アゲイン(夜魔・完結編) hachikun クロスワールド、月姫・ナデシコ  月姫とナデシコのクロス。「夜魔」の続編というかイフ。 [#改ページ] 夢のはじまり[#「 夢のはじまり」は中見出し]  夢をみた。  夢には種類がある。本当にとりとめもない夢と、いつまでも忘れない夢だ。わたしが見たのは後の方。忘れられないどころか、それはわたしの中に巨大な|楔《くさび》となって打ち込まれた。  それは、アキトの夢。  だけどそのアキトは、わたしの知らないアキトだった。ううん違う。正しくは「わたしが知らないふりをしていたアキト」かもしれない。誰でも普通そうなのだけど、ひとがひとを好きになる時、自分なりの印象や解釈で本人の像を少し歪めてしまう。わたしも例外ではなかった。わたしが好きになったアキトはアキト本人と少し違う。わたしはアキトが時おり見せる暗い影を深く考える事もなく、ただ火星でつらい目にあったんだ、という事くらいしか想像する事をしなかったのだ。  繰り返すけど、これは夢の話。現実の話ではない。だけどルリちゃんにもお父様にも話してない。話してはならない。ただの夢でもないと思うから。    夢の中のアキトは、イネスさんのように時を越えたひとだった。  アキトはとても強かった。ナデシコに飛び入りで乗り込んだアキトはエステバリスをまるで手足のように使い、あっというまにバッタさんたちを蹴散らした。プロスさんは元火星守備隊の精鋭がわたしの幼なじみで、そのよしみで参加してくれる事を喜んでくれたけど…今にしてみたらそれは確かにおかしかった。年齢からいって確かにアキトが火星で戦ったとしても不思議はなかったけど、それにしても腕が立ちすぎた。年齢から考えられる経験年数ととても折り合わない。よほどの経験をしたのでしょうとプロスさんも言ってたけど。  そうではなかった。アキトは最初から強かったわけではなかったんだ。  わたしの知らないナデシコ。わたしの知らない歴史。わたしの知らないわたし。そして、わたしの知らないアキト。  そう。アキトにとってナデシコは「二度め」だった。事故で過去に飛んでしまったアキト。たったひとりで運命に抗い、戦い続けたアキト。必要以上の歴史の狂いを恐れ、わたしやルリちゃんにすら真実を隠し、孤独だったアキト。その『失われた数年間』をわたしはアキトの視線で追体験する事になった。  わたしは馬鹿だ。  どうして気づかなかったんだろう。よく考えればわかることではないか。少なくともイネスさんが時を越えたひとだと知ったあの頃、もしかしたらアキトもそうかもしれないって発想がどうして湧かなかったのか。  そりゃアキトは知られたくなかったかもしれない。でもそれとこれとは話が違う。わたしは気づかなくちゃならなかった。たったひとりで孤独に戦うアキトのために。そりゃわたしなんかじゃなんの役にもたてなかったろうけど、少なくとも疲れきったアキトの慰めくらいにはなれる。アキトの「帰る場所」くらいにはなってあげられたはずなのに。  ばかばか、ユリカの馬鹿。  結果として、「一回目」に比べると状況は遥かによくなった。火星の後継者の事件は止められなかったけど、ルリちゃんは普通の女の子として暮らしてる。ラピスちゃんもマキビ・ハリ君のおうちに引き取られた。オペレータとしての能力はAIの教育という分野に使われていて、戦場に引き出される可能性も狙われる可能性もグッと小さくなった。わたしはずいぶんボロボロになっちゃったけどそれでも、衰弱して死に至った前回に比べると全然ましだ。記憶もしっかりしてるし、デスクワークくらいならこなせるから今は連合軍の内勤をときどきさせてもらっている。本当に全てはよくなった。  だけどそのかわり、アキトは「前回」にまして不幸になってしまった。  夢の中でアキトは死にかけた。アカツキさんたちにまで裏切られ殺されかけたアキト。イネスさんすらも「今回」はいない。そんなひどい状況。  助けてあげたい。  アキトの胸にとびこみ、もう戦わなくていいと言ってあげたい。ありとあらゆるものを犠牲にしたあげく、とうとう「にんげんとしての命」まで犠牲にしてそれでも戦い続けるアキト。もういいから、わたしがいるからと言ってあげたい。なんとかして。  どうしたらアキトに会える?  どうしたらもう一度、やりなおせる?  どうしたら……アキトのためになってあげられる?  わたしは夢の中、その方法をじっと考え続けていた。 [#改ページ] 姫、立ち上がる(1)[#「 姫、立ち上がる(1)」は中見出し] 「ユリカの様子がおかしい?」 「はい。ミスマ……|父《ちち》でしたらわたしの知らない事をご存知ではないかと」 「ふむ」  ミスマル・コウイチロウは目の前にたたずむツインテールの少女をじっと眺めた。  自分を父と呼んでくれるが目の前の少女……ホシノ転じてミスマル・ルリはもちろん実の娘ではない。 「君の知らないユリカか。ということは軍人としてのユリカということだね」 「はい」  このルリは『史実』と違い軍人ではない。あくまでAIの教育担当でしかない。民間の協力者という扱いになっており給料はネルガル経由で支払われ、ネルガルの社員待遇となっている。  なお、ルリをミスマル家に引き取らせたのもその仕事にルリをつけるよう交渉したのも全てアキトの暗躍の結果である。いわく『彼女のAIに関する能力は特筆に値する。危険な戦場に駆り出すよりもAIの教育担当をさせた方がいい』と。むろんアキトは軍事ではなく完全な民事を望んだわけだが、さすがにそれは軍とネルガルの両方が難色を示した。オモイカネタイプのAIは民間に出すにはあまりに危険が多いし、彼女の能力と才能も、戦場はともかく民間にほいほい降ろすには危険すぎる。さすがのアキトもそれを覆す事まではできなかったわけだ。  そんなわけでルリは所属が民間、職場は軍のAIセンターという微妙な立場にある。軍人ではないので戦う必要はないしいざとなったら最優先で身柄を保護してもらえる。実際ルリの立場は|紅一点《マスコット》と|専門家《プロフェッサー》の両方の側面を持っていて、保護しろ命令なんかなくても最優先で保護されそうな状況ではあるのだが。  まぁ『電子の妖精』なるふたつ名がなくともルリはルリ。その愛らしい姿とクールな立ち振舞いはやはり「妖精のように可愛い女の子」としてここ極東司令部の花であった。  さて、コウイチロウはルリの顔を少し見て悩み「うーんそうだなあ」と少しとぼけて見せた。ルリもそんなコウイチロウをよくわかっているのか小さく微笑み、 「父。このお部屋のシュレッダーは使えますか」 「うん?シュレッダーかね?そりゃまあ使えるが」 「それはよかったです。ではこれを見てください」  懐から何枚かの書類を出した。検査にひっかからないよう隠してきたらしい。コウイチロウはとぼけた顔でそれを受け取りそこに書かれた一覧のようなものを見て、 「……!?」  一瞬だが、おそろしく険しい顔をした。 「やはり父はご存知ですね。この面々に共通点があれば教えてください」 「……」  コウイチロウはそれには答えず、まずは机上のインターホンを押した。 『はい、こちらセキュリティです』 「私だ。指令室の傍受を私がいいと言うまで切りたまえ。プライベートな事項だ」 『は、わかりました』  やがて少したつと、机上の何かを確認するかのように見てからコウイチロウはルリを見返した。 「……ルリ。隠さずに話してくれないかね。これをどこで手に入れた?」 「ユリカさんの卓上パソコンの通信記録です。暗号化されていましたのでオネイカネに解読、要約してもらいました。記録は忘れるように指示してあります」  確かにそれは本当のことだった。記録を消したこと以外は。  対するコウイチロウの顔は一気に渋くなった。何か考え込んでいるように。 「最初わたしは、ユリカさんが珍しくお仕事を持ち帰ったのかと思ってました」 「うむ。確かにそれは珍しいな」  ユリカは仕事の段取りなどが猛烈にうまい。専門ではない事務処理とて慣れれば定刻までにぴちっと仕上げる事など造作もなかったし、だめでも家に持ち帰る事など絶対にない。保安問題になりかねないと知っているからだ。 「はい。でもそれにしても妙ですし、そもそもこのデータの暗号化の強度は異常です。軍用のものとも違うようですし、オモイカネの言うところでは民間の、それもブラックマーケット系で使わている系統のものではないかという事でした」 「……待ち給えルリ。君は」  ルリの話していることは、個人情報保護法に完全にひっかかる内容だった。それはそれで問題なのだがコウイチロウが驚いたのはその事ではない。  何より、オモイカネの先生をしているとはいえ軍用チャネルを自由に使える立場にないはずのルリが、軍も完全には把握していないブラックマーケットの暗号解読をオモイカネにさせたという事、そっちの方がはるかに問題だった。  ユリカと並びコウイチロウ自慢の末娘は、彼の認識をはるかに上回る天才だったらしい。  対するルリは語調を緩めない。 「お叱りでしたら後でいくらでも甘んじて受けます。犯罪ということでしたら懲役でもなんでもしてください。  父。わたしはユリカさんが心配です。ほんのひと月前まで、メールひとつだってその操作をわたしにいちいち質問してたユリカさんが、どうしていきなりこんな重度の暗号通信をしてるんでしょう。しかもブラックマーケットに潜ったうえ、わたしにもわからないよう通信記録自体は全部削除してありました。このデータだってユリカさんがご自分のメモリーキーにこっそりしまってあったのを、ユリカさんがシャワー浴びてる時にこっそりコピーさせて貰ったくらいなんです。  わからない。わからないんです。いったいユリカさんのまわりに何が起きているのか」 「わかった、わかったから落ち着き給えルリ」  おろおろと暴走ぎみのルリの肩をコウイチロウはぽんぽんと叩いた。しばらくルリはふるふると震えていたが、 「……すみません」  そう、ぼそりと答えた。  コウイチロウはそんなルリを見て微笑んだ。そしてルリの肩を優しく掴むと、 「ルリ。この一覧は……君ならもう想像がついてるんじゃないのかね」 「はい、父。証拠があるわけではありませんが、全て火星の後継者に連なる人たちではないかと」  うむ、とコウイチロウは頷いた。いつのまにか軍人顔に戻っている。 「確かに証拠はない。だが軍としても、そうではないかと推測『していた』」 「過去系、ですか?確かに、もう亡くなっている方もおられるようですが」  ちょっと不思議そうにルリはコウイチロウの顔を見た。  対するコウイチロウは困ったようにルリを見た。だが少し咳払いすると、 「……ルリ。さすがにこれ以上聞けば君をそのまま帰すわけにはいかなくなるのだが、かまわないかね?一時的に軍の特別協力者として召喚の手続きをとる事になる」 「かまいません」  ルリは一瞬も迷わず即答した。それにコウイチロウはうむ、と頷くと、 「……全員死んでいるのだよ、そのリストの面々は」 「!!」  ルリの目が丸くなった。リストとコウイチロウの顔を交互に見比べている。 「そんな紙のデータでなく、君の本来の方法で調べるがいい。そら」  コウイチロウはデスクの卓上コンピュータをIFS仕様に切替えると、こっちに来なさいとルリを手招きした。 「……いいんですか?」 「機密に関する事なのでな。この部屋の外でやるわけにはいかないが」 「わかりました」  ルリはコウイチロウの横に回った。コウイチロウは来訪者用の椅子をひとつ自分の椅子の横に置き、そこから操作しやすいようIFS卓とモニターを回転させた。  はたして、ルリは両手をIFS卓に据えた。 「では失礼します。──オモイカネB、ちょっとお願い。手伝って」  途端に空中にウインドウがポンっと開いた。『わーいルリだルリだ』とおどけた文字が並んでいる。  ルリはそんな文字を見て優しげにクスッと笑った。 「……あとでいっぱいお話したげるから今は手伝って。大切な事なの」 『了解。データはβに貰ってくればいいんだね?』 「そう。でも記録は残さないで。しっかりと処理しちゃって」 『OKOK。じゃあ調べるからちょっと待ってて』 「うん」  ちなみにこの会話、要約するとこうなる。 (データは教育用オモイカネのとこで貰ってくればいいんだね) (そう。記録はわたしとオモイカネしかわからないよう最大限の暗号化をかけて最深部に仕舞っといて) (了解。じゃあ調べるからちょっと待ってて)  ルリ、健在であった。  対するコウイチロウもデータの保存に関してはルリの言葉を信用してはいない。おそらく『しっかりと処理』とは最重要最高度の保管指令なのだろうなと密かに苦笑していたりする。完璧に大当たりなのがなんとも。  こっちもまた、古狸これ健在であった。  果たして、しばらくして多量のデータがモニターに現れた。むう、とかわいい眉を寄せたルリ。ふとコウイチロウの方に顔を向ける。 「父。見てくださいこれ」 「ん?どれ」  コウイチロウは少し乗り出し、ルリの横に顔を並べた。 「先ほどのリストです。確かに父のおっしゃる通り全員亡くなられてます。そればかりか死因なのですが」 「……これはどういうことだ。確かに死因については私も知っていたが」  リストを見るコウイチロウもすぐそれに気づいた。  それには、要約すればこう書かれていたのである。      死因:全員が暗殺。手段はさまざま状況も色々だが全て夜間に集中。  推定される犯人:状況からして全員が同一犯による殺害と推定される。   目撃情報は皆無だがブラックマーケット情報では『黒い夜魔』と呼ばれる暗殺者の仕業とされている。     「これだけの人数を単独で……しかも黒い夜魔だと?」 「ご存知ですか、父」 「噂はな。小さな女の子を連れ歩く暗殺者だという。同時に都市伝説ともいわれているが」  それはそうだろう。  そもそも、暗殺者なんてものが噂になる事は普通ない。あるとすれば、それは何かを隠すためのデマでしかないはずだ。|山の主《アサーシン》が暗躍した時代のアラビアでもあるまいし。  だが噂は存在した。まるで当人たちが意図してそれを流しているかのように。 「……実在みたいです。データ出します」      『|黒い夜魔《The Black Nightmare》』:詳細不明の暗殺者。一説にはふたり組であり、ひとりは青年、ひとりは幼女じみた未だ幼い少女であるとされる。徹底して夜間しか行動しない事、その手口が魔物じみている事がこの名がついた。名付け親は不明。ネット上で誰かが「nightmare」と呼びはじめそれが定着したものとされる。   隠密性に富み、いかなる防壁を敷こうと一度狙われたら逃げられない。また何故か夜間しか活動しない。打ち合わせすら昼には行わない徹底ぶりだが昼間の行動を嫌うのか何か理由があるのかは不明。手口と噂の広まりかたから推測される意図としては「自分たちが普通でない」とアピールするかのような言動と行動、火星の後継者の残党ばかり集中して狙い続けている事から「関係者に恐怖をふりまくため」わざと同一の手口で、それとわかるように殺し続けているのではといわれている。   犠牲者の何割かはまるで吸血鬼に血を吸われた者のような状況で死亡している。つまり銃撃などによるものではなく変死のそれを示す事が多いのが特徴。殺傷方法は不明である。また既に数百人を消しているが巻き添えで殺した者がわずか数名という信じがたい噂もある。   裏マーケットに伝わる特別情報としては、彼が『真祖』の『姫君』の寵愛を受けた『死徒』であるとの噂もある。もちろん事実関係は不明。少女を連れ歩く理由も不明だが、これも特別情報としては、彼女は実は『夢魔』であり、潜入のための認識撹乱などの特殊な作業は彼女が担当しているとの噂もある。むろん公式情報には出ていないが、裏マーケット関連では『黒い夜魔』が人間ではないというのは公知の事実である。     「……」  ルリとコウイチロウは、ぽかーんとした顔でモニターを見ていた。 「……オモイカネ。このデータに誤りはない?いくらなんでもこれは」  しかしオモイカネは『これで全部です。噂も全て実際に流れているものです』と答えるだけだった。  う〜んとルリは悩んだ末、いくつかの質問をした。 「オモイカネ。この『姫君』というのは誰のこと。それから『死徒』っていうのは何?」 『データが不足しています。公式とされている噂はありますが、あまりにも非現実的なもので確証の掴みようもありません』 「それでもいいの。わかる限りのことを教えて」  今度はモニターとは別にウインドウが開いた。モニターに対するサブウインドウのような格好だ。     『姫君:通称「アルクェイド・ブリュンスタッド」。いわゆる『真祖』に分類される吸血姫。詳細不明。国籍不明。年齢不明。裏付けのない「噂」によれば「女性」であり生誕は12世紀とされる。顔写真データ。これは該当人物の西暦2001年から2200年の間に確認されているもの。最後のものは日本のコンビニエンスストアでのものです』      しゅぱっと何枚かの写真が現れる。ブロンドの美しい女性だ。どこかの洋館で男の子とふたりで写っている楽しげな風景やら、森の中でウエディングドレスをまとった幻想的な姿などが写っている。旧式のうえに21世紀初等の粗雑な保存技術のため、かなり色褪せているものも多いが。  2100年代以降のものはかなり美しい。それに数も多い。保存状態のよさにルリが首をかしげる。 「オモイカネ。ここ百年の写真がこうも多いのはなぜ?目撃情報は少ないんでしょ?」 『それらは街頭カメラやコンビニの映像が流出したものだからです。本来これは違法ですが、これほどの美女の写真とあらば流出するのもおかしな事ではないかと。  さらにネット上には美女のスナップ写真を集める専門サイトがあるのです。その中には「謎の美女コーナー」なるものもあり、このアルクェイド女史のように年代を越えて同じ顔が写っているような奇妙な写真は特別枠が設けられているのです。まぁオカルト的扱いですね。  実際、この好事家ライブラリのおかげで色々な事が判明しています。たとえばキリスト教総本山であるバチカンに古風な宗教上の特殊部隊のようなものが存在する事も明らかになっていまして、これらはアルクェイド女史のような「実在するヒトガタの怪異」に対抗するために千年の昔から活動を続けているのだそうです。もちろんバチカンは公式に否定していますが』 「……」  千年生きている美しき吸血姫。それを追うバチカンの宗教戦士たち。そんなわけのわからないものが今もまだいるというのだろうか。ルリは呆然とするしかなかった。しかし写真やデータは確かに加工されたものではなさそうだ。まぎれもなく記録は21世紀や22世紀のものである。  ほんとうに今は23世紀なのだろうか。自分が中世の闇に放り出されたような気分をルリは味わっていた。 『このアルクェイド女史に関して言えば、現在の所在が不明というだけで実在する事が証明されています。21世紀にトオノ・シキという日本人の男性と結婚しており、日本の戸籍に「Arcueid Brunestud」という名前が記録されているのです。当時の免許証写真も警察のライブラリに残存しており分析にある他の写真と特徴が一致します。20年後に男性が亡くなったおりに彼女も戸籍登録を抹消していますが、日本の戸籍は死んでも死亡という形が記録が残りますので。  そして2140年にバチカンに来訪しています。この時は自分の子供たちにバチカンが危害を加えたとして怒り心頭で怒鳴りこんだ模様ですが、暴動と勘違いして乗り込んだ当地の機動隊433名がひとり残らず文字どおり叩きつぶされ、軍隊規模の団体が被害を受けたとあります』 「たったひとりで軍と戦ったんですか?いったいどうやって。2140年にそんな兵器があったとも思えませんが」  限定核や特殊弾頭ならありえるが、バチカンでそんなもの使ったら信憑性うんぬんより大騒ぎになって歴史に事件自体が刻まれるはずだ。もちろん本人も無事ではすまないだろう。  しかし実際にはそうした記録はない。 「オモイカネ。データの信憑性は?想定される武装の規模は?」 『データの信憑性については不明です。武装は…信じがたいですが素手です。徒手空拳で戦車をも叩きつぶしたというのです。しかしこれすら本人いわく、無き夫に免じて手加減したという言葉を残しているそうです。当人は単に苦情を言いにきた程度の感覚しかなかったというのです。  とても信じられないでしょうがルリ。ネットではこの一枚の写真をもって誰もが信じているようです。見てください。加工の跡はありません。安価な携帯カメラで撮影されたもののようです』 「!!……これって」  提示された写真を見たルリは、文字どおり言葉を失った。 「……」  横でじっと見ていたコウイチロウも絶句していた。  ……それは、まさに怪異だった。  その写真は、真っ赤に焼けた世界を金髪女性が歩いてる。ただそれだけにしか見えなかった。血まみれというわけでもないし女性もケガひとつしていない。周囲のおびただしい破壊や死体の山の中で、それは異様といえば異様だったがそれ以上のものではないはずだった。  だが、なにかが違っていた。……そう。女性の雰囲気だ。  理由はわからない。だが、コウイチロウもルリもそれを感じた。感じたからこそ言葉が告げなかった。  ……この女性には決して触れてはならない、と。  それは、ひととしての本能だった。  およそ人間である限り、怒った|地球《ガイア》の精霊なんてものに近付けば塵芥の如く処理されてしまうのは言うまでもないことではある。しかしふたりともアルクェイドの正体を知るわけではない。いかに科学力が進歩しようとも、地球そのものの生み出した精霊種なんて「生きたガイア理論の証明」が大手をふってそこらを歩いてるなんて事がわかるわけがない。たとえデータがあるとしても信じられるわけがない。それはあたりまえのことだ。  だが、ひととしての本能はそれをきっちり理解した。これに近付いてはならない、と。  ごくり、とつばを飲み込んだのは果たして両名のどちらなのか。 「……少しいいかね」  沈黙を破ったのはコウイチロウだった。ふと口を開く。 『なんでしょう。ミスマル提督』 「その人物の最終目撃情報について、もう少し教えてくれないかね」 『昨年に日本国内で目撃されたのが最後です。写真はこれです』  夜のコンビニで買いものをしている写真がアップになった。ツインテールの古風な昔の女学生姿の女の子とふたりでいる。当然ながらこれも2140年のものと変わらない。