはそう言って、にっこりと頷いた。朋也はその笑顔を見て腹をくくったのか、『そうか』とそれだけ言った。 「じゃ、テーブル片付けるか。汐、幼稚園の先生に渡されたものはないか?」 「ない」  いつもなら杏の名前を出す朋也だが幼稚園の先生と言った。それは微妙な心境の変化を意味したが突っ込む者はこの場には誰もいない。 「よし、じゃあそっちはいいな。ことみ、そっちの箪笥に渚の使ってた服がある。下から二番めにパジャマがある。パジャマならある程度フリーサイズだから何とかなるかもしれん。着られそうなの探してみてくれ」 「わかったの」  胸のサイズ等を考えると朋也のものが一番なのだが、自分で自分を窮地に追い込む趣味は朋也にはなかった。渚の服を着ろというのは失礼にあたるのではないかと思った朋也だが客人用のパジャマなどここにはないし、自分のものを着ろというよりはマシだろうと思ったのも事実だ。  対することみは気にした様子もなく、言われた引出しを開けて中をあれこれ見はじめた。それを横目で見つつ朋也はテーブルを畳み部屋の隅に置いた。細かいごみをさっさと片付け、軽く床を掃いてから押し入れに手をかけ、 「あ〜そういやことみ、風呂入ったのかおま……!」  おまえ、と言いかけて朋也はあわてて口を塞いだ。自分の失言に気づいたからだがしかしもう遅い。 「あ、お風呂」  ことみも言われて気づいたらしい。少し困った顔をした。入りたいけどわがままは言えない、そんな顔だった。  しかし朋也がフォローに入るより前に汐が反応した。しかも朋也にとっては最悪の形で。 「わいてる。わたしはさきに入った。パパはことみちゃんまってて入ってない」 「あ、そうなんだ」  だから、と前置きして汐は言った。 「ふたりで入ればいい。テレビ見て待ってる」 「ことみ、先に入ってくれ」 「ううん、朋也くんが先なの」 「は?いやおまえお客さんだし」 「気遣い無用なの。朋也くんが先」  またもや譲らぬふたりだった。  こういう光景にももはや慣れっこなのだろう。汐はひとりで押し入れを開け自分の布団に手をかけながら言った。 「パパ、いじっぱり。いっしょに入ればいいのに」 「な、お、おおおい汐っ!」  五歳の娘に突っ込まれ大慌てする朋也。かなり情けない。 「……」  対することみはさすがに真っ赤になった。だが朋也よりは肝が座っているらしく、汐の顔を見て無言でこっくりと頷いた。そして、 「汐ちゃんにも一理あるの。このままふたり別々に入ったら間違いなく午前様だし、汐ちゃんをこれ以上遅くまで起こしておくのも感心できないの」 「確かに、それはそうだが」 「入ろ。朋也くん」  満面の笑みを浮かべ朋也の手をとり、ことみはそう言った。 [#改ページ] 『終章・川の字(3) お風呂』[#「 『終章・川の字(3) お風呂』」は中見出し]  あたりまえの話なのだが、たった五歳の汐に男と女のあれこれを理解しろという方が無理な話である。  汐にとってことみはかなり特異な存在にあたる。父をこわいひとから優しいパパに変えた存在だからだ。自分とパパだけでなく、もういないママのことも大切にしてくれる存在でもある。風子と違って友達のカテゴリではなく、杏のように『せんせー』でもない。もちろん早苗やあっきーとも違う。ことみはことみでありそれ以外ではない。  仮にことみが『ママのかわりになりたい』なんて言ったりパパが『あたらしいママほしくないか』なんて言ってたら汐はたちまち拒絶したろう。だがふたりともそうしなかった。ことみは子供の頃に父母を失っているわけで、だから汐にとってのママが特別であることも理解できた。そして朋也にとっての渚の大きさもよく知っていたのだ。  朋也は朋也で、渚よりことみが好きかと言われると返答に困ったろう。確かに好きなのだけど渚を忘れられるわけがない。もっと歳老いていれば割り切れたろうが、所詮二十代なんて十代の続きでしかないのだ。まだ若さをひきずりすぎているし|狡《ずる》さを学ぶにも少し早い。だから『解答不能』のままずるずるとふたりは『朋也くんとことみちゃん』を続けていた。  