刹那の悲しみ hachikun SummerDays、刹那SS(本編よりかなり未来) 『それぞれの道へ』後日談ほか [#改ページ] 本編[#「 本編」は中見出し]  |清浦《きようら》|刹那《せつな》は泣いていた。  |放心状態《ほうしんじょうたい》でフローリングの床にぺったん座りしている。床には涙がぽたぽたと落ちていて、開いたままの携帯電話は床に放り出されている。声もなく、ただ涙だけがひたすらに流れている。 「刹那」  気づかしげにかけられた声にも反応しない。ただ震え、泣くしかない。    二時間前の、電話による会話はこうだった。   『そうだったのか……ごめん』 「だから、ね。そんなわけだから、まこちゃん」 『ごめん』 「え?」 『誤解がとけて気持ちは晴れた、本当にありがとう。でも……悪いけど、もう戻れないんだ』 「ど、どうして?どういうこと?まこちゃん」 『ごめん』 「ごめんじゃわからないよまこちゃん!どうしたの?何があったの?」 『短かったけど、本当に楽しかった。ありがとな、せ……刹那』 「!」 『…………』 「……桂さん?」 『ああ、そうだね。色々あって、まだ正式なおつきあいとかじゃないけど。だけど仲良くやってるつもり』 「つきあうつもりなんだ?正式に」 『ああ』 「……ほんとにもう、終わっちゃったんだね」 『ああ』 「いまさらもう、遅いんだ」 『ごめん』 「謝ることないよ。まこちゃ……い……」 『清浦?』    清浦刹那、はじめての恋の終焉だった。    さよならという言葉がでなかった。やむなくごめんと言ったつもりだが、それすらちゃんと発音できたかどうかすら定かではない。刹那にはもうそんな余裕が残ってなく、ただ電話を切った。  失ってしまった。  父親問題にかまけて、ほんの二日だけ|伊藤《いとう》|誠《まこと》から目を離してしまった。なかなか掴まらない誠よりも父親との対話を優先して、とにかく片付けられる問題を片付けたうえで誠との誤解を解こうと考えてしまった。  そのたった二日の間に、誠を|奪《うば》われてしまった。 「……」  いや違う、と刹那は自問する。  確かに誠は|色《いろ》|仕掛《じか》けに弱い、そんな事はつきあいの短い刹那にもすぐわかった。  だけどあの最後の優しい顔は違う。何かを諦め、何かを振り切った顔だ。誰かにたらしこまれたとしてもああいう顔はしないはずだ。あれは浮気の果てに相手を捨てる顔じゃない。それは誠の言動からいっても明らかなことだ。  どうして、誤解を解くことを最優先にしなかったのか。  父であることを言えなかったとしても他に何かフォローする術くらい考えればあったはずだ。多少の嘘を混ぜてでも身内でありそういう関係ではありえない事だけでも納得してもらえれば、それだけでも誠が自分を諦め、他の女の子のところへ去ってしまうような事態は防げたはずだ。  あれほどまでに誠の周囲は、誠狙いの女性で溢れていたというのに……。  刹那は泣いた。|自壊《じかい》しそうな精神を抱え、ただひたすら泣きつづけた。  それ以外に、まるでする事がないかのように。 「刹那」  呼びかける男の声を、刹那はまったく聞いていない。  携帯電話は誰の着信も告げず、ただ沈黙するだけだった。    数日後、刹那は|瞬《しゅん》に父と呼びかけたうえで絶交を正式に申し出た。  瞬が悪いとは刹那は考えなかったが、最後の最後で口を塞ぎ叫ばせなかった事だけは許すつもりがなかった。あそこで駆け寄り事実を話したところでもう遅かったのだろうと彼女の|明晰《めいせき》な頭脳は理解していたが、それでも許せないものは許せなかった。  もっとも瞬の考えもわかる。女性に|聡《さと》い瞬はもう取り返しがつかないことを誠の態度で悟ったのだろう。だから悪あがきをさせて傷つけないために無理矢理に自分を引かせたのだろう。それはよくわかっていた。  だとしても、ダメだった。  たとえ無駄だとしても、足掻くだけ足掻かせて欲しかった。たとえそれでボロボロになったとしてもその結果は自分のものであって誰かのせいではない。少なくとも、こんな情けない結末を迎えるよりも少しはマシだったのではないか……そう刹那は思った。  瞬の気持ちはわかる。彼はただ父として自分を守ってくれたにすぎないのだろう。  だが、あの状況で引き離されることなんて自分は望まなかった。 「そうか」  |理路整然《りろせいぜん》と気持ちを語り、しかも|父親《じぶん》にも配慮している刹那を見て、瞬は悲しそうに寂しそうに、そしてちょっとだけ誇らしげにうなずいた。 「ああ、その推論は正しい。おまえは賢いよ刹那。俺はてっきり感情的に憎まれると思っていたんだが、まさかそこまで冷静に、こんな早く見抜いてしまうなんて完全に予想外だった。  こう言われても嬉しくないかもしれないが……さすがは俺の娘だ」 「うん、嬉しくない」  刹那も瞬の言葉に、悲しそうにうつむいて答えた。 「だが刹那。俺と絶交といっても現時点で俺はおまえの親権を持っているわけじゃあない。もう口もきかないというだけの事のために、こうしてラディッシュまでわざわざ来てくれたのかい?  それとも、他に何か?」 「うん」  刹那は悲しげに、ぽつりと答えた。 「たぶんお母さんはパリに出張になる。それに私はついて行って、そのまま向こうの大学まで行きたいと思う。出張にならない場合は日本で勉強する事になるけど、どちらにしろいずれお母さんをひとりにする事になると思う。  私が頼むのは筋違いだけど……お母さんを見ててあげて。できる程度でいいから」 「そうか」  娘の言葉に瞬は腕を組んだ。そしてじっと考えた末、 「断る」  そう、きっぱりと言ってのけた。  対する刹那は「え」と目を丸くした。渋られる可能性は考えたが、まさかきっぱり断られるとは思ってもみなかったからだ。 「またずいぶんあっさりと。お母さんのことは嫌い?」 「そういう事じゃない。問題があるということだ」 「問題?」 「ああ」  瞬は|険《けわ》しい顔で腕組みをした。そして、 「他人の女の子のそんな頼みをおいそれとはきけない。他の女とうかつな口をきくなと娘に|厳命《げんめい》されているからな」 「は?」  眉をしかめる刹那に、瞬はにやりと笑った。 「他ならぬ可愛い娘のお願いならいくらでも聞こう。だが他人の、しかも女の子の言葉に従うのはなぁ……娘との約束を反故にしてしまうだろう?