ひとり hachikun 初恋、小桃  人肌の湿った暖かさが、老朽化したあずまやの寝床を包んでいた。  夏というにはまだ早い。涼しさを伴う風が吹いていたが、あずまやの中にいる少年は暑そうに汗をかきほとんど全裸。よく灼けた褐色の肌にさっきから、若い女の手による団扇の作る風がソヨと当たっていた。  崩れかけたあずまや自体にも冷めた湿気はあったものの、その熱っぽく湿った空気はそれとは少し違っていた。 「……暑い」  その少年のつぶやきに、くすくすという女の笑いが重なった。 「なんだよ」 「なんでもないよ。稔ちゃんは元気だねって」  お姉さん風を盛大に吹かせた言葉ではあるが、それは愛しさと憧憬に満ちみちてもいた。少年はそれに気づいているのかいないのか、ふらふらと頭をふりながら起き上がろうとした。  が、女の優しい手がそれを押さえる。 「だめだよ稔ちゃん。もう少し寝てなさい。……はぁ。それにしても何か食べたいね。おなかすいた」 「大福」  即答する少年に、またも笑う女。 「ほんっとに稔ちゃんは好きだよね。私も大福好きだけど稔ちゃんにはかなわないわ。……ん。わかった。作ったげる」  優しい声に優しい手。優しい風。それが少年をゆっくりとなでた。少年はその声に包まれ、ウトウトとふたたび眠りに落ちていった。  遠くから、雷鳴が低く響いていた。       「稔!」 「!」  稔の目は唐突に醒めた。  居間のテーブルだった。どうやらそこで眠ったようだった。母親が作ったらしいパン主体の簡単な朝食が並び、外からは小鳥の声も聞こえていた。 「どうしたの稔。なんだか疲れてるみたいだからそのままにしてあげてたんだけど──」  母親が不安げに眉を寄せていた。どうやら、どんなに音をたてても稔が起きないので心配になったらしい。 「あぁ、なんでもない」  そう言うと稔は立ち上がった。 「そう?どこか調子悪いんじゃない?顔色も悪いし」 「問題ない。心配かけてごめんね。着替えてくる」  母親の視線を振り切り、リビングを出た。  べったりとついた汗が不快だった。眠ったはずなのに全身に湿った疲労感がまとわりつく。まるでそれは稔に、あの夢の時間から突然にこの世界に放り出されたような惨めな気持ちを与えるのだった。 「……シャワーか」  惰性で部屋に入り着替えをとり、出た。  部屋にいる間に杏の足音を聞いたが部屋を出た時にはもういなかった。気をきかせて居間に行ったのだろう。  妹の気遣いが今は悲しい。真正面からぶつかってくれたなら、少しはこんな気持ちも晴れるかもしれないのに。 「は」  それこそ馬鹿だ、と稔は自嘲する。  妹は妹、都合のいい時の道具じゃない。だいたい兄貴が妹に甘えてどうするんだ。  ……甘えて、どうすんだ。甘えるのは下が上にする事であって、 「……」  ココロが砕けそうな気がした。  脱衣場に着替えを置いた。服を脱ぎ、風呂場に入った。  シャワーの温度をあげ全開にした。いつもより熱いが、つらいほどじゃなかった。  ……いくら熱くても、凍えた心は温まらない。 「……先輩……ねえちゃん……」  言えない言葉がこぼれた。        授業が終わると稔は抜け出し、あの丘に登った。  空は晴れ渡り、風が吹いていた。あの花はつぼみも見えない。今はまだ季節が違っていた。  眼下に広がる街も、少し寒そうだった。 「……」  老人のようだと、稔は苦笑した。 「……だけど」  待ってて、という声を覚えている。  義姉であり先輩であり、愛しいあのひとの言葉。  時を越え、生まれ変わってまで逢いにきてくれたひとの言葉。 「……待つさ」  俺は待つんだ、あのひとは帰ってくると言ったんだから。  そう、稔はつぶやいた。        数ヶ月後、稔は志望を教育学部に変更した。  合格レベルに至る以前の成績で、その瞬間に一浪が決まったようなものだったが。     (おわり)