しかし、そんな微妙さが汐に理解できるわけがない。汐にしてみれば『パパとことみちゃんはとってもなかよし』なんて確定事項だし『ことみちゃんは、パパのそばにいてもかまわない』存在なわけで、だからお風呂くらい一緒に入って当然という頭しかなかった。何が悲しくてわざわざ別々に入るのか。一緒に入れば楽しいだろうというわけだ。  ちなみに三人で入るという選択肢はなかった。岡崎家の風呂は三人にはちと狭すぎるからだ。そもそもこの風呂はひとりが湯舟、ひとりがかけ場にあってはじめてふたりで入れる程度の広さでしかない。ふたりでかけ場に並ぼうものなら大密着大会になってしまうのである。  とにかく『なかよしなんだから素直に認めなさい』と小さな娘に風呂に叩き込まれたふたりだったが当然ながら恥ずかしさ全開だった。特に朋也はガチガチに硬直したものを隠そうと必死だったのだが、並んでかけ場に座ったものだから本当にぴたりと密着してしまった。で、ことみがちょっと身動きをとろうしたはずみでタオルがぽろりととれてしまったのだが、密着しているから直すこともできないままタオルは完全に外れてしまった。当然朋也も同様なわけで、ふたりしてすっぽんぽんで真っ赤になって並び座っている姿はかなり間抜けな光景ではあった。  どちらかが湯舟に浸かればいいのだが、タオルが外れているものだからどちらも立てなくなってしまっていた。 「……ふう」  しかしここでも覚悟を決めたのはことみだった。真っ赤になりつつ「うん」と頷くと朋也に顔を向けた。 「朋也くん」 「な、なんだ?」 「このままじゃ埓があかないの。とりあえずかけ湯して浸かるの」 「ちょ、ま、まて!」  当然だが朋也は焦った。そんな事されたら隠すものも隠せないばかりかそれ以前に理性も保てないからだ。  だがことみの言動はそんな朋也のさらに斜め上をいっていた。 「もしかして、がまんできないの?」 「!?」  ずばり言い当てられて二の句が継げない朋也にさらに追い撃ちをかけた。 「いいよ。朋也くんならかまわないと思ったからそのまま入ったんだもの」  それはそうだろう。いくらなんでもことみは女だ、わざと汐の策に乗ったに違いない。  あわれ、逃げ場を完全になくした朋也はパニックに陥っている。 「い、いや、まてことみそれはその」  困りはてて錯乱ぎみの朋也にことみは笑った。 「ほら朋也くん。脚あげてこっちむいて。ほら」  言うまでもないがことみは処女である。しかし科学者としての目がある。哺乳類の交尾一般なら何度か見た事があったから、そうした事から朋也を落ち着かせるには自分から動いてあげるのが一番だろうと冷静に判断したまでのことだった。 「ぅお」 「ふふ。朋也くん女の子みたい」  そうして、狭い風呂場で最初の秘め事がはじまることになった。   「……」  風呂場からお湯の音と小さな苦悶、そして押し殺されたあえぎ声が聞こえている。 「……」  そこには爆睡中の汐がいる。ふたりがイチャイチャとくっつくのを確認したところで意識が落ちたのだろう。大仕事を終えたような満足げな笑顔がそこにあった。  まぁ、この歳でお風呂えっちシーンなんて聞く羽目にならずにすんだのは幸か不幸か。寝相が激しく悪いがこれは二十分後に風呂場から出てきたふたりに綺麗に直される事になるから問題あるまい。今は手足をぽーんと投げだし幸せそうに寝ているので十分だろう。  どんな夢を見ているのか。おそらくは三人でどこかに行っている夢だろう。たべる、とかママはこっち、とかいうつぶやきも聞こえるから、渚の遺影と四人でお弁当を食べているシーンではないかと思われた。  ふとその部屋の中に、ひとつの光が舞い降りた。 「…」  それは汐を包んだ。光の向こうにはぼんやりと誰かのシルエットが見えた。シルエットは汐の頬を優しくなで微笑んだ。そしてその口がゆっくりと動いた。 『ごくろうさま、しおちゃん』そう言っているようだった。  そしてそのシルエットは、だんご♪たんご♪とやさしく、やさしく歌い続けていた。 [#改ページ] 『終章・川の字(4) 結話(けつわ)』[#「 『終章・川の字(4) 結話(けつわ)』」は中見出し]  世界はひとつではない。  それは多くの科学者が推測し述べた事であり、決して絵物語ではなかった。愛する娘に|超弦理論《ちょうげんりろん》に由来する名をつけた一ノ瀬夫妻もそうで、彼らはこの世界が生まれる時に別れた異世界の行方を探し突き止めたと言われる。残念ながらその理論は発表される事なくふたりはこの世を去ってしまったが、残された娘も理論物理学の道に進みあまつさえ名を馳せつつある。このため一時はその難解さからトンデモに近い扱いすらうけた超弦理論も次第に趣きを変えつつあり、かつては同理論を批判していた学者もこれを用いて論文を書くまでになった。1980年代に発表されて以来浮き沈みの激しかった超弦理論だが、ここ数十年のうちに革命的進歩を遂げる可能性も指摘されている。  ことみとは琴の弦が奏でる調べの事。超弦理論で言う『振動』つまり世界のなれそめがすなわち彼女の名である。父母の道に進むのかそれとも別の側面から真実に迫るのか。そのあたりは未だ未知のベールに包まれてはいるのだが。  とはいえ、ここ数日のことみにはそんな事よりもっと大切なことがあった。朋也とその娘との関係だ。ずっとひとりぼっちだったことみだがもはや孤独ではなくなった。今はまだそれがことみの『一ノ瀬博士』としての面に影響を与えてはいないのだが、いずれ全ては変わり出すだろう。  この短い物語も、ようやく終わりを迎えようとしていた。    やっと綺麗になってきた花壇に、色とりどりの花が植えられていた。  大きな手と小さな手。さっさと仕事を進める手と、たどたどしくそれを追いかける手だった。もう随分と作業が進んでいるのかふたりの移動した後にはさまざまな花が咲き乱れる。手入れのすんだばかりの芝生から水分と草の匂いがたちのぼり、わずかな風がそれをとりまきやわらかな空間を形作っていた。 「汐、もう休んでていいんだぞ」 「やだ」  意地でもパパと一緒にやると言いたいらしい。その母親そっくりの顔に朋也は懐かしいような、さびしいような顔をした。 「そっか。じゃあ汐、ちょっとお願いあるんだけどいいか」 「なに?」 「ことみにお昼まだって聞いてきてくれるか?」 「うん、わかった」  汐は神妙な頷くと、トテトテと古ぼけた家に向かって歩いていった。 「先に手を洗うんだぞ!」 「うん!」  いちいち振り向いて答える。そのしぐさまでいちいち母親に似ている。朋也はためいきをつくとまた庭に目を戻した。 「さぁて、今のうちに草刈り機使うか。あれ動かすと自分にやらせろってうるさいからな汐は」  あれはさすがに六歳児にはあぶないからな…そう言うと朋也は、愉快そうにニヤニヤ笑うのだった。    庭に面した大窓から入ると、そこは古びた洋風の応接間である。  かつて、まだ小さな子供だったことみと朋也の出会った場所。そこに汐はあがりこみ、とてとてと歩いていく。埃こそ綺麗に掃除されているが長い年月に晒された広間はいい具合にくたびれていて、まだどこかさびしそうに見える。  だがそんな感傷など汐には関係ない。ことみと朋也がどんな気持ちでそこを見ているかなんて彼女には意味がない。汐にとっては『おっきくて古いおうち』でしかないからだ。  もしも少しだけ、時が違っていたらどうなったろう?たとえばことみと朋也が結婚し、その娘として汐が生まれていたのなら?あるいは渚が存命で、朋也の友人宅としてここを訪れていたならば?  いや、それこそ詮ない事だろう。ことみの娘なら汐は汐ではないし、渚が存命ならそもそもこの家はことみの手には戻らなかった。それどころか朋也は「ことみちゃん」を思い出す事もなくきっと、岡崎家と古河家のふたつを中心に汐の世界も構成されていたに違いないのだから。運命とは得てしてそういうもので『完璧』はありえない。何かを得るためには何かが犠牲になる。そういう事なのだろう。  少なくともこの世界では『一ノ瀬ことみ』は救われた。せめてそれだけでも喜ぶべきなのだろう。 「ことみちゃーん」  廊下出つつ汐は叫んだ。