それはしたくない」 「……」  ようするに、絶交するなら言うこともきかないというつもりか。刹那は一瞬、口をあんぐりとあけてしまった。  その可愛い反応に、瞬は|馬鹿《ばか》|親《おや》の顔全開でにっこりと微笑んだ。 「さぁどうする?」 「……ずるい」 「ずるいのは刹那だぞ?もう絶交だ、でも言うことは聞けというのは……いくらなんでもひどいとは思わないか?」 「……わかった。絶交は取り下げるからお願いをきいて」  はぁ、と刹那はためいきをついた。瞬はよしよし、と嬉しそうに笑った。 「刹那の言いたいことはわかった。まぁなんでも好きにするといい。きっかけはともかく、それがおまえの決めた未来なら俺はそれに口だししない。がんばれ」 「うん。ありがとう」  刹那はまだ悲しみをはりつけた顔で、だが小さく、確実に微笑んだ。    数ヵ月後、刹那は母と共に|渡欧《とおう》した。    そして、十年の歳月が過ぎた。 [#改ページ] 本編・二[#「 本編・二」は中見出し]  パリの郊外を一台の銀色のコンパクトカーが滑るように走っていた。  空は快晴の夕刻近く、まるでいつかの夏の日だった。車はシャルル・ド・ゴール国際空港を目指しており、少し赤みを帯びた陽光がその銀色のボディに不思議と映える。なんてことはないただの車だが、どことなく未来を想像させるのは乗っている人間のせいか。不思議な雰囲気をもった車だった。  やがてその車は空港に乗り付けると、パーキングの一角に停車した。ドアが開き、白衣の東洋人女性がそこから降り立った。  紫外線対策なのか他の理由なのか、女性は薄いサングラスをかけていた。白衣をまとったその姿は、まるでどこかの研究員、いや博士か。小柄であるがサングラスが大人っぽい雰囲気を醸し出している。全身をまとう雰囲気といい、おそらく理工系の研究者か。  白衣の下は飾り気のない、しかし一応外出用なのか茶系のシックなレディーススーツのようである。しかし白衣を着ているためそれが全てぶち壊しになっている。サングラスのなんとなく他人を拒絶する硬い雰囲気といい、やむにやまれぬ用事でいやいや出てきた、そんな雰囲気を全身にまとわりつかせていた。 「まったく、もう」  日本語で何かつぶやくと、女性はすたすたと歩き入口に向かっていった。    と、その時、それは起きた。   「きゃっ」 「わっ!」  突然に誰かがぶつかってきて、女性は激しく転倒してしまった。 「あいたたた……何?」 「〜〜!!」  痛む尻を抑えつつ立とうとして景色が妙に鮮明なのに気づく。サングラスがふっとんでしまったようだ。みれば離れた場所でそれはまっぷたつになっている。  女性はハァ、とためいきをついた。予備が車にあるからまぁいいかと改めて衝突者を見つつ立ち上がった。  ちょっぴり薄汚れていたが若い東洋系の女の子だった。日本人かもしれない。パリくんだりをうろうろする若い日本人旅行者にも貧乏旅行者は時々いて、見るもみすぼらしい姿だがのんびりと旅を楽しむ姿は、それはそれで|優雅《ゆうが》かもしれないと女性は思っていたりもする。  だが、女の子はそういう感じではなかった。むしろスリか何かに身ぐるみ持ち去られて無一文、そういう雰囲気を全身から|醸《かも》し出していた。ツインテールの可愛いはずの髪もどこなく煤けて見えたし、まだまだ子供っぽさを残しつつもどこか微妙に大人びた雰囲気も持っていた。それを女性は家庭環境の複雑な子なんだろうとふと思った。女性に洞察力があったのではない。彼女自身の家庭環境がちょっと特殊だったため、似たような雰囲気をそこに嗅ぎ付けたわけだ。  なんとなく、関わってはいけないもののような気がした。  気がしたのだが、女性は|偽悪《ぎあく》を気取ってもそこまで割り切れる性格ではなかった。自分を馬鹿者と内心|罵《ののし》りつつも女の子の手をとり、起こしてやろうとした。 「ほらしっかり。立てる?」 「……」  だが女性に手を掴まれた女の子は、ぽかーんとした顔で女性の顔をまじまじと見るだけだ。 「なぁに?」  いったいなんなのよこの子、それとも日本人じゃないのかしらと思いつつ女性はつい子供に問いかけるように首をかしげたのだが、 「!」  その瞬間、女の子は何かに気づいたようにアッという声をあげた。 「……キオウラ?」 「は?」  なんで自分の名を知っている、しかもなぜ『キオウラ』と幼児語で?と女性は聞こうとしてふたたび女の子の顔を見た。  その瞬間、女性──清浦刹那の中で古い記憶が爆ぜた。 「……もしかして……間違ってたらごめんね。えっと……まさか貴女」 「キオウラ!キオウラだぁ!!」 「え?え?え????い、いたるちゃん!?」 「キオウラ、キオウラぁ〜っ!!」  がっしりとだきつき泣きだした女の子に、文字どおり刹那は目を白黒させた。    空港で目的の書類を受け取りつつ、|止《いたる》に簡単な事情を聞いた。  小さかった止ももう高校生、あの頃の自分と同じ世代になっていた。身の丈は刹那より高く、スタイルも悪くない。大人になっても体型すらあまり変わっていない刹那とはあまりに対照的だった。  彼女は兄の結婚後も定期的に兄のところに遊びにくる生活を続けており、また兄もそんな妹に相変わらず甘いようだ。海外滞在中ですら妹が来たいというと航空券とパスポート発行手数料を送りつけてきたという話を聞くにつけ、これはもう完全に兄バカだと刹那は呆れた。  近郊ならともかく|欧米《おうべい》ともなれば、かかる運賃も当然大きくなる。可愛い妹のためなのだから怪しい格安チケットより安全第一に取得するだろうし、それは一般人に気軽にとれる金額ではないはずだ。  小さい止を猫かわいがりしていた当時の誠を思いだし、刹那は苦笑いを浮かべた。  しかし、なんという偶然だろう。  パリも広いしこの空港も大きい。それがなんの|悪戯《いたずら》なのか門前で知合いと正面衝突をやらかしてしまった。まるで奇跡のような信じられない|邂逅《かいこう》は、刹那の心を大きくあの頃に向けて動かした。  思ったところで昔は戻らない。あの頃の|儚《はかな》い幸せはもう過去のもの。誠はもう結婚していると聞いているが、実は刹那は相手の名前すら知らない。そういう話題には知らんぷりを通していたからだ。  学業と研究だけに没頭してきた刹那は、とうとう工学博士として世界中に知られるまでに至ってしまった。