彼女たちの事情 hachikun とらハ3およびPC版なのは、「いもうとがほしかった男」の忍視点  『[いもうとがほしかった男|../uminari-lolita/]』の忍視点の話です。  とらハシリーズ全作ねたばれ。『[いもうとがほしかった男|../uminari-lolita/]』を読んだ後で読むことを前提にしています。    実験作です。多少粗があります。楽しめる人だけに。 [#改ページ] アレ以外の何か(1)[#「 アレ以外の何か(1)」は中見出し]  彼女は後にその事件をふりかえりこう言った。 「『おんなのこ』だって女なんだよね。ほんとにそう思ったよ」  機械いじりをモットーとし人間とのつきあいの少ない幼少時代を過ごした彼女は、子供時代の色恋という概念が弱かった。だからそれを見て本当に驚いた。  それは、彼女が未来の夫と出会った頃のこと。自らの半身であり片腕ともいえる美しきメイド長をめぐる事件と共に、後にずいぶんと彼女を悩ませたひとつの事件であった。    「おっかしいなぁ。出ないや」  ベッドの中から頭と手だけ出した状態で忍はぼやいた。  ここは月村邸の忍の部屋である。つい先日には愛しい恋人と楽しい時間を過ごした場所でもあるが、今は忍ひとり。非常時にかこつけてどっちが自宅かわからない暮らしを強要させている愛しの恋人も、この二日ばかりは泊り込んでいない。家族をあまり心配させてはまずいからだ。 「う〜ん。愛しの忍ちゃんがモーニングコールしてあげようと思ったのに……」  よほどの美女美少女でなければ自信過剰の馬鹿ととられかねないセリフではあるが、幸いにも忍は前者なのでこれがよく似合う。シーツから半裸の身体がこぼれた状態であり、色っぽさと発言の幼稚さがあいまって、なんとも愛らしい。今はまだ少女っぽさが残っているが、大人になればその色香に迷わぬ男などいないだろう。  もっとも、これらの行動は単独の時、あるいは家族の前でしか見せない。必要なところではきちんと猫をかぶる。その猫の枚数は決して多くはないのであるが、革が少々分厚いので親しくない者にはきっちり効果があるし、親しい者には無防備な天然のようにも見える。月村忍とはそういう娘である。 「忍お嬢様」  背後から声がする。厳格ではないが折り目正しさを感じる美しい声だ。 「起きて服をお召しになったほうがいいのでは。親しき仲にも礼儀ありかと」 「えーいいよそんなの。どうせ恭也来たら脱ぐんだし」 「そうですか。しかし恭也様は謹みのある女性がお好みかも」 「……んーわかった、起きる」  途端に自堕落タイム終了、がばっと忍は起き上がった。ぺろんとシーツがめくれて、ぷるんと形のいい乳房がむきだしになる。 「ノエル、着替えもってきて。この間さくらが買ってくれた白がいいな」 「わかりました」  どこか満足げに声をかけたメイド、ノエルは一礼した。  高町恭也と仲良くなってから忍は白系統の服を好むようになった。恭也が暗色の服を好むせいでもある。傷だらけで武骨な恭也にはその暗色がとてもよく似合っているが、だからこそ隣にたつ自分は明るい色がいいだろうと二人セットの配色を考えたうえの選択である。  ちなみに余談だが、恭也の自転車を修理した時ボディを白系で塗ったのもそのため。恭也が自転車に乗る時は自分と一緒でないということだから「ひとりぼっちの時も私と一緒にいてね」というわけ。恭也は気づいてないが、純粋な白でなく忍おきにいりの白い服と可能な限り同じ色に見えるようにしてある。ロゴの色まで忍のそれと同じにする凝りよう。忍ちゃん印のマーキングというわけだ。  なお、後に自転車と忍を見比べた高町家の女性たちが苦笑いしたのはご愛嬌。普通なら忍の個人的評価は下がりそうなものだが、相手がにぶちんの恭也では仕方ないだろうと誰もが納得、むしろ修理の腕に感心し忍の評価があがったというのも、これまた余談。  閑話休題。  どうして忍がこんな早朝にモーニングコールしたのかというと、今朝の定時連絡がまだないからだ。本来は朝の弱い忍であるが今はちょっとした非常事態が続いている状況で、恭也からはきちんと定期的に連絡がきていた。今朝はそれがなぜか遅れていた。 「忍お嬢様」 「ん?」  クローゼットから忍の衣服を出しつつノエルが報告する。 「今朝早くですが、那美さんからご連絡がありました。市街にただならぬ強い霊気を感じたとのことで、例の件とは無関係と思われるが一応注意してくださいと」 「ただならぬ……強い霊気?」  機械工学系の忍はそういうことにはたいへん疎い。  だが幼少時代、いわゆる霊障にでくわしているし親友の神咲那美はその分野のプロでもある。だからそれを軽んじてはいない。 「そっか、じゃあ那美はそれの調査中なんだね。わかった」  ノエルから衣服を受け取り、下から着込んでいく。下は活動的な黒いデニムのスカートだが、さすがに忍を猫かわいがりする叔母の選択だけあって白い上と違和感がない。素材も軽く、またしなやかな忍の脚を強調するためか短い。  ちょっと考えて忍はスカートと同色のストッキングを選んだ。恋人が脱がせば黒い布地に包まれたしなやかな腰にあたるというわけだ。叔母がくれたのにはもっと妖精風にかわいらしい服装もあるのだけど着たことはない。昔は興味がなかったし、今は剣術家の恋人。後ろでかわいく守られるなんて自分のキャラじゃない。かわいく子猫のように甘えるのは大好きだが。  クールに見えて、実のところ子供っぽく甘えん坊の忍らしい発想である。 「恭也様とのご連絡はつかないのですか?」 「つかない。変だなぁ。いつもは愛のモーニングコールしてきて当然の時間なのに」 「定時連絡ですね。本来は忍お嬢様がかけるはずなのですが、お嬢様が必ず寝坊されるので仕方なく恭也様からかけていると」 「……もしかしてノエル、からかってる?」 「いえ」  からかってる、絶対からかってると忍は苦笑いした。  恭也と知り合ってからノエルの内面も著しく変化しているようだ。これで恭也がメカ萌えとかメイド萌えだったら厄介よねと内心思う。とはいえノエルと恭也がくっついたとしても忍は別にいいのだけど。  ノエルは指先から髪の一本まで忍のものだから。  恭也とノエルがくっつくのなら、結局のところ恭也は自分のものだ。そりゃあちょっと胸は痛むが、他の女の子のように「彼を失ってしまう」心配をする必要はまったくない。  