しかし返事を期待しているわけではないようで、そのまま薄暗い廊下を歩いて台所へ向かっていった。 「ん、どうしたの汐ちゃん?」  果たして、台所には割烹着姿でスカーフをしたことみの姿があった。  建物の他の箇所がボロボロもいいところなのに、台所だけは傷み具合がとても少なかった。少なくとも数年前まではきっちりと手入れがなされていた事が伺える。実際、書斎と寝室それにここは高校時代までことみの生活空間だったわけで、どの道具もきちんと手入れが施され使用される日を待ち構えていた。なんならおせち料理フルセットだって作れるの、とは自慢げなことみの談。実際、裏ごし器ひとつまでしっかり馬の毛が使われている懲りようだった。 「あのね、ことみちゃん。お昼まぁだってパパが」 「えっとね、もう少しなの」  そのひとことで、朋也の深意までなんとなく察してしまうことみ。本来あまり気がきくタイプではないのだがそこはそれ、頭の回転の早さで補っているようだ。  実際、ことみはクスクス笑うと戸棚に手を伸ばした。 「汐ちゃん手伝ってくれる?おなかペコペコのパパのために」 「うん、てつだう!」  汐は満面の笑みを浮かべてにっこりと笑った。    少し時間を戻そう。  ことみと朋也は汐と古河家の勧めもあり、一緒に住むことになった。  ただことみの強い意志から正式の婚儀は棚上げされている。法的には内縁の妻という事になるがこれでもいくばくかの保証は受けられる。実際、朋也はこれにより会社から少し補助がもらえる事になった。  それは、ことみなりの汐への気遣いだった。  汐がどれだけ無き母を慕っているかをことみは知っていた。そして幼くして両親を無くしたことみはその思いを大切にしてあげたかった。家庭のぬくもりはあげたい。でも汐の『おかあさん』を自分の存在が壊してしまうのは避けたい。少なくとも汐がそれを望むまでは……そうことみは言った。朋也どころか古河の両親にまで勧められたのに絶対に首を縦にふらず、汐ちゃんが大きくなるまではこのままでいいの、と言いきったのだった。  そしてそれは数年後、小学校の作文に『ふたりのママ』について汐が書く事でひと騒動の原因となったり、ことみの影響を受けた汐が勉強にも意欲を見せ朋也が驚くほどの優秀な子に変貌していく原因ともなるのだが……それはまぁいい。とにかく三人は今、この家に住みはじめているのだった。  もっとも、とある筋が買い戻してくれたとはいえ長い間の無人状態で一ノ瀬邸はあまりにもぼろぼろだった。とりあえずアパートなみの広さの居住空間を用意してまずそこから作業を開始。ことみの元寝室と両親の書斎、台所をキープしたところで本格的にことみも朋也もアパートやマンションを思いきって引き払い、こちらに転居してくる事になった。  だがことみはともかく朋也の場合、渚の思い出の染み着いたアパートを引き払うのは並大抵ではない思いがあった。ことみと汐に先に行かせると朋也は、渚の遺影とふたりでアパートに残った。  その時は、そう…こんな感じだった。   「なぁ、渚」  何もなくなったアパートの部屋。渚の遺影と向かいあい、朋也はつぶやいた。  もともと古かったアパートはここ数年でさらに古びてしまっていた。本当に安いアパートで畳の手入れなんかは現状渡しであり、あまり多くなかった家具がなくなった部分だけがいくらか新しさを残している。その色の違いこそがここで重ねた歳月そのものであり、過ぎた時間を物語っている。一応礼儀ということで汐がぶち抜いてしまった障子だけが綺麗に張り替えてあったが、それが新しすぎて少し浮いてもいた。  静かな空間に西陽があたる。渚もあの頃こうして待っていたんだろうか、と朋也はふとそんな事も考えた。 「ここに来た日、おぼえてるか?後から考えればママゴトみたいな引っ越しだったけど、早苗さんもおっさんも何も言わずに俺たちを送り出してくれたよな」  そう言うと、朋也は悲しそうな顔で何もない部屋の中を見回した。 「だんご大家族も連れて行っちまったけど、いいよな?おまえも一緒だから……けど、けどよ」  誰もいなくなったせいだろうか。