取得したパテントは|既《すで》に生涯食えるほどになっており無理に仕事に没頭する必要もないのだが、刹那は休む時間などいらぬと研究生活をずっと続けていた。 「え?じゃあ離婚したの?」  うん、そうだよと止は寂しそうに笑った。 「言葉おねえちゃんと結婚したんだけど、心ちゃんと時々逢ってるのがばれて大騒ぎになったの」 「……バカ」  よりによって妻の|実妹《いもうと》と浮気するなんて。  だが、刹那の考えを止は首をふって否定した。 「んーそれがね、ちょっと複雑なんだよ。  もともとお兄ちゃんはね、心ちゃんが好きだったの。心ちゃんはお兄ちゃんが本当に大好きでね、まだ子供だからダメっていうお兄ちゃんにかまわずアタックを続けて、とうとうお兄ちゃんをその気にさせちゃったんだって。  だけど心ちゃんはあの頃まだ○学校だったでしょ?だから言葉おねえちゃんが無理矢理引き離したんだよね」 「うわ」  当時の、まだ子供の心ちゃんを思いだす。誠くんは私が好きと言い放っていた可愛い姿がまぶたに浮かんだ。 「ということは……桂さん姉妹でまこちゃんをとりあったんだ」  あまつさえ、結婚後も勝負はつかず泥沼になっていたということか。 「そういうこと」  ふう、と止はためいきをついた。  誠と別れの電話をした後、その後の彼らの動向を刹那は知らない。だが止の話が正しいのなら、あのままの日々を延々続けたまま大人になったということか。きっとまだ子供っぽさも残していた誠を巡る三人の関係は、やがてその|喧騒《けんそう》はそのままに『おんなのたたかい』にシフトしていったのだろうか。  ちょっと冷汗が出る思いを、刹那は味わった。  書類を受け取った。本当はすぐにでも研究所に戻る必要があるのだが、その前に確認することがあった。 「で、今日はどうしたの?お兄ちゃんは?」 「……」  止は悲しそうに目を臥せた。 「……そう」  聞かない方がよさそうだと刹那は判断し、それだけ答えた。 「パスポートとかお金はお兄ちゃんのとこ?」 「パスポートはあるよ。お金は……途中で盗まれたみたい」  やっぱりか。 「日本に帰ろうとして気づいたの?」 「うん。本当は帰るかどうするか悩んでたんだけど」 「なるほど」  お金ならなんとかなる。じゃあ、とりあえず今は保護かと刹那は笑った。 「止ちゃん」 「?」  刹那はくすっと笑った。笑うところではないような気もしたが。 「じゃあ今日は泊めてあげる。研究所住まいだから綺麗なとこじゃないけど」  そう言って刹那は止の肩をぽんと叩き、運転に集中した。 [#改ページ] 本編・三[#「 本編・三」は中見出し]  この世に偶然などないと誰かが言った。  かつて、清浦刹那と伊藤誠を結んだのは|止《いたる》だった。たまたまラディッシュの客だった止が刹那に懐き、たまたま帰宅途中で出会い、そして物語の両輪は回り始めた。  しかしそれは、本当に『たまたま』なのだろうか。  タロットカード・|大《major》アルカナの十番『|運命の輪《wheels of fortune》』はそれを違うと言い、あるいは正しいと言う。緻密で壮大な運命の流れの中にひとは生きている。ただ人の視線はあまりにも狭く小さいがゆえにそれを把握できないのだと。それは例えれば盲人が象を撫でてその全体像を掴もうとするようなもので、宇宙的にいえば規則正しいこの世の|転輪《てんりん》が、ひとの目線では不思議であやふやなものとしか見えない。そういうものなのだと。  だが、だからといって全てが決まっていると|俯《うつむ》く悲観的な運命論者の考えはこれまた間違いだ。  全てがたとえ決まっているとしても、それをひとが認識できないのなら現実は同じことだろう。袋の中の猫が死んでいるに決まっていると嘆くより、生きている可能性を信じて力を尽くせばいいのではないか。どうせふたつにひとつならば。  やれるだけやってみて、がんばれるだけがんばってみよう。結果がついて来るかどうかはわからないが、当然やれるだけの事をしなければ|天命《てんめい》もまた巡っては来ないのだから。生きるとは、運命とは結局そういうことではないのか。  十年の時を越えて出会った刹那と止。  これは偶然なのだろうか、それとも……?    小さかった止しか覚えてない刹那にとり、目の前の女子高生があの止というのはなんとも妙な気分だった。まるでそれは突然にタイムスリップしてしまったような気分でもあった。  だがもちろんそれは違う。研究生活に明けくれていた刹那は自分が既に四捨五入すると|三十路《みそじ》であるという事実すら忘れていた。だから刹那は突然現れた過去からの来訪者に、改めて自分の過ごした時間を思いちょっとためいきをつく事になった。  思えば、誠のことをふっきろうと勉強に没頭したのがはじまりだった。  うじうじと誠のことで悩み続けるのはよくないと思った。だが誠と顔をあわせれば未練がつのるだけだろう。自分の元に戻ってくれないか、そんなことを埓もなく考え続けてしまうかもしれない。  だからすぐに渡欧に応じたし、その後も日本のことなど考えもせず、母の帰省にもつきあわず猛然と勉学に没頭してきた。気づけば象牙の塔で頭角をあらわし、いっぱしの学者として名を馳せるまでにもなっていた。  だが、本当にそれでよかったのか。  むきになって諦めず、たとえ泥沼になろうと血の雨が降ろうと誠に固執し、しがみつくべきではなかったのか。あの桂言葉に勝てたかどうかはともかく、ぼろぼろになるまでとことんやってみて、それで泣いて諦めた方がよりよい人生になったのではないか。  かつての友達とも既に交流が絶えてひさしい。世界とすら没交渉になってもう何年にもなる。今は何をしているのかもわからない。 「……」  過去に問うてみたところで過ぎた時間は戻らない。科学者らしからぬ益体もない思索を自分がしているのに気づき、刹那はフッと渇いた笑いを浮かべた。 「?」  ナビゲータシートに座った止が、懐かしいものをみる目で刹那を見ている。 「なぁに?」  運転しながら横目にだが、自然と昔の優しい口調が出た。  幼児時代と同じように応対されていることに止も気づいていたが、止はそれをまったく咎めることすらしなかった。むしろ「それでいいの」と言わんばかりににっこりと笑った。 「キオウラ」 「その呼び方はもう勘弁してほしいな。止ちゃん」  止はそんな刹那の言葉にくすっと笑うと、 「じゃあ、せっちゃん?」 「!」  