だが、それはあくまで自分主導での話だ。いくらノエルでも自分をさしおいて横から恭也をさらってしまってはさすがに嬉しくない。ノエルがそんなことしないのはわかっているが、むしろ恭也の方がそういう方向に走らないという保証はない。  この事態もそうだけど、こっちの計画もちゃんとたてなくちゃね……忍はそんなことを内心考えてもいた。  と、ノエルはもう少し言葉があるようだ。 「やはりそうですか」 「やはり?どういうこと?ノエル」  忍の言葉にノエルは頷いた。 「さくらお嬢様から今朝、ご連絡がありました。胸騒ぎがするので恭也様と那美さんに連絡を怠るなと忍お嬢様に伝えて欲しいというものでした。  そのため、先ほど恭也様のことをお聞きしました」 「……さくらが?」  何かある、と忍は思った。 「わかった。出かけるよノエル」 「この時間にですか?それに恭也様ぬきでの外出は」  今は時期が悪い。  忍と資産関係の清算を迫る最右翼、月村安次郎の宣告した期日を過ぎている。つまり、いつ相手がしかけてきてもおかしくないということだ。この時期に無防備に家を出るのはまずい。 「──ノエル、車に武装一式積んで。戦闘準備して出るよ」 「それは」  昼間の市街地、一目につく場所での戦闘も辞さないということか。しかしそれにしても。 「移動するだけで官憲の目にとまる危険性がありますが」 「ブレードだけを見て本物の武器だと思う奴なんているわけないよ。もしいたら、そいつは自動人形に詳しい奴ってことになるし、どっちにしても問題ないんじゃない?」  ブレードは大きく頑強で重い。しかも片手で一本固定して戦う式になっている。  武器に詳しい人間であればあるほど、ブレードを見ても飾りかオブジェと判断するだろう。手離れをまったく考慮せず、しかもあれほどの大型の刀剣を片腕に固定して使う。無意味を通り越して武器としては笑い話でしかない。斬馬刀を使うような時代ならどうか知らないが、それにしても片手で扱うようなものではない。  だが自動人形には別だ。ノエルの身体能力ならばこの大きなブレードを恭也の小太刀の如く振り回せる。忍を主としてからは当然血みどろの戦闘経験などないが、必要ならいつだって死体の山を築ける。そうなるとこの重さとごつさが効いてくる。防御もへちまも関係ござらんと叩きつぶせるのだ。  だからこそノエルが使う意味がある。そういう武器。 「わかりました。ただちに準備いたします」  ノエルは頷いた。 [#改ページ] アレ以外の何か(2)[#「 アレ以外の何か(2)」は中見出し]  忍が海浜公園にやってきたのは偶然に近い。単に勘というか、気分に導かれてのことだった。  夜の一族である忍であるが、ウェアウルフとの混血である叔母のような異様な能力はない。ほとんど純血に近いということは正統派の能力は非常に優れているのだけど、それでも得手不得手というものはある。幸か不幸か忍の能力は知力や回復力に偏る傾向があり、戦闘に向いているとは必ずしもいえない。  しかも今は朝。これから昼にかけて力はゆっくりと減衰する時間。  海浜公園を歩きつつ、ふと恭也との出会いを思い出す忍。ちょっと赤くなってみたり、ためいきをついてみたり。その後ろをゆっくりとついてくるノエルは武装こそしていないが、いつでも戦えるよう臨戦状態で視界をゆっくりと巡らせている。  そんなこんなしながら周囲を見ていたのだが、 「……あれ?」 「恭也様ですね」  ふたりはほぼ同時に気づいた。  いつだったかたこ焼片手に座ったベンチ。そこに恭也がいる。  他に人はおらず、雀らしい小鳥が一羽ベンチの後ろできょろきょろしているだけ。ただそれだけだった。  ──なのに。 「?」  誰かが見ているような気がして、忍は眉をしかめた。 『どうされましたか?』  ノエルが背後から小声が話しかけてきた。 『わからない。ノエル、誰か見てない?』 『いえ、誰も。ですが何かを感じます』 『ノエルも?』 『はい。対象がなんなのか分析できませんが』  ノエルでさえわからない何か?忍は首をかしげた。 『わかった。ノエル、なんでもいいから記録としといて。あとで分析するから』  はい、と頷くノエルを確認すると、忍は恭也の方に向きなおった。  考えごとでもしているのか、恭也は海の方をじっと見ている。視界に入らないよう気配を殺してゆっくりと背後から近付く。  そして声をかけた。   「きょーや♪」 「!」    驚いたように恭也は振り返った。いつものしなやかさの欠けた、本当にびっくりしたと思われる無防備な反応だった。  その動作と驚き顔に忍は内心ガッツボーズしながら声をかけたのだが、 「やっぱり恭也だ♪どうしたのこんな時間にこんなとこ……ろ……で……」  その声は途中で途切れた。 (違う)  忍の中で何かが警告した。彼は高町恭也ではないと。忍の愛しい男ではないと。  幸せに満たされた頭が一瞬で冷えた。嗅覚がいつもの恭也の匂いを感じると響く警告はさらに大きくなり、夜の一族としての感覚と彼をいつも観察している恋する女の子の視点がいりまじり、状況をごくおおざっぱに、しかしかなり具体的に把握していく。 「……あんた、誰?」  警戒色をふくんでトーンの落ちた声は、目の前の『恭也もどき』の現状を的確に言い当てたものだった。 「あんた何者?どうして恭也の身体を使ってるの?答えなさい!」  目の前の『もどき』は忍の声に劇的に反応した。どうやら大当たりらしい。  だが同時に忍には違和感があった。驚愕や恐怖ならともかく、男の表情には「悲壮感」も見てとれたからだ。自分に何か悲しいものを見出している、目の前の恭也もどき男はそういう風に見えた。  そんなこんなで忍が内心迷っていると…… 「わかった」  男は唐突にそんなことをいうと、きちんと姿勢をただし座り直した。  その反応の奇妙さに内心首をかしげていると、さらにこんなことまで言い出したのだ。 「月村さんその通り、俺は高町恭也じゃない。そして今ちょっと困っている。問題解決のためにも全てを話すから、話したうえで貴女の助力を借りたい。貴女と、貴女の叔母さんである、綺堂さくらさんの助力をだ。  どうだろう、ぶしつけですまないが俺の話を聞いてもらえないだろうか」 「……え?」  なんなんだこいつは?忍はそう思った。  そもそもどうしてさくらのことを知っている?何者なのだこいつは? 「どーいうことよそれ?