朋也の目は涙で潤んでいた。 「俺、あたりまえだけどさ、あの日……こんな結末が来るなんて考えもしなかったからさ。なんていうか」  そうつぶやくと顔を伏せた。ぽろりと涙がこぼれた。 「ひどいよな俺。渚のことだって忘れてないのに、昔泣かせた女の子に手を引いてもらってやっと立ち直って、ちゃっかり昔のこと思い出したりしてさ。  ことみが籍入れようとしないのもわかるよ。ほんとはさ、俺がちゃんとしないといけないのに。ことみを新しいお母さんだって汐に紹介して納得させなきゃいけないのにそれができないんだ。このままでいいわけがないのに、そんな簡単なことすらも俺はできないんだよ渚。  なぁ渚。  俺、ことみが好きだ。たぶんこれは間違いない。渚を忘れたわけじゃないのに、でもたしかにことみが好きなんだ。一緒にいたいと思う。  なのに、俺はことみを昔よりもっと不幸にしようとしてるんだ。こんなことって」 「アホ」 「!?」  と、だしぬけに響いた声に朋也は驚き振り向いた。 「おっさんか」  そこには、古河秋生の姿があった。 「引っ越しぐらい手伝うつもりだったんだが……遅かったらしいな。まぁ新居の方は早苗が手伝いに行ってるから大目にみろや」  そう言っているわりに秋生は悪びれた様子もなかった。それに視線が何かいつもと違うようにも朋也には見えた。  だから朋也も答えた。 「あの場所に行ってたのか」 「まぁな。すまん」 「いや、いい。そういう事なら」  秋生は頷くと部屋にあがりこみ、朋也同様に渚の遺影に向かい座った。  ちなみに『あの場所』とは渚の過去に由来するふたりだけの秘密の場所だった。ふたりだけしかそれを知らず、その顛末も知らない。渚の父が渚の夫にだけ教えた。そういう場所だった。  その渚を思い出にしていこうとしている元夫の前で、秋生は渚の写真を感慨深げに眺めた。 「知ってるかおまえ」 「え?」  秋生はタバコに火をつけながらつぶやいた。 「ことみちゃんな、俺と早苗に『私、渚さんの妹になっていいですか』って言ってたぞ」 「……」 「一ノ瀬夫妻のことは俺より元教員の早苗が詳しいんだ。早苗も直接の面識はなかったらしいけど、この町から世界的な偉い学者が出たってことでよく覚えてたらしい。いろいろ聞かされたよ。なんでも、物理学って学問自体を根こそぎひっくりかえすようなとんでもねえ理論を研究してたらしい。  早苗のやつ、ひとり娘のことも少し覚えててな。そう、貴女があの…って、微笑んで言ってたっけか」 「そっか」 「けど、そんなご両親を早くになくしちまってよ、とてもさびしい子供時代を過ごしたらしいな。正直なとこ、話聞いてて俺はおまえをブン殴りたくなったぞ。まぁ渚の親としちゃそうもいかねえが」  そう言うと、ポケットから出した携帯灰皿にたばこを潰して仕舞い込んだ。 「幸せにしてやれ、朋也」 「……」 「あれは昔のおまえ以上に家族って奴に飢えてる。だからこそ汐をああも可愛がるし、一緒に過ごせる事こそ第一義だから正式な妻の座なんてのもどうでもいい。そしておまえや汐と一緒に暮らせて先妻の両親である俺と早苗まで実の親同然に慕ってくれる。わかるだろ朋也、おまえならその意味が」 「ああ」  秋生の言葉に朋也も頷いた。 「あの子なら俺も早苗もなんの文句もねえ。たぶん渚もそう言うだろうよ。おまえと好き合う女ならまだ今後も出るかもしれないが、汐も、ましてや俺たちまで全部ひっくるめてなんて存在は早々現れねえだろう。その意味であの子は得がたい存在だ。特に汐とおまえにはな」 「……あんたもだろ、変態親父」 「あぁ?」  ちろりと流し目をする朋也に、秋生は怪訝そうな顔をした。 「ぁんだよ」 「あのな。汐ならまだしも|三十路《みそじ》近い女に『あっきー』なんて呼ばせるか普通?はっきりいって今度ばかりは常識疑ったぞ俺」 「ああ、そのことか」  しかし、言葉を継ごうとする秋生を朋也は遮った。 「ま、さすがのあんたも半分冗談で言わせたんだろうけどな。