なんでその呼び名をと驚いた顔をした刹那に、止は淡々と答えた。 「だってお兄ちゃん、寝言でいつも呼んでたもん。せっちゃんって」 「え」  どういうことだろうと刹那は思ったが、それ以上聞くべきではないという気持ちがその疑問を同時に抑え込んでいた。  だがそんな刹那の心をまるで読んでいるかのように止の話は続く。 「お兄ちゃん、ずっと忘れてなかったよ」 「え?」 「ううん、心ちゃんや言葉おねえちゃんのことだって大切にしてたし好きだったと思う。だけど心の底じゃあ、ずっとせっちゃんのことを忘れてなかったんだよ。  まぁお兄ちゃんの性格はああだから、そんなこと普段は口にしないよね。  でも|止《わたし》にはわかる」 「……」  ごめん、それ以上は言わないでと刹那は止を遮ろうとした。  こんな年月の果てに今さらそんなこといわれても困る。刹那にも社会的立場があるし、もうあの頃のように好きか嫌いかだけで生きられるような状態ではないのだから。  しかし、刹那がそれを口にする前に止はアハハと笑った。 「そんなことないって」 「え?」  突然の止の言葉に、刹那は首をかしげた。  車は走り続けている。ハンドルを握っているのは刹那であり、当然ながら刹那は止の顔ばかりに注視しているわけにはいかない。 「何が『そんなことない』の?」  |甚《はなは》だしく|5《ご》|W《だぶりゅー》|1《いち》|H《えいち》を欠いた止の言葉に苦笑して問い返した。 「素直になろうよキオウラ」 「いや、だから」  わけわかんないって、ついでにキオウラはやめれと突っ込もうとした刹那だったが、   「だって止にはわかるもの。『キオウラはお兄ちゃんがすき』って」 「!」    その自信に満ちた幼げな声は、ひどく刹那の心を狼狽させた。  実際、刹那は止と話すうちにあの頃の記憶や想いが急速によみがえってくるのを感じていた。恋だの愛だのという感覚からずっと離れ学術の世界に生きていた刹那である。その想いは渇いた土地に水が染み込むように、刹那の精神を急速に|蝕《むしば》みはじめていた。  単に懐かしんでいるだけかもしれない。  だけど刹那の心には懐かしさと同時に暖かさもあふれ出していた。止との邂逅はまるで刹那の中の止まっていた何かを動かしてしまったようで、急速に刹那の中の何かが変わろうとしていた。  この子は危険だ。そんな気がした。 「ねえ、キオウラ」 「なに?」  そんな刹那の内心を知ってから知らずか、えへへーと止は笑う。 「お兄ちゃんに逢いたい?」 「!」  一瞬返事に詰まり、刹那はあわてて首を横に振った。  だが、その一瞬の|躊躇《ちゅうちょ》を止は見逃さない。 「逢いたいでしょ?」 「まさか。止ちゃんには悪いけど、今さらまこちゃんがどうとか思わないよ」  ふぅん、と信じてない風の声が響く。 「だったらどうして『まこちゃん』って呼ぶの?」 「!」  あっと刹那は口を濁した。どうやら自分がまこちゃん呼ばわりしているのに気づいてなかったらしい。  止はナビゲータシートに大人しく座っている。もちろん何か悪さをしたりとかはしていない。  だが刹那はまるで、止に弄ばれているような奇妙な気分を味わっていた。 「ねえ止ちゃん」 「なに?」 「あの後……って言ってもわからないかな、えっとその」 「ん、キオウラと逢わなくなってからのお兄ちゃん?」 「そう」  ありがたいことにそのものずばりの返事が返ってきた。 「んーとね、心ちゃんと言葉おねえちゃんがよくおうちにくるようになったよ。でも、お兄ちゃんはお母さんが『キオウラさんはどうしたの?わかれちゃった?』って聞いたら、その名はもう出さないでくれって答えてた。  あーごめんね、止はまだあの頃子供だったから、悲しそうとかそういう雰囲気でしか覚えてないの」 「いいよ、充分」  あの小さかった止がそこまで覚えているだけでも立派なものだ。およめさんになるの!なんて言ってたのは伊達ではなく、大好きなお兄ちゃんを子供ながらにしっかり観察していたということなのだろう。  だが刹那は、それに続いた止の言葉に胸をつまらせた。 「お兄ちゃん、泣いてた」 「え?」 「夜中に目が|醒《さ》めたの。私はお兄ちゃんのとこに行くといつも一緒に寝てたんだけど、そうしたらお兄ちゃん、せっちゃんってつぶやいて夢の中で泣いてた。  後で聞いても起きたお兄ちゃんは夢を覚えてないの。だけど、それはキオウラの事だね、きっと夢の中で思い出してたんだよって寂しそうに言った。  で、私も気になってお母さんと同じ質問をしてみたの。キオウラとどうしてわかれちゃったのって」 「そしたら?」  刹那はいつのまにか、止の話にひきずりこまれつつあった。 「んー……誰にも言っちゃだめだぞって言ってたけどキオウラならいいよね、だってキオウラの話だもん。  えっとね、お兄ちゃんはキオウラのお父さんに逢ったんだけどお父さんとは知らなくて、キオウラの昔の恋人だと思っちゃったんだって」 「うん」  それは知ってる。  問題はどうしてそこから、いきなりあの時の別れの笑顔に結び付いたかだ。刹那は結局そのあたりの細かい|経緯《けいい》については知らないままだった。  ゆっくりと古い記憶を掘り出すように、止は語った。 「お兄ちゃんはラディッシュに行って、キオウラとそのお父さんが仲良くお話したりしてるところを見たんだって。  それは本当に仲良しな感じで、キオウラがその人の事大好きなのがよくわかって。  とてもかなわない、自分には出る幕がないってのがわかっちゃったんだって」 「……それだけで?」  たったそれだけのことで、と言いかけた刹那の脳裏で遠い記憶が掠めた。  誠は一度ラディッシュで食い逃げもとい飲み逃げをした事がある。バイトの先輩たちには待ちくたびれて怒って帰っちゃったよと言われて、刹那はごめんなさいと謝って料金を立て替えた。  そういえば、誠に連絡しようとしても一切つながらなくなったのはちょうどあの後ではなかったか。  探しても見付からない。連絡してもつかまらない。家に行ってもお母さんしかいない。困った刹那は迷った末に瞬との対話を優先し、それから瞬を誠にお父さんなのと紹介しようとしたのだが、その時には既に手遅れになっていた。 「!」  その日の事務室での瞬とのやりとりをうっすら思い出し、刹那は「あちゃあ」と苦々しい顔をした。  あの時だったのか。あの瞬との会話を見て、それで決定的に誤解してしまったのか。  