なんであんたがさくらを知ってるの?」 「知ってておかしいのか?彼女だって海鳴にいたことがあるじゃないか。君だって昔、彼女の親しい人達に逢ったことがあるはずだ。違うかい?」  ますますわけがわからない。  男のいうことは正しい。事実さくらは海鳴に縁があるし、今も忍の件でこの近くにいる。彼女の昔の友人たちも知っているし、その中のひとりは忍のいる学校で先生もしている。レンの担任だ。  だけど、それをなぜこの男が知っている?恭也にだってそんな話はまだ知らないはずなのに?  何か話そうとした忍だったが、意外なことを男は言ってきた。 「実はここにくる前、神咲さんにも逢ったんだ」 「那美に?」  そして男は自分の途方もない身の上について話しはじめた。    話は少し長かった。  ちょっと理解に苦しむというか正気を疑うような話だった。なんなのよそれ、と忍は投げ出して黄色い救急車を呼びたい気持ちに何度もかられたが、相手は恭也の身体を乗っ取っている。呼べば精神異常の疑いがかかる不審人物は恭也だ。忍は必死でその誘惑に抗った。  それにしてもすさまじい、というかむちゃくちゃな話だ。  男は、那美の目利き通りなら自分は別の世界から来たのだろうという。  忍たちのいるこの現実が男のいる世界では恋愛ゲームとして売られてて、男はそのゲームを何度となくクリアした熱狂的ゲーマー。一番のお気に入りはなんと恭也の妹、高町なのはだというのだ。  話だけ聞けば狂人の妄想でしかない。  しかも忍はそのヒロインのひとり、主人公は恭也なのだという。男は忍とノエル、那美が大好きで三人のシナリオは何度クリアしたか知れないなどと幸せそうに言われては、普通の女の子なら間違いなく警察を呼ぶ、あるいは尻に帆かけて全力で遁走だろう。これで男がエロゲーなどと発言していようものなら、忍は発狂して恭也の肉体ごと惨殺していたかもしれない。  男の視線に身体の中までかき回されているような気がして、忍の全身に鳥肌がたった。悲鳴をあげて逃げ出したい気持ちを止められない。  気を抜けば自分が何をしでかすかわからない。震えが止まらない。 (…………って、待って、ちょっっっと待って!)  冷静になろうとしてふと、男の発言の最初を思い返す忍。  男は忍たちがお気に入りだという。だけど一番は違うと言ってなかったか?    そう。男は『高町なのは』が好きだと言い切ったのだ。    忍の頭が一瞬で冷えた。そして状況が把握できた。  この町を舞台とし、自分をはじめとする年頃の女の子たちとの恋愛を描いたゲームがかりに実在したとする。それはそれで気持ち悪さ全開の話だが、なのはが好きというのは明らかに別の問題を秘めている。たった八歳のなのはは『年頃の女の子』とは御世辞にも言えないからだ。  恋愛ゲーマーのうえに妄想狂!しかもロリコン!とどめに|実妹《いもうと》狙い! (……)  さすがの忍も絶句した。  おぞましいとかそれ以前に、目の前で恭也の身体でしゃべっているこの男が、実はおぞましい昆虫型の知的生命体か何か、とにかく人類とは似ても似つかない途方もない化け物のように思えてならなかった。まるで現実の自分たちが何かとてつもないオーバーテクノロジーで電子の世界に押し込まれ、見知らぬ男の姿をした異形の怪物どもに全身嬲られるような底知れない不気味さ。忍は足元が突然崩れ、何か得体の知れない異次元に飲み込まれるような錯覚すら味わった。  だが事態はそれどころではない。  よりによって|恭也の妹《なのは》狙いの男が恭也当人の身体を乗っ取っている。これを最悪と言わずしてなんとしよう?  恭也を助けること自体はさくらや那美に頼れば可能かもしれない。  だが、万が一なのはを餌食にされでもしたら、回復した恭也にどんな思いをさせることになる?乗っ取られた自分の肉体が何をしでかしたか知ったとして、あの自覚のない兄馬鹿男がどんな衝撃を受けるか。  ──ぞく、と寒気がした。  忍は振り返り、背後のノエルに声をかけた。 「ノエル、那美に連絡とって。久遠も連れてすぐうちに来いって。あと──いい、さくらには私が連絡するから」  そして男の方に向きなおった。 「──いいわ、協力したげる」  怒りも恐怖もなかった。あまりの衝撃に忍のどこかが醒めてきており、その発言は忍自身があとで不思議に思ったほどに機械的だった。 「恭也を取り戻すために、あんたなんかとっとと恭也から追い出してやる。私はそっち系得意じゃないけどさくらは違うんだからね、お望み通りに跡形も残さず消してやるわよ。  ノエル、これ車に積んで。ああ、様づけなんかすんじゃないわよこいつ恭也じゃないから。少しでも怪しいそぶり見せたらふん縛っちゃいなさい。手加減はいらないわ、死ななきゃいいんだから。なんなら意識落としてから運んでもいいわよ?」  男は抵抗の意志はないらしい。まるで銃でも突き付けられたように両手をあげた。    ただ、男がとても悲しそうな顔をしていたのも忍の記憶に残った。 [#改ページ] 世界を跨ぐ願い(1)[#「 世界を跨ぐ願い(1)」は中見出し]  男を眠らせ月村家に護送した。抵抗したためでなく月村家への道を教えないためだ。万が一逃げ出した時に高町家へ行かれては困る。ノエルの分析で気づいた忍は、即座に男を眠らせた。  男は問題ないと言ったがもちろん無視した。寂しそうな顔はひっかかったが。  さくらへの連絡を忘れていたのに那美への電話中に気づいたが、しかしそっちの心配は無用だった。月村家に向かう途中の那美をさくらが発見、車で一緒に月村家に向かったからだった。  どうやら忍自慢の叔母は、予感だけで気になって飛んできてくれたらしい。いつものライラック色のスーツが玄関で待っているのを見た時、正直忍は涙が出るほど嬉しかった。 「さくら!」 「忍」  ノエルが車を玄関前に止めると、さくらと那美、そして久遠が近寄ってきた。 「えっと、おはようございます忍さん」 「挨拶なんかいいから!ノエル、車はこのままでいいからすぐこいつ運んで!」 「はい」  ノエルは車を降りると後部ドアを開き、眠っている男を引き出し抱きあげた。 「恭也さん……眠らせたの?忍?」 「って那美に何も聞いてないの?途中から一緒だったんでしょ?」  あまりの忍の剣幕に、さくらは目を丸くしながら答えた。 「ええ聞いてるわよ?」 「だったらどうしてそんな平然としてるの!」  