当時より髪が少し伸びてはいるが。  もはやルリなどは突っ込む気力もないようだ。コウイチロウは問いかけを続けている。 「昨年の日本か。正確な日付はわかるかね?」 『はい。………です』 「……」  日付を聞いたコウイチロウの顔がますます渋くなった。不思議に思ったルリが尋ねた。 「父。その日付はいったい」 『……私の聞いた噂通りなら、黒い夜魔とやらの活動が始まったのはその一ヶ月ほど前なのだよルリ。場所も日本で、この女性の目撃場所からそう遠くない』 「!!」  ギョッとした顔のルリの横で、コウイチロウはさらに問いかける。 「これらの情報については保存しておくか。うむ、『しっかりと処理しちゃって』くれるかなオモイカネくん」 「!」  青くなるルリ。んむ、と年配者の余裕で眉を寄せてみせるコウイチロウ。 「……私は君の保護者のつもりだよ、ルリ」 「……そのようですね。……ごめんなさい」  ルリは素直に頭をさげた。  対するコウイチロウは、モニタに目を向け直した。 「いいんだよルリ。  ただね、こういう時こそ私を巻き込まなくちゃいかんな。君ひとりだと単独犯として問題のある事でも、私が介在すれば軍事的配慮や政治的配慮というやつでうまく処理することもできるのだからね。  私のような年寄りの役たたずが軍の上にいるというのは、つまりそういう事なのだ。わかったね」 「はい」  コウイチロウはにっこりと笑い、ルリの頭をなでた。ルリは困ったように、少しだけ赤くなった。  そしてコウイチロウはふたたびオモイカネに向き合う。 「黒い夜魔と彼女の関係だが…その『シト』というのはなんなのかね?」 『……』 「……オモイカネ?」  沈黙するオモイカネに、ルリは不思議そうな顔をした。彼女の友達が『困惑』するなんてありえない事だったから。  しばらく躊躇した後、 『結び付きを示す確実なデータは皆無です。噂はありますが』 「それでいい。どのみちそれは『科学的に証明不可能』なのだろう?」 『はい』  さすがはひとの上に立つ者か。理解できないものであっても「あるものはある」として考える事にしたようだ。  ルリはちょっと不思議そうな顔でコウイチロウを見ている。  オモイカネはまたもや沈黙した後、いくつかのデータを提示した。 『黒い夜魔はアルクェイド・ブリュンスタッド直属の死徒ということです。死徒というのは人間がなんらかの理由で吸血鬼に変化したものを言うそうで、もちろん科学的手法で「なる」事なぞできません。方法はいくつかあるそうですが、もっともオーソドックスなものはおとぎ話の通り、真祖または上位の死徒からの『汚染』によるものだそうです。  本来これは「主人」とそれに絶対逆らえない奴隷のようなものですが、彼の場合は違うのだそうです。彼は火星の後継者の残党狩りをしていた青年であり、しかし返り討ちにあい死にかけていたところをアルクェイド・ブリュンスタッドに拾われました。彼女は本来人間世界に関わらないはずなのですが、何か思うところがあったのでしょう。彼が望む「残党狩りを続ける」という意志を汲み、彼を服従させるのでなく彼が生きてその意志を全うできる程度にその存在を「汚染」しました。  結果として、ひとでない者として復活した「彼」は夜を駆け巡り残党狩りを続けている。これが黒い夜魔に関する情報の全てです』 「ふむ…」  コウイチロウは少し思索に入ったようだ。代わりにルリも問いかける事にした。 「オモイカネ。死徒と真祖の違いってなに?よくわからない」 『はい。簡単です。真祖とはつまり「最初から吸血鬼だったもの」。死徒のように人間から変化したものではないのです』 「?それは変ですよオモイカネ。では真祖とはなんなんですか?まさかですが、遺伝子異常とかそういう理由で最初から『吸血鬼』なんですか?」 『それは残念ながらわかりません。あくまで噂なのですから』 「……そうですか」  確かに、この話だけでは単なる都市伝説の域を出るものではない。火星の後継者に怨みをもつ青年に真祖のお姫様が気まぐれで手を貸してあげた、なんてファンタジーめいたシナリオが安易に浮かんできそうだった。「話だけ」なら普段のルリなら笑い飛ばしておしまいにしかねない内容ではある。  問題の真祖のお姫様や黒い暗殺者が、どういう形であれ実在するという問題をのぞけば。  ふう、としばらくルリは考え込んでいた。そしてぽつりとつぶやく。 「ユリカさんはどうしてこのリストを集めたんでしょう。偶然とは思えませんから何処かに同じリストがあってそれをコピーしたのか、それとも」 「その可能性は低いなルリ」 「どうしてですか、父」  コウイチロウのつぶやきに、ルリが顔を向けた。 「このリスト作成にはかなりの危険が伴うはずだ。それだけの危険を犯してまで作る必要のある者……さて、そんな者が果たしてどれだけいるのかね?」 「あ」  なるほど、という顔をしたルリに微笑み、コウイチロウはさらに続ける。 「このリストが役立つとすれば、それは火星の後継者の残党狩りをしている当人、またはその当人を追跡したい者くらいだろう。それは『黒い夜魔』本人、彼に興味を持つ表裏含めた一部の業界人、ジャーナリスト、それに軍と警察の捜索班といったあたりになる。しかしジャーナリストでは危険すぎてここまで手を出す者もさすがにいないだろう。やるとすればもっと未来に、世情が落ち着いてからの事だろうね。  さらに言えば、残念ながら軍にはここまでの捜索は無理だ。こんな調査をする力があるなら火星の後継者事件はああもひどくはならなかったろう。まったくもって遺憾だが」 「……確かにそうですね」  確かにこのひとはユリカさんの父なのだ。そんな思いをルリは噛みしめていた。 「信じられないことだが……このリストはユリカが作成したものではないかと私は思う。  ルリ。私の推測を言っていいかね。できれば外れてほしい推測なのだが」 「はぁ…はい。なんでしょう」  西陽が傾き、司令官室は夕闇に沈みかけていた。モニターの光にてらされ、コウイチロウとそれを見るルリの横顔だけが白く浮かびあがっている。 「昔から、ユリカが信じられないような行動に出る動機はいくつかある。ひとつは艦長などの職務を実行している時。あれの思考力と判断力は私譲りだ。若さゆえ経験不足もあるが発想の柔軟さで総合力は私を上回る事もあるほどだ。  だがもうひとつ……ルリ。君にもおなじみだったアレはどう思うかね?」 「?私にもおなじみだったもの、ですか?なんでしょう。他でユリカさんが暴走する要因って言ったら……!!」  ルリも気づいたのだろう。ギョッとした顔をコウイチロウに向ける。 「まさか!アキトさんはもう亡くなったはずです!」 「誰も死体を確認していないのだよルリ。それにアキト君なら残党狩りの動機なんて充分すぎる。ユリカの前に現れないのだって、理由があるとはいえあれだけの事をしでかして指名手配を受けていた身だ。今は死亡扱いで公式には追われてないとはいえ顔を出す事は躊躇われるのかもしれんし、今の姿をユリカに見せたくないという可能性もある。  それに……こんな表現は非科学的だし考えようによっては死者への冒涜だが、死に際に真祖なるものに出会ったアキト君が死してなお戦い続ける事を望み、その真祖とやらがそれを許諾したとしたら?」 「……そんな……そんなっ!!」  みるみるうちにルリの顔が蒼白になっていく。  ユーチャリスの爆発で死んだはずのアキトが生きている。それは本来、ユリカの義妹であるルリにも喜ぶべき事のはずだった。このルリ自身にはアキトに特別な感情はないが、あれほどの犯罪を犯してまでユリカを助け出そうと死力を尽くした青年をルリは決して悪く思ってはなかった。それほどに愛されているユリカに、ないしょだがちょっぴり妬けた事すらあったくらいだ。  だが、今のコウイチロウの仮定が正しいならば……それは少なくともルリにとっては凶兆であり不安材料でしかなかった。 「とにかく、これは調べる必要があるな。ルリ、君には特別任務ということでこの極東基地の管轄にある全てのオモイカネ型AIを使う許可をあたえよう。場合によってはB艦の使用も許す。もっとも君は民間人で艦長職はできないから誰かを……そうだな。高杉君あたりを巻き込む必要があるが。  私はただちにユリカの身辺を固めるとしよう。表向きは暗殺者から守るという理由だが実際はユリカの監視になる。あれがとんでもない動きを始めないようにな」 「わかりました。ユリカさんの身辺はお願いします。父」 「うむ、わかった」      むろんだがルリはこのデータをあくまで『噂』で片付けた。  ミスマル提督もそれは同様だった。ふたりはあくまで「アキトが生きている」可能性に着目しているにすぎない。アルクェイドなる謎の人物との親交にしても、なんらかの未だ知られてない特殊な延命術が存在するのか、伝統芸能をするひとが芸名を代々継ぐように、同じ容姿を引き継いでいる可能性もある。これは不可能ではない。特に22世紀に入ってからは「外見だけ」なら同一に保つ技術は確かにあったし、それ以前のデータはぼけた写真ばかりでそこまでの判別はできない。まぁ遺伝子治療なりなんなりの方法で延命してもらったのが誇張されたもので、噂はたぶん「残党」との戦いを有利に持っていくための小細工であろうと判断した。  それは、22世紀生まれのふたりが23世紀のはじめにつけた結論としては妥当だろう。あたりまえだ。噂は噂にすぎないのだから。  だが結局、それはルリたちを完全にこの事件の脇役に追いやる原因となった。  ───わたしはイフの話って好きかな。なんとなく救いがあるような気がするから───  200年ほど昔、眼鏡の少年に白い姫君の語った言葉。彼らに必要なのはまさにその「イフ」の言葉だった。 [#改ページ] 姫、立ち上がる(2)[#「 姫、立ち上がる(2)」は中見出し]  その日、ルリちゃんの帰りが妙に遅いなと思った。  私、ミスマルユリカはルリちゃんよりお休みが多い。まだ病み上がりである事や職務の内容などが原因だ。普通の会社ならパートタイマーに近い職務状況になっている。  そしてそれは、私のやっている事を考えれば大変ありがたい事でもあった。 「……ふう」  私は通信を終わり、念のために一度パソコンを再起動した。本体内蔵の記憶ディスクでなく私が差し込んだままの携帯メモリーキーから起動している旨が表示され、明らかに一般むけとは違う特別なOSがふたたび起動する。オモイカネにちょっと似てるオープンソースのロゴがくるっとまわり、利用可能である事が示される。  なんだか、不思議だ。  少し前まで、私はパソコンなんて使えなかった。メールひとつ送るにもルリちゃんに聞かなくちゃならなかった。こんな事ができるようになったのはひとえに、アキトの記憶を夢に見たせいだろうと思う。  あ、少しだけ解説がいるかな。  私やアキトみたいなジャンパーは多量のナノマシンを持っている。それは人間の「イメージ」を別の形に変換するものだ。それは本来汎用的なものじゃないんだけど、どうも私の『遺跡ユニットのナノマシン』は『汎用翻訳機』としての側面のせいか少しだけ自由がきく。簡単に言えば私が見た「夢」なんておぼろげなものまで「よりわかりやすく翻訳」してしまうみたい。まぁ推測なんだけどそんなわけで、私は夢の中でのアキトのコンピュータ操作をも遺跡の残存物を経由する事で読み込む事ができた。つまりぶっちゃけ、私のナノマシン群はアキトの記憶からパソコンに関する部分を抽出・編纂し、私に使える形にして補助脳に保管してしまったわけ。いつでも一瞬で検索・閲覧できる優秀なデータベース。それも言葉なり操作シーンなり、望みの方法でいつでも閲覧できるの。  すごいでしょ?あはは、実はユリカ自身もちょっとびっくり。パソコンの夢見た次の日に自分のパソコンに向かったらね、昨日までわからなかった操作が楽々できちゃって、知るはずのない事がわかるんだもの。なんだかなぁ。自分の夢でさえそんなこと普通できない。まして私が見てる夢は、どういう理屈でつながってるのか知らないけどアキトの夢なんだよ?  でもまあ、原理なんてわからなくてもそれは嬉しいこと。アキトになんとか追い付ける、そのとっかかりが掴めたって事だし。それに、 「……!」  突然にこみあげた嘔吐感。私は机につっ伏して、しばらく耐えた。 「……」  しばらく待ちつづけると、その苦痛はだんだんと消えていった。 「……やっぱり、ナノマシンを動かしてるせいかな」  全身に吹き出した汗が不快だった。私はクラクラする頭をおさえてソファーに沈み込んだ。  元より私の身体はボロボロだ。アキトに追い付こうと使えるものはなんでも使ってる、それが私を急速に死に向かわせているんだろう。所詮この身体でアキトの物真似なんてできるわけがない。スポーツカーの運転技術をポンコツの軽乗用車に押し込んでも同じ走りはできない。走り続けたら自滅するだけだ。  ……だけど、私はアキトを追いかけたい。  今だからこそ会いたい。アキトの側にいてあげたい。イヤだと言われてもそばにいて、アキトをなぐさめてあげたい。戦いなんか忘れさせて。  それが私の望み。 「……あれ?」  ふとその時、メモリーキーのデータの一部がおかしいのに気づいた。  このメモリーキーには細工がしてある。重要データにアクセスするたびにその回数と最終アクセス時刻がハードウェアレベルで記録されるの。軍用にもない特別なもので外観もアクセス結果も普通の民生用メモリーキーと寸分変わらない。アキトの記憶を使って裏マーケットから買い求めた「まさかのための保険」。  で、アクセス最終データが私の知らない時刻になってた。こんな時間に私はパソコン使わない。ルリちゃんがいるもの。 「見られた?……ルリちゃんよねたぶん」  他は考えにくい。おそらくルリちゃんだろう。  このメモリーキーはシャワーの時しか外してない。ミスマル家は代々軍人だし私やルリちゃんの事もあってセキュリティは軍なみのものが使われてる。つまり無線でスキニングされたのでなきゃ、読める確率が一番高いのはルリちゃんなわけ。 「そっか。うちのルリちゃんだって油断しちゃダメだったっけ」  電子の妖精にならなかったからって、能力的には超がつくレベルなのは変わらない。暗号データはとっくに読まれたと見るべきよね。  あぁ〜ユリカのおバカ。これじゃルリちゃん巻き込んじゃうよ。アキトがどれだけルリちゃんやラピスちゃんの「普通の幸せ」にこだわったか、私は知ってるっていうのに!!  なんてこと。  私は今すぐでもアキトの元へ飛ぼうと思えば飛べる。断片とはいえアキトの記憶はある。今のアキトの根城はわかってるしそこをイメージする事もできる。ならば、A級ジャンパーである私を引き留める障壁なんかこの世界のどこにもない。  だけどね、まだ足りないの。  今の私ではアキトを救えない気がする。アキトにとって私はユリカであってユリカじゃないわけよね。そこんとこを打破する方法がないか、考えなくちゃいけない。  う〜ん、どうしよう。誰か相談できるひとはいないかな。それも速やかに。ルリちゃんに追い付かれずに辿り着ける自信がないわけじゃないけど、それじゃ足りない。あまりルリちゃんが深入りする前に、問答無用で事態を収束させないといけないの。  そんなこんなを私が考えていた時だった。 「……あれ?」  外で車の音がした。お父様が帰ってきたみたいだけど… 「……まさかルリちゃん、いきなりお父様巻き込んじゃったの?うそ!」  窓の外を覗いてみる。  あー、ビンゴだ。お父様、フタバヤのケーキセット持ってる!しかも、いつもは居ない護衛のひとが何人も乗り込んでる。いけない。すごくまずい。  ジャンプはいつだってできる。でも、今の私はジャンパーとしての能力は使えない事になってるわけで、そのおかげで半拘束状態にもならずにすんでいる。実際はジャンプできるまで回復した事を私が隠してるわけだけど。  私が「飛べる」事がばれたら最後、話は一気に大きくなってしまう。私の捜索に駆り出されるのはルリちゃんたちだ。それもたぶん、せっかくアキトが苦労して軍属から外したルリちゃんを強制的に軍に引き戻す形で。ネルガルも軍もまだ、ルリちゃんやラピスちゃんを『軍用』に使う事をあきらめてないから。  だけど、アキトをあきらめる事なんてできない。 「……仕方ない、か」  パソコンに用意しておいたプログラムのひとつを使い、ミスマル家のセキュリティにアクセスした。 「ん、きたきた」  いきなりルリちゃん謹製のガードに当たった。警告が出る。でも妨害はされない。出どころが私のパソコンだからだ。操作ミスの警告が出て記録されるだけ。それ以上の事は起こらない。  ならば関係ない。どうせルリちゃんにはもうバレてるんだから。私はそのまま進む。  一階にお父様たちが入った。まだ二階の私には気づいてないっぽい。だってほら 『ユリカ。どこにいるのかね。ユリカー』  呼んでる。でもここで答えてはいけない。私は『もう外出している』んだから。  パソコンは残していく。この屋敷のセキュリティの記録を過去一日ぶんパーにして、同時にメモリーキーの記録消去プログラムを走らせたまま出ていく。こうすれば「退出時間がわからないよう細工して急いで出ていった」事はわかっても正確な時刻はわからなくなるだろう。パソコンはまた確保すればいいし、復元に必要なデータは私の中にある。なんとかなる。  それと、私が飛んだ事によるボソンの残留濃度がバレるまでの時間稼ぎにもなる。お父様が戻ってきたという事はルリちゃんは極東司令部でオモイカネに向かってるはず。お父様たちと調子のおかしいセキュリティでは残留ボソンにすぐには気づくまい。この部屋には私の身体が放つ微量のボソンを散らすための仕掛けもあるわけで、ルリちゃんが直接調べない限りはたぶんジャンプした事はわからない。そしてルリちゃんが気づく頃には全ては終わっているはずだ。  アキトと再会する事が何を意味するかはわかってる。どんな結末になるかわからない。でも、少なくともここにはもう戻れない。 「……ごめんなさいお父様。ルリちゃん、お父様をよろしくね」  さて、イメージしよう。私服のまま、荷物もなしだがかまうまい。壁にかけてある茶色の軽めの上着を手にとった。  とりあえず、今すぐ行ける場所。余計な事を考えずに飛べる場所。そして追手がすぐこられない場所。確実なのは…… 「火星。ユートピアコロニーをイメージ……ジャンプ」  その瞬間、全ての景色が暗転した。        次の瞬間、私はユートピアコロニーに立っていた。 「……ふう」  夜空の下。建設現場のど真中に私はいた。  あの頃から何年もたち、ユートピアコロニーは復興が進んでいる。ここはイメージ通りならお花畑のあった場所。区画の再整備が進んでいて、住宅地になる予定だと聞いている。 「……?」  ん?ちょっと違和感。私のイメージングってこんな正確だっけ?公園付近には着ける自信があったけど、まさか狙い通りお花畑のあった場所に出られるなんて。  私とイネスさん、アキトの三人でもっともイメージが正確だったのはアキトだ。ジャンプにおいてはこの違いが大きい。私が実験に使われず遺跡に組み込まれたのもそのせいだと聞く。自分でイメージするより誰かのイメージをそのまま通過させる方がいいのではないかと判断されたためだそうだ。  まぁいっか。そこらへんを悩むのは後でいいよね。  時間は夜。周囲は静か。向こうに街のあかりが見える。少し寒い。 「……さて、どこに飛ぶかゆっくり考えなくちゃ」  ここに来たのはあくまで「とりあえず」だ。アキトは火星では活動していないわけで、ここはあくまで中継地点。追手はまず絶対にかからないから。  とりあえず邪魔は入らないだろう。手にしたままの上着を着込む。これで少しはマシだ。 「う、おしっこ」  なんだかな。いきなり冷えたからかな。やだなもう。  私は物陰を探した。誰もいないけどやっばりアレだし…で、手近なとこにしゃがんでお尻を出す。この歳でこんなとこでおしっこするなんて情けないを通り越してアレだけど仕方ない。  ちょろちょろ、じょばじょばと音がして、すっと身体が軽くなっていく。 「…………はぁ〜…」  あ〜、すっきりした。…って、え? 「っ!」  わ、車がくる!た、大変!おしりまるだしでおしっこしてるとこなんて見られたら死んじゃう!! 「あわわわ、えっと、えっと」  大忙しで身づくろいをすると、私はそのまま重機の影に隠れた。    果たして、やってきた車はずいぶんと年期の入ったおんぼろ車だった。もしかしたら戦争以前の、乗り捨ててあった奴じゃないだろうか。ガタゴトと音をたてて車は現場の入口で止まった。  中から出てきたのは……え? 「はいどうぞ、弓塚さん」 「ありがと、アキト君。でも悪いな。レンちゃんは自分の意志でアキト君とこにいるんだから、私に気なんて使ってくれなくていいのに」  う…うそ。アキト、アキトだ! 「そりゃそうかもしれないけどさ。レンにお礼しようとしても受け取ってくれないんだよな。俺、残党狩りで彼女にどれだけお世話になってるか知れないのに」 「気持ちの問題か。うん、わかる。じゃあ悪いけどお礼返しはしないね」 「ああそれでいい。で、火星はどうだった弓塚さん」 「あははは、今だけはこの身体に感謝かな。私、20世紀生まれだもん。火星見物できたなんて、こうしてる今も信じらんないよー」  女の子がひとり、火星の土を確認するかのように踏みしめてみたりしてる。 「こっちで食事はしてないよね。一応念のため」 「してないしてない。ていうか、こっちの人たちってあんまりおいしそうじゃないの。ナノマシンっていうんだっけ?あれが混じってるせいなのかなー。持ってきた輸血パック飲み切っちゃったよ」 「へぇ。…でもまあそっか。遺伝子にも手が入ってるらしいし、吸血って行為が遺伝情報の取り込みなら、火星の人間は確かにおいしくないかもね」 「あれ、ひとごとみたい。アキト君はどうなの?」 「俺?いや、こっちじゃ活動自体してないからね。『変わって』から火星に帰ってきたのは今回がはじめてだし」 「そうなんだ」 「ああ」  えっと、あのツインテールの女の子は……あー、アキトの夢にも出たっけ。確か『逆時計』さん。アキトが連れてるレンって女の子の元の飼い主。会話からすると……そっか。レンちゃん借りてる事のお礼に火星に招待したってわけなのね。  ……それにしてもアキト。あんな身体になっても女の子と縁が切れないわけね。まったくもう。ぷんぷん〜!! 「あれ?」  と、その時、アキトと逆時計さんは何かに気づいたようにピクリと反応した。 