そしてショックをうけ落胆した誠に桂姉妹が手をさしのべたのか。 「そっか。それで」  あの日の誠の悲しげな、そして優しい笑顔や瞬への言葉を刹那は思い出した。  父親を恋人と間違われたというのは本当に不本意だ。それさえなければあの時ふたりの破局はなかったはずなのだから。思い出しただけで悔しい思いが今も刹那の身を焦がす。刹那の口を背後から優しく押さえた|瞬《ちちおや》の大きな手の暖かさまでも、あの時の悲しい気持ち、行かないでという思いと共にはっきりと覚えている。  そして、ラディッシュの事務室での瞬と自分の会話内容。浮気がどうの他の子に手を出すの出さないの、親子ということを知らなきゃそう疑われても仕方のないものだったと思う。  なんの予備知識もなくあれを聞いてしまったのか。それでは誤解するなという方が無理だろう。  どれだけショックだったろう。悲しかったろう。悔しかったろう。  瞬のせい?いやそうではない。  結局、それはやはりフォローを徹底しなかった自分のせいだろう。 「……ごめんね、まこちゃん」  刹那の口から、あの頃の誠への謝罪が自然に口をついて出た。  今さら遅すぎる。十年の時間は全てを変えるだけ変えてしまった。取り返すことなんかもうできるわけもない。  だが、刹那にはそれくらいしかできることがなかった。 「それ」 「え?」  ぽつり、と止はつぶやいた。 「それ、お兄ちゃんに言ってあげて。ごめんなさいって」 「はぁ?」  ちょっとまって、と刹那は止に聞き返した。 「それって……まさか、まこちゃんに逢えってこと?」 「うん」  冗談じゃない。刹那はぶるぶると首をふった。  今さらどの面さげて逢うというのか。あの日のことが本当は二重の意味で間違いで、諦めるという自分の選択がたとえ間違いだったとしても、それでももうそれは終わってしまったこと。それも十年も昔の話だ。  今さらそんなこと蒸し返しても過去は戻らない。お互いに災いの種になるだけだ。 「……」  止はそんな刹那をどこか嬉しそうに見ていた。まるで刹那の内心を見透かすように、そのどこか遠く、透明な瞳でじっと見つめていた。 「行こうよ」 「……ダメ」 「ねえ、キオウラ」 「……」 「キオウラぁ」  まっすぐ見つめてくる止。その目には曇りというものがない。 「ね」  縋るような目でじっと見つめられた。狭い車の中で逃げ場もなくしかも刹那は運転中だ。どうしようもない。  横顔で冷汗をしばらく流した後、ようやく刹那は言葉をひねりだした。 「私はやめとく。でも、止ちゃんを保護したことだけは報告しなくちゃダメだね。一応、お金盗まれたことを事件にするかどうかの相談もあるし」 「うんうん」  言い訳じみた刹那の言葉に、止は嬉しそうにうんうんと頷いた。  刹那は困惑顔でハンドルを握りしめた。 [#改ページ] 本編・四[#「 本編・四」は中見出し]  空港で受け取った書類は、守秘契約の都合上一般の郵送ができないものだった。今どき|紙媒体《かみばいたい》なんてという意見もあるかもしれないが、紙でなくてはならない分野も未だ存在する。決して世界の全てがデジタル化したわけではないからだ。  とはいえ、今の刹那にとってそれは余計な手間以外の何者でもなかったのだが。  車を研究所に乗り付けると待ち構えていた研究員に渡したうえで事情を説明した。細かいことを話しても仕方ないから、家族に急病者が出たため緊急でそちらに行きたいという事にした。で、ついては急で悪いが少し休みを貰いたい旨を内線で所長にも伝えたのだった。  ちょっと待てと言われて数分後に所長が現れた。わざわざ手ずから申請用書類を携えて。  許可はあっけなく降りた。ただ書類のデータの吸い上げと整理に一ヶ月、それまでには一度連絡が欲しいと言われた。わかりました、よろしくお願いしますと刹那は頭をさげた。  なお、その『挨拶』に所長が驚きに目を丸くして、それであっさり許可が出たなどという余談もあるがそれはまさに余談にすぎない。刹那は日頃徹底した無国籍な態度を貫いていて、東洋人であるのはわかるが日本人である事など知らない職員も結構いたものだ。もちろん所長はそれを知っていたのだけど、刹那が日本式の挨拶をするところなど彼ははじめて見たのだった。  そして『徹底した無国籍趣味の彼女が日本式の挨拶をするとは。これはよほど切羽詰まった事態なのだな』と理解したわけだ。とにかく刹那の休暇手続きは即刻その所長の手によって受理され、十分後には刹那はふたたび車中のひととなったのである。    外はいつしか夕闇に染まり、車は快適に走りつづけていた。  研究所に立ち寄った後、止に刹那はシャワーくらい浴びるかと聞いた。しかし止は首を横にふり、兄のところに直行してほしいと返してきた。  近郊といっても大陸規模の話だろうと思っていたが、その目的地は聞けば本当にパリからそう遠くなかった。飛ばせば刹那の運転でも今日中に着いてしまいそうだ。  入口を探し、高速に乗った。  フランスの高速道路は日本とほとんど変わらない。右側通行であるが、右端とその隣くらいが一般の料金所、そしてそれ意外は「t」マーク、つまり日本でいう|ETC《いーてぃーしー》のゲートになっている。  刹那はあまり高速を使わないが、面倒が嫌という理由で車にはETCが装備されている。そんなわけで刹那はETCレーンに車を入れた。  通過する。しばらくゆったりとしたカーブをまわり、本線に入った。 「止ちゃん」 「なに?」 「道順わかる?地図読めるならそっちでもいいけど」  もうここからは刹那の生活圏ではない。さっき読んだ地図からするとこの道で間違いないと思うが、間違えてしまっている可能性もないとはいえない。 「まちがいないよ」 「そう」  止は地図でなく周囲を見て断言した。どうやら道順を知っているらしい。 「もしかして、誰かの運転でここ通ったことある?」 「お兄ちゃん。フランスで免許とったから」  聞けば、最初は国際免許だったが後で改めて取得したのだという。という事は正規滞在か、あるいは最初ワーキングホリデーか旅行用のビザで来て就労ビザに書き換え、その時に免許の切替えを怠ったのか。  フランスで免許をとればEU圏内で有効になるし、しかも定期更新のいらない終身免許だ。だが日本より安いといっても最短で1000ユーロかそれ以上にかかり教習は全てフランス語。面倒なことこのうえない。  さらにいうと、フランスでの国際免許の利用はわりと面倒なのだ。