さくらは困ったような顔をした。  「恭也さんが知らない男のひとの霊に取り憑かれたんでしょう?なんでも生前とても妹さんが欲しかった男性で、いちどでいいからお兄ちゃんと呼ばれてみたいって想いの果てにそうなったらしいっていうんだけど……なんか凄いわねえ」  苦笑いだった。そんな冗談のような理由で憑依霊になる人間がいるなど、さくらとて想定外だったのだろう。  通常、自縛にしろなんにしろ霊が残念するのは不幸がキーとなる。妹がいないというのも確かにある意味不幸なのかもしれないが、一般的に不幸といえるかどうかは疑問符の残るところだ。まして、たったそれだけの理由で霊になるというのは俄に信じがたいことだろう。  だけど、那美が感じたのは事実それだけだというのだから……さくらにしてみればもう苦笑いしかない状況だ。 「恭也さんには、なのはちゃんって可愛い妹さんがいるし、こっちの迷惑はともかく彼の側の事情はわかる。でもびっくりだわ」  うふふと笑うさくら。だが忍の方は逆に眉をつりあげた。 「ものは言いようね。ていうか那美もおひとよしすぎ!」  忍は呆れ半分にまくしたてた。 「こいつはね、恋愛ゲーマーのうえに妄想狂、しかもロリコン!とどめに|実妹《いもうと》狙いって筋金いりの超のつく変態野郎なんだから!  こいつに何吹き込まれたか知らないけど、霊現象なら那美のオハコでしょうが!なんで霊なんかにうかうか騙されるのよ!」 「……」  だが那美は、珍しい忍の激昂にも涼しい顔だった。いつもアタフタして百面相している那美とはとても思えないほどに落ち着いている。 「……」  そして、そんな那美に『神咲』の顔を見たさくらも何も言わない。 「何黙ってるのよ那美!」 「……忍さん、それ違いますよ。いえ合ってるのかもしれないけど直接の理由じゃないと思います。  それにだいいち私、彼にお話なんか聞いてないんです。彼がご当人と知った途端に逃げられちゃいましたから」 「……え?そうなの?」 「はい」  忍はまじまじと那美を見た。    男をベッドに寝かせた。  念のためにベルトで縛ろうとしたが、必要ありませんと那美があまりに断言するので渋々忍はあきらめた。事情はともかく霊関係では那美やさくらが専門家であり、彼らが安全と断言するものを無碍にすることはできなかったからだ。 「危害を加える意志があるのなら、いまごろわたしはとっくに犠牲になってますよ。無防備にお話していたわけですから。  逃げる時だって、この方は久遠にもわたしにも指一本触れませんでした。それどころか最初は本気でわたしの霊障探しを手伝ってくれるつもりだったみたいです。  自分がその霊障そのものとは気づいてなかったんでしょうね」 「なるほど」  さくらが普通に頷いているところをみると、パターン自体はよくあることなのかもしれない、そう忍は思った。そしてそれは実際その通りで、霊障の中でしばしばその元凶が自分の死すらも知らないというのは定番の話でもあった。 「忍さんが本人に伺ったという話を総合すると……そのゲームというのが実在するかどうかは別として、この方の心の中では現実にあったんだと思います。その中でこの方は妹さんが欲しい、欲しいって気持ちの代償行為としてなのはちゃんに夢中になっていったんでしょう。  でも所詮はゲームですよね?彼にとってなのはちゃんは現実の妹さんじゃないんです。表面的には癒されるけど気持ちの方はむしろ強まり、方向性が定まっていったのかもしれません。  その気持ちが最高潮に高まったとき……おそらくは死の瞬間なんでしょうけど、何かが起きた。この方自体がもともと非常に強い霊力を無自覚に秘めていたか、それとも何かの力が働いたのかわかりませんけど、とにかくそれは起きた」 「それが今朝……恭也さんに男性がとりついた瞬間っていうことかしら?」 「はい。前後関係の正確さは別として、大筋は」  さくらの質問に、那美は巫女の顔で頷いて答えた。 「はぁ……結局それってただの妄想じゃない。まさか別世界からきたなんてトンデモが現実にあるわけないんだし」  忍が心底呆れたような顔をして嘆いた。 「とにかく、そんなキモい変態に恭也をのっとられたんじゃたまったもんじゃないわよ!那美!今すぐ除霊しちゃって!」  え゛、と那美が困ったような顔をした。 「何びっくりしてるのよ!プロでしょ!」 「それはそうなんですけど……この方たぶん普通の除霊は必要ないと思いますよ?直接原因がはっきりしてますから、その原因さえ除去できれば満足して自然に成仏されると思います」 「……は?」 「なるほど、確かにそうね」  首をかしげたのは忍。納得したのはさくらだった。 「え?どういうこと?」 「わからないの忍?簡単でしょう?  つまり恭也さんにとりついてる方は、なのはちゃんに『おにいちゃん』って呼んでもらいたいのよ。だからこそお兄さんである恭也さんにわざわざとりついたんでしょう?  だったら話は簡単よ。なのはちゃんにその通りにしてもらえばいい。  霊障っていうのは色々あるけど、残念している根本原因がはっきりしてるんなら除去は難しいものじゃないわ。特に人物まで指定で『おにいちゃんと呼んでほしい』なんてあまりにもピンポイントすぎる願いならたぶん、かなった途端に現世に留まれなくなってみるみる昇華しちゃうと思う。  逆にいうと、年月がたちすぎてその妹さんが存命しなかったりしたら大変だけど。この場合、よほどの事がなきゃ残念したままになっちゃうから」 「うわ……博識ですねさくらさん」 「ふふ、神咲の人の前じゃ恥ずかしいけどね。まるでお釈迦様に説法するみたい」 「そんなことありませんよ。すごいです」 「ありがと」  にこにこと平和に会話しているのが、またまた忍の眉をつりあげた。 「冗談言わないでよさくら!  こんな変態の前になのはちゃん連れてきたらどうなると思う?そんな危ないめになのはちゃんをあわせられるわけないでしょ!」  激昂する忍に、さくらはためいきをついた。 「忍、落ち着きなさい」 「落ち着いてるわよ!」 「はいはい、落ち着いてない落ち着いてない」  うふふと笑ってさくらは穏やかに言った。 「あのね、忍。  たとえ忍のいうとおり危険だったとしても、ここには忍も私もいるでしょう?いざという時は私たちが守ればいい。違う?」 「……あ。そ、そっか」  そこまで頭が回ってなかった忍は、バツが悪そうに顔をしかめた。 