あいつそういうとこ信じらんねえくらい素直なんだから、渚もそう呼んでたなんて嘘教えるなよ」 「いや……それは俺も早苗に言われてすぐ訂正したんだが」  ぶす、と困ったような顔で秋生はつぶやいた。朋也はそんな秋生を見てためいきをつき、 「だろうな。でも気に入っちゃって『あっきー』連呼したんだろことみのやつ」 「なんだ、そこまで聞いてたのかよ」 「いんや何も。ただ、ことみが妙に楽しそうに『あっきー』呼ばわりするからな」 「……いやその……さすがにあれはな」  人前でも散々やられたのだろう。困ったように額をぽりぽり掻いた。 「はぁ」  朋也は笑った。涙のあとが残っていたから、見事な泣き笑いの顔だった。  男ふたり。何もなくなったアパートでもういない女の遺影の前。それはあまりに格好悪い姿だった。少なくとも昔の朋也なら他人相手に絶対見せるような姿ではなかった。 『……』  渚の写真が、ふたりに向かって微笑んでいるように見えた。  どこからか、誰かが歌う『だんご大家族』が微かに聞こえていた。 [#改ページ] 『最終章・世界はひとつではない』[#「 『最終章・世界はひとつではない』」は中見出し]  さて、この短い物語の最後に、少し不思議なお話をしよう。  晴れて一緒に暮らしはじめたことみと朋也くん。汐のこと、渚のこと、なにもかもが昔とは違うけど、それでもふたりは歩きはじめた。ことみの凍り付いていた歯車は動き出し、朋也の止まっていた時計も時を刻みはじめる。汐もその間ですくすくと育ち、まもなく小学校への入学が決定している。  そんなある日。ことみは駅から自宅への道を歩いていた。 「ふう。すっかり遅くなったの」  すっかり夜になっていた。もう春も近く、寒いには寒いが歩くにはむしろ心地よい。どこかから花の香りがする。  月が真円を描いていた。見事なまでの満月の夜だった。 「あれ?」  ふとことみは、前方に立っている女の子の人影に気づいた。  懐かしい制服を着ていた。自分が着ていたのと同じ色で、今はもう廃止されたはずのものだった。こちらに向いて微笑み立っている。とても優しい目線で、間違いなくことみをまっすぐ見つめている。  心の琴線が、大きく震えた。 「あ」  ことみの歩みが止まった。  女の子はゆっくりとことみに近付いてきた。ことみよりいくぶん背が低く、いくぶん幼児体型でもあった。髪は長くなく、前髪に癖があるのかまとめきれない前髪の一部が少し立っている。きっと風に吹かれて乱れたのだろうとことみは思った。彼女の写真はそのほとんどで前髪のその部分がピンと立っていた。それくらい前髪に癖があったわけだ。  それでもパーマなどで直そうとしないあたり、本人も少しだけそれが気に入っていると思われた。 「こんばんわ。ことみちゃん」  女の子はにっこりと、ことみに笑いかけた。 「あなたはだあれ?」  誰かはわかっているのに、そうことみは問いかけた。 「わたし、ですか?そうですね。ことみちゃんを困らせる悪の演劇部長ということで」 「……いじめる?」 「いえ、いじめません」  第三者にはいささか珍妙な挨拶だった。だがふたりにはそれでいいようだった。 「不思議。ほんもの?」  つい、科学者的思考なのかぺたぺたと触ってしまうことみ。しかし女の子は微笑むだけだ。  そして女の子は、そんなことみに逆に問いかけた。 「えっとですね。ことみちゃん、で間違いないですよね?」 「はい?」  女の子のちょっと困ったような問いかけに、ことみは首をかしげた。 「実はですね。わたしの知ることみちゃんより、今わたしがお話していることみちゃんはその…少し年上のようなんです。でも確かにことみちゃんなので、ちょっと不思議で」 「……あぁ」  なるほど、とことみは納得した。いささか附におちない部分も多々あるようだったが。 「それは大変。渚ちゃん迷子なの」 「え?そ、そうなんですか?」  まるで子供のようにあわてだす渚に、ことみはクスッと笑った。 「きっと心配ないの。この邂逅は本来ありえないものだから」 「はぁ。そうですか」  そうなの、とことみは頷いた。 「渚さ…渚ちゃんの知ってる私は、どんなひと?」 