「何か匂うな。人間か」 「あー、おしっこの匂いだこれ。ほら、これこれ」  逆時計さんがおしっこの跡を指さす……って私のじゃない!  いけない、見つかっちゃう! 「まだ温かいな。近くにいるのか」 「いるね、きっと。……でもわかんないなぁ。おしっこの匂い強すぎ」  失礼ね!私そんなに臭くないもん! 「これ、大人の女だな。どこかで嗅いだ気がする匂いなんだが…」  ちょ、ちょっとアキト!私のおしっこの匂いなんか嗅がないのっ! 「ま、いいわ。どうするアキト君。たぶん探せばすぐ見つかると思うけど」  ……う。なんかあのひと、とっくに私に気づいてるっぽい。まっすぐこっち見てるし。  うわぁ。真っ赤な瞳。なんか全身鳥肌。ていうか、こわい〜〜(涙)。  だけどアキトは、そんな逆時計さんに気づいてないようだ。肩をすくめると、 「その必要はない。どうせ追ってこれないだろうしな」 「……そ」  逆時計さんはそんなアキトに苦笑してる。  それにしても……アキト、こうしてみるとずいぶん変わったようで意外に変わらないみたい。雰囲気は全然違う。ひとじゃないのもわかる。理屈じゃない。私のどこかがこうしてても震えてるのがわかる。『ひととしての本能』なのかな。あのふたりがとても怖い存在である事が理屈以前に理解できる。  でも、それでもアキトはアキトだった。うまく説明できないけど。 「さて、帰るか弓塚さん。レンも寂しがってると思うし」 「ほんっと、アキト君って小さい子に甘いんだね〜。アルクェイドさんが言った通りだわ」 「そうか?」 「うん、そうそう。ところでアキト君。戻ったらもうお仕事なの?」 「……ああ」  あ。アキトの顔がちょっとだけ恐くなった。 「本来あまり休んでるわけにはいかないんだ。レンは認識撹乱専業で自ら手を汚すような事は絶対させてない。という事はつまり、仕事自体は全部俺なわけだし」 「レンちゃん、物理戦闘力はからっきしだからね〜。仕方ないか」 「そ。まぁそれだけじゃないけどね。あんな女の子に直接戦わせるなんて俺はごめんだよ」 「うんうん、やっぱり甘い」 「そうか?そんなもんだろ?」 「はいはい。もう何も言わないわもう。ほんっと、なんか志貴君見てるみたい」  けらけらと楽しそうに笑う逆時計さん。なにげに目線はこっち向いたまま。  怖い。  アキトはそうでもないのに、あの逆時計さんは物凄く怖い。ただ見られてるだけなのに、震えが止まらない。うっかり物音を立てないように固まっているのでせいいっぱいだ。  やっぱり、長生きしてる吸血鬼っていうのはそれだけ凄いのかな。  そうしているうちアキトが携帯フィールドを張った。ゲスト用かな。逆時計さんがその中に入る。 「さて、飛ぶよ弓塚さん。準備いい?」 「おっけー、いいよ。ところでアキト君」 「ん?なに?」 「……なんでもない。君は果報者だねって」 「???」  アキト、ほんとににぶちん。ま、おかげで助かるけど。  ふたりが消え去る直前、こっち向いたままの逆時計さんの口が動いた。いわゆる口パクだ。内容は、      『またね』だった。      アキトと逆時計さんが消えた後も、しばらく私はそのままでいた。  いや、正しくは「動けなかった」。  全身の力が抜けたような気がした。気づくと全身は汗びっしょりで、上着を着てるのにさっきよりずっと寒かった。  股間が気持ち悪い。手を入れてみたら、なぜかじっとりと濡れていた。 「……なに、これ」  触れた瞬間、身体中がカッと熱くなった。 「やだ、どうして」  指が勝手にあそこに潜り込む。止める事ができない。 「う…………はぁ」  脳裏に『逆時計』さんの瞳が映る。ゾクゾクと全身がわななく。あそこに入れた指に、添えた手に液体が浸みてくる。 「あ……あぁ……ゆみ…づか…さ……!!」  だけど次の瞬間、体内の何かがスパークした。ゾクゾク感が急速に収まり、代わりに脳裏をデータが流れはじめる。  いつもの不快感がはじまる。遺跡のナノマシンが蠢動している。 「……あ……あぁ」  なるほど。そういう事かとためいき。声が声にならない。  どうやら私は、逆時計さんの虜にされかけたらしい。あのひとの意図はよくわからないけど……もしかして私の目的がアキトだと気づいたのかな。いやたぶんそうだろう。私を回収してアキトに引きわたすかどうかするつもりだったんだ。  いや、過去系じゃなく現在進行形だろう。私がもし普通の女の子ならいまごろ、ジャンプだろうとなんだろうと可能な限りの方法で逆時計さんを追いはじめたはずだ。虜にするとはつまりそういう事。本来なら私は、食虫植物に落ちた虫と変わらないわけだ。  ただ、危険を感じた遺跡のナノマシンがその『幻惑』を解析してデータに翻訳しはじめた。狂わされた脳の働きを補正し、私を正気に戻した。だから『止まった』わけだけどなんのことはない。これでは命を削って死に抗うようなものだ。どのみち時間がたてばナノマシンの活動に他ならぬ私自身が破綻し、死んでしまうだろう。 「……参った。吸血鬼ってほんとに凄いんだ。」  ただ『見られた』だけなのにこのざまだ。これではどうにもならない。今の私じゃどうしようもない。  どうしよう。 「……行くしかないか」  他に手はない。できれば最後の手段にしたかったけど……それしかないみたい。そう思った。 [#改ページ] 事情[#「 事情」は中見出し]  ジャンパーにとり地理的距離は意味をもたない。テンカワ・アキトが弓塚さつきを火星から連れ帰るのもほんの一瞬だった。どれだけ距離があろうと関係ない。それがボソン・ジャンプ。権力者に狙われるのもむしろ当然だろう。世が世なら、アキトはボソン・ジャンプ大航海時代の黎明期を代表する人物として歴史に名を残したのかもしれなかった。 「さて、ありがとねアキトくん。わたしもう行く」 「ああ。じゃあな」  さつきは別にアキトの連れではない。レンやアルクェイドという人脈を通じて関係しているにすぎないし、もともとアキトとさつきの道は違う。二十七祖に数えられるほどに強力な死徒であるさつきは、その能力をただ『ゆったりと平穏に生きる』ために使って暮らしている。そしてその姿は、かつて彼女が愛した少年がもっとも好んだライフスタイルでもあった。  ちなみに勉強もしてたりする。女学生の姿は伊達じゃなかったりもするのだ。なにしろ百年単位の時間を学業につぎこんでいるわけで、『なぞのおねーさん』として病弱な男の子に夜な夜な家庭教師をしてあげていた事もある。『昔の志貴くんに似ている子だったから』とさつきは言うが、それだけではないだろう。もし死徒にならなかったら、さつきは教員となったのかもしれない。それほどに「教える」という行為は楽しいものだった。  とはいえそれも歴史のイフだ。もしもさつきが死徒にならなかったなら23世紀の今、彼女は存在しない。そして歴史はいろいろと姿を変えていただろうが、それは結局のところイフにすぎない。語るだけ無意味とは言わないが、言葉遊びの域を出るものではないだろう。  まぁ、そんなさつきである。火星の後継者狩りにあけくれるアキトとはやはり共にいる事ができないし、いるつもりもない。お姫さまの嫉妬は杞憂だったわけだ。  それじゃあね、と手をふり闇に消えるさつき。あっさりしたものだとアキトはつぶやく。別に特別な好意があるわけではないが、色違いとはいえツインテールの少女はあの瑠璃色の名を冠した少女を思い出させた。だからちょっとだけ、それは淋しいと感じられた。 「……」  ふと気づくと、レンが傍らにいる。ただ沈黙しているが目は嬉しそうでもある。退屈してたろうとアキトは思う。まる一日、この部屋に放り出してしまったのだから。 「ちょっとまてレン。ネットで最新情報をゲットしてから動くからな」 「……」  うん、とレンは頷いた。        突然だが、ふたつの世界の相異点について述べよう。  アキトがかつてユリカの「王子さま」だった世界。これをAと呼び、今のこの世界をBと仮定しよう。ふたつの世界の相異点は何か。アキトの暗躍でいろいろ変わったこのBの世界だが、ご存知のようにそれ以前に決定的な違いがひとつある。  言うまでもない。それは吸血鬼だのバチカンの戦士だのといった連中である。アキトの過ごした元の歴史にそれらがあったかどうかは今となっては確認の術もないが、少なくともアキトと姫君の出会いなどなかったし、ひとと違う暗殺者なんてものが夢魔を伴い暗躍する、なんて事にもならなかった。  それは、運命の皮肉だろうか。  黒い妖精をひとの世界に置き、かつての家族を守った。過去に飛ぶはずの少女をこの世界にとどめた。アキトは夢中になって彼らのために奔走し続けたがちょっと待ってほしい。そもそも彼ら全ては過去にアキトを助けた者。巻き込んだという事はそういう事なのだ。だから彼らがいないという事はつまり、アキト自身の救いはない。アキトはこの点を間違えた。  ある男が言った。幸福という名の椅子はいつも少しばかり足りない数しか用意されないのだと。すなわち誰かが救われるということは誰かが不幸になるということだと。アキトは大切な者たちを幸福の椅子に座らせるため、そのために自分を犠牲にしてしまったというわけだ。  なのに。  なんという運命の不思議だろうか。そんなアキトを待ち構えたかのように、ありえないはずの出会いが起きてしまった。ありえないはずの『救い』がアキトに訪れたのだ。そうとしか思えない。だってそうだろう。星まで届こうというこの宇宙時代に吸血鬼だのバチカンの戦士だのといった連中が|跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する世界がなぜ現れるのか。たとえ存在していたとしても歴史の裏から決して出てこなかった者たちである。それらの事象がなぜ今さらアキトにかかわってくるのか。それも、どれもこれもがアキトの運命を変えよう、戻そうとしているかのように。 「……」  歴史にイフはない。それはこのBの世界とて同じ。歴史が語るのは過ぎてからのことであり、今はまだ何が何を意味しているかなど、当事者たちにはわかる道理もない。  その一翼を担っている小さな女の子はただ、パソコンを操作するアキトの背後でじっと見ているだけだった。 「……おかしいな」  パソコンをいじるアキトの顔が、いつになく険しい。 「ネルガルと軍まわりが妙だな。どういうことだ」  情報収集に使っている裏世界の『口』が使えなくなっていた。どの情報源も沈黙している。  アキトはルリたちのような能力は当然ない。だから直接何かにアクセスするのではなく、裏世界のコミュニティを歩き情報を収集する。どういう界隈にも情報を売り買いする者はいて独自のコミュニティを構成している。グレーものから完全に違法なものまで無数にあるが、それらもまたひとつの「社会」である。ひところの秋葉原の裏通りのようなものだ。  アキトの不審はいわば、ジャンク屋漁りにきたらジャンク街そのものが理由もなく店じまいしていたようなものだと思えばいい。 「何か起きてるとしか思えん。口という口が残らず塞がってて、これじゃまるで──」  アキトは何かを感じた。とりあえず一度回線を切るか別のチャンネルを探そうとした。そしてその瞬間それは起きた。  突然、パソコンの画面がパパッと点滅した。なんだとアキトが思う間もなくウインドウがひとつ開き、 『おひさしぶりですアキトさん。ルリです』 「!!」  そんな文章がさらっと流れた。 『突然こんなメッセージを流してごめんなさい。まさか生きておられるとは思いませんでした。本当はどうしてユリカさんの元のに戻られないのかと問い質したいところですが、生きてユリカさんの元に戻られないのにはそれなりの事情もおありなんだと思います。だから私もその事には触れません。ごめんなさい』  すわ、クラックされたかとアキトは焦ったが違うようだ。メッセンジャーツールのプロトコルを使い、直接メッセージを送信しているだけのようだ。それはそれで一種のクラッキングなのだが、アキトのパソコン自体がどうこうされたわけではない。  とはいえメッセンジャーIDをクラックされた事には違いない。このネットワークには「いちげんさん」は入れないし、ましてやコミュニティに加わってもないのにいきなりメッセージを送りつける事なんかできないはずである。そしてアキトのIDは当然非公開になっているうえ、アキトのアの字も使っていない。ここの登録に使ったIDの証明は別のところでとった架空IDだし、そのIDを辿ってもその元はさらに架空のID。いくつかの国や組織を横切り出元を探り切るのは現実世界の秩序の番犬が考えるほどに簡単ではない。そしてそれらを全て辿りきったとしても、最終的に出てくるのはどこかの小国に登録された架空の人物にすぎないのである。  それを持っていかれしかもアキトであると割り出された。それはアキトにとり、ネット上での首根っ子を捕まれたに等しい。アキトはさすがに渋い顔をした。さすがはルリと言えたが素直に感心できる事ではない。  このルリはかつての「電子の妖精」ではない。才覚はあれどここまでの事はできないはずなのだ。能力という意味ではなく、立場という意味で。それができてしまったという事はつまり、アキトが行った苦心のひとつが潰えた可能性を意味した。 「……やれやれ」  とにかくアキトは接続を切ろうとした。切ってからIDやアドレスは速やかに変更する。それで逃げられるはずだった。  なのに、 『さて、アキトさん緊急事態です。ユリカさんが動きました』  その言葉で、アキトの手はピタリと止まった。 『このIDはユリカさんの持っていたアキトさんらしい情報源から割りだしました。ユリカさんがどのようにしてここまでの情報収集を行ったかについては未だ不明ですが、アキトさんが関わったと思われる事件の情報を集めていました。これです』  メッセージと共に、小さなアーカイブがアキトのデスクトップに示された。 『稼働するプログラムのようなものは一切仕組んでありません。テキストデータと写真のみです。  ユリカさんはこれだけ残して消えたんです。普通の外出である可能性もまだありますが、使っていたパソコンのデータを全て抹消していますし外出時間がわからないようミスマル家のセキュリティデータも改竄してありました。  お願いします。確認してください』 「……」  アキトはしばし悩んだ。しかし結局そのアーカイブを開いた。 「……これは」  アキトは悩んだ末、メッセージボックスを開いた。 『これをあいつが入手した?まさか。どうやって』 『そのまさかですアキトさん。で、これは確かにアキトさんのものですか』 『その質問に答える義務はない。君には関係のないことだ』 『私もそうあって欲しかったです。でもユリカさんが関わる限りそうも言ってはいられません』 『……ユリカはいつ消えたんだ?ルリちゃん』  固有名詞を使うと自分である事が確定してしまう。少しためらったアキトだったが、どうせここまでバレたのならと開きなおる事にした。 『どうやってユリカはこれを入手した?君の知る範囲でいいから経緯を教えてくれ。それにパソコンのデータ消去なんていつあいつが覚えた?状況によっては本気で洒落にならないぞ』  場合によっては、暴漢に襲われデータを消され本人は拐われた可能性もある。それくらい危険なデータも含まれていた。 『ユリカさんの行方不明が判明したのはついさっきです。時刻はわかりません。ログがありませんし状況からの推測も難しいです。  ですが、いつも通りお昼ごはんを食べた形跡がありました。ヘルパーさんが帰宅してからユリカさんの不在が判明するまでの時間は二時間半ほどです』  それだけ時間があれば、ひと一人拐うにも、自ら姿を消すにも充分だった。 『これ以上の子細は今はわかりません。私にわかっているのはただひとつの事です。ユリカさんは、アキトさんのIDを使ってアクセスしこれらの情報を引き出しました。そう、今貴方が使っているそのIDです』 「……なに?」  今度こそ、アキトは愕然とした。 『まさか!このIDはそう簡単に割り出せるものじゃないぞ』  そも、割り出されたならとっくにアキトに追手が来ているはずだった。 『私も驚きました。しかし事実です。これは父……ミスマル提督の推測です』 『ミスマルのお|義父《とう》さんまで動いてるのか。軍はどうしてる?』 『現在のところ、正式な軍の活動にはなっていません。私の所属は民間のままで、一時的に軍に協力する形です。逆怨みした火星の後継者の残党に誘拐された可能性の元に』 『……その言い訳がリアルの可能性もあるぞ。このIDについて調べたのならわかるだろ。これは特権IDというわけじゃない。普通の民家からパソコンでアクセスなんかしたら追跡するのは難しくないんだからな』 『ありえません』  しかしルリはアキトの意見を一蹴した。 『私やユリカさんの問題から、ミスマル家には軍なみのセキュリティ網が張られています。普通にパソコンでアクセスしたのでは、軍の極東司令部からアクセスしたのと区別がつかないんです』 『なるほど』  世界でもっともセキュリティの穴たりうるのは人間。家族しかいない家で軍のセキュリティをひけば、それは軍以上のセキュリティ網を引いているということになる。  軍からのアクセスに逆探をしかける馬鹿もそうそういないだろう。  アキトはじっと考え、そしてキーを叩いた。 『事情はわかった。ユリカは俺が探す。ルリちゃんは任務を解いてもらってくれ』 『は?なぜですか?私も探します』  そうだろうな、とアキトは思った。だが 『ダメだ』 『どうしてですか』 『ユリカが俺のIDをどうやって探したのかはわからない。  しかし、俺の予想通りなら君には探せない。探してはならない』 『……』  ルリは沈黙した。しばらくたってからまたメッセージが流れてきた。 『理由もなくそんなこと言われても困ります。  アキトさんにとってユリカさんは大切な奥さんでしょうけど私にとっても大切な存在なんです。私は追いかけます』 『そういう問題じゃない。このデータを見てわからないのか。俺がどういう世界にいるのか』 『……』  またもやルリは沈黙した。  ああもう、とアキトは歯がみをする思いだった。ネットごしのテキストのやりとりなのが腹立たしい。直接対面しているならひと睨みするだけでルリは引き下がるだろうし、なんならレンに頼んで幻惑してもらう事もできるのに。  テキストのやりとりはイメージを伝えるには向かないのだ。  しばらくして、またもやメッセージが帰ってきた。 『それは、今のアキトさんが昔のアキトさんとは違うという意味ですか。あの墓地で私とお話した、あのアキトさんとも』 『そうだ』 『黒い夜魔と呼ばれているそうですね。いろいろと噂が流れているようです。まぁアキトさんは現在生きているおそらく唯一のA級ジャンパーですしその存在は知られていません。今は謎の人物とも親交があるようですし、そういうお話が出るのもわかりますが』 「……」  なるほど、とアキトは思った。  自分がどのくらい『汚染』されているのかはアキトにももうわからない。しかし既にアキトは太陽の下をろくにうろつけない身体になっている。身体能力があがり感覚がある程度戻った代償でもあるが、ようするにもうアキトは『人間』ではない。  そして『黒い夜魔』という自分の仇名。誰がつけたか知らないが言いえて妙だ。ひとでない暗殺者の噂を流したのはアキトだし、それはルリたちの関係者から連中の目を背けさせるためでもあるが、それにしても的確すぎる呼び名なのは間違いない。  事実はその通り。しかしかつてのアキトが吸血鬼なんてものを信じられなかったように、ルリにもそれが信じられないのだろう。  無理もない。自分など、あのアルクェイド・ブリュンスタッドのとてつもない能力を見てすらも信じられなかったのだから……そうアキトは思った。  それは正しい。だが今のルリにはまずい。恐怖を感じて引き下がってくれないと困るのだ。  基本的に彼らは表舞台に出るのを極端なまでに避ける。バチカンなどの敵がいるからだ。電子の妖精となったルリなら問題外、今のルリだって元ナデシコの最年少クルーだし一部には有名人だ。そんな者が関わってきたら問答無用で消される可能性すらある。  いったいどうすればいいのだろう……そうアキトが頭を抱えた瞬間だった。つんつん、と彼の背中を突っつく者がいる。言うまでもない。レンだ。 「……」 「え?レン、君がなんとかできるって?」 「……」  レンはコクコクと頷くと、貴方の手を借りるとアキトに告げた。        レンはサキュバス、つまり女性型の夢魔である。あくまで「寝入りかけた」人間や眠っている人間に夢を見せ、そこから精気を吸い上げるのが彼女の本道である。それも相手はおもに男性。  しかし、200年前ですら悪魔の領域に踏み込みかかるほどに歴史を重ねた存在である。相手が魔術師等ならいざ知らず、魔術防御のまの字も知らない一般人相手なら、精神的つながりを経由し遠隔操作で影響を与える事ができた。志貴に養育された時間、そして200年の歳月が彼女にさらなる成長をもたらしたというわけだ。  ルリには魔術的特性が全くない。そればかりか、遺伝子改造を施された超人的能力は電子の世界に特化したもので魔術的要素なんてもちろん持ってはいない。まぁ子細は不明だが少なくともそういう部分は一般人となんら変わらないわけで、それこそが狙いめでもあった。 「!」  突然、ルリは凄まじいまでの悪寒に襲われた。  それはレンの仕業である。アキトがルリに寄せる『親愛の情』を使って経路を開き、アキトが保有してはいるものの歳月が浅すぎて目覚めるに至っていない死徒としての『幻惑』能力を、契約を通じて一時的に拝借したもの。文字どおりアキトの「手を借りた」遠隔攻撃であり、今のレンにできる最大限の事でもあった。 「……」  わけもわからず、本能的な怯えにルリは身をすくませた。  声をあげて誰かを呼ぼうとする。もう夜とはいえここは軍だ。ひとは当然いる。  しかし、 「!」  声が出ないのに気づき、ルリは愕然とした。さらに立とうとしたがバランスがとれず、めまいがして目の前が暗くなった。ぶざまに床に崩れ落ちた。  突然に声も出せず、たったひとり、動けなくなる。体験した者でしかわからない恐怖にルリは悲鳴をあげた。が、それもかき消されたように声にならない。 「!!」  さわさわ、とルリの全身をまさぐる手。ルリはヒッと悲鳴をあげたがそれすらも声にならない。ただ風が口から流れでるだけだ。  手は執拗だった。ルリの服の中に手が差し込まれる。