「とにかく忍、高町さんのおうちに連絡してくれるかしら?理由はなんでもいい、とにかく適当な事情を話してなのはちゃんを連れ出すの。迎えは私がいくわ」 「うん。わかった」  さすがに真実は話せない。いやそれ以前に、そもそも自分たちの推測が事実かどうか自分たち自身ですらよくわかっていない。全ては推測にすぎない。  そんな状態で、よくわからない別人が恭也にとりついてます、なんて言ったらむしろ大騒ぎを巻き起こすことにしかならないだろう。  それじゃ行ってくる、と忍が腰を浮かそうとしたその時だった。 「あれ?」  ぴんぽーん。呼び鈴が鳴っている。 「誰かきたのかな?ノエルー、誰がきたか確認してー」  この部屋にはインターホンの端末がない。屋敷のどこかにいるノエルに忍は確認を頼んだ。  少ししてノエルの声が聞こえる。 『なのはさんです』 「え!?なのはちゃん!?ほんとに!?すぐ通して!」 『はい』  飛んで火にいる夏の虫、じゃなかった噂をすれば影。なんてタイミングだろうと忍は目を丸くした。  ──だが。 「なのはちゃん?どうしたのかしら?忍、なにか約束してたの?」  おもむろにさくらが眉をしかめた。 「してないけど?」 「してないって……じゃあ、わざわざバスか何かできたの?理由もなく?」 「!」  あ、と忍もつぶやいた。さくらが眉をしかめた理由がわかったからだ。  月村邸は遠い。自分の足がないとバスを使うしかない。自転車でえっちらやってこれるのは体力のある恭也くらいのもので、小学二年生のなのはが同じ真似をしたら大変な大冒険になってしまう。  そんな遠くにわざわざやってきたとしたら……理由もなくくるわけがない。  しかもこのタイミングで現れるなんて。 「……なんだろいったい」  忍は首をかしげつつ、とりあえず部屋を出た。なのはをこの部屋にいきなり通すわけにはいかないから。    なのははいつもの白い制服姿だった。  彼女はこの制服を好む。休日でも場合によっては制服でくることがある。最初にきた時も好きだと言っていたが、こうも頻繁に着ているところをみると、それはやっぱり好きなのだろうなと忍は思った。  なのはのおじぎにあわせ、ゆらりとリボンが揺れていた。バス停から歩いたはずなのだが外は涼しいのか、なのはは汗ひとつかいてない。 「いらっしゃいなのはちゃん」 「あ、こんにちは忍さん。すみません突然おしかけちゃって」  にこにこといつものように笑顔を交わすふたり。 「ところでどうしたの?用があるんなら連絡してくれれば迎えにいったのに。大変だったでしょ?」 「いえ」  にぱ、と笑う。いつものなのはの笑顔だ。  だが次の瞬間、なのちゃんってやっぱり可愛いよねーなどと内心気持ちよく思っていた忍の耳に、いきなり直撃弾が落ちてきた。 「あのですね、おにーちゃんのことなんですけど」 「!」  げ、とひきつった忍の顔を見て、満足そうになのははにこにこ笑う。 「おにーちゃん、今朝ごはんも食べないでいなくなっちゃったんです。レンちゃんにちゃんと断って出ていったみたいなんですけど、おねーちゃんの話だと具合がよくなかったみたいで。  それで、ちょっと様子を見にきました」  まるで、ここにいると知っているかのようになのはは言う。しかもその内容だと、バスか何かでくる以前からそれがわかっていたかのような……? 「あのー、なのちゃん?」 「はい」 「お兄ちゃんここにいるって誰に聞いた?」 「あ……えーとそれはですねー」  ちょっと困ったように苦笑いすると、 「ないしょです!」 「えー?どうして?教えてくれてもいいじゃない?あ、もしかして男の子?」 「えー?ないしょはないしょです〜」 「なのはちゃん冷たいなぁ。おねーさんにちょっとくらい教えてくれたって」 「だーめーでーす!」  うふふ、あははとふたりは笑いあった。  あの男は恭也そっくり、というか身体は恭也。海浜公園から連れ出すところを誰かが見ていたのかもしれないと忍は思った。  だが、忍は気づいていない。  忍たちが引き上げてから時間もそんなにたっていないのだ。バスの所要時間を考えると、その時間で目撃者をなのはが捜し出し、なおかつバスに乗ってくるというのは明らかにおかしい。しかしそのことに忍は気づいていない。 「で、それはそれとして忍さん。おにーちゃんどうですか?」  ちょっと心配そうに眉をしかめるなのは。 「どうって……別にその、ね、寝てるだけだけど?」  なのはにじっとみつめられ、あわてて取り繕う忍。  どういう選択をとるにせよ、なのはに本当のことを話すわけにはいかないだろうと忍は思った。だからここは誤魔化すかどうかして、無難にひきとめるしかない。  だが、次のなのはの発言に忍はギョッとした。 「そうですか?でも、おにーちゃん今、おにーちゃんじゃないんでしょ?大丈夫かなぁ……」 「!?」  忍はなのはの言葉に、一瞬反応できなかった。 「あ、忍さん。なんで知ってるのって顔」  ぷう、と子供のようにふくれるなのは……実際子供なのだが。 「なのはちゃん……どうしてそれを?」 「えへ、実はですね」  ほとんど苦笑いを浮かべるなのは。 「なのはのおともだちのひとりが、おにーちゃんのいたベンチの近くにいたんです。それで偶然ですけど、忍さんたちが連れていったとこまでみんな目撃してたんですよ。で、事情はわからないけどおにーちゃんさらわれたよって、なのはのところに連絡がきまして。  その……ごめんなさい」  どうやら、立ち聞きした友達とやらのぶんを謝っているらしい。 「あちゃあ、そうなんだ。それじゃバレても仕方ないか……あれ?」  だが、それはおかしい。  その場所には忍の他にノエルもいた。でも他には人なんて誰もいなかったはずだ。  ふと、海浜公園のノエルとの会話がよみがえる。   『わからない。ノエル、誰か見てない?』 『いえ、誰も。ですが何かを感じます』 『ノエルも?』 『はい。対象がなんなのか分析できませんが』    まさかと忍は思った。だが忍は自分の直感を信じた。  そう。あの視線は、なのはのものなのだと。  なのはは何かを隠している。行動がどうにも不自然だし、明らかに何かを知っていてそれを黙っているように忍には思えた。エンジニアとしての忍はそれを追求したい欲求にかられたが、今はその時ではない。  何を隠していようがなのははなのは、恭也の妹だ。