ビザの種類によっては更新できなかったり色々あるのは|在仏邦人《ざいふつほうじん》の間では有名なのだが、おそらく誠もそれにひっかかり国際免許が失効する羽目になったのだろう。  そもそも日本で免許がなく、フランスで普通に取得した刹那にとっては、まぁ御愁傷様といったところだが。  と、そこまで考えたところで刹那は忘れていた質問を思い出した。 「止ちゃん、ひとつ確認していい?」  なに?と止は聞き返してきた。 「まこちゃんのお仕事は何か知ってる?今はひとり暮らし?」  仕事もそうだが、誰かと住んでいるところにいきなり自分が現れたらまずいだろう。昼間ならともかく、このぶんでは到着は深夜か早朝だ。  最悪、どこか近郊のホテルに入って明日中に到着とする必要があるかもしれない。仕事によってはアポイントメントが必要な可能性もある。それに止といる事はすぐにでも電話連絡した方がいいだろうし。  だが、そんな疑念を止はあっさりはねのけた。 「一人暮らしだよ。離婚してるし今いるところはアパートだし」 「アパート?あー、お部屋あるかな」  日本のアパートよりは広いが、仕事によっては荷物もあるだろう。泊めてもらえると簡単に考えるわけにもいかない。  やはりこれはホテルいきか。  しかし、それを刹那が口にするよりも早く、 「お部屋の心配はないよ。  お兄ちゃん、桂のおばさんの仕事のお手伝いしてたの。こっちでおばさんが仕入れた荷物の発送の手伝いとかしてたから、荷物置場にしたり人を泊めたりする関係で部屋だけは多めにあったの。ぼろいけど。  今はその仕事してないから、広いよ」  あらら。それは喜ぶべきか悲しむべきなのか。 「でも、それじゃ収入はどうしてるの?」  たとえ貯金があったとしても、いつまでももつわけではないだろう。離婚したなら状況にもよるが相手に払わなくちゃならないお金もあるし。 「お部屋代は心ちゃんがこっそり助けてあげてもいるみたい。全額じゃないと思うけど。  あとは……どうかな。こっちでできたコネでちょっと仕事したりしてるみたい」 「どうして帰国しないの?」  なるほど、離婚したが心ちゃんとは切れてないのか。全額援助じゃないのはアパート代が高いからなのか、それとも全額頼る気が誠にないのか。両方かもしれない。  だが、そうまでして助けてもらうくらいなら帰国したほうがいいのではないだろうか。それで一時的に借金したとしても、渡航費用くらいなら日本でまじめに働けば返せるはずだ。  そういうと、止はふふっと笑った。 「帰国したら心ちゃんに捕まるからだよ」 「は?」 「心ちゃん、お兄ちゃんゲットする気まんまんなんだけど、表向きはしらんぷりしてるの。万が一おねえちゃんが対抗意識燃やしてよりを戻そうとしたらうざいから。  で、お兄ちゃんが帰国するか自分が大学出たら追いかけるかして、ふたりどこかで暮らすつもりみたい」 「うわ」  離婚で収束したかと思いきや、まだドロドロやっていたのかと刹那は|呻《うめ》いた。しつこいというかなんというか。 「まこちゃんは……その気ないんだ?」 「ないみたい」  心の返事に内心ほっとしつつ、しかし刹那は首をかしげる。 「だったらどうして援助を断らないのかな?やっぱりお金の問題?」  定期的な仕事が切れているのなら、やはり理由はそっちだろうか。  だが止はちっちっと指をふってみせた。 「|違う《Nein》。それは|止《いたる》の入れ知恵」 「は?」  なぜかドイツ語で否定してきた止に、刹那の目はちょっとだけ泳いだ。 「そこまで援助断ったら、心ちゃん大学抜けてこっち来ちゃうかもしれないでしょ?だからここは『頼りにしてる』ふりだけはしといた方がいいよって。  ま、お兄ちゃんのことだから心ちゃん名義で貯金しといて後で返すとかするんだろうなー。貰っとけばいいのに」 「止ちゃん。それって」 「うふふ、えらい?」 「……」  得意そうにふんぞり返る止に「それちょっと|酷《ひど》いよ」とも言えず、刹那は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。 [#改ページ] 再開[#「 再開」は中見出し]  だんだんと時間が深夜になってきた。  既に刹那には場所の感覚も何もなかった。闇と、外灯と、道路が続くだけの時間。ただ止に指図されるまま、延々と車を走らせ続けていた。 「そこ、高速降りて」 「わかった」  お金を用意したりしなくていいETC装備を今ほどありがたいと思ったことはない。ただ指示通りに走らせればそれでいいのだから。 「降りたよ。まだ遠いの?」 「ううん、もうすぐ。あと2kmもないよ」 「そう」  いよいよか。いよいよ誠に再会するのか。  車が入ったのはフランスの静かな田舎街のようだった。さっき地名を見たはずだが刹那の頭にはそれが残っていない。止の指示通りに走り続けていたこと、誠のことで頭がいっぱいだった事が刹那の判断力を失わせていた。  誠に会ったらなんて言おう?  刹那はもうあの頃の高校生ではない。彼女は自分をあまり可愛い女の子とは思っていなかったから、当時ですらそうなのに今の|三《み》|十《そ》|路《じ》近い自分では女性としての魅力などありはしないだろう。しかも白衣のままだ。あわてていたという事もあるが、研究所で白衣を脱ぎさえしなかったというのはあまりに情けない。  窓に写る田舎街の小さな洋品店が、やけにまぶしく見えた。  なるほど、所長がやけにあっさり許可をくれたわけだ。相当に慌てて見えたのだろうなと刹那は今になって苦笑いした。  市街地をぐるりと回る。どうやら2kmというのは道順の問題らしい。降りてきた高速のランプの光が窓から見えて、どうやらそこからそう遠くないことが刹那にもわかった。  なるほど、輸送のメインは道路ということか。TGVのような鉄路を使うならこういう場所に拠点は構えないだろう。 「着いたよ、ここ」 「うん」  車を止めて、刹那は止の指さすアパートを見上げた。 「ここの三階。あがっていったら目の前の部屋がそう。日本語で書いてあるからすぐわかる」 「ちょっと待って、まさか止ちゃんこないつもり?」  その懸念は大当たりだった。止は当然のように|頷《うなず》いた。 「ここ駐車しとくのまずいと思う。駐車場あるけど、上でいちおうお兄ちゃんに確認してくれる?」 「わかった」  そういう理由ならまぁ仕方ない。