小ぶりではあるが形のよい柔らかい乳房をやさしく掴む。股間に滑り込み雛先をいじる。やだ、だれやめてというルリの声も声にならない。それら全てがルリの恐怖を倍々にフル加速していく。さらにルリ自体が未だ処女であり、最近微妙な関係になりつつあったマキビ・ハリ君ですら手を握らせた事しかないという無垢さもそれに拍車をかけた。なにもできず見る事もできず無力にされるまま。手は暴力的なものでなくむしろ優しく相手に対するいたわりに満ちていたが今のルリにはそんな事関係ない。必死にあがこうと無駄な努力を続けた。もう反狂乱に近かった。 「!!!」  尻を抱えられた。よつんばいで腰を高くあげるような体勢だ。膝を開かれ逞しい男の身体が割り込む。いかにルリが疎かろうと、いや疎いがゆえにその恐怖はさらに何倍にも感じられた。  ふと、喉をそっとなでる掌。猫をかわいがる時の人間の手つきにそっくりだったがルリにはそう感じられない。犯されながら締め殺されるという最悪のシナリオが頭に浮かぶ。ルリの決して強くない精神はもはやオーバーフロー直前だった。 「─────!!!!!!!」  股間にグッと硬いものがおしあてられた瞬間、ルリの精神のタガは吹きとんだ。        アキトとルリのために一応言っておくが、ルリ自体はもちろん清い乙女のままであり、アキトにもここまでする意図は当然なかった。  レンもそうである。淫夢を見せるのは彼女のお得意であるが、ルリほど清らかな女の子に見せた事がなかった。しかも見せたそれは今まで自分が抱かれた中でもっとも優しくいたわりに満ちていたもの、つまり契約時の遠野志貴やアキトの行為を元にして組み上げられた夢であり、彼女にしてみればアキトの大切な家族を傷つけないよう、適度に恐がらせるようきちんと配慮したものでもあった。非難されるいわれは少なくともなかった。  だが結果として、ルリは発見された時|俯《うつぶ》せで昏倒していた。半狂乱状態で小便を垂れ流しており、まともでない状態なのは明白だった。第一発見者がマキビ・サブロウタコンビでありふたりがルリを手厚く保護し一切を隠したのでそのさまが一般に露見する事こそなかったものの、ルリが軍の依頼でハッキング中に反撃を食らい昏倒したという情報はたちまちひろがった。それは悪い意味ではない。ルリを軍にふたたび引き込もうとする者たちにとっては明らかに逆風で、事実「いいかげん彼女はあきらめろ。AI教育係として成果をあげてくれているので充分じゃないか」という声が支配的になった。  過去の歴史で妖精シンパの筆頭にいた、アララギ等の元木連ルリファンたちも動いた。妖精のきらめきなんかいらないから普通の幸せを掴んで欲しい。かつてそう熱く語るテンカワ・アキトに触発されて以来、彼女に普通の結婚、普通の暮らしをしてもらい祝福を送ろう、それが彼女を戦場に引き出す元凶となった我々大人のせめてもの罪滅ぼしだと彼らは叫び続けていた。つまるところこれもアキト暗躍の結果。アキト本人はここまでうまく働くとは想定してなかったろうが、アキトが奔走しある意味ユリカ以上に配慮し敷きまくったあらゆる伏線が、今こそルリ保護のためにうまく機能していた。  ルリと彼女を背後で支える連合軍側、まさかのリタイヤの図であった。  余談だが後日、ルリが目覚めた時その傍らにはマキビ・ハリがいる事になる。上官であるサブロウタに断りをいれ、彼はずっとルリに付き添っていたのだ。憔悴しきってうたたねするハリにルリが何を感じたか。それはまた別の話である。 [#改ページ] 姫様やら姫君[#「 姫様やら姫君」は中見出し]  ボソンのきらめき。  これがなければ、どれだけたくさんのひとが悲劇にあわずにすんだろう。木連と地球との戦いももっと小規模にすんだろうし、そもそも火星が全滅する必要なんてなかったはずだ。侵攻はもっとゆっくりと行われたろう。戦後の力加減はいくぶん地球寄りになりすぎたかもしれないけど火星の後継者の事件もなく、きっと世界は今より平和だったと思うんだよ。  ……でもね、その未来だと私とアキトはどうなったろうか。  ボソンのきらめきなくば、テンカワ夫妻が殺される事もなかったはず。ミスマル家は地球の軍人だから暗殺事件の関連がなくともいずれ地球に戻る事になった。テンカワ家との交流が続いたかどうかは微妙だ。アキトと私の運命はおそらく交わる事などなかったろう。私の家は代々続いた軍人だし、私もアキトと再会するまでアキトの事を忘れていたんだから。……会えるはずがないとわかっていた、という事もあるけど。  だから私は、ボソンのきらめきを否定できない。  ほら、遺跡が輝きを発する。その中には私がいる。それは他ならぬ私の一部だったり、どこか遠い並行世界の私だったりするかもしれない。アキトの一番大切な「最初のユリカ」である私もいるんだろう。きっとそうだ。遺跡が時間も空間も越えるように。  出会う事がなければ忘れたかもしれないけど、それでも私はアキトが好き。再会してしまったらもうおしまい。どんな障害があろうと私はアキトに向かって一直線。え?そんなのダメ?そんな事ない。だって私はアキトが好き。理屈じゃないの。だって好きなんだから止まれない。  たとえそれが、アキトにとって苦しみだったとしても。  好きなの。  好き、好き、好き好き好き。いくらでも言える。愛してる。この魂が、ユリカという存在の全てをかけてアキトを呼ぶの。私はアキトが好き。  どうしてあの頃アキトに言わなかったかも今となってはよくわかる。私なりの照れと不安だった。私はアキトが好きだけど、アキトも私が好きかというとそれはノーだった。そりゃそうだろう。何年ぶりかに再会した「おさななじみ」。写真を見てやっと思い出した程度の存在。あんまし頭のよくないアキトがすぐ思い出したくらいだからそれなりに覚えててくれたみたいだけど、やっぱりそれは「好き」というほどに強いものではなかったんだと思うの。  だから私は連呼した。『アキトは私が好き』って。アキトが何を言おうと聞く耳持てなかった。聞きたくなかった。アキトが私を好きと言ってくれるまで耳を塞いでいたかった。否定の言葉をアキトから聞くのが恐かった。まぁ「愛してなんかいねーよ」ってきっぱり言われてズンドコ落ち込んじゃった事もあったけどね。  あはははは。すっごい馬鹿。そりゃ私お馬鹿さんだけど、いくらなんでもそんな屈折した愛情表現ってなんなのよもう。もう私の馬鹿。いくらでも言えるよ。バカバカバカ。ほんっとに馬鹿。  ま、裏返せばそのおかげでアキトも私を好きになってくれたんだとも思うけど。当然だよね。アキトは恋愛面ではどーぶつさんだし。あ、そっちの意味じゃないよ。愛情かけられたらかけられただけ返すって意味。鈍感さんだから現実はそううまくないけど、私の態度はその鈍感さんのアキトにすらハッキリわかるほどにあからさまだったんだから、まぁ当然と言えば当然。  で、それは同時に他の子への牽制にもなってた。だってそうだよね。かりにも自分たちの艦長が公私混同徹底執着マーキングしまくりな売約ずみの男の子でしょ?よっぽど好きじゃなきゃわざわざ近付くわけないじゃない。一部例外はいたけどやっぱりね。いやー私って頭いい。……あれ?どっちなんだろ。ま、いっか。  でも……ごめんねアキト。口じゃ絶対謝らないから今言っとく。私ってひどい娘だねやっぱ。どちらにしろ、ずっとアキトを振り回してる女の子なのは変わらない。こればっかりはアキトの記憶見ようがどうしようが変えられないよ。やっぱり私は私らしく。ユリカはユリカのやりかたを変えられないから。  今のアキトはこの私を私だと認められない。ならそれでもいい。だったら私からアキトに歩み寄る。アキトの居場所に私が行って、アキトを今度こそつかまえる。二度と離れないように。  渋るアキトを押しきり、私は一度結婚した。だけどあの時は大切なものが欠けていた。だから引き離された。私は真実の意味で『テンカワ・ユリカ』にはなりきってなかったんだ。  今度こそ、私は間違えない。間違えてたまるものか。  待っててアキト。私はアキトのとこにいく。貴方の大切な「最初のユリカ」の代わりにはなれないかもしれないけど、でも私もユリカだもの。遺跡の後遺症で結局亡くなった「あのユリカ」にできない事を私はしてあげる。アキトの隣に立って、ずっと貴方を温め続けてあげる。  ───そう。  悲劇を含んで私とアキトを結んでる、このボソンのきらめきにかけて。        そこは、地図にない森。ありとあらゆる都市計画からなぜか外れ、日本にありながら日本に忘れられ時を過ごす森。アキトの記憶でいう、ナナヤの森。  偶然でもない限りひとが訪れることのできないこの森に、私はジャンプでやってきた。アキトの記憶をたどって。  ここには、あのひとがいる。  今のアキトの運命を、私とは別の意味で変えたひと。かつてのアキトの『歴史』にはいなかったひと。イネスさんと同じ金の髪。  アルクェイド・ブリュンスタッドさん。そのひとの家の玄関に私はいた。  いまどき珍しいすっごい和風建築。藁葺き屋根。玄関の向こうに|三和土《たたき》が見える。木連にもたぶんなかったろう完全に純粋な和風建築だ。  それもこんな森の中。すごいなあ。血筋でいえば日本人の私やアキトの方がまるで外国人みたいな気がする。 「ごめんくださーい」  純和風のその家には呼び鈴なんかない。だから私は呼びかけた。 「はーい」  綺麗な女のひとの声。アキトの記憶通りだ。パタパタと音がして本人が現れた。 「いらっしゃい。ユリカさん」  女のひとは、そう言ってにこやかに微笑んだ。 「…………」  すご……アキトの記憶ごしでも綺麗だと思ったけど……反則すぎ。  美しい金髪を後頭部で結いあげていた。おもむろに古いけどきちんと手入れされた割烹着。西洋人である彼女の体型にあわせて仕立てられたそれは、本来似合うはずのない彼女に実によく似合っていた。  なんというか……和装がここまで似合う実物大の西洋人形ってなに?って感じ。ほんとにこのひと生きてるんだろうか。そう思えてならないほどのとんでもない美しさだった。  まぁ、中身が異国情緒にあふれすぎてるせいで、和服姿がまるでどこかの少数民族のように見えてしまうのはご愛嬌。  その不思議なお姫様は、私をなんだか面白そうに見ている。 「……あの、どうして私のことを?」  そんな思いとは裏腹に、私の口は素直に疑問点を述べていた。アルクェイドさんはアハハと笑うと、 「だって、ここに来られる『人間』なんていないもの。私の直接の縁者はみんな死んじゃってるしね。それに貴女」  そう言うと、ちょっと困ったように目を細めた。 「貴女の事は知ってる。アキト君の記憶で見たもの。やっぱり来たのね」 「やっぱり……ですか?」  うん、とアルクェイドさんは微笑む。なんというか寂しそうな笑みだ。 「アキト君をああする時にね、私言ったの。貴方はきっと私を怨むわって。やっぱりこうなっちゃったか……ま、そうよね」  なるほど。私がいつか来るだろうとこのひとは予測してたわけだ。  そして、アキトがそれを望まないだろうことも。 「あら」  と、その時、アルクェイドさんの目が面白そうに細められた。 「えっと、何でしょうか?」 「……さっちんの呪縛にかかってるわね貴女。へぇ、大したものねえ。かりにも死徒二十七祖よあの子。その呪縛に抵抗しながらここまで来るなんてね」  さっちん、というのは……ああ、逆時計さんって「さつきさん」だったか。  まるで大昔の女学生みたいなネーミングに、つい私は笑ってしまった。 「怪我の功名というべきでしょうか。遺跡のナノマシンのおかげです。私の能力じゃありません」  アルクェイドさんがどれだけ遺跡について知るかはわからない。でも私は素直に答えた。  対するアルクェイドさんは、うんうんとにこやかに笑うだけだ。 「そうみたいね。それにずいぶん無理がかかってる。このままじゃ死んじゃうわよ貴女。……取ったげよっか?」 「できるんですか?できるなら是非」  私はこういう『力』がなんなのかよくわからない。だから解除なんて無理、というかどうするのか想像もつかない。  いいわよとアルクェイドさんは言うと、すいっと私に手をのばした。 「!」  一瞬、全身から火花が散った気がした。頭がクラクラした。  だけど、ナノマシンの蠕く独特の不快感がゆっくりと落ち着き、そして……消えた。 「……」 「……どう?楽になった?」 「……はい。あ、ありがとうございますっ!」  私はアルクェイドさんに、ぺこりとおじぎをした。       「さて」  家の中は、アキトの記憶から考えても随分と質素なものだった。  アキトは目がよく見えなかった。今はだいぶましだけど、ここに御世話になっている時点での視覚映像はどれもピンぼけもいいとこだった。だからアルクェイドさんの顔はともかく、どうでもいい家の中の雰囲気なんかはよくわからなかったんだけど。 「殺風景でごめんね。ここは昔、志貴……私の夫が使ってた部屋なの。居間はちょっと魔具やなんやでごちゃごちゃしてるから」  マグというのはなんだろう。何かの道具みたいだけど。ま、いっか。 「何かあったんですか?お引っ越しか何か?」 「んー……」  アルクェイドさんは、ふと私を見た。 「予感の正体は貴女だったってことか。いえね、しばらく千年城に引っ込もうかって準備してたんだけど、そのくせ生活用品とかは持っていこうって気がしなくてね。なんでだろうって自分でも不思議だったんだけど」 「???」  アルクェイドさんの言い回しは婉曲的だった。ちょっとわかりづらい。  これがお父様や軍のひとたちとの会話なら読むのは難しくない。だけど私はアルクェイドさんの背景やなんやについてはアキトが知る程度しか知らないわけで、何を言いたいのかどうもよくわからない。  私の疑問に気づいたのか、アルクェイドさんはにっこりと笑った。 「すぐにわかるわよユリカさん。  で、どうするの?私としてはあまり賛成したくないけど……アキト君のあとを追いたいんじゃない?貴女」 「はい」  私はもちろん即答した。 「……」  アルクェイドさんの顔はだんだんと渋くなっていった。何かを考えるように「う〜ん」と悩み、「まぁ、そうよね」と頷き、うんうんと何かひとりで納得してる。  わけのわからない私は、完全においてけぼりだ。完璧な西洋美女の百面相という意味では見てて面白いけど。 「あの……」 「ん?ああごめん。そっか。そうよね。やっぱりそうくるか。  でもねユリカさん。貴女、自分の言ってることの意味わかってる?」 「はい」  私はそう言うと、アルクェイドさんの顔をまっすぐ見つめた。 「私、夢を見ました」 「……は?」 「アキトの夢です。どういうわけかわからないけど、アキトの『歴史』を見ました。とんでもない苦労をして、ボソン・ジャンプで時まで越えて。何も知らない私やルリちゃん、ラピスちゃんたちをまもって自分だけ不幸になって。そんなところを余さず……たぶん全部」  笑うだろうか。笑われてもいいや。そう思って私は言った。だけど、 「……なに?どういう事それ?」  さすがだ。いい意味で期待を裏切ってくれた。 「私にもよくわからないです。でもわかります。あれはアキトの記憶。私が見たのは。だからここの位置もイメージできて『跳べた』わけですし」 「…………レンか。しまった!」  やられた、と言いたげな顔をアルクェイドさんは浮かべた。 「それはねユリカさん。レンの仕業よ」 「レン?ああ、アキトが連れ歩いてる女の子ですね」  アキトはユーチャリスやラピスちゃんの代わりに、レンちゃんという相棒を得た。人体実験の犠牲者であるラピスちゃんと違いレンちゃんは生粋の「こちら側」の存在。機動兵器に乗らずたったひとりで戦う今のアキトには欠かせない相棒なんだけど。 「あの子は夢魔なの。最近はかなり能力があがってきてて、白昼夢を見せたり認識撹乱したり、相当に悪魔じみて来てるけど本来はサキュバスに近い者だわ。物理戦闘力はないけどアキト君の戦いにはいい相棒でしょう。護衛の者を全部無力化して、余計な犠牲を出さずに目的の人物だけを仕留められるんだから。  アキト君とレンは契約してる。貴女は元奥さんだし精神面の結び付きも強い。アキト君が死徒化した事もあるんでしょうね。アキト君だけで収まるはずのレンの影響が、貴女にも延びてるんだわきっと。私にはナノマシンとか遺跡とかそのあたりの理屈はよくわからないけど、何か結び付きのようなものを感じるもの。  参ったなぁ。レンを彼につけたのは私の差金なのよね。……とんだ大失敗だわ。志貴が生きてたら『このばかおんなーっ!』で怒鳴られてるわねきっと」  弱ったなぁ、とアルクェイドさんは力なく笑った。私はちょっと申し訳ない気がして、つい言葉をかけた。 「それは仕方ないですアルクェイドさん。たとえアルクェイドさんの言う通りだとしても本来なら、私がアキトの夢を見る『だけ』ですんだはずなんですから。  単に私の中のナノマシンが、夢をただの夢としなかった。それだけの事です」  実際その通りだ。単に夢を見るだけなら私に打つ手はなかった。 「……なるほど」  アルクェイドさんは私の話をじっと聞き、そして納得したようだった。そして、 「ん、気にいった」 「……はい?」 「アキト君もたいがいだけど貴女も同じね。似た者夫婦ってことか」 「は、はぁ」  いきなり何言い出すんだろこのひと。 「わかったわ。貴女の望むようにしたげる。そのかわり私の言うこともひとつだけ聞きなさい。あのね」  アルクェイドさんはそう言うと、ふたりっきりなのに『ないしょ話』のリアクションをして見せた。  そのさまがまるで子供みたいで、失礼と思いつつ私はつい笑ってしまった。 [#改ページ] 捕獲[#「 捕獲」は中見出し]  ホシノルリ昏倒事件から、一ヶ月が過ぎていた。  そこは日本の某市。とある『火星の後継者』幹部のひとりがひっそりと拠点を置いている場所である。  時間は夜。深夜というには少し早いがこのあたりにはもう人影もなにもない。ひとならぬ者が活動するには申し分のない時間だった。 「……」  じっとその屋敷の前に立っている、黒ずくめのアキト。  本来、それは索敵でやる事ではない。だがアキトには関係ない。レンを伴っている限り、姿を隠さずとも誰も彼を認識する事ができないからだ。  見えないのではない。見えているがそれは背景と同じで注意の対象になっていないというだけだ。 「……」  アキトの傍らにそのレンはいた。いつもの黒いドレスにリボン。無表情に屋敷をじっと見ている。 「……なんだろう。この屋敷はどうも変だな」  アキトはふむ、と腕組みをした。  見たところ、普通の建物である。いささか古風であるが軍人の家としてはおかしくない。和風建築であり元木連軍人の家としても珍しい構図ではない。  だが何かがアキトの神経にぴりぴりと触れていた。予感がある。  そも、いつもならこうしてじっと観察しているなんてありえない。前準備ならともかく今は本番決行前だ。こんな時にこんな場所でじっとしているほどアキトも馬鹿ではない。いくらレンの感覚欺瞞があるとはいえまさかの事態もありうるのだし。  しばしアキトは悩み、そして「ふっ」とためいきをついた。 「……まぁいい。ターゲットが中にいるのはわかってるんだ」  何があろうとアキトが引く理由にはならない。少なくとも今まではそうだった。  腰にある非常用の銃、それに短剣を確認する。アキトは「簡単に死ななくなった」事といくつかの能力向上を除けば結局人間と変わらない。まともに戦闘になれば武器に頼る事になるのだからこれらは手放せない。 「さて、いくかレン」  かたわらのレンに声をかけようとして、アキトはふとレンの態度に気づいた。 「どうしたレン?何かあったのか?……なに?」 「……」  彼女は言った。「この建物は魔術の気配がする」と。  アキトはしばし絶句し、そしてふたたび建物を見た。 「……そうか。これが魔力の気配って奴なのか」  そも、ごく普通の青年だったアキトに魔術の知識や経験があるわけがない。そして火星の後継者も同様なわけで、アキトはそういうものに触れるのはアルクェイドの家以来はじめての事だった。  そしてアルクェイドは、魔術をかけておいたり魔力を蓄積する必要がなかった。『世界』から事実上無制限も同然の力を引き出せるのだからそんな必要もなかったわけだが。  いやそれはいい。問題は別にあった。 「……魔術師の家、ということか?なんでそんなとこに元木連の軍人がいるんだ?」 「……」 「え?違うのか?」  アキトの言葉にレンが首をふった。魔力があるからそう考えるのは早計だと。 「……なんらかの魔術の仕掛けがあるってことか。なるほどな。しかしそれは」  何かの罠があるかもしれない、ということだった。  アキトはしばし考えた。危険な場所にレンを伴い行く事を考え、今の状況を考え、……そして、 「……じゃあレン、君はここに居てくれ。俺だけで」  そこまで言いかけた瞬間だった。 「!」  かたん、と右手のほうで足音がした。アキトがハッとその方向を見た途端、 「やっと気づきましたか。まぁ、そうでなくては張り合いがありませんね」  柔らかな女の声が、風のように響いた。      それは女だった。クラシックなデニム上下を身にまとい、眼鏡をかけた長髪の女。あまり厚い生地ではないらしく、そのどちらかというと豊満な体型がはっきりとわかる。だが身長が結構あるため、豊満でありながらスレンダーにも見える。日本人ではあまりいないタイプの美女だ。  それが、にこにこと笑いつつレンとアキトを見ていた。 「……貴様」  刹那、アキトは気づいた。言葉とかそれ以前に気づいた。 「この屋敷の気配の元は、貴様か」  魔術師という言葉をアキトは使わなかった。それ以前にアキトには確証があったからだ。  ──この女はヒトではないと。  素人のアキトでもわかるほど、凄まじい違和感を女は発していた。ヒトというよりバケモノ。|怯気《おぞけ》がするほどの圧倒的な魔力の固まり。 (なんだ、こいつは)  アキトは無意識に一歩前に出た。レンをかばうためだった。 「なんの用だ」 「……私自身はなにもありませんね」  ふむ、と女は値踏みするかのようにアキトを上から下まで見た。 「私が来たのは単に頼まれたからです。貴方を叩きのめせと。なに、殺しはしません。なるべく殺すなとも言われてますから」  にこにこと物騒窮まりない事を女はのたまった。 「……ふん」  アキトは、自らの裡で鳴り始めた警告に舌を巻いた。  ──危険だ、と。  ──あれは洒落にならない。