それも相当に兄に懐いている。ならば問題のある行動はとらないだろうし、巻き込んでしまえば何を隠しているのかを見極めるチャンスも得られるかもしれない。  ふむ、と頷いた忍は屈みこみ、なのはに目線をあわせた。 「ねえ、なのはちゃん」 「はい」  いい返事だ。忍はにっこりと笑った。 「隠し事してるでしょ?何か凄いこと。私や恭也が聞いたらびっくりしちゃうようなこと」 「……えっと」  焦るようななのはの顔を見て、やっぱりねと確信した忍だったが、 「心配しなくていいよ。私は何もきかないから」 「え」  あのね、と忍はなのはに語りかけた。 「そりゃあ気にはなるよ?  なのはちゃんがどういうお友達に恭也のことを聞いてきたとか、どうやってここまで来たとかね。なのはちゃんに何かあったら恭也が悲しむもの。  だけど私は聞かない、約束する。なのはちゃんが教えてくれるっていうんなら聞きたいけど、私からは何も聞かない。  そのかわり、なのはちゃんに手伝ってほしいことがあるの」 「……手伝う、ですか?」  首をかしげるなのは。もちろん忍は大人である、なのはがしらばっくれてる事くらいはさすがにわかる。 「恭也の状況はわかってるんだよね?」  少し躊躇したが、はいとなのはは頷いた。 「今のおにーちゃんには、別の世界からきた人が入っちゃってるんだと思います」 「ふむ」  なのはの言葉を反芻する。  正直忍には信じられないことだ。だがあの男もそう言っていたし、那美もそれを指摘していた。那美と男は一度会話しているので共通の誤解をしている可能性も否定できないが。  だが、なのはは違うはずだ。 「なのはちゃん、それは誰かに聞いたこと?それともさっきの『お友達』かな?」  『お友達』を強調する。つまり、あなたが隠している何かで知ったのかな?と匂わせているわけだ。  そして、なのはは忍の言いたいことを理解したようだ。 「はい……その、ごめんなさい」 「いいのいいの。聞かないって言ったでしょ?」  誘導尋問してもいいが、それは今やることではないと忍もわかっている。今重要なのは恭也のことであって、なのはの隠し事はその次だ。ゆえにここでは話題にしない。 「とにかくこっちいらっしゃい?さくらと那美がいるから、みんなでお話しよ?」 「あー……それはその」  那美の名前が出た時点でなのはは躊躇した。 「ん?どうしたの?……あ、もしかして那美に聞かれたらまずい?」 「まずくはないですけど……」  どうやら那美が絡んでいるらしい。 「ん〜ひょっとして、きつねのことで那美と何かあった?」 「!」  驚いたような顔をするなのはに、にっこりと忍は笑う。 「なるほど、秘密を共有する仲ってわけか。  そういうことならたぶん大丈夫、那美だってああ見えてしっかりしてるとこあるんだから。なのはちゃんが追求されたくないとこに突っ込んでくるようなことはないと思うよ?  それに今はそれどころじゃないもの。恭也のことで頭がいっぱいのはずだし」 「……」  なのははしばらく忍の言葉をじっと考えていたが、 「わかりました」  そう答えた。 [#改ページ] 世界を跨ぐ願い(2)[#「 世界を跨ぐ願い(2)」は中見出し]  退魔師やHGS、夜の一族などの能力を見る限り、この世界に魔術やそれに類するものが存在するというのは別に不思議なことではない。科学的に分類できないというのなら、それはそのレベルに現代科学が追い付いてない、あるいは分析を試みた者がいないというだけの話だろう。存在するのに分析しきれないとすればそれは非科学というよりむしろ未だ分類されないもの、つまり未科学の分野である。  ただ、実際に使える人間がそこら中にいるわけではない。一般に知られていないとはそういうことだ。つまりそれは限定的、あるいは隠されている、隠すことができる程度にしか普及していないということでもある。夜の一族のような、あるいは神咲のような限られた空間の中で脈々と伝えられるものなのだろう。  忍は、なのはの隠しているものがわからなかった。彼女は魔術なんてものを知りはしなかったから、HGSのような特殊能力者がなのはの知人にいるのだろうかと考えた。あるいは健康体に見えるなのはのどこかにそういう未知の歪みが存在し、なんらかの異能が権限しているのかと。科学的な盗聴でないことはノエルが指摘ずみだったから、他に説明のつくものといえばそれしかない。  だが、ありえない。  重度のHGSなら忍たちも見ればわかる。軽度ならば能力といってもたかが知れている。はるか遠方から忍たちの会話を聞きつけるような諜報じみた能力まで持つレベルとなれば、それは唯事ではない。  聞かないとは言った。だが調べないとは言わなかった。  恭也のためにも、忍はなのはの秘密についてあきらめるつもりはなかった。    月村邸の食堂に全員は集まっていた。  恭也もどきの男はまだ別室で昏睡している。久遠、那美、さくら、なのは、そして忍。四人と一匹はここに集い、お互いの情報を交換していた。 「なのはちゃん、なのはちゃんはお兄さんの現状、どこまでわかってる?わたしたちがわかってる範囲だとね、高町先輩に取り憑いてるのは別の世界からきた人らしいってところまでなんだけど」 「あのね那美、別の世界ってあたりは同意してないんだけど?私が同意したのは、恭也を乗っ取ってるのが妄想変態男ってことだけで」  忍がムッとした顔をした。  それはそうだろう。どう考えてもやはり別世界なんて信じられるわけがない。夜の一族なんて普通でない血筋にいようが、忍は基本的に常識人なのだから。 「信じられないのは私も同じだけどね、忍。今重要なのはそこじゃないと思うんだけど?  なのはちゃんを恭也さんと会わせて、なのはちゃんに呼びかけてもらう。さっきお話してた事はそれでしょう?」  さくらが冷静に突っ込むが、忍はむしろ激昂するだけだ。 「やっぱダメ!変態男になのはちゃんを近づけるなんてできるわけないじゃない!あとで恭也がなんていうか!」  なのはの登場で仕切り直しになったのはいいが、話が戻ってしまっているらしい。 「……」  この時、なのはは考え込んでいた。  忍とさくらは知らないが、なのはにとって別世界というのは絵空事でもなんでもなかった。那美もなのはの話を聞いただけだが、やはり事情を知る者として理解していた。だからこそ、那美となのはのふたりだけは「別世界」というキーワードを素直に理解し、信じたのだ。  