刹那は車を降りて、そして止を振り返った。  いってらっしゃい、とにこにこ笑う止に一瞬何かを感じた刹那だったが、既に誠の事が頭を埋めつくしているからそれ以上気づかなかった。小さく|頷《うなず》くと刹那は目の前に見える古びたドアに向かった。  その背後の車の中で止がごそごそ動いているのに、刹那は気づくことがなかった。    アパートは古いものだった。  百年やそこらではきくまいと思える古くさいドアを開くと、そこには日本ではまずお目にかかれない、|豪奢《ごうしゃ》ともぽんこつともつかない半木製のエレベータがあった。階数が数字でなく、点灯するランプの位置のみでわかるようになっている。不粋な数字などなくても見ればわかるだろ、というアバウトなのか粋なのかよくわからない代物だ。  だが下世話なことを言えば、それは数字なんて無意味ということでもある。日本では乞食すら新聞を読むが世界的にはこれはかなり異常な光景で、その意味ではフランスも普通の国である。昔も今も文盲のひとはまだまだ結構いる。  そんな国の事情にあわせたものだから、こういうデザインもありえたわけだ。  その、日本人的にはホラー映画を思わせるゴシックなデザインのエレベータを刹那は使わなかった。欧州の長い刹那だがこの手の機械はあまり慣れておらず、ちゃんと今も動いているのかいまいち不安だったからだ。昔世界と見た古いホラー映画のあれにそっくりだな、なんて刹那は思いつつ、まるで教会のようなステンドグラスばりの天井の装飾などをためいきをついて見、そして階段に足を運んだ。  階段もこれまた古くさい。昔の無声映画の階段のようだ。これは日本でいうと古い和風建築の家に出会うようなものなのだろうが、しかし日本人の刹那の目にはどうにも家ごとクラシック家具というか、やはりひとつ間違えるとホラーな感じのする空気がどうにもいけない。都会の安アパートなんかは「いかにも」な無機質なボロさなのだが、そこが田舎ということか。まぁ安アパートとしてのボロさは健在のようで、たぶん人間と広さの余裕が無駄ともいえるクラシックな装飾をそのまま残しているのだろうと、掃除はされているが必要以上の補修はされてなさそうな老朽化した階段のてすりを見た刹那は思った。  やがて三階に着いた。  なるほど、ドアには『|伊藤誠《Matoko Ito》・|言葉《Kotonoha》』と書かれている。言葉の部分にラインが引いてあるのは最近のもののようだ。しかしフランス人に「ことのは」が発音できるのだろうか?日本人でも最近は発音しにくい部類の名前だろうに、などと刹那は余計なことを考えた。  いや、これは刹那の名前にも言えることだ。刹那に好意的な一部の研究者は刹那を『ナノ』と呼ぶ。日本人としても非常に小柄な彼女を|揶揄《やゆ》する意味もあるが、彼らは工学博士である彼女への尊称として|小さき者《nanos》というギリシャ語に由来したこの名で呼ぶ。小さくて偉大なナノというわけだ。セツナというのはちょっといい難いようで刹那もその呼称を認めているから『キヨウラ』や『セツナ』を発音しにくいと感じた者は例外なくナノ博士と呼んでいる。  呼称というのは難しいものなのだ。  そういえば『マコト』と『マコ』はどっちが発音しやすいのかな、なんて現実逃避なことを考えつつも刹那は息をのみ、そしてドアに近付いた。  薄汚れた灰色のドアに呼び鈴はない。こんこん、とちょっと強めに叩いた。  寝ているだろうか?  一瞬の刹那の逡巡にもかかわらず、奥からばたばたと走る音と「アロウ?」というあまり美しくない発音で懐かしい声が響いた。  少し低音になったが、刹那にはすぐわかった。懐かしい誠の声だ。一瞬声をつまらせそうになったが、刹那は冷静に少し声を大きくした。 「まこちゃん、いきなりだけどちょっとごめん。急用できたの」  え、という声がした。ばたばた、ばたんと何かをひっくりかえすような音がして、 「え?え……まさか」 「刹那です、おひさしぶり。でもそれどころじゃないの。パリで止ちゃんを保護したんだけど」  は?という声がドアの向こうで響いた。 「ちょっと待て、それどういうことだ?止は今、こっちにはいないはずだぞ」 「そうなの?だったらなおのことちょっと開けてくれる?今、止ちゃんこの前の道で私の車の中なんだけど」  げ、と絶句するような声がして、そしてがちゃがちゃと鍵を開くような音、そして、    ドアが開いた。   「……」  刹那と誠はその瞬間、お互いを目を見張って見つめあっていた。  誠はよれよれのスーツ姿だった。仕事から帰って軽く飲んでいたのか、それとも飲み屋の帰りなのか。深酒でなく軽くひっかけた程度のようで、酒の匂いはするものの態度におかしげなところはない。欧州に出稼ぎに来たアジアの田舎紳士、まさにそんな感じだ。  その誠が、レディーススーツの上に研究所の白衣を来たままの刹那を、あっけにとられた目で見ていた。 「呆けてるのはいいけど、止ちゃん」 「!」  その言葉で我にかえったのか、誠の表情がいきなり引き締まった。 「で、止は下だって?」 「うん」 「ちょっとごめん」  誠はその場で武骨なGSM式のビジネス携帯をとりだすと、やにわにどこかに電話をかけた。 「どこに電話してるの?」 「どこにって、止の携帯に決まってるだろ」  あれ、と刹那は首をかしげた。  ボディチェックをしたわけではないが、止は携帯をもっているそぶりなど全く見せなかった。その薄汚れた雰囲気となりで、おそらくそういうものはもってないだろうと刹那は判断してしまったのだが。  はたして、携帯の向こうは一瞬で出た。 「止、俺だ。今どこにいる?……なんだってぇ!?ちょっとまて、それどういう事だ!刹那は本当におまえの事心配して、来にくいだろうにわざわざ来てくれたんだぞ?  はぁ?……ふざけろ馬鹿!逃げるな!今そっちに行ってケツぶっ叩いてやるから……って、はぁ!?」  どうやら相当に混乱しているらしい。時間帯が時間帯でもあるし、このままでは近所迷惑だろう。  ちょっと考えた末に刹那は誠をそっと中にいれ、自分も玄関に入って後ろ手でドアを閉めた。  そして、驚いた顔をする誠に顔を向けるとドアの外を指さし、人差指で「しーっ」というジェスチュアをしてみせた。  それだけで誠もわかったのだろう。すまん、わかったと頷くと声のトーンを落とした。  外の空気と遮断されたことで、中の温かさが刹那をやんわりと包んだ。 