今の我らでは勝ちめはない。逃げろ、と。 「誰か知らないが酔狂につきあう趣味はない。すぐに立ちさ──」  立ち去れ、とアキトが言おうとした瞬間だった。  ごふ、と鳴ったのはアキトの喉。アキトの周囲に一瞬風が吹き、 「!」  次の瞬間、アキトは遙か後方の塀に叩きつけられていた。 「!!!!!!」  凄まじい衝撃だった。もしアキトが死徒に変化してなければ、全身の骨という骨が砕けて即死したかもしれないほどのものだった。 「…………ぐあ」  なんだ、何が起こったと思いつつ目を開けたアキトだったが、 「!!」  女はさっきまでアキトの立っていた場所……つまりレンの隣にいた。 「大丈夫ですか?かなり手加減はしたつもりなのですが」 「……」  嘲笑っている様子はない。それどころか、なかば本気で心配しているようだった。 「死徒化しているというので少し力を入れすぎたかもしれません。貴方は通常の死徒とは違い年月による能力付加がほとんどない。迂闊にも失念していました」 「……どこまで本気なんだ、貴様」 「さあ?  とりあえず武器は使わない方がよさそうですね。さもないとあなたを……?」  と、その時、まだ同じ場所に立ったままのレンが何かを女に語りかけた。  会話の内容はアキトには聞き取れない。だがレンは何か非難するように女に語り、また女はそれをきちんと聞き応対しているようだった。暴漢にしてはやけに礼儀正しい。  そして、レンは申し訳なさそうな目をアキトに向けた後……ふたりから少し離れた。 「……レン?」 「彼女は理解してくれたようです。まぁもとより戦っても彼女では私に勝てませんが。私も一応夢魔としての能力がありますが彼女にはさすがに及びません。しかし反面、物理攻撃能力のない彼女では真っ正面から私に拮抗」  拮抗できない、と女が言いかけた瞬間、アキトが動いた。ようやく起き上がったような体勢で腰の銃を引き抜くと、パパパッとまるで機関銃のような早さで自動拳銃を速射する。狙いは女の頭から胸にかけて。  だが。 「!?」  弾丸は全て、女の背後の先にある門や壁に命中した。外れかと続けて撃とうとしたアキトだったが、 「これはいい腕ですね。全弾命中ですか。まぁ、なんの概念も施してないただの弾丸では無駄弾にすぎないのが残念ですが」 「なんだと!?」  女は、驚くアキトを楽しむようにクスッと笑った。 「私には実体がないのですよ。  この身は霊体が強大な魔力により固定されたもの。なんの概念も施していない弾丸などでは攻撃なぞ不可能です。  貴方には私が見えている。ならば、直接攻撃は可能でしょう。もっともなんの概念も施されていない貴方の攻撃方法では、私を傷つけるのは不可能ですが」 「……貴様、本当に何者だ」  これは勝てない、とさすがのアキトもわかった。攻撃方法がない以上はどうにもならない。  だが、今は逃げるにしても正体は知っておかなくてはと思っての問いだった。  はたして、女はまたもや笑った。その問いを待っていたかのようだ。 「私ですか。そうですね、それには少し長い話が必要になります。  貴方は西洋の神話を御存じですか?ギリシャ神話ですが」 「……すまん、知らない」  火星出身でありあまり勉強もしなかったアキトはギリシャ神話の知識なぞなかった。  果たして女は、ふむ、と少し考えてからアキトの方を見直した。 「では詳細な説明なぞ無意味なのでやめておきましょう。  肉の身を持たない理由を言えばそれは私が既に死者であり、とある者に200年ほど前に召喚されたからです。  そしてここにやってきた理由は」  そう言うと、女の身体から浸み出すように闘気があふれ出した。 「貴方の目を覚まさせてあげるためですテンカワアキト。  貴方が討とうとしているここの人物は確かに火星の後継者に関係していた。しかしそれは過去のことです。彼はこの土地に骨をうずめることを決め、孤児院を開いてそのオーナーに収まりました。あなたがたの言う蜥蜴戦争や火星の後継者の乱で出た孤児を集めた孤児院です。私の関係者もそれらの創立には関わっている。  過去はともかく今の彼は違う。それでも貴方は彼を討ちますか?」 「それは知ってる。しかしそいつは裏で」 「裏の顔はもちろん知ってます。ですがそれがどうだというのです?汚職行為は悪ですが、それも全てこの地域のためにやっていること。裁く権利があるとすればそれはここの住人であり、貴方ではない。  どうですかテンカワアキト。それでも貴方は彼を討ちますか」 「……」  アキトは何も返事をせず、銃を腰をホルスターに仕舞うと代わりに短剣を出した。  対する女はまたもや笑った。しかし今度は嘲笑に近い笑いだ。 「なるほど。自分を囮にし、戦うふりをして跳躍で逃げるおつもりですか」 「……」  ずばり作戦を読まれていた。 「よしなさい。貴方は機動兵器に乗るいわば|騎乗兵《ライダー》だった者。私も乗るものこそ違いますが似たようなものです。広い場所での戦闘速度に関しては誰にも負けるつもりはない。  跳躍には行き先のイメージが必要なのでしょう。そのための時間を私が与えると思うのですか」 「!」  次の瞬間、女はアキトの目の前にいた。 「がっ!!」  そしてまた次の瞬間、アキトは壁に叩きつけられていた。背後の壁にひび割れが走った。 「がはっ!……ぐ……」  アキトの口からたらりと血がこぼれた。  死徒であるアキトは血を通常ほとんど流さない。その肉体は通常の生物としては死亡したまま時間を止めているからだ。  そのアキトが血を流す。それはつまり肉体が破壊され、その部分にある血がこぼれたという事だった。  意識が保てない。手も足も出ないまま、アキトの意識は既に落ちかけていた。 「……脆弱ですね。お話にもなりません。まずは気絶なさい」  そんな他人事のような声が最後に、アキトの耳に響いた。    あまりにも手応えのない相手に、|女《ライダー》は退屈していた。  なりたての死徒とはいえ跳躍という未知の技能を持ち、木連式柔という武術を使う存在。本来武闘派ではないが|騎乗兵《ライダー》というクラスで召喚された者である彼女は、久しぶりに面白いものが見られるかと密かに期待もしていたのだが。 「……残念ですね。もう少し年数があれば、よい戦いができたでしょうに」  男の秘めた素質を彼女は侮っていない。戦闘速度の違いさえなければ、特殊な体術を持つわけではない女はアキトに負けた可能性もある。優れた体術とはそういうものだし、それに死徒としての能力がプラスされれば、たとえ彼女であろうとも油断のできる相手ではなくなってしまう。  つまるところ、アキトが負けたのは『時間』のせいだった。 「さて、なるべく殺すなとは言われていますが……どこかに放置するにしても危険すぎますねこれは」  女は少し困った顔でつぶやいた。そして、 「仕方ありません。ずっと見張っているわけにもいきませんし、とりあえず手足を切断し動けなくしておきましょうか」  そう言った途端、じゃらんという金属音と共に彼女の手には巨大な鎖つきの釘のようなものが握られていた。どこかから取り出したような気配はない。  そのまま女はアキトに向かって振りかぶり──── 「!」  が、女は突然にピクッと反応すると一瞬で10mほど飛び下がった。同時に女のいた場所の空気が輝き、揺らぎ─── 「……」  そしてそこには、両手を大の字に広げアキトをかばうようにユリカが立っていた。 「……あら」  女の顔が、おもしろいものを見つけたと言わんばかりにほころんだ。 「なるほど、今のがボソンジャンプというものですか。彼を守りに来たのですね……ミスマルユリカ、でしたか」 「いえ違いますライダーさん。テンカワユリカです」 「……」  間髪いれずに名前を訂正するあたり、確かに彼女はユリカだった。  ユリカは一ヶ月前、ミスマル邸を辞した時と同じ姿をしていた。むむ、とかわいらしく怒り顔でライダーを睨む。ナデシコ艦長時代とまるで変わらない、恋する女の子の姿がそこにあった。 「初対面のはずなのですが……誰に聞いたのですか私のことを」 「それはお互いさまです」  なるほど、と女……ライダーは小さく笑った。 「今夜は面白いですね。  長い年月をここで過ごしてきましたが、こうも楽しいのは本当に久しぶりです」  本当にライダーはうれしそうだった。まるで親しい友人でも見るかのようにユリカを見つめる。 「さて、ミスマルユリカ」 「テンカワ、です。間違えないでください」  いちいち訂正を入れるユリカもユリカだが、しつこくミスマルと繰り返すライダーもライダーである。面白がっているのは明白だった。 「私は立場上、その男を処断しなければなりません。私はこの国の国家権力などとはまるで無関係の存在ですが、この町を守る者に手を貸し暮らしているのですから。  ミスマルユリカ、その者から離れなさい」 「お断りします」  ユリカは毅然と言い放った。 「貴女は彼以上に弱い。戦う手段などまったくない。それでも、ですか?」 「はい」 「……」  ユリカの真剣な顔を、ライダーはなぜか満足そうに見ていた。  ユリカは直接戦う能力など持ち得ない。ライダーと拮抗する力など持たないはずである。  しかしライダーは動かなかった。ユリカの発する雰囲気に何か思うところがあったようだ。 「……何か隠してますねミスマルユリカ」 「もう!テンカワです!いいかげん覚えてください!」  場違いな非難に思わず失笑しそうになったライダーだったが、 「!」  その瞬間、何かを感じてハッと空を見た。 「……」  そしてユリカは対照的に笑う。ぼう、とその顔にナノマシンの輝きが光の刺青のように走り出す。 「……これは」 「気づかれました?はい、その通りなんですよライダーさん♪」 「これを貴女が!?いったいどうやって!」  先程までの余裕が嘘のようにライダーが慌て出す。対するユリカはウフフ、と余裕の笑みを浮かべたりしている。 「ご存知のように私じゃライダーさんと戦うなんて無理です。ううん、それどころかアキトを守りぬく事なんかできない。  だから私にできる事を考え、実行しました」 「……」  にこ、とユリカは笑う。毒のない笑み。  しかしそれはかつてのナデシコクルーが何度か見た事のある『もっとも危険な時のユリカ』の顔でもあった。  つまり、『天才的艦長』の時の顔である。  ナノマシンの輝きがユリカの全身にひろがる。そしてそれに引きずられるように、ユリカの瞳もまた、黒曜石の黒から魔の赤い輝きに変わった。  それは、死徒の証。 「火星の極冠遺跡にアクセスして、手頃な小惑星をひとつ別の場所にボソン・ジャンプさせました。普通ならいくらジャンパーでもそんな無茶苦茶もちろんできませんけど、私は一度遺跡に融合させられましたから。今でもリンクは切れてないですし、ひとでなくなった今はナノマシンの暴走くらいじゃ死にたくても死ねません。だから」  にまあ、とユリカは笑った。もしアキトに意識があったらたぶんギョッとしたろう。それほどまでに剣呑な「微笑み」だった。 「ユリカ流特製『月落とし』です。まぁ、かつてあったという本物の月落としに比べたらたぶんおもちゃみたいなものですけど。  あ、ちなみに私を殺してももう遅いですよライダーさん。狙いはこの町のど真ん中ですし」 「な……!!」  今度こそライダーは完全に固まってしまった。 「正気ですか貴女は!そんな事したら」 「はい、死にますねみなさん。周囲40kmくらいは無人の荒野になりますし、影響は数百キロ彼方まで及びます。ここは都心じゃないから人工密度もそれほどじゃないですけど、二百万人くらいは一瞬でお亡くなりになると思います。  苦労したんですよこれでも。遺跡ができるのはあくまでジャンプの制御であって事象の制御じゃないんです。ですから並行世界や過去・現在の記録を探しまわって、使えそうなジャンプの制御をひとつ狂わせて近くの小惑星を巻き込むしかなかったんです。  おかげでその世界では、連合軍の一個中隊がランダムジャンプで全員お亡くなりになっちゃいました」 「……」  にこにこと笑いながらとんでもない事を言い出すユリカに、ライダーはあいた口がふさがらなかった。  信じられなかった。  ライダーだって過去には恐ろしい地獄を見ている。たくさんのひとを殺しそれを顧みない者も見ているし、逆に長い間罪の意識に苦しんだ者も見てきている。  だが、目の前のか弱そうな女は違った。 「……恐ろしい女ですね貴女は。神代の頃すら、たったひとりの男のために国ごと代償にするような化け物はそうそういなかったというのに」 「引いてくださいライダーさん。貴女が去れば小惑星を安全圏に転移させます。承服してくださらなければ、このままアキトを連れて私だけ逃げます。  この町には貴女の大切なひとたちがいるんでしょう?」 「……」  ライダーは一瞬だけ躊躇し、そして身を翻した。  そして歩きだす前、 「負け惜しみもありますが、ひとつだけ忠告しておきます」 「はい」 「……彼を連れ去ったら即座に身を隠しなさい。そして、二度と日のあたる場所を歩いてはいけない。彼とふたり、静かに暮らすといい。  貴女は危険すぎる。その能力と才覚を二度と使ってはいけない。使えばそれは貴女の身の破滅になるでしょう」 「ありがとうございます」  ユリカは笑みを消し、真剣な顔でライダーの後ろ姿に向かっておじぎした。 「大丈夫ですライダーさん。こんなこと、きっと二度とありませんから」 「……そう」  そのままライダーは、じっと立ったままのレンの横をぬけ音もなく歩いて去っていった。  遠ざかるライダーのつぶやきは、誰にも聞かれる事はなかった。 「……力は力を呼び寄せる。気をつけなさいミスマル、いえテンカワユリカでしたか。私にはそれしか言えない」        日本を突如として襲いかけた正体不明の巨大隕石は、地球の重力圏にかかり墜落中に突如として消え去った。  消える際に多量のボソンが確認された事から、すわ、ボソン・ジャンプかと騒がれた。しかしあまりの規模の巨大さに専門家は口を揃えて異論を唱えた。もしかりにボソン・ジャンプであるとすればそれは蜥蜴戦争の頃の影響ではないかと。つまり、無人兵器などによる度重なるジャンプにより空間のどこかに歪みがあり、隕石はそれに落ちてどこかに飛ばされたのではないかというのだ。  むろん、そんなトンデモな意見は正式には却下された。しかし他に原因が考えられないことから、偶然にも何かのジャンプ事故に巻き込まれて消えたのだろうという説がゆっくりと広まっていった。その瞬間に火星の遺跡観測所が、遺跡全体が輝くかのような激しい反応を二度も観測しているのもその説を後押しし、そうしているうちにだんだんと事件は風化し、忘れられていった。  だが、動いた者たちもいた。魔術に携わる者たちだ。  彼らは『黒い夜魔』の噂がパタリと止まったのと隕石事件が同時なのに気づいた。しかも隕石が落ちるはずだった地域はかつて魔法使いやそれに近い大魔術師をも輩出したあの町がある。隕石落下を止めたのがかの魔道翁シュバインオーグであるという噂も広まった。何より日本には200年も前からかの真祖の姫君も住み着いており、神話時代の英霊を使い魔にする魔女が住むとも言われていた。  全ての事象が魔術師たちに「騒げ」と命じていた。  それらの事件は今回のそれとは直接関係ない。ライダーという女が何故アキトの前に現れたのか、そもそも彼女が何者なのか、そして彼女の身内とは何者なのか。全ては謎であり誰にも知られる事はなかった。  それらはいずれ、別の機会に語られる事になるのかもしれない。    そしてそれきり、ミスマルユリカとテンカワアキトは永遠に人々の前から姿を消した。 [#改ページ] エピローグ(1)「再会」[#「 エピローグ(1)「再会」」は中見出し]  小さな和室。敷かれた布団の中、アキトが眠っている。  ぼろぼろの身体がゆっくりと回復していく。ジャンプでこの部屋にたどり着いた時、アキトの服はあちこち破れ、ひどいものだった。だからわたしはそれを躊躇なく脱がした。恥ずかしい気持ちも少しはあるけどまぁかまわない。だってアキトだし。他には誰もいないし。  静かな夜だった。  ここはナナヤの森。そう、アルクェイドさんのおうちの離れ。 木々が時おり風にそよぐ音以外は何もない。主であるアルクェイドさんもしばらく留守にするそうだし、この離れは好きにしていいといわれてる。  ここには、なにもない。  蜥蜴戦争も憎しみも悲しみも……そして夢も希望もたぶん、ない。誰もいないここではアキトにできる事は何もないし、何もする必要もない。走って、走って、走り続けたアキトのここは終着駅。  でもいい。だってわたしがここにいるんだから。 「……む」 「あ、おはよアキト」  起きたらしい。だるそうに頭をあげ、ぼんやりとわたしを見る。 「……?ユリカ。仕事はいいのか?」  わ、ぼけてる。なんだかなあ。 「おつかれさまアキト。もう大丈夫だよ」 「……え?」  不思議そうな顔をするアキト。むっくりと布団を持ち上げ起き上がり、自分とわたしを交互に見て、 「……ちょっと待てユリカ。いったいどういう事だ」  ようやく事態を理解したらしい。わたしの顔をまじまじと見た。 「簡単だよアキト。あのライダーさんってひとからアキトを助けたの」 「……そうか」  何か言いたげにわたしを見たアキトだったけど、結局黙った。 「いちおう礼を言っとく。助かった。  だが、どうやってあの女を斥けたんだ?あれはまともじゃない。俺でさえ敵うわけもない相手だったのに」 「わたしが戦ったんじゃ勝てない?」 「ああ」  なるほど、確かにそう思うよね。  わたしは自分のとった作戦について説明した。  最初アキトは冷静に聞いていた。だけど次第に顔が怖くなってきた。特にわたしのとった戦法『月落としもどき』の事になると呆れも通り越したのか完全に怒り顔だった。そして、 「……馬鹿!何考えてんだおまえはっ!!」 「あ〜、馬鹿ってひどいなアキト。愛するわたしにそんなこと言うの?わたし、アキトの奥さんなんだよ?」 「ばっ……おまえは……このっ!」  わ、びっくり。アキトったらわたしに手をあげるの?  だけど、いくら死徒でもアキトは病み上がり同然。いくら「なりたて」でも100パーセント絶好調のわたしなら対処はできる。  アキトの手をつかまえた。もがくアキトを押し倒し両手を抑え付けた。布団がずれてアキトの全裸が露出して、 「……!」  その時になってようやく気づいたらしい。自分が全裸で、わたしが下着姿だということに。  ちなみにわたし、ぱんつ履いてない。スリップ一枚だけ。 「お、おいユリカ」 「ん?なに?」  息がかかるほどアキトに密着する。シルクの下着ごしにアキトの下半身をこすってあげる。たちまち、むくむくと元気になるアキト。  わたしはというと、つんと立った乳首も透けてるし、アキトのおちんちんこすってるのはわたしのおヘソの下あたり。薄いから下手に素肌触れ合うよりも淫靡というか感覚がダイレクトというか。 「アキト。生命力が枯渇してるでしょ。していいよ」 「いやまてユリカ。おまえ話を誤魔化して」 「お話なら、しながらすればいいよアキト。衣食足りて礼節を知るっていうでしょ?今のアキトはまず食べなくちゃ」 「いや、それなんか違うし」  アキトには今、生命力が枯渇してる。吸わなくちゃ滅びてしまうだろう。  そして、生命力の吸引や蓄積といった能力はわたしの方が向いているようだ。わたしは戦うような力に乏しいかわりに、こういう能力が真っ先に目覚めたらしい。もしかしたら遺跡のナノマシンのせいもあるかもしれないけどこのへんはわからない。ナノマシンもちの死徒なんてわたしとアキトくらいしかいないし、アルクェイドさんもそんなことを言っていた。  古代火星文明。  単なるテクノロジーならこんな事にはならないだろう。たとえばサイボーグ化した人間が死徒になったとして、機械化した部分と死徒としての要素がうまく折り合えるとは思えない。その場合は機械化された部分がこぼれ落ちてしまうだけだろう。  でも、遺跡のナノマシンは違う。  ナノマシンは生命と同一化する。ひとのココロとも結び付きその意志を翻訳・代弁する。だから死徒化という現象と折り合ってしまうんじゃないだろうか。元の肉体といっしょにナノマシンも影響を受ける。結果としてナノマシンは人間であった時と同様、あるいはそれ以上に働いてしまう。  そう考えれば、わたしのジャンパーとしての能力が変化したのにも納得がいく。もともと人間と古代火星人はずいぶんと異なる存在だという事がわかっている。その人間にも適合できるナノマシンだ。死徒化して強靭になった肉体はむしろ都合がいいのかもしれない。地球の医療用ナノマシンと違って遺跡のナノマシンは人体を補強しない。そればかりか人体のリソースを食いつぶして活動する困ったさんなんだから。  まぁ推測にすぎないけど、そうとしか考えられないのも事実。 「あ」  わたしが考えごとしているうちにアキトは動き出していた。  あべこべにわたしが今度は抑えつけられる。M字開脚させられ、そこにアキトのものが押しあてられる。 「ん、んっ!」  いつのまにかわたしも興奮してたんだろう。乱暴にグイグイと押し込まれるアキト。もう何年もしてないのに、少しばかり痛くて苦しいだけで、それはあっさりとアキトを飲み込んでしまった。 「あ……アキト、乱暴……!」  返事のかわりに、カチカチに硬くて熱いものが、ズンとわたしの中に突きこまれた。股間がアキトに密着した。ぱん、と肉のあたる音がする。  あ、だめ。なんか腰ぬけたっぽい。いきなりどうして、とか思う間もなく、無遠慮に動き出すアキトに身体が反応する。突かれるたびに軽く逝きかけてるのがわかる。意識がみるみる遠のく。抵抗もなにもできない。  もしかしてこの身体のせい、と思った時はもう遅かった。  わたしはなすすべもなく、無力にアキトに身を預けた。        ここでちょっとレンちゃんの話をしよう。  レンちゃんはもういない。アルクェイドさんが連れていってしまったからだ。  あの後、アキトを連れてあの町を去ろうとしたわたしにレンちゃんは言った。『タッチ交替』って。わたしはアキトが寂しがると思って、せめてアキトが目覚めるまで居てって言ったんだけど。  そしたらレンちゃんは言ったの。『チーズケーキ、おいしかったって伝えて』って。ちょっと名残り惜しそうに微笑んで。  もともと、アルクェイドさんたちがレンちゃんをアキトに託したのはアキトの救済のためだったという。