「えっと……そうですね。本人の前で言うのも変な感じですけど」  渚はたどたどしく自分の知る『一ノ瀬ことみ』について説明しはじめた。 「ことみちゃんは今、演劇部の部員さんという事になってます。まぁ名ばかりの、楽しくおしゃべりしたり一緒に遊んだりする団体と化してますが。杏ちゃんや椋ちゃん、それに岡崎さんと五人で」 「……椋ちゃん……朋也くんも?」  杏と少し親交の始まっていたことみだったが、妹の椋は挨拶した事くらいしかなかった。 「もともと、岡崎さんがことみちゃんのために自分の知り合いを集めたっていうのが最初だと思います。たちまち仲良しになっちゃってそんなことどうでもよくなりましたけど。今はことみちゃんが輪の中心にいますね。岡崎さんはことみちゃんの彼氏なのでちょっと特別ですが」 「……そう」  嬉しさ半分、申し訳なさ半分でことみは顔を曇らせた。 「ことみちゃ……って、どう見ても年上なのにことみちゃんって呼ぶのは失礼ですね」 「ううん、いいの。ことみちゃんで」 「あ、そうですか。すみません」  律義に頭を下げると、渚は言葉を続けた。 「今度はことみちゃんの知っているわたしが知りたいです。わたしはどうしてますか?」 「……渚ちゃんは朋也くんと結婚したの」 「はぁ。岡崎さんと……ってえぇっ!!」  結婚という言葉に途中で気づいたのか、渚は真っ赤になってあわてだした。 「わ、わわわわわたしなんかが岡崎さんと、ですか!?」  そんなに驚く事なのかな、と思いことみは首をかしげた。 「子供もいるの。いろいろあってわたしも仲良しなの。とても可愛いの」  それで名前はね、と言いかけたことみだった。だがそこでふと態度をこわばらせてしまった。あまり言うと別人とはいえ、当の渚に『こちらのあなたはもう亡くなってます』なんて言う羽目になりかねないからだった。  もっとも、こっちに渚が『もういない』からこそこの邂逅が成立しているのではないか、とも科学者としてのことみは仮定していたりもした。同じ場所に同じ人物がふたりいるというパラドックスはあまり喜ばしいものではなかったから。  そんなことみに気づいているのかいないのか、渚は複雑そうな顔で笑った。そして 「そうですか。しおちゃん可愛いですか。見てみたいですね」  そんなことを言った。 「!?」  はたして、その言葉はことみをひどく驚かせた。知るはずのない汐の呼び名を渚がつぶやいたからだった。 「……どうして汐ちゃんの名前を知ってるの?」  当然だがことみはそう渚に問いかけた。半面渚は、 「あ、やっぱりしおちゃんってつけたんですね。いえ、昔から子供ができたらそうつけようって内心思っていたものですから。あくまで夢ですけど」  そう、やたらと嬉しそうに笑った。  その笑顔はことみには少し眩しすぎた。渚の最後を聞いていることみには、とても直視できそうにないものだった。 「そうなの」  たったそれだけ、ことみはやっとのことで答えた。  そんなことみを見て渚は何か考えているようだった。そして何か決めたように顔をあげた。 「さて、ではわたしはそろそろ行きます」 「帰るの?大丈夫?」 「はい」  渚はにっこりと笑った。 「実はわたし、知ってるかもしれませんけど病気がちなんです。あまりウロウロしているとお父さんやお母さんに心配かけてしまいます」 「そう。気をつけてね」 「はい、ことみちゃんも」  できれば、早く話を打ち切りたいとことみは思った。いらぬ事を言い傷つけるかもしれないから。 「……」  渚はというと、そんなことみを優しい目で見ていた。まるで全てを知っているかのような、そんな微笑みで。  そして渚は微笑み、ことみの頭をなでた。 「……渚ちゃん?」  さすがに怪訝そうな顔でことみが眉をしかめると、 「…とも…岡崎さんとしおちゃんのこと、よろしくお願いしますね」 「!!」  そして顔色を変えたことみが何か言いかける前に、 「それじゃ」  たったそれだけをいい残して、渚は消えてしまった。 「…」    ことみはしばらく、呆然としたまま立ちすくんでいた。 「どうして?」  