そも、なのはの隠しているもの自体が異世界からの|客人《まろうど》の持ち込んだ物なのだから。忍たちにとってどれほどのトンデモであろうが、なのはにとっては身近な現実なのだ。  それを説明すれば全てが露見してしまう。だが、兄にとりついた人について説明するには、どうしても異世界というキーワードを素直に納得してもらうのが一番だ。  どうしたものかと悩んでいたのだが……。 「うん、仕方ないね」 「なのはちゃん?」  突然につぶやいたなのはに忍は首をかしげた。  だが、なのはは忍をおいてけぼりにして一方的に問いかけた。 「えっとですね……忍さんもさくらさんも、今からわたしがすることはここだけの秘密にしてくれますか?」 「!」  驚く那美に「だいじょうぶ」となのはは言い、そして返事を待った。 「いいけど……それってさっきのこと?いいの?」 「よくないです。でも、別世界って話を納得してもらうにはこれが一番だと思いますから。  ──だって、わたしの秘密はその、別の世界からきた人にもらったものなんですから」 「え?」  はぁ?なにそれ、と忍は言いかけたのだけど、 「忍」  さくらが忍の発言を制した。 「忍、見せてもらいましょう?」 「で、でもさくら」  忍の渋るさまに、さくらは微笑んだ。 「恭也さんにすら秘密にしていることを私たちにだけ見せてくれるっていうのよ?光栄なことじゃない」 「……」  沈黙してしまった忍の肩をぽんぽんと叩くと、さくらは頷いた。 「いいわ、なのはちゃん。見せてもらえる?」  はい、と答えると、なのはは立ち上り、皆から距離をとった。  懐からペンダントを掴みだす。 「……宝石?」  ペンダントの先には赤い宝石のような石がついている。 「……」  それを見た那美は口元をひきしめた。完全に神咲の顔になっている。 「……なにあれ、魔石かなにか?」  さくらは目を細めて、なにか不吉なことを言った。 「なに?さくら?」 「忍はわからない?……あの石、ただの宝石じゃないわ」 「へ?」 「おかしな気配がするのよ。油断しないで」 「気配って……さくらにはわかっても私には無理だよ」 「無理でも」  忍自慢の叔母は混血だが、夜の一族よりもはるかに人外寄りだ。なにしろ狼人間と夜の一族のハーフなのだから。気配も能力もひとのそれではない、悪いいい方をすれば、それは人の形をした魔物といってもいい。戦闘力もおそろしく高い。  そのさくらが警戒する?  いったい、あの宝石はなんなのだ?なぜそんなものを恭也の小さな妹が持っている? 「……」  なのはは答えない。ただ目を閉じて、静かに詠唱をはじめた。  ──そう。まるで、魔術師か何かのように。 「『我、使命を受けし者なり』」 「!」  突然に宝石が輝いた。忍の目が丸くなった。 「『契約のもと、その力を解き放て』」  輝きが増しはじめる。 「……」  那美が目を細める。 「……」  さくらはその状況を、横から厳しい顔で見ている。 「『風は空に、星は天に、そして、不屈の心は、この胸に!』」  輝きがぐんぐん増し始める。そしてなのはは席を立った。  主の手に従うように、宝石も輝きながらそれを追って浮き上がる。  そして、最後の詠唱。 「『この手に魔法を!レイジングハート、セットアップ!』」  強烈な光が部屋の中に満ちた。  そしてそれが消えた時、なのはの手には一本の杖が握られていた。 「……」 「……」  皆、おもいっきり言葉をなくしていたが、 「……えっと、アニメの魔法少女?」 「えっと……あはは」  忍のあまりに的確なツッコミに、なのはは思いっきり苦笑いした。  確かにそうだ。いまどき魔法少女アニメでもありえないようなベタベタの可愛らしいデザインの杖なのだから。しかも開封呪文らしきそれも、どこかの美少女戦士っぽいアレな内容。  ついでにいうと、なのはの足元には当然のように久遠が移動している。定位置なのだろうか?  魔法少女に、おともの動物。コスプレ大会かと言いたくなるくらいにベタベタの光景だった。  まぁもしかしたらそういう部分は、なのはの趣味が反映されているのかもしれないが。 「……魔法?」  なのはの言葉に気づいたさくらが、ぼそりとつぶやいた。  聞こえたのだろう。なのはも頷いた。 「これがわたしのひみつ、魔法の力。  少し前に、別の世界……ミッドチルダとかいうところからやってきたリンディさんって女のひとにもらったんです」 「もらったって……これを?どうして?」  あっけにとられた顔で忍がつぶやいた。 「話せば長くなるんで今は言えません。ごめんなさい。だけど、今たいせつなのはそれじゃないと思います。  このレイジングハートは現実にある。わたしは魔法を使える。で、これはこの世界でなく、別の世界のひとが持ち込んだものなんです。  おにーちゃんだって同じです、もーそーのへんたいさんじゃないんです」 「……」 「……」  忍とさくらは、あっけにとられた顔でなのはの杖を見ていた。 「信じてないって顔ですね」  なのはは、しょうがないなぁと苦笑い。 「じゃあ、みんなでおにーちゃんの思い出を見に行きましょうか」 「え?」  そんなことできるの、と忍たちが聞き返そうとしたがもう遅かった。  なのはは杖を構えて目を閉じると、 「リリカルまじかる……おにーちゃんの思い出の中へ!」 「!」 「!」 「!」  その瞬間、世界が暗転した。 [#改ページ] 無垢なる異端[#「 無垢なる異端」は中見出し]  ──泣かないで。  きみが泣くと僕は悲しい。きみが笑うと僕は嬉しい。  だから泣かないで。お願いだから。    そこは、どことも知れない遠い異世界だった。  現実は虚構であり、虚構は現実だった。実在するはずの町がその世界には存在せず、ゲームとしてお店で売られている。一見した見た目はそう変わらないのに、なんの冗談かと言いたくなるくらいにシチュエーションの異なる世界だった。  そんな中、ひとりの男が泣いていた。  男が向き合っているのはバーチャルの世界だった。ゲームの虚構でしか笑えない、そんな寂しい人生を送っている悲しい中年男だった。そのさまは客観的にはおぞましいほどみじめで、そして汚らしかった。子供のころの中学生日記のような恋しか知らない、そんな、歪な存在だった。  だけど忍は男を笑えなかった。  みっともない男だった。