アキトは基本的に小さい女の子にはとても甘い傾向があるんだけど、あれって心理的には『癒し』だったりもするんだよね。わたしだってハーリー君とか可愛いと思うし人間、かわいい異性の子供に出会うとどうしても甘くなると思うんだ。  だから、たったひとりで戦うアキトにせめてもの慰めとレンちゃんを預けたらしい。結果としてレンちゃんのもつ特殊能力によりアキト大活躍の巻になってしまったんだけど、実はそれは彼女たちの本意ではなかったらしいんだ。  それが終わった。それはつまり、わたしがいるからということらしい。アキトが戦い続けることについてはアルクェイドさんたちもずいぶんと心配してくれてたらしいの。つまりこれは彼女たちにとっても、絶好の機会だったんだろう。  本来縁もゆかりもないアキトをそこまで心配してくれるなんて……。いくらお礼を言っても足りないと思う。 「ねえアキト」 「ん?なんだユリカ」 「アキトはこれからどうしたい?残党狩りを続けるっていうのはナシで」 「……」  先に釘をさしておく。アキトはきっとそう言うに決まってるから。 「レンちゃんも帰っちゃったわけだし、今までのようなわけにはいかないよ?」 「それなんだけどさ。本当にレンは帰ったのか?弓塚さんとこに?」 「うん。今までありがとうって言ってたよ」 「……う〜ん」  アキトが悩むのも無理はないと思う。でもそれは事実だ。 「でもなユリカ。こんな身体になっても生き延びたのはそもそも、残党狩りを続けるためなんだぞ。今さらやめられると思うか?」  まぁそれも事実。さすがに吸血鬼じゃコックさんにはなれないだろうし。  ただそれはアキトの真実。アルクェイドさんはそんなつもりでアキトを変えたんじゃなかった。  それに、わたしが変えてもらう時にした約束もある。 「ん〜でもねアキト。わたしたちにできる事はもうないと思うよ。  ルリちゃんもラピスちゃんも普通に幸せになれると思う。あとは本人たち次第だね。わたしだってアキトの側にいられるわけだし、とりあえず任務完了ってとこじゃないかな」 「……」  納得できそうにない顔でアキトはまた唸った。  だけど、これは事実。現時点で残ってるひとたちは、元火星の後継者とはいえまともなひとたちばかりだ。彼らは二度とあんな事件は起こさないと思う。  本当に、アキトはここまで走り抜けてしまったんだ。途方もない犠牲を払って。 「しかし、俺としてはとても不満なんだがな」  でもアキトは言う。わたしを見て。 「それはもういわないって約束したよねアキト。そのために三日も好きにさせてあげたんだよ?まだ不満なの?」 「……」  気まずそうに顔をそむけるアキト。まぁ、わからないこともないけど。  わたしのやってきた事を聞いたアキトは、もう激怒くらいじゃすまなかった。泣くわ嘆くわ、もう大変だった。  なにより、わたしがアキトを追って死徒になったのがお気に召さなかったらしい。わたしに怒り、そしてわたしを変えたアルクェイドさんに怒った。そのままアルクェイドさんのとこにジャンプして行こうとしたんだけど、わたしがジャンプをキャンセルしてしまったからまた怒った。もう大噴火もいいとこだった。馬鹿女だのふざけんなだの、言いたい放題だった。  だけど、わたしをぼこぼこ殴ったって死徒を人には戻せない。それに事情もある。アキトは怒りのやり場もなく、がっくりと落ち込んでしまったのだ。  だからわたしは言った。気がすむまで好きにしていいよ、と。ただし戦うのは認めないから、そのぶん全部わたしで発散しなさいと。  いやぁ、その……大変だったんだよほんと。まる三日だもん。はぁ。アキトってば鬼畜なんだからもう。カチカチのおちんちんでね、もう嫌って言っても聞いてくれないんだよ?  あは、でもちょっとかわいかったなアキト。子供みたいにむしゃぶりついてきて離してくれないの。うっふふふふ。もうアキトったら〜。あそこ、まだヒリヒリ痛いけど。ま、なくした時間を取り戻すって意味じゃ有意義だったと思うよ、うん。だってわたしたち新婚初夜にしたっきりだったんだから。  あっといけない、話戻すね。 「でもねアキト。それって|わたし《ユリカ》の意志を無視してない?」 「!」  弱いとこ突かれた、といわんばかりに渋い顔をするアキト。 「わたしの幸せを考えてくれるのはうれしいよアキト。でもねアキト、考える方向がそもそも間違ってるよ。愛するわたしを手許に残すって選択をどうして考えないのかなもう。そんなに浮気したいの?」 「……いやユリカ、それなんか違うって」 「ルリちゃんやラピスちゃんは妹みたいなものだから仕方なくあきらめるとして……あ、でもアキトの『歴史』ではラピスちゃんとも同衾はしてたんだよね。ルリちゃんにも随分好かれてたみたいだし、イネスさんやエリナさんとも関係してたんだよね。  うわぁ、アキトってばストライクゾーン広いんだね〜。あっちのわたし、よく怒らなかったなあ。ある意味すっごい」 「だ、だからユリカ。おまえなぁ……」 「レンちゃんとは契約の時に一回したっきりなんだっけ?あとはずっとお口だけなの?どうして?まぁわたしみたいに胸ないし、アキトってばおっぱい星人?ルリちゃんはひんにゅ……スレンダーだからつまみぐいしなかったとか?」 「だぁぁぁぁぁ、ひとの話を聞けぇ〜〜っ!」 「きゃっ!いたた、痛い、痛いよアキトっ!いきなり何するのっ!」  あいたたた。よくわからないけど、いきなりアキトにぽかぽか頭叩かれた。う〜、乱暴ものぉ〜。  だけど、アキトはやっぱりあきらめられないみたいだった。 「……どうしても戦いたいの?」 「ああ」  アキトはきっぱりと言った。  そっか。……うん。じゃあやっぱり仕方ないね。     「じゃあアキト。耳貸して」 [#改ページ] エピローグ(2)「追跡」[#「 エピローグ(2)「追跡」」は中見出し]  ユリカとアキトが邂逅を果たして、しばらくたった夜。  場所は佐世保の一角。連合軍極東司令部の一角にしつらえられたルリの部屋。灯りは消えているが、住人はまだベッドの上で天井を見ていた。 「ルリ、まだユリカを追いかけるつもりなの」 「ええ」  問いかける、いくぶん幼い声。その声にルリは答えた。 「あんなこわい目にあわされたのに……?」 「恐い目にあわされたから、です」  きっぱりと否定する声が闇に響いた。  夜ということもあり、灯りのないルリの部屋は真っ暗だった。戸口の方にサカナ模様の小さなオレンジの常夜燈があるが、それ以外に光るものは何もない。そしてルリのベッドは決して大きなものではない。  窓から辛うじて洩れてくるあかりもあるが、ベッドの上はほとんど照らしていない。  もしも夜目のきく者がいれば、シーツの中のルリの傍らにピンクの髪の少女がしがみついているのが見えたろう。甘えんぼの妹分に優しいルリは軍の中で待機中にも関わらず一切なにも身に着けていない。肌と肌を直接すり合わせる、密着感の高いふれあいを彼女、ラピスが求めるからだ。  ラピスは史実通り、実験体だったのをアキトに保護された。  硬くて透き通った試験管に閉じ込められていた過去のあるラピスは、それと正反対である人肌の感触をとにかく求めた。救助されてすぐの頃はたった六つだったこともあり、引き取られたマキビ家の者やまだ子供だったハリにくっついていた。が、さすがに十歳くらいになるとそういうわけにもいかないわけで、なんとか理由をつけてはちょくちょくルリに甘えにくるようになっていた。理屈ではない。ぬくもりがないと眠れないのだ。 「あなたこそどうなんですかラピス。私と違って貴女はアキトさんに特別な感情を持っているはずです。そのアキトさんが何やら正体も知れない存在と化し、ネットごしに私を狂わせダウンさせたわけですが。ユリカさんを追わせないために」  ルリの言葉には、少し刺があった。  このルリはアキトの知る「あの」ルリではない。彼女の一番はユリカであり決まった異性の相手も今はまだいない。倒れた自分を介護してくれたマキビ・ハリの地位は以前よりあがったが、それはあくまで今のところ「親しいおともだち」の範疇での話だ。男と女の感情に進化する可能性も残っているが少なくとも今日明日の話ではない。  そんなルリである。ユリカを追うなと妨害までかけてきたアキトに当然反感を覚えていたし、仲良しとはいえアキトに助けられ、アキトに好意を抱いているラピスには複雑な思いも抱いていた。 「子細はわかりません。アキトさんに何が起きたかなんて私にはわからない。まさか噂通り、本当に吸血鬼になっちゃったなんてこともないでしょうし。それに」  ふう、とルリはためいきを吐いた。 「かりにその通りだとしたら、なおさら私は動かなくちゃいけないんですよ。ユリカさんが今どこにいるのかわからない。もしかしたらもうユリカさんも捕まって、アキトさんのようなものに変えられちゃってるのかもしれない。  だけどまた間に合うかもしれないですし、変えられてたとしても今は23世紀です。薬物や特殊なナノマシン投与による異能の顕現なら治療の手もあるかもしれません。少なくとも、まだ諦めるには早すぎます」 「……ふ〜ん」  闇の中で、探るような視線がルリをとらえていた。 「なんですかラピス?なんか問題点でも?」 「ユリカが好き?」 「……随分と直球な質問ですね」 「答えは?」  ラピスはルリより子供である分、なんでも解答を得ずにはいられない傾向が強い。  人間、なんでも白と黒にはっきり分類できるなんて思えるのは精神的に未熟な証とも言える。清濁そのままに受け止める事ができるのは成熟した大人の行為であり、それができないのは子供と狂信者くらいのものである。いわゆるプロ市民もそうだが彼らは狂信者と利益団体の混合なので一律に分類はできない。  閑話休題。  ルリはそんなラピスに微笑んだ。ラピスを子供のカテゴリーに置いているルリにとり、この反応は可愛いと感じられたようだ。 「好き、ですか?そりゃあ好きです。私にとっては|義姉《ねえ》さんという事もありますけど、それだけじゃないですね。  ナデシコの頃から私はユリカさんが好きでした。あのひとほど天才という言葉がぴったりくるひとを私は知りませんし、また天才であることの裏返しなんでしょうか、好きな男性のことになると人が変わったように馬鹿まるだしになる。そんなとこも好きです。  それに、ミナトさんと並んで当初から私を可愛がってくれたひとのひとりですし」  確かにその通りである。  だが、『今回の』ユリカは『史実の』ユリカ以上にルリを構い続け手元に置きつづけた。アキトがそうさせたからだ。ユリカとルリが仲良くしている構図をアキトは好んだし、ユリカとふたりの時もルリがくれば、さりげに身を引いてふたりの時間を増やすよう演出を凝らしていた。そうする事によりずっと未来に、行方不明の自分を思い詰めたルリが追い回すような、そんな危険な事態を防ぎたいという意図もそこにはあった。  自分のことは鈍いのに、相手のことになると思慮深くなる。それはアキトの性質であり、『史実』で何人もの女性に思いを寄せられたアキトの根源でもあった。  そんなアキトをルリは知らない。 「ユリカさん、やっと普通の暮らしに戻れたんです。いくらアキトさんだって、これ以上ユリカさんを苦しめる権利はないはずです」 「……」  断言するルリを、ラピスはじっと見ていた。  もしこのベッドルームが明るかったら、ルリは不審に思ったろう。いつものように甘えるラピスだったが、その目線は少し大人びて見えたろうからだ。 「?」  さすがに雰囲気で気づいたのか、ルリが首をかしげた瞬間だった。 「!」  キシュ、と独特のサウンドを立てて空中にウインドウが開いた。オモイカネシリーズのものだ。  そして、つらつらと報告のようなものが流れ出す。 『報告。天文台からのデータ分析完了』 「……天文台?」  ラピスが訝しげな声を出した。ルリは微笑んだ。 「天文台が天空ばかり見ているというのは早計ですよラピス。素粒子観測のための技術は天文台の技術にも通じるんです。ぶっちゃけ、一般に天文台とされている設備のいくつかは、地上を流れるボソンなどの観測にも使われているんですよ。  それらは軍用とは違うため独自の情報源でもあります。軍では無用と切り捨てる情報も彼らは分析対象にしますからね。  さて」  ルリは口元を少し引き締め、そして言った。 「オモイカネ、サブロウタさんに連絡を。反撃開始です」  その顔は、かつてのユリカにどこか似ていた。      二時間後。  まだ夜明けには早すぎる深夜。ナナヤの森。 「ユリカ、まだか?」 「う〜ごめんアキト。もうちょっと待って〜」 「……急ぐことはない。慎重にな」 「ありがと、アキト」  月夜に浮かぶ暗い森。それを背景にした広場。遠くにはエステバリスの残骸のようなものが草に半分埋もれている。以前アキトが落ちてきた場所だ。  そんなところ。一本の木陰になぜか白いテーブルセットがあった。ポットとカップもあり、紅茶がまだ湯気をたてている。  死徒となったふたりだが、味覚がないわけではない。食べ物の好みなどは激しく変わったし紅茶の味も以前とは違って感じるものの「お茶を楽しむ」という行為には問題ない程度の差異であった。死徒は流水を苦手とすると聞いていたのだが、この程度のものなら問題ないらしい。  なお、テーブルセットはふたりが運び出したものではない。二世紀近く前にアルクェイドのために彼女の夫が設置したものであり、今でもアルクェイドの手で手入れがされているものだ。 「……」  ユリカの顔に、ナノマシンの輝きが走り回っていた。  そんな彼女の反対側に座り、心配そうに見ているのはアキトだ。片手に紅茶のカップ。自分が手伝える範疇ではないのだが、それでも心配で仕方ないといった表情を浮かべている。  満月。  その輝きは死徒のバイオリズムに影響を与える。特に、駆け出しの弱々とはいえユリカもアキトも『真祖の姫君』アルクェイド・ブリュンスタッド直系の死徒である事に変わりはない。主と同様に満月にはその能力が激しく向上する。死徒としての特殊能力を持つわけでないとはいえ全くの無意味ではない。特にユリカには『ナノマシンへのアクセス』という点で恩恵を与える事になった。  つまり、どれほどに遺跡へのアクセスを繰り返しても全く問題がないのだ。死徒の強靭な肉体はどんなナノマシンの暴走も抑えこんでしまう。そしてそれこそが、今日この日この晩を選んだ理由でもあった。  普段でも同じことができないわけではないが、この方がもっとも遺跡へのアクセスが短時間ですむからである。  遺跡へのアクセスは諸刃の剣。  ジャンパーがほとんどいない現在、不自然に動き続ける遺跡に疑念を抱かれるのだけは避けたかった。 「アキト」 「ん?」  ナノマシンの輝きを顔にはりつけたまま、ユリカがアキトに言った。 「周囲に気をつけて。連合軍の艦とか近くに来てない?」 「は?いやまてユリカ。それは問題ないだろ。ここに人間は近づけない」 「うんそうだね。わたしもそう思うよアキト」 「???」  不思議そうに首をかしげるアキト。微笑むユリカ。 「いいから気をつけて。わかってるアキト?わたしたち今、ここから火星にアクセスしてるんだよ?  まさかとは思うけど、感知されないとも限らないでしょ?」 「!そうか。わかった」  アキトは頷くと立ち上がり、エステの残骸の方に歩きだした。 「どうするの?」 「パッシブセンサーでも動くか試してみる。軍の探知網でもパッシブセンサーは捉えられないからな」 「……ん、わかった」  すたすたと歩き去っていくアキト。それを見てユリカは、ちょっと悪戯っぽい微笑みを浮かべた。 「そうだねアキト。軍の探知網では確かにひっかからないよ。普通はね」  そして空を見あげる。 「もう動いたかなルリちゃん。まってて。今ヒントあげるからね」  クスッ、と微笑み。  それはアキトも知らない『義姉モード』のユリカの顔だった。       『監視区域のひとつでエステバリスの起動を確認しました。過去に連合軍から盗まれたものです。機体の状態は不明、起動した理由も不明です』 「!」  ざわ、と艦内に緊張が走った。  ここはナデシコB艦の中である。元木連のタカスギ・サブロウタが艦長を勤める艦であるが、史実のB艦と違い実験艦的な色彩は持っていない。ナデシコ級の俊足パトロール艦となっている。  つい先ほどルリを迎えいれ、待機していた佐世保を飛び立ったばかりであった。 「いやなタイミングですね。まるで私たちが飛び立つのを待ってたみたいです」  ボソンの検出記録を分析し、怪しいと思われる区域の監視を頼んだのはルリだった。それと同時に、まだ正式に任務解除されてない事を盾にB艦出動と自らの搭乗も果たしたルリだったが。  まさか飛び立ってすぐにこんな事になるとは、さすがに予想していなかった。 「サブロウタさん、このポイントに向かってもらえますか」 「そりゃいいけど……ここか?何もない場所だと思うが」  露骨に渋りだすサブロウタ。  それはナナヤの結界の力である。人間に注意を向けさせない、近づけないように巧妙に仕組まれている、その結果こういう反応を示すわけだ。  だが、ユリカとアキトの事で頭がいっぱいのルリにはそれが届かない。 「いいんですか?盗まれたエステが起動したという事はそこに起動者がいるんですよサブロウタさん。少なくともその人物を捕える必要があるはずです」 「む、確かに。それはそうっすね」  エステの事を考えた途端に頭の霧が晴れたのか、サブロウタは大きく頷いた。艦長としている時は出ないはずの、いつもの軽口までついて出る。  コホン、とひとつ咳払いすると胸をはり、重々しい口調で言う。 「本艦は只今より窃盗エステバリスの回収に向かう。搭乗者と戦闘になる可能性もあるため、これより戦闘態勢に移行する」 『了解』  刹那、全艦にサイレンが鳴りはじめ、モニタに写る外の景色が転回をはじめた。 「……はぁ」 「ん?何だい?ルリさん」  サブロウタにとってルリはずっと年下である。しかしナデシコ時代のルリを知ってるうえに彼はルリが子供扱いを嫌うと知ってるから、ちゃんづけは絶対にしない。  まあ、さすがにジゴロを気取る彼もルリに手を出すことだけはしないのだが、それはナデシコ時代のかわいらしいルリのイメージが未だに頭にあるからだった。  ちなみに関係ないが、今のルリは乗組員ではないからオペレータ席にはいない。サブロウタの隣のゲスト席だ。サブロウタが気をきかせてIFSコンソールを出させてはいるものの、ルリはオモイカネにちょっと挨拶をしただけで使っているわけではない。 「サブロウタさん、そうしてると熱血さんだった昔みたいですね」  その言葉を聞き、うれしそうに笑うサブロウタ。 「そう言ってくれるのはルリさんだけっすよ。ハーリーの奴なんか『元木連って言うから真面目で熱血漢なすごいひとだと思ってたのに』だしなぁ」 「ふふ」  人間、どう変わっても根っ子は変わらない。サバサバした江戸っ子堅気のサブロウタが女の子のあしらい方を知った、ようはそれだけの事なのだ。女の子の出入りが多く口調が軽くなり長髪キザ男っぽい姿になろうと、基本的な部分はやはり変わらない。  ルリはそんなサブロウタを見て、ふと懐かしいナデシコの空気をかいだような気がした。 「ルリ」 「なんですかラピス」  ルリのそのまた傍らにはラピスがいる。どうしてもとしつこく言うので仕方なく連れてきたものだ。  ラピス用まではさすがに用意できなかったのかオペレート用IFSコンソールはラピスの席にはない。そのかわり、本来のゲスト用である端末機がとりつけられており、ラピスはそれに付属する市販のIFSコンソールをさっきからいじっている。ルリのより機能が落ちるのでちょっと不服そうだった。 「本当にユリカを取り返すつもりなの」  語尾をあげず、淡々と問いかけるラピス。 「場合によりけりですよ、ラピス。  アキトさんの状況次第では、おふたりとも保護する可能性もあります。もっとも戸籍上では死人とはいえたくさんのひとを殺してますからね。特にユリカさん救出後のぶんについては言い訳の余地もありませんし」 「……」  ラピスはそんなルリを見て、そして悲しそうに首をふりつぶやいた。 「……理解されないって、つらいことだねアキト……」  ラピスのつぶやきは、歳相応のものとはとても思えないものだった。       「まずいっ!」  そんなアキトの声が聞こえた瞬間、じっと精神統一を続けていたユリカも顔をあげた。  ナノマシンの光芒はその顔から消えていた。 「どうしたのアキト〜っ!」  何があったかわかってるけどね、という表情で20メーターほど向こうにある半壊したエステバリスに向かって叫ぶ。少し間があり、 「最悪だ!ナデシコBが出てる!しかもこっちに向かってるぞ!」 「……え」  その瞬間、さすがのユリカもゲッという顔をした。 「うそぉっ!な、なんでぇっ!そんなの聞いてない〜っ!」 「?聞いてないっておまえ……まさか」  さすがのアキトもユリカの口調に何か気づいたようだった。黙って電源を全てオフにするとエステバリスを降りた。そのままユリカに向かって走ってきた。 「え?なに?アキト」 「ユリカ。おまえ何か隠してるだろ」 「え…な、なんで?」 「あのなぁ……」  ぽりぽりと頬をかき、アキトは溜息をついた。 「正直に言え。この状況で隠し事は命取りだぞ」 「え…」  ユリカの目が丸くなった。 「……びっくりした。てっきり、隠したこと怒られると思ったのに」 「そんな場合じゃないだろ。それよりユリカ、どういう事なんだ?」  ふう、とためいきをついてユリカは語った。 「あのねアキト、ルリちゃんだよそれ。  ルリちゃん、わたしたちのボソン反応らしいのを追いかけたんだよ。アキトが跳べることは知ってるわけだし、他にジャンパーなんてほとんどいないでしょ?軍の探知網には全地球のボソン反応をカバーできるものなんてまだないけど、ボソンの研究は今やあちこちの企業や大学でもやってるもん。検出さえできればオモイカネで分析もできるし」 「……しまった。そういうことか。じゃあ今エステを起動したので」 「うんそう。居場所教えたのとおんなじだね。……でもB艦持ち出したのはユリカも計算外だったな。ルリちゃんもう軍関係者じゃないのに。どうやってお父様を説得したんだろ」 「あー、それはわかるぞユリカ。おじさん、ルリちゃんを招聘した時の権限を削除してなかったんじゃないか?理由は知らないけどな」 「あ、そっか。利用しない手はないよねそれ。さっすがアキト」  すごいなー、とにこにこ笑うユリカ。対するアキトは当然ながら渋い顔をしている。  