ことみの分析では、それこそありえない事だった。  どういう原理で渚が訪れていたのかは知らない。確かに触れた手に手応えがあり髪には重量感すらあった。ことみの知覚が狂って幻覚を見ているのでなければ、それは確かに渚だったのだ。  消えたことがおかしいのではない。そんな事より、なぜ『こちらの渚がもう生きてない事を彼女が知っているのか』。そちらの方がはるかに異常事態だった。  渚が何かの現象により『たまたま』来訪したのならそんな事知っている可能性は低いはずだ。そして、たとえ彼女の世界になにかしらの方法で異世界を訪れる手段があったとしても、こちらの事情をきちんと把握するためには何度となく来訪しなければならないはずだし、そんな事をすればこの狭い町のこと。死んだはずの女の子が古い制服姿でうろうろしていれば当然話題になるだろう。情報を集めるためには誰かに聞かなくてはならないわけだし渚の知人はあまり多くなかったと聞いている。つまり彼女が動けば話題になっている可能性が高いのだ。  しかし、そんな話聞いたこともない。 「もしかして」  ことみは、両親が発表しようとして結局幻と消えた論文のことを思い出した。 「もしかして、あの世界の…?」  ことみはまさかと思った。しかし、小さいながらも確かに可能性があるのも事実だった。  この町にこだわり、この町でことみを育てようとした両親。その両親が発表しようとしていた論文についての話。  そして、聞いたこともない不思議な現象で来訪してきた、この世界の者でない古河渚。 「……」  ごくりと、ことみは唾を飲みこんだ。そして空を見上げ、きゅっと唇を結んだ。 「……追いつけるかも」  それはことみの遠い夢。父母の発表できなかった論文を自分の手で完成させる……そんな、そんな遠い夢。 「追いつけるかもしれない」  もういちど、ことみは繰り返した。いつしか握りしめた手に汗が滲んだ。  とりあえず帰らなくては。そう思いことみが歩きだそうとしたまさにその時、 「やっほー。ことみ!」 「杏ちゃん」 「ごふっ」  見れば、そこには妹所有の軽ワゴンから顔を出した杏の姿が。なぜかボタンも伴っていた。 「ボタンちゃん、こんばんわなの」 「ごふっ」  ボタンはご機嫌そうにあいさつを返した。 「乗りなさいよことみ。送ってってあげるから」 「え、でも」  遠慮することみに杏はけらけらと笑って言葉をつないだ。 「いいのいいの。あんたんちに殴り込みかける途中なんだからむしろありがたいくらいよ。まさか、あんたの留守中に汐ちゃんはともかく朋也んとこに押しかけるわけにゃいかないもの」  見れば後部座席には重箱がある。中身は料理だろうか。 「この間あんたんちで食べさせて貰ったでしょ?あれの反撃」  ようするに、味で敗北したのでリターンマッチを狙ってきたらしい。 「いつまでもあんたに負けてらんないもんね。一ノ瀬博士」  おどけてわざと博士の名で呼ぶ杏にことみも微笑む。 「受けてたつの。愛するひとのためのお料理だもの。簡単に負けるつもりはないの」 「はぁ…言ってくれるわこの子。いいわ乗りなさい!」 「わかったの」     一ノ瀬ことみを主軸にした短い物語は、これで終わりである。  彼女が結局朋也とどうなったのか。一ノ瀬ことみでなく岡崎ことみになれたのか。この物語ではそれを語らない。汐の元に現れた光と渚との邂逅が何を意味するのか、それも語られる事はない。前者は未来のことであり未だ確定してはいない。後者に至っては重要ではないしそも、これから生涯の全てまたはいくばくかを賭けて当のことみが挑む問題でもある。それが単なる並行世界なのか、それとも超弦理論の示すところの高次の忘れられた世界のひとつなのか。それは未来の、あるいは他の誰かの手に委ねる事となろう。  そして、確かに今はそんなことどうでもいいのだ。なぜなら、 「パパ」 「ん?」 「ことみちゃん」 「なぁに?汐ちゃん」 「……なんでもない」 「???」  左右に並ぶふたりを見て満足げに笑う、汐の笑顔こそがその解答なのだろうから。     (おわり)