「まこちゃん、止ちゃんどうしたって?逃げるってなに」  失礼とは思ったが不審すぎる言葉に、つい刹那はまだ電話中の誠に問いかけた。  誠はその言葉に頷くと携帯の口を押さえ、刹那の方を見た。 「あいつ、なんて言って下に残った?」 「ここに車止めたらまずいから、まこちゃんに確認してって」  刹那の声を聞いた瞬間、誠は頭を抱えた。 「それ嘘だ」 「は?」 「この下は住人なら一晩くらい止めてもいいんだよ。俺はよく管理人さんの荷役の手伝いとかもするからさ、友達とか家族が止める事もあってそこらへん確認してあるんだ」 「えっと、それって」 「ちょっと待っててくれ」  そう言うと誠は電話に戻った。  しばらく誠は電話の向こうとやりあっていたが、やがてあきらめたように電話を切った。  わけがわからない刹那は首をかしげている。誠はそれを見てためいきをついた。 「……はかられた」 「どういう事?何があったの?」 「いやその……止から伝言なんだけど」 「伝言?」  ごめんな、と誠は刹那につぶやき、そしてこう言った。 「一晩車貸してね、だと。誰か友達と遊びに行きたいらしい。まぁ、言い訳だろうけど本当の理由は言わなかった」 「貸すのはいいんだけど」  わけがわからない、と言いかけた刹那だったが、途中でハッとそれに気づいた。 「……はぁん」 「刹那?」  あははは、やられたと苦笑いする刹那。今度は誠の方がわけがわからず、刹那の顔をまじまじと見た。   「というわけでまこちゃん、おじゃまします」 「ってちょっと待て刹那!」 「まこちゃん。こんな夜中に女ひとりおっぽり出さないよね?」  そのまま誠の胸に両手をつき、ずいずいと中に押し込んでいく。  日本では映画にしか出てこないようなクラシックな部屋であったが、中身はまぁまぁ悪くない。中に入っていくと居間があり、おそらく誠がそこで寝起きしているだろう事はひとめでわかった。結構ちらかっている。 「はぁ、明日はお掃除だね」 「お、おい。俺にはさっぱりわけがわからないぞ、せつ」 「せっちゃん」  何年ぶりかに「せっちゃん」と訂正する。刹那は懐かしさに顔を綻ばせたが、誠の方はその意味をやっと理解したのだろう。「うげっ」と顔色を変えた。 「なぁに、まこちゃん。誰か女でも囲ってるの?」 「いない、ていうかこの部屋見たらわかるだろうが」 「そうだね。でも外にいるかもしれないし」 「そんな金はない」 「ふーん。心ちゃんの援助は全部貯金してるのに?」 「な、なんでそれを」 「やはりか」 「うわ、誘導尋問かよ、汚ねえ!」 「あっさりひっかかるまこちゃんが悪い。で、女は?」 「いない」 「溜ってる?溜ってるよね?」 「うわぁ!いきなり何言い出すんだおまえ!」 「おとなしくなさいって」  そのまま刹那は誠を寝室に押し込んだ。後ろ手でドアを掴み、そしてパタンと閉じた。    その夜、何が起こったかはふたりだけの話である。   (おわり) [#改ページ] あとがき[#「 あとがき」は中見出し]  地中海に面した海沿いの明るい別荘に、ふたりの女の気配があった。  別荘の前には赤いオープンカーが止まっている。海につながった広い庭にはベンチがあって、そこには髪の長い女性と、伊藤|止《いたる》が髪をなびかせて座っていた。  心地よい風。少し暑い陽射し。ふたりは水着の上にバスタオルを羽織っていた。 「それで、誠くんと清浦さんはうまくいったのね?」 「そりゃあばっちり。傍聴マイクにはしっかり二人のあえぎ声が」 「こらこら。それは犯罪よ止ちゃん」 「いいの。お兄ちゃんのためなんだから」  困ったように笑う女性。止は得意気に胸をはった。 「でもいいの?言葉お姉ちゃん。お兄ちゃんをキオウラにあげちゃって」 「心とくっつくよりはいいもの。心相手じゃ取り返すに取り返せないでしょ?清浦さんが悪いひとじゃないのはわかってるし、心みたいなわがままなひとじゃないから、勝っても負けても納得できると思う」 「って、取り返す気まんまんですか」 「もちろん。  だって、別れたといってもそれは心と引きはなすためだもの。誠くんもそれはわかってると思うし」 「そうかなぁ?お兄ちゃんだよ?」 「ふふ、そうね」  うっふふと楽しげに笑う言葉に、止は呆れ顔を浮かべ、そして目の前のジュースに口をつけた。    実は、今回の狂言を提案したのは言葉だった。  心が裏で誠に近付いているのは言葉にもわかっていた。だが引きはなす手段がもうなかったので、とりあえず桂家自体と誠を引きはなすことを言葉は思い付いたのだ。  止は誠の妹であるが、桂家全員のお気に入りでもあった。誠と言葉が別れた今も彼女を軸に伊藤家と桂家の交流は続いていて、特に彼女は桂家の三女のように扱われている。桂家の家族旅行には当然のように呼ばれたりもする。  離婚したにもかかわらずそのパイプを使い、心は誠と密かに接近していた。それに気づいた姉がとった回避手段というわけだ。 「誠くん、あれで結構こっちの仕事が気に入ってるみたいなの。清浦さんともうまくいくと思う」 「はぁ。知らないよ?本当にとられちゃっても」 「その心配は私がします」  ふふ、と言葉は笑った。 「別れたといっても仕事上のおつきあいはあるもの。誠くんの日常は全部こっちで抑えてるし、非常の際にとれる手段もいくらでもあるし。  大丈夫、清浦さんは強敵だけど最後は私が勝つから」  がんば、と死語をつぶやくとガッツポーズをしてみせる言葉。態度は可愛いが会話の内容はかなりブラックである。  どうやら、いざとなったら経済的社会的な絡め手で籠絡するつもりらしい。 「……」  うっへぇ、どろどろだねぇと止はつぶやいた。   「ところで言葉お姉ちゃん。お兄ちゃんのオナニー写真とかいる?」 「おな……!って止ちゃん!あなたお兄ちゃんのそんな写真とってどうするつもりなの?」 「心ちゃんにあげようかなと」 「だめ、絶対ダメよ。私に渡しなさい」 「え〜撮るの大変だったのにぃ」 「もう。じゃあ今度遊びにつれてったげるから。ね!」 「パリ?」 「……パリはダメ。治安悪いでしょ?」 「じゃあ写真は心ちゃんに」 「わかった!わかったわよもう!」 「えへへー」 「えへへじゃないの!もう本当に」 「それは私のセリフだよ。来たる時に備えて勝負服とか買わなくていいの?」 「……それは」 「はぁ。世話が焼けるんだからもう」 「心みたいなこと言わないの!もう!」   (今度こそ、おしまい)