今このふたりの光景を、アルクェイドたちが見たらどう思うだろうか。  死徒である身。すでにひとでなく変わり果てたその身でありながら、ふたりはナデシコ時代の輝きを取り戻しているのだ。  カタチは違う。ありえた未来も全く違う。  だが確かにこの瞬間、テンカワアキトは救われているのだ。  しかしそれはそれ、今はふたりともそんな感傷にひたる余裕なぞない。 「さっすがじゃねえだろおまえ。ルリちゃん呼び寄せてどうすんだよ!今までの苦労が全部水の泡だろうがっ!」  がー、と怒るアキトにもユリカは涼しい顔だ。 「大丈夫だよアキト。もうルリちゃんは前線に立たされる事はないもの。アキトのおかげでルリちゃんたちに対する上の評価も変わってる。だからこそ今回だって軍属じゃなく、あくまで民間の協力者だったわけだし」 「だ、だけど」 「それよりアキト、最後なんだから挨拶しとかないとね。  大切な『義妹』なんでしょ?……もしかしたら辛い事になるかもしれないけど」 「……」  ユリカの言葉には、今のルリでないアキトの『史実でのルリ』のニュアンスが含まれていた。「前回」はジャンプ事故だったから誰にも挨拶なんかできてないから。  アキトもそれを感じたのだろう。しばし黙ったが、 「そっか……ありがとな、ユリカ」 「!」  ユリカはそんなアキトの素直な言葉にちょっとびっくりした顔だったが、 「あ、あははは、お礼なんていいよアキト。奥さんって旦那さまをサポートするものでしょ?ね?」  ちょっぴり赤面しながら、そんなことをのたまうのだった。        ふたたびB艦の|艦橋《ブリッジ》。  こちらでは目的地が近付くにつれ、慌ただしさが増している。エステバリス隊が配置につく。サブロウタは隊長を兼ねているが艦長職の方が今は優先のため、ルリやラピスと一緒にブリッジにいた。 「……感じる」 「?なんですかラピス?」  ふと、奇妙なつぶやきを漏らすラピスにルリが首をかしげた。 「アキトが近くにいる。わかる。あっち」  進行方向、その向こうにある森を指さす。 「それ、ラピスの能力ですか?原理はどういうもの?」 「……わたしにもわからない。でもわかる。アキトはあっちにいる」 「そうですか。まぁ、その予感が的中してくれればこっちも万々歳ですが」  ふむ、とルリが思索にくれようとした瞬間だった。 『こちら前方監視カメラ。前方の森の奥、広場になっている場所にふたりの人間らしき影を見付けました。距離およそ12km!』 「!衛星でも確認しましたか」  ルリは思わず反応した。しかし、 『あ、いえ、それはこれからです』 「急いでください。12kmなんて作戦行動距離としてはゼロも同然ですよ」 『あ、はい』  本来ルリにそんな権限はない。しかし妙に迫力のあるルリに相手の人間は思わず従っていた。  そんなルリを見ていたサブロウタは助け船を出す。 「ルリさん。俺が許可する。オペレータ任務についてくれるかな」 「え」  驚いた顔をするルリにサブロウタは微笑んだ。 「軍の評価はともかく、初代ナデシコをたったひとりで切り回してたのは事実だ。ナデシコ級と君の相性は最高でしょう?教育係の君としちゃ本望じゃないかもしれないけど。どうかな」 「……」  ルリは少しためらい、そして頷いた。 「わかりました。たぶん最初で最後ですが、やらせてもらいます」 「ああ、よろしく。  オペレータ。俺の権限でコンソールを全部オフ、ホシノ・ルリAI教育担当の卓に主制御を切替えろ。急げ!」  下の方でハイという声が次々に聞こえ、作業が始まった。 「20秒待ってくれ。それでOKだから」 「……コンソール切替えくらいわたしでもできますが」 「それはダメ」  サブロウタは片目をつむってみせた。 「それはハッキングになる。確かにルリさんならできるだろうけど、民間の君がそんなことしたら軍に徴用してくれって言ってるようなもんでしょ。  俺はテンカワの旦那、好きじゃなかったけどさ。ルリさんたちを戦争に巻き込むなって叫びつづけたあいつの言葉には賛成なんだ。  おっとできたみたいだな。じゃ、よろしく」 「……わかりました」  ルリは複雑な顔でお礼を言ってから、IFS卓に手を置いた。 「オモイカネ。前方センサーにひっかかってる人間の解析をあらゆる方面から行って。あと戦況分析。ここいらにあるはずのエステバリスの調査を急いで。B艦制御はあなたの裁量で。できるでしょ」 『了解ルリ。もちろんおまかせを』  だが、ルリが活動しはじめた時にはもう遅かった。  突然にオモイカネが警告を発した。ナデシコBに急制動がかかり、全艦に緊急事態警報が鳴り響く。 「な、なんですかオモイカネいきなり……!?」  『前を見ろ』という警告文字に従って前を見たルリだがその瞬間、その目が驚愕に見開かれた。 「な……!!」  いや、ルリだけではない。隣のサブロウタも、いや艦橋の中に全ての人間が驚きの顔で前方の光景に注視している。  ぽつん、とそこには機動兵器が浮かんでいた。  見る影もなく汚れ、蔓草や土くれが一面に張り付いたぼろぼろの旧式エステバリス。しかしついさっきまでそれはその場所にはなかった。それはまるでその場所に、突然に降って湧いたようにしか見えなかった。 「……跳躍してきた……まさか。あんなスクラップが」  ごくりと唾をのむサブロウタ。  エステバリスには跳躍機構はない。しかも中破したそれならなおさらだ。普通の人間には、いや誰であってもそれを自由に跳ばすなぞ不可能だ。  ……A級ジャンパーの手で跳んだ場合を除けば。 「……ほんとに生きてたのか」 「いえ待ってくださいサブロウタさん!まだです」  横でルリが叫ぶ。コンソールには膨大なデータが流れ、ルリの両手もナノマシンの光芒に光り輝いている。 「多量のボソン反応検出!戦艦クラスです!何か大きなものがあのロボットの下にジャンプアウトします!」 「なにっ!?」  ゆらり、と空間が揺らいだ。  軋む空間。耳障りなギシギシ音を伴い、透明で大きな戦艦のカタチをした蜃気楼のようなものがエステの下に現れる。  それは最初横向きで現れた。そして出現しながら位置を調整するようにくるりと半回転し、  そして、ゆっくりと蜃気楼が消えその姿を表した。その優美で、スマートで、白い花のような姿を。 「……ユーチャリス!どうして!」  そこにいたのは、爆発し消えたはずのユーチャリスだった。 『やっほールリちゃん。元気〜?』  いきなりブリッジのメインウインドウが開き、にこにこ顔のユリカがそこに現れた。  そこはボロボロだがエステバリスのコックピットらしかった。アキトの上にちょこんとユリカが乗っかっているカタチだ。なんとも仲がよさそうである。  ルリは一瞬、ぽかーんと呆けていたが、 「ユリカさんそこにいるんですかっ!早く、早くこっちへ!サブロウタさんすぐエステバリス隊を」  そう言いかけたルリだったが、 『だめだよルリちゃん。ユリカたち、もうすぐ消えるから』  そんなことを、のほほんとユリカは言ってのけた。 「消える?消えるってどういう事ですかユリカさん!」 『んーとねルリちゃん。遺跡が時間も空間も越えるって知ってるでしょ?  ユリカたちはね、これから遠くにいくの。  本来ボソンジャンプで知らない場所にはいけないんだけど、ひとつだけ抜け道あるの知ってた?それはね、行き先を指定しないでランダムジャンプすることなんだよ。  もちろん死んじゃう可能性もあるけど、アキトと一緒だから恐くないしね』 「な!」  ルリは一瞬言葉につまった。 「どうしてユリカさんがそんなことするんですか!拉致されてひどい目にあって、やっとこれから幸せになれるって時なのに!どうしてそんな、どこかに行っちゃうような悲しいこと言うんですか!」  ほとんど絶叫だった。生まれてはじめてといって間違いないほどの大声でルリは叫んでいた。 『そう。だからユリカはいくんだよ。アキトとふたりでいたいから』 「それだったら簡単じゃないですか!  そりゃアキトさんはテロリストの汚名着せられてますけど事情だってあります。それにすでにアキトさんは公式には死者でもありますし、なんとかなりますよ!いえ、なんとかしてみます!  だから、だからユリカさ」  そこまで言いかけた時だった。  突然ルリは横から口を塞がれた。え、と驚いた顔で横を見るルリだったが、 「……」  そこには、怒り顔のラピスがいた。 「(ら、ラピス)?」  もごもご、とくぐもって声にならない。しかしラピスには聞こえたようだ。 「……偉そうにいわないでルリ」  ぼそ、と不快そうに顔をしかめたラピスは、ぐいとルリを押し退けるようにルリのIFS卓についた。 「ひさしぶりユリカ。アキトと話させて」 『あ、ラピスちゃん乗ってたんだ。よかった〜。アキトが最後にすごく逢いたがってたからどうしようかって思ってたんだよ?  アキトアキト、ラピスちゃんだよ』  ユリカが身をよじらせ、アキトが顔を出した。 『……ラピスか。元気だったか』 「うん、アキト」  死んでいたはずの相手の再会とは思えない淡白ぶりだった。  ルリはそんなラピスを不思議そうに見ていた。無言でルリを押し退ける事といい、いつものラピスとあまりにも違っていたからだ。 「アキト」  そんなルリに気づいているのかいないのか、ラピスは言葉を綴る。 「どこに行ってもいい。幸せになって」 『あ?ああ』  そんなラピスにアキトも戸惑っているようだった。 「アキトに助けてもらったこの命、大切にする。  もういいよアキト。わたしたちはもう大丈夫。今度はアキトがアキト自身の幸せのためにがんばるの。ユリカとふたり。今度こそ間違っちゃダメ」 『え?今度こそって……!おいまさか』  驚愕に目を丸くしたアキトを無視し、ラピスは呼びかけた。 「ユリカ行って。  オモイカネβ。『|ラピス・ラズリ《わたしの名》』を知ってるなら一度だけお願い聞いて。ユリカのセットした通りにジャンプするの。アキトの言うことは聞かないで」 『了解ラピス』  B艦のものとは違う、白いウインドウがラピスの前に開く。画面左下に、寂しそうにうなだれた|黒いロボット《ブラックサレナ》の絵柄つきである。まるで別れを惜しむように。 「だだっ子。でもがんばってね。さよなら」 『はいラピス。さようなら』  そう言うと、キシュンっとウインドウが閉じた。 『そんなバカな!まてラピス、やめろ!ユリカ止めろ止めてくれ、ラピスがっ!』  画面の中で暴れ出すアキトを、ユリカが懸命に抑え付けていた。そしてルリたちの方に向いて笑い「バイバイ」と手をふったかと思うと、 「!」  あっけにとられているルリたちの前で、ユーチャリスの姿はゆらぎ、どこかへと消えてしまった。 「……」 「……」 「……」 「……ラピス」  完全に固まったブリッジの中、最初に動いたのはルリだった。 「……どういうことなんですかラピス。何を知ってるんですか貴女は。最初から全部説明してください。いえ、説明なさい!」 「……」  ラピスは、大人びたためいきをほうっとついた。 「教えてもいいけど」 「教えなさい」 「いいけど……聞いたらきっと後悔するよルリ。知らない方がいいって事もあると思う」 「馬鹿いわないでください。わたしは当事者です。  たとえ貴女が持っている情報がなんだったとしても、わたしは聞く権利が、いえ、聞く義務があるはずです。  ……どうやらわたしは、完全に蚊帳の外に置かれてたようですし」  がっくりと肩を落とすルリ。悔しさが全身からにじみでていた。 「……それは私も一緒だよルリ。ただわたしは『知ってた』だけ。それも、思い出したのはほんの二ヶ月前だし」 「二ヶ月前…?ユリカさんがいなくなるより少し前ですね」 「うん、そう」  ラピスはブリッジにいる者たち……サブロウタや他の面々も見回した。 「わかった。話してあげる。  それはね、ひとつのお話。未来から過去に跳んで大切なひとたちを助けようとがんばった、傷だらけでぼろぼろの、黒い王子さまのお話だよ」 [#改ページ] エピローグ(E)「黄昏・アキトとユリカ」[#「 エピローグ(E)「黄昏・アキトとユリカ」」は中見出し]  火星。  しばらく前にたくさんの戦いが起きた星。今はその戦いも終わり、人々の暮らしの光が戻っていた。  ユートピアコロニー。ささやかながら夜にも明るい景色。おそるべき戦いも切りぬけ今も人々の暮らす町。地球の飛び地であったのが事実上の地球の撤退によりその|軛《くびき》から抜け出し、自治区として活動を開始していた。  ……『過去』ではありえなかった『全滅してない火星』である。 「こんばんわ奥さん。こんな時間にお子さんのお迎えですか?」 「!あらテンカワさん。まだ明るいのに出歩いて、お身体の方は大丈夫なんですの?」 「ええ、日はもう暮れましたからね。にしてもこんな時間までお仕事なんて大変ですね。よければお送りしますよ」 「まぁ、いつもすみません。火星の英雄に護衛していただけるなんて」 「よしてくださいよ。俺たちはなんの力もないです。地球から独立を勝ち取ったのは火星のみんなの力ですから」 「はいはい」  黄色い制服を着込んだ青年が上品そうな婦人と歩いていた。  青年の目は赤い。ひとでない事を示す目だが婦人はそのことを恐れてはいないようだ。  火星の夕焼けが、ゆっくりとひろがっていた。  街角にはまだ戦争当時の名残りがある。あちこちに『化け物を見付けたら通報を』という古い地球連合のポスターもまだあるし、同時に『火星の新しい子供たちを守れ』という少し新しい張り紙も見られる。  そして『来たれ新人類。火星守備隊』という最新のポスターも。 「あの、ひとつ質問してもいいかしら」 「え?あ、はい」  婦人の突然の質問に、青年は顔を婦人に向けた。 「どうして貴方はうちの子を守ってくださったのかしら?あの時は聞きそびれてしまったんですけど…」 「さあ、俺にもわからないです。  ただいえば……うれしかったのかな。ほら、俺たちって普通のひとにはやっぱり恐がられるでしょ?太陽の下には出られないし血を欲しがるし、人間離れした体力はあるし。大人なら病気だってわかってくれるけど子供にはやっぱ化け物ですもんね。なのにあの子はみかんをくれた」 「あら、火星病は風土病じゃないですか。火星に長く住めば誰でも発病する可能性がある伝染病。火星生まれなら百パーセント発病してしまう不治の病。新しい移民がなくなったのも地球が火星を封鎖しようとしたのもそのせいですもの。あの子も軽度だけど発病してますし」 「そりゃそうですけど……」  困った顔をする青年に、婦人は微笑んだ。 「そんな顔なさらないで、テンカワさん。全てはこれからですのよ。独立した火星がこれからどうなるのか。やるべきことはたくさんあるんですもの」 「……そうっすね」 「さ、そんな暗い顔はおしまい。またアイに笑われますよ?」 「あはは、確かに」  テンカワアキトは頭をかいて苦笑いを浮かべた。      この世界で、火星病なるものが発生したのはつい最近のことだった。  なんらかの理由で大気中のナノマシンが変容を起こしたのだといわれた。それは人間の身体を内側から改変し、火星に適応過剰な個体へと変えていった。  赤い目。寒さに適応できる強い身体。遠くの町へも瞬時に跳べる特殊能力。そして、それと引き換えに太陽に弱く血を欲する。まるで吸血鬼のような性質から当初は吸血病とまで呼ばれた。  当然多くの研究者がこれを調べた。火星は人間が宇宙に広がる重要な実験地のひとつ。異星にひとが適応するにおいて未知の風土病の発生は予想しうる事であり、全力を注いで調査が行われたのである。  その結果、むしろ奇妙なことがわかった。  ひとを怪物化しているといわれたナノマシンだが、やっているのはむしろ逆だった。確かにナノマシンは細胞を変化させるのだが、変化された以降は役割ががらりと変わるのだ。むしろ健康な細胞を吸い上げ食い尽くそうとする汚染細胞を抑制し、両者の共存のための役割を果たしていたのである。  つまり火星にいて普通に暮らす限り、火星病は利点にしかならない。  当然地球の政府や企業が、火星のひとびとをまるごと実験台にしようと乗り出してくる……はずだった。  だが地球政府は突如として方針を変えた。火星への援助を打ち切り、今いる研究者たちの帰国も全て禁じてしまった。噂では、既存の防疫体勢では火星病の制御も地球への侵入も止められないと判断したからといわれるが真偽は不明である。また危険とされたにもかかわらず、問答無用で火星を焼き払い病根を絶とうという意見すら途中でかき消された。確かに出たのだがそれ以前に地球に何かが起きたらしい。定期便も戻ってこなくなった。  そしていつしか、地球火星間の連絡も完全に途絶えてしまった。  隣の惑星ではあるが、火星と地球は遠い。事実はわからずじまいだった。        婦人の子供としばし会話を楽しんだ後、子供が母親をつれて家まで跳躍するのを手伝った後、アキトは家まで戻ってきた。 「ただいま、ユリカ」 「あ、おかえりアキト」  ユリカはエプロン姿でにこにことアキトを出迎えた。 「アイちゃんどうだった?アキト」 「元気だったよ。もうジャンプを手伝う必要もないかもな。イメージも安定してるし」 「そう。よかったね」 「ああ。で、そっちはどうだ?ユリカ」 「うん、ばっちり」  ユリカは悪戯っぽい笑いを浮かべた。 「ひさしぶりに核ロケット見つけたよ。アメリカ製みたいだったから月のステーションにジャンプさせてあげちゃった。今、月の工場は無人だから人的被害はゼロだね」 「またかよ。ったくいいかげんに地球もあきらめればいいのに」  ふう、とアキトはためいきをついた。 「さすがにあっちも限界だと思うよアキト。地球は今それどころじゃないもの」 「どうしてだ?もしかして、ユーチャリスでこの間サツキミドリ叩いたのがそこまで効いたのか?」  不思議そうなアキトの問いかけに、ううんとユリカは首をふった。 「あっちで火星病が流行してるんだよアキト。発病前に地球に戻ったひとたちが原因だね。地球には火星のナノマシンがないからそれって死徒化するのといっしょだもん。どさくさまぎれにこっちの世界本来の死徒さんたちも影で動いてるみたいだし」 「うわ……」  アキトは渋い顔をした。ユリカはウフフと笑った。 「これが中世ならむしろよかったのかもだね。人間も少ないし、吸血種と化したと判断したらどんな手を使っても社会からつまみだして抹殺することもできたはずだし。そして後は、そういうのの専門家に任せればよかった。  でも今はそうはいかないでしょ。病気の人間を問答無用に殺すなんてできないし、ためらっている間に次から次へと犠牲者は増えていくの。インフラは壊れ研究はストップする。社会を維持するのでせいいっぱいなんだよ。  ナノマシンがなければ火星病の根絶は難しくない。だいたい火星病自体は死徒のような汚染能力はないんだもの。だから今の患者さんたちを完全隔離するか全滅させれば流行は止まるはず。だって地球にある火星のナノマシンは、火星帰りのひとたちの体内のものだけなんだから。  だけどそれができない。だから止まらない。  つまりそういうことだよアキト。地球はもう火星どころじゃないの。うかうかしてると彼ら自体が滅亡しかねないってわけ」  植民先のものが本国を汚染する。人類の歴史では珍しくもないことだった。  いつか人類はその「降って湧いた災難」を乗り越えるかもしれない。だが嗜好品やただの病気ならともかく「ひとがそれ以外に変質しそれが一方的に伝染する」なんてものに対処するのは大変なことだろう。かつての死病と違って患者はいなくなったりしない。いわば火星病は高機能性障害であり、生きつづけて人間社会から離反し吸血者と化す。ナノマシンがあれば吸血はしなくなるが今度は歩く汚染源となるうえ、なぜか突如として跳躍してしまうから閉じ込めることもできない。  完全に対処するには変質した部分を無理矢理にでも切り離す、あるいは変質そのものを受け入れる、つまり地球圏自体を火星と同等機能のナノマシンで汚染するくらいしか方法はない。しかしどちらの道をとるにせよ文明は一時的に大きく後退する。宇宙に再進出するのはだいぶ先のこととなろう。  ここに人類の歴史は大きく変わったといえる。  だが。 「これって……やっぱり俺たちのせいなのか」 「え?アキトは関係ないよ。強いていえばわたしのせいじゃないかな」  ふるふる、とユリカは首をふる。特に深刻そうな顔はしていない。 「死徒化したわたしがナノマシンと相性いいのに遺跡が気づいて、わたしの情報を使って似たようなものを作り始めたってことだと思う。オリジナルの死徒さんたちみたいなすごい能力はないけどね。必要ないもの」 「……そうか。死徒そのものってわけじゃないのか」 「そりゃそうだよアキト」  納得顔のアキトにユリカは微笑むと、そっとアキトを抱きすくめた。 「遺跡が望むのは自分を活用してくれる存在であって、滅ぼすことじゃないんだよ。現にいま人間は死ぬか、ナノマシンを受け入れるかの選択を突き付けられてるわけでしょう?かつての『史実』みたいに火星を特別区扱いしたり遺跡の存在を隠したりすることもできない。これはある意味、人間がみんな遺跡とつながっちゃうってことだもの。  たぶんね、火星病患者はジャンプ事故の発生率も低いと思うよ。誰もが使えるインフラでそんな危険があったら使えないでしょ。あらかじめ制限がつくことで『この時間』から飛び出しちゃうようなことが起こらないようにも工夫されてるんじゃないかな」 「より使いやすいジャンプの波及、それによる悲劇の回避ってわけか……」 「あはは、ちょっと複雑だねアキト」 「ああ、そうだな」        ユリカが目指した世界、それは……『ふたりが平和に生きられる世界』だった。  それを最優先に選んだ結果がこの世界である。遺跡はあるが木連はその発見前に事実上の消滅。滅びたのではない。戦争以前に木連の存在が明らかになり交流がはじまり、木連の人々は急速に地球周辺や火星に移住。そのため戦争自体がその意味を薄めてしまったからだ。  その背景には『運悪く』暗殺や病死で次々にVIPを失い力をなくした地球の旧支配層の存在があった。 『史実』で木連の存在を隠し通した地球政府がこちらの世界では強い強制力を持ち得なかったこと、火星の遺跡発見や研究が遅れていたことがそれらの現実を後押ししていた。両者は『未知の遺跡を解明する』という目的の元に手を結んだ。なぜならその『遺跡』は途方もない年月を越えて今も生きていたからだ。早急にその機能や危険度を解析しなくては何が起こるかわからない。そんな科学者たちの思いが世代交替した若い両政府を動かした。歩み寄りを急速に進めたというわけだ。  だがそれはある時点で頓挫してしまった。そう、火星病のはじまりだ。  火星は閉鎖された。といってもバリケードを築いたわけではない。地球側が火星との交流を一方的に絶ち、火星から渡航しようとする者がいれば問答無用で撃墜する。そんなカタチで断絶は行われたのだ。  つまりそれは、防疫のためだった。  火星を一度焼き払おうという話も出た。原因はともかく人間を書き換えているのは変質したナノマシン群といいうのは判明していたから、元の赤い星に戻ってしまったとしてもナノマシンを全て焼き尽くすべきだと。中に住んでいる全ての人間もろとも。どのみち汚染された者を『救う』術はないからと。  それはある意味正しい。伝染病の流行を防ぐために村ごと全滅させ焼き尽くした歴史くらい人類史にはいくらでもある。星ひとつ焼き尽くすくらいなんだというのだろう。人類全てが滅びるのに比べれば安い代償には違いない。  だがそれも無理だった。  突如として現れた白い謎の戦艦。明らかに地球タイプのデザインでありながら木連の艦に酷似した武装をもつもの。それが邪魔をした。爆撃船団は撃ち落とされ、ひっそり放たれたミサイルは行方不明となる。そればかりか突然月やコロニーが全滅してしまう。戦艦がなんらかのカタチでミサイルを火星病患者のように『跳躍』させているのではないかとも言われたがさすがに誰も信じなかった。火星病患者は跳べるには飛べるがそれは本人のみにすぎないし制御も確かではないわけで、戦いの道具にするなんて不可能だと思われたからだ。『史実』では『人間を跳ばす』ことに躍起になっていたがこの世界では逆だった。彼らにとって跳躍とは『死病に憑かれた人間だけができる』異能であり、人間より大きな『機械』を跳ばすなどできたとしてもずっと未来の話だった。ネルガルやクリムゾンの研究者たちをして「もしそんな事をしてるというのならぜひ原理を教えろ。ていうか俺たちに研究させろ」と本気で言わしめたほどには非現実的な話だった。  そして、それらについて調査をはじめる前に地球はそれどころではなくなった。早期に火星から戻っていた人々から次々に火星病患者が出たからだ。ナノマシンのない世界では『ヒトのカタチ』のみが変容した彼らはまさに暴走した。夜ごとに徘徊しひとの血を求める現代のノスフェラトゥ。22世紀も末に近いこの時代に突如として吸血鬼の徘徊する悪夢が降臨したのである。  火星はあきらめることとなった。  一方、白い戦艦の搭乗者……つまりユリカとアキトは火星に迎えられた。ふたりは既に人間ではなかったが火星に広がる火星病と彼らは区別がつかなかったし、この世界の火星の空気が死徒としての能力をある程度抑圧するかわりに吸血衝動も止める効果をもつのはふたりも経験で知っていた。なによりユーチャリスは定期的に火星にこっそり降りて、そのナノマシンを含む空気を補充して運航されていたのだ。  それはふたりにとって地獄に仏だった。吸血はやはり悲しいことであったから。  とにかくふたりは「『全滅した別の世界の火星』から跳躍事故で飛ばされてきたユートピアコロニーの住人」という微妙に正しく微妙にずれた説明で皆に理解された。大変だったろうと労われ、そのまま住人として受け入れられたのである。彼らは自暴自棄になった地球の残留軍などに対する警備隊にその戦艦とともに参加。むろんたったふたりと戦艦一隻ではさすがに大活躍とはいかなかったが、それより死徒として、ジャンパーとしての経験が大きかった。ふたりは『死病』に悩む火星病患者に跳躍のコツを教えお飾りだった火星守備隊を再編成したのである。  残留軍人で火星への帰化を望む若手(彼らも患者だったり家族に患者がいたわけだが)を加え、ついには残留軍人たちを全滅させ火星の事実上の独立を勝ち取った。西暦2200年のことである。  「アキトとユリカ」に戻ったふたりはここにいたり、やっと一般人の暮らしに戻れることになった。  二度にわたる過去へのボソンジャンプを行ったアキト。途中から合流し自分の世界を捨ててきたユリカ。共に払ったものは甚大だがなに、ふたりは孤独ではない。お互いにさびしさを埋める相手がいて、共に手をとりあえる。誰かを傷つける必要ももうない。それでいいではないか。  誰も予想もしなかったカタチではあったが、ふたりは今、しあわせだった。 「あーきーと♪」 「ん?なんだユリカ……っておいっ!」 「んー。ただいまのキスがまだだよ」 「おまえなぁ……」  そこに目を閉じて、子供のように口をすぼめて待っているユリカ。呆れたように照れるアキト。そんな光景を含めて。 [#改ページ] エピローグ(E)「黄昏・残された人々」[#「 エピローグ(E)「黄昏・残された人々」」は中見出し]  ネット上にひとつの物語が流れていた。  それは『伝説』だった。ボソンジャンプ時代の幕開け時代、その犠牲になった青年の物語。悲劇を嘆き時まで越えた彼は、元の歴史で巻き込んでしまった家族だけでもせめて普通の暮らしにと奔走を続けた。そして苦労は実り家族は救われたが彼本人は居場所を失い、今度は彼自身の救いを求めてふたたび去っていった……。  それは都市伝説にすぎない。  だが、ある種のネット上の噂はそのまま全地球レベルで広がり物語となる。もはや事実かどうかなど問題ではない。各国語に翻訳され本が刊行され、一部は美談として映画にもなった。そしてそれは人々の心にしっかりと刻まれたのである。SF作家の創作にすぎない|宇宙詩人《ライスリング》の語ることばが多くのひとびとの心を掴んだように。  本人たちは姿を消した世界。しかしそこには、彼の望んだ平和な世界が今も求められ続けていた。多くの「想いを紡ぐ者たち」の手によって。     「売れてるみたいですね、『跳躍と少年』」 「だね。でもその邦題はいまいちだとおもう。どうして『ジャンパーと家族』にしなかったの?」 「日本人は西洋人ほど家族という言葉を主張しないんですよ。いい意味でも悪い意味でも」 「ふう〜ん。スコーンいる?ルリ」 「いります。ていうかよこしなさい。はじめて作ったものは年長者に味見させるものですよラピス」 「いいけど、意外といけるよ?ルリの作った変なのとは違う」 「む、変なのとはなんですか。誰だってはじめては失敗します」 「わたしは失敗してない」 「……むう」  スコーンを口にいれたルリは絶句する。確かにおいしかったからだ。 「はい紅茶」 「ん」  それでもやっぱり可愛い妹分。その作ったものに嬉しそうなルリである。普段は無表情なルリが頬染めて顔を綻ばせている。  そんなルリがわかるラピスも満足そうである。  ここだけの話、ラピスの趣味はルリのクールフェイスをぶっ壊してお笑い担当にすることである。悪意ではない。ラピスいわく「ルリはもっと活発な方が可愛い」なのだ。妖精という愛称はいい意味ばかりではない。そこには「人間と違う」という意味もあるのだから。  早い話、ぱんつまるみえで抱腹絶倒する女性を妖精と形容するひとはいないだろう。実際はルリもかなりの情熱家だし敬愛するユリカに似て笑い上戸な面もあるわけだが、イメージとは得てしてそういうものだ。ラピスにつれられ銭湯通いをしたとしても、『妖精、銭湯へ』という微妙なイメージが流布するだけだ。まず本人のイメージを変えなくてはお話にならない。  そんなわけで『ルリを普通の女の子にする作戦』がラピスの手で続々進行中だった。今のところ微々たる成果しかないが、裏で発行されている妖精ニュースなるファンクラブ会報でもラピスの行動は高く評価されている。  いや、「パンチラはまだか」「萌え〜」とか少し違う方向のご意見も中には見受けられるのだが。  閑話休題。  このふたり、実はその『跳躍と少年』の原作者である。少女の『記憶』を女が形にした。本人の望んだことと自分たちにできること。その両方をつきあわせて結論づけた「せめてもの行動」だった。 「それにしてもラピス」 「ん?」  首をかしげるラピスに、ルリはつぶやいた。 「おふたりは無事にやってるでしょうか。私は心配です」 「そんなの気にしたってしかたないよ。  ルリはアキトにとっての『最初のルリ』じゃない。わたしもそうだし。ただわたしとルリは、アキトの記憶を見たかどうかって違いでしかないんだよ」 「でも、それ言うならユリカさんだってそうじゃないですか。それに私はその記憶すらありません。なんだか不公平な気がします。  それとも私は結局、アキトさんにはそのレベルの存在だったんでしょうか」 「あはは、そんなこと気にしてたんだルリ。言ったでしょ。知らない方がいいって」 「もう知ってます。ラピスがみんな話してくれたじゃないですか」 「……そういう意味じゃないよ」  ラピスは苦笑すると、カップに口をつけた。  ピンクの髪の美少女が白いカップに口をつける。ルリも美しいが、まだあどけなさを強く残すラピスのそういう姿も非常に人目をひく。日当たりのよい場所と選んだ庭先なのだが、塀などなくて向こうは道路だから通行人の目はしっかり引きつけられる。  妖精じみた美少女ふたりのお茶会である。目につかぬはずもなかった。 「よう、おふたりさん」 「あれ、どうしたんですかサブロウタさん。軍の方は」 「今日は非番。ふたりはどうしてるかって思ってね」 「またサボりですか。いいかげんにしないとロリコン疑惑立ちますよサブロウタさん。私はもう少女というより大人ですが、ラピスはまだぴちぴちのローティーンですから」  なにげに義妹を持ち上げているルリ。子供扱いに少し仏頂面になるラピス。可愛い外観もあって非常に愛らしい光景である。 「本人たちに自覚がないのもなぁ……」  困ったようなつぶやきをサブロウタは漏らした。  サブロウタが来たのは軍内の要請である。民間協力者ではあるがAI教育担当というふたりの立場は伊達ではない。オモイカネ型AIは非常に有能であり軍での利用が増えているのだから、当然AIとのコミュニケーションに明るい彼女たちは重要なのだ。  ルリたちを軍に組み込みたい派と民間にとどめる派。その激突の結果が『目立たぬように保護』であり、サブロウタは共通の友人ということでこの寄り道も実は任務のうちである。まあ本人いわく、ふたりのとこに寄り道していれば遅刻も咎められないということらしいが本音はわからない。愛らしく目立つ彼女たちは馬鹿どもの劣情もそそる存在なのだ。弱者、特に女性を守るためならバリバリの木連堅気であるサブロウタはいくらでも心血を注ぐ。そしてその性質こそが、アキトとは別の意味で彼がもてる原因でもある。  なんのことはない。自覚がないのはサブロウタも同じなのだろう。 「おや、スコーンか。これはラピスかい?」 「よくわかりますねサブロウタさん。どうしてですか?」 「あっははは。そりゃ、ルリさんじゃこんな綺麗になるはずがな……!」 「……」  失言に気づいたサブロウタだったがもう遅い。ルリの目線がきつくなる。 「…ばっかだね〜」  くすくす笑いながらサブロウタ用に紅茶を入れ始めるラピス。  とりあえず、彼らは彼らで平和だった。      余談。  ルリだけが夢を見なかった、と彼女は言ったがそれは仕方のないことだ。  アキト、ユリカ、ラピスの三名には木連由来の、つまり遺跡関連のナノマシンが入っているのだ。ラピスはクリムゾンに攫われ実験されたからだが用途が違ったので量的にはわずかにすぎない。それでもしっかり反応した。ただそれだけの話なのである。  だがそれで充分だった。レンの能力、それとアキトの精神面でのそれから「他人」と認識されなかった。つまりはそういうこと。  それに、もしルリが夢を見ていたらどうなっただろう。  アキトの記憶とはアキト視点の個人的な記憶ということだ。アキトの目の前で恋する少女そのものの反応をしている自分でない自分や、へたくそなチャルメラを吹きふたりと楽しく暮らしている自分、となりでセックスするユリカとアキトを眠ったふりして知らんぷりしている自分にたぶんルリは気づいたろう。そこまでしてもアキトたちの、いやアキトのそばにいたかった、自分でない自分のアキトに対する狂おしい熱情にも。  それをルリがどうとるかはわからない。だけどラピスが言った通り、ルリがそれを直接見ずラピスからの伝聞でしか知らないのはむしろ幸いだといえたろう。  結果として、ただひとり残った『語り部』のラピス。彼女は『前のルリ』と『前の自分』をアキトの視点で知った。それがどれだけの意味を持ち、ラピスをどう変えたかは今のラピスを見れば明らかだろう。 「ルリ、がんばろうね」 「何がなんだかわからないですラピス。ちゃんと説明なさい」 「いいんだよルリ。いいの」 「隠し事が多すぎますよラピス。ていうかくっつくのやめなさい」 「やだー」  べったりとルリにくっつくラピス。まるで「大切なもの」を守ろうとするかのように。 「……」  そんなラピスたちをサブロウタは、悲しいとも嬉しいともつかない複雑な表情で見ていた。 [#改ページ] エピ(E)「黄昏」[#「 エピ(E)「黄昏」」は中見出し]  太陽が沈み、夜が訪れた。  満月だった。  森の広場にぽつねん、とあるテーブルセット。アルクェイド・ブリュンスタッドはそこに腰かけ、月を見ながら優雅に紅茶を嗜んでいた。  りー、りーと虫の声がする。 「……これにて一件落着、ってとこかしら」 「ええ」  アルクェイドの向かいに座った、黒いローブ姿の女が答えた。  顔は見えない。フードを深くかぶっていた。 「感謝しますわ真祖の姫君。貴女が彼を助けてくれたことに」 「……ふうん」  アルクェイドは不審げに女をじっと見た。 「なんです?」 「なんでもないわ。紅茶もう一杯いる?」 「いえ、けっこうです」 「……そう」  無理に勧めるつもりもないのだろう。アルクェイドはそれっきり、何も言わなかった。  女はじっと沈黙していた。隠れている顔は見えないが、それはじっと月を、いや正しくは月の彼方にある何かを見つめつづけているように見えた。 「最後に聞いていいかしら?」 「ええ、なんなりと」  アルクェイドの質問は予測の範囲だったのだろう。女は慌てもせずにそう答えた。 「どうしてユリカさんに手を貸してあげなかったの?そしてアキト君をあんな目にあわせた事も。貴女が出ればそんな必要はなかったんじゃない?  なのに、わざわざ危険を犯して渡りをつけ、過去の英霊まで出張らせた。その理由をわたしは知りたいわ。  教えてくれるかしら?黒幕さん?」 「!」  女は、アルクェイドの最後の言葉にピクッと反応した。 「……なるほど。貴女はそれに気づいてたんですね」 「ええ」  アルクェイドの目線がきつくなった。女はクスクスと小さな笑いを漏らした。  その笑いは若い女性のようであり、どこか別の『何か』のようでもある。どこか不快な違和感を伴っていた。 「もちろん、アキトに『残党狩り』をあきらめさせるためです。彼は並大抵のことでは納得しませんし、また納得する人間ならあそこまでひとつの事に固執なんてしませんから。  それに『救い』も。どうしてもあの状況は作る必要があったんですよ」 「……」  アルクェイドの目線が鋭くなった。  何かを探るようにアルクェイドは女をじっくり観察した。そして納得がいったようにふうん、と笑ってみせた。 「ま、いいわ。そういう事ならね。もうひとつ質問いい?」 「ええ」  女は拒否しない。アルクェイドは紅茶を少し飲み、また口を継いだ。 「古代火星人のシステムって結局なんなの?並行世界間移動技術があるってことは、それって第二魔法が魔術に堕したってことなのかしら?」 「まさか」  くすっと女はまた笑う。今度は違和感が弱く、普通の女性のそれに近い。 「わたしたちの方式は第二魔法のような完全なものではありませんから。いわゆるワープ航法のできそこないのようなものに過ぎません。たとえて言えば、原子爆弾と原子力発電の違いのようなもの。制御せず単に爆発させるだけなら、内容がわからなくても材料を揃え状況を再現させるだけで可能ですから。  言ってみれば今の地球人の状況は、お猿さんが宇宙船の操縦を覚えたようなものです。確かに宇宙に出られるかもしれませんがそれは『理解のできない神秘』である事にはなんら変わりがない。そして使いこなせてもいない。まともに運用できるレベルに達するだけでもまだ何世紀もかかるでしょう。ましてや星の深遠に挑むなんて遠い未来のお話です。さらに並行世界間移動の制御に至っては荒唐無稽すぎて笑い話の範疇でしょう。だいたいボソン・ジャンプを実用に使おうという今になっても並行世界に関しては実在するかどうかを論じているレベルなんですから。  アルクェイドさん。魔法が魔術に堕するという事はそういう事ではないんじゃないでしょうか?」 「……そうね。竜の背に乗って空を飛んでも空を飛ぶという神秘が解明されたわけじゃないし自在に制御できるわけでもない。ひとの頭で理解できなきゃ意味がないか」 「はい。私もそう思います」  ふたりは笑いあった。どこか空虚さと違和感を伴っていたが。 「ついでにもういっこ聞いていい?」 「はい?なんでしょうか」  アルクェイドの不審げな表情は、今やすっかりとれていた。 「どうしてアキト君のそばにいてあげないの?『最初の』ユリカさん?」 「!」  女はその瞬間、ぎくりと凝固した。 「……気づいておられたんですか」 「まぁね」  あははと笑うアルクェイド。今度は女の方が不審げにアルクェイドを伺っている。  フードの影から、金色に輝く瞳が見えている。表情まではわからなかったが。 「……確かにわたしはテンカワユリカです。でもそれは『ユリカの要素を強く持つ遺跡の意識』というレベルなんですけど」  困ったようにつぶやく女。アルクェイドは優しげに目を細めている。 「でも、ユリカさんなんでしょう?アキト君が最初に愛した」 「ん〜、そこんとこ微妙なんですよね」  困ったように女はつぶやく。 「遺跡に個体の区別なんかないんです。だいたいわたし自身は死んだはずで、ここにいるわたしは融合によって遺跡と混じりあった部分だと思うんです。  つまりわたしはテンカワユリカそのものではなくて、ユリカという存在が残した残滓というか現象というか」 「でもユリカさんなんでしょ?」 「……」  うぐ、と言葉をつまらせる女。 「……アキトの側にいないのか、というお話ですけど」  ついに観念したのか、女はフードをはねあげた。 「……」  その瞬間、アルクェイドの目が細められた。  女は確かに『形だけは』テンカワ……いやむしろ『ミスマル』ユリカだった。アルクェイドの知る「こちらの」ユリカより幾分若く、ネルガルの艦長服をフードの下に着込んでいたからだ。  そしてその双眸は、金色に輝いている。 「なるほど……さっきからの違和感の理由はこれね。ひとの形質はしているけど構成の大部分はひとのそれじゃない。模造品だわ」 「えー、それは仕方ないですよ……だって肉体ないんだもん」  困ったように指を口にあてる。その幼児的とも言えるしぐさまで、ナデシコ時代のユリカそのものであった。 「……アキトの事ですけど」  そして『ユリカ』は、ゆっくりとアルクェイドの方を見た。 「さっきも言いましたけど『わたしたち』には個体の区別がありません。こうしてお話しているわたしも厳密にはこのわたしとは言えない。この身体は遺跡の端末のようなもので、ほら」  右手を夜空にかざす。  柔らかい女の手が次の瞬間、まるで幻のように半分闇にとけた。 「……なるほど、触れる虚像のようなものなのね。魔術的に言えば、過去の魂を読み上げて膨大な魔力で固定する英霊の召喚システムにも似てるかな」 「あくまで模倣ですけど。こちらの|ユリカ《わたし》が月落としを真似てみたので、わたしは英霊のシステムを真似てみたまでです。原理もわからず外見だけの模倣なので、まるでダメダメですけど」 「充分よ。へえ、大したものねえ」  面白そうに『ユリカ』をみるアルクェイド。そんな彼女に『ユリカ』は微笑む。 「お話、戻しますけど…  そんなわけでわたしには個体の区別がありません。そして、アキトと暮らしてる『わたし』とわたしもつながってます。『彼女』も遺跡と一度融合させられてますから」 「……あ、そういうことか」  納得いったように頷くアルクェイド。『ユリカ』も笑った。 「だから|ユリカ《わたし》はアキトと常に一緒です。こうしてアルクェイドさんとお話してるこの時も、同時にわたしは別の世界の火星でアキトとお話もしているんです。遺跡を介して、『わたしたち』はひとつなんですから」  夢見るように『ユリカ』の目が細められた。 「さて、そろそろ帰ります。お邪魔しましたアルクェイドさん」 「ええ、じゃあまたね」  微笑み立ち上がる『ユリカ』に、アルクェイドもにっこり笑った。 「ええ、きっとまた」 「楽しみにしてるわよ」        わたしはアキトが好き。  たとえそれが、悲劇を含んで結ばれたものであっても。それでもわたしはアキトが好き。  ほら。  漆黒の宇宙を流れるボソンの光。あれがわたしとアキトを結ぶもの。ボソンの光がそこにある限り、わたしとアキトは決して離れない。  決して離さない。  さっきまで居た地球の景色はまたたくまに消え、次の瞬間には火星の家の中。『わたし』は台所にいる。アキトに習ったお料理をいっしょうけんめいに作っている。  それは厳密には『わたし』ではない。だけど『わたし』。個体に区別がないのだからその違いにも意味はない。実像と虚像は境界を失いあなたとわたしの隔壁も問題にならない。問題にする必要もない。  だって『わたし』は、アキトが好きだから。魔法がどうとかひとの手じゃ届かないとかそんなこと知らない。わたしはアキトが好きだからここにいる。それ以上の理由がどこにあるというんだろう。  たとえ、結果として何が待ち受けるとしても。 「アキト」 「ん?」  台所で格闘しながら、同時に『わたし』は居間でアキトにしなだれかかってもいる。  同時に洗濯物を畳んでいる『わたし』もいる。外でお掃除してたりする『わたし』もいる。  どれもこれもみんな『わたし』。世界に散らばってはいるけど。  好き。好きなの。  わたしの数だけ『好き』。  アキトにしがみつき唇を奪う。ぴくんと蠢くアキトの一部。片手を添えてズボンごしに撫でてあげる。  アキトの体臭が急激に『男』を帯びていく。 「!…仕方ないやつだなあ」  あ〜、そんなこと言うかなアキト。嬉しそうな顔しちゃって。 「いや?……!」  アキトは返事のかわりに『わたし』の股間に手を差し込んだ。    (おわり)