男に比べれば、あの月村安次郎だってダンディなおじさまだろう。そんな男だった。  なのに、架空の世界で泣いている女の子をみて涙する姿は、まるで何も知らない少年のようにピュアだった。 「……あれ、なのはちゃんだ」  那美が指さした。確かに泣いているのはなのはだった。  もちろんそれは現実のなのはではない。この世界におけるゲームの中の存在でしかない。  だが、泣くなのはをなぐさめようと男は手をさしのべた。 「何やってんのかしら?」 「涙を拭こうとしてるんでしょ?」 「はぁ?だってゲームでしょ?仮想空間でしょ?馬鹿?こいつ」  呆れたように忍がぼやいた。  実際、男の手はなのはをすりぬけてしまう。男は現実で少女は虚構。さしのべる手が届くわけがない。 『──泣かないで』  男の悲しそうな声が響いた。  男は何度となく無駄な努力を続けた。少女がそれに気づきさえしないというのに、 『なのはちゃん──なのは。泣かないで』  男は泣いていた。まるで彼女の涙のぶんまで泣こうとするかのように。 「……あわれな男」  忍の毒舌には、どこか力がなかった。    男の想いは続く。  場面は高町家に切り替わっていた。恭也と家族が団欒している、実世界にもありそうなごくごく普通の光景。  だけど、家庭すらない男には永遠に届かない世界。 「あれみて」  さくらが指さした。  恭也と二重写しにさっきの男が見えている。男は恭也と一緒に笑い、そして行動していた。これが仮想体験というものだろうかと皆は思った。  だが、なのはの前まで来たところでズレが生じた。 「行動が変わった?」 「うん」  懐いてくるなのはを恭也が軽く流した。  決してなのはを軽く思っているわけではない。実際なのはは恭也にとっても可愛い妹なのだけど恭也だって若い男の子である。気になる異性のことで気持ちがいっぱいになると、どうしてもそのために力を割くことになる。  にこにこと応対しているが、やっぱり寂しそうななのは。大好きなお兄ちゃんの気持ちが自分にないことに気づいているのだろう。子供とはいえ女の子は女の子なのだから。  そんな中、恭也に重なっていた男が動いた。  男は恭也になりすました。本物の恭也に比べると穴だらけで情けない感じではあったが、それでも恭也ではあった。そして恭也がかつてそうしたように、変わらずなのはにやさしく接した。  うれしそうに微笑むなのは。  なのはは相手が恭也でないと気づかない。おにーちゃんと幸せそうに男に呼びかける。男は自分がいいとこなしのピエロ以下とわかっているのに、それでもなのはにやさしく接し続ける。  相手は自分に気づいてもいないのに。なのはの好意を受け取るのは全て兄であって男ではないのに。  ──まるで、喜ぶなのはを見ることだけが幸せであるかのように。 「……もうやめて」  あまりの痛ましさに泣けてきたのか、那美がとうとう音をあげた。 「……」  こういう話で泣くような娘でない忍だが、男の歪とはいえ無償の好意は理解できた。そのあまりの救われなさに、泣きはしないがもう言葉はなかった。 「……」  さくらはその光景を、ひたすらじっと見ていた。    なのはと男の光景はどんどん変わっていく。  もうゲームの領域からは外れていた。画像が少し不鮮明になったこともあり、忍たちにもそれがゲームでなく男の願いなのだろうと理解できた。  恭也が高町家に戻らなくなりはじめた。その理由を誰よりもわかっている忍はリアルに自分が非難されているような気がして、胸に痛みを感じていた。  そう。恭也は忍と接近しはじめたのだ。忍が知っている通りに。 『おにーちゃん』  なのはが笑っている。大好きな兄が側にいるなのはは嬉しそうだ。男は嬉しそうに兄を演じつづけ、戻ってこない兄のかわりになのはを構いつづける。  なのはも何かを感じているのだろうか、無心に兄に甘え続ける。  届かない願い。届かない想い。 『──なのは』  そんな日々の果て、溢れんばかりの想いをつい男はこぼしてしまう。 『なに?おにーちゃん?』 『……いや、なんでも。これ食べるか?』 『うん!』  男は鉄の想いで踏み止まった。  恭也はたとえ最愛の相手であっても激情を吐露しない。ひたすらベタ甘になるだけだ。最近は忍もそれがわかっていた。だから男の内心も手にとるようにわかった。  あくまで兄と偽らなければならない。兄でないとわかればなのはは泣いてしまうだろうから。 『ねえお兄ちゃん』 『ん?』  寂しさをかたくなに隠し妹に微笑む男に、なのはが無垢な笑みをなげた。 『忍さんが好き?』 『ああ、好きだ』  む、と不機嫌そうな顔になるなのは。困ったように笑う男。 「?」  対して、忍は首をかしげた。  男はロリコンの変態男のはずだ。なのにどうして他の娘を好きなどというのか?  そんな忍の気持ちを知るはずもない男は、なのはに微笑む。 『忍は恋人で、おまえは妹だ。比べることなんかできないぞ』  うわ、臆面もなく言い切りましたよ変態のくせにと忍が眉をしかめたのだが、 「へぇ……忍、この恭也さんにも愛されてるのね」  隣でうらやましい、なんてくすくす笑うさくらに忍の眉がつりあがった。 「やめてよね!変態に好かれたって迷惑なだけじゃない!」 「そうはいうけどね忍。あの恭也さん、どう見ても優しいお兄ちゃん以外の何者でもないと思うけど?ま、ちょっと甘すぎとは思うけど」 「……」  それはその通りだ。  男は完璧に「妹過保護の優しい恭也」を演じつづけている。まるでそれが自分の唯一の幸せであるかのように。  そして実際、それはその通りだった。  どんなにやさしくしようと男にとってこれは虚構だ。現実には寂しくみじめな生活が待っているだけなのだから。どう想おうとそれは報われない。 「……」  幸せそうな兄妹の幻に、忍は沈黙した。 「だ、だけど、これは結局こいつのキモい妄想でしょう?やっぱ」  そう言った忍だったのだけど、 『そう言うと思ってました』  唐突になのはの声が聞こえて、へ?と忍はその方を見た。 『こっちです、こっち♪』 「え?え?え?」  男の記憶の中。恭也となのはが縁側に座り西瓜を食べているのだが……? 「え?な、なんで?これ、あいつの妄想の中でしょ?」  妄想のはずの映像の中に、どうして自分たちと同じはずのなのはが混じって笑っているのか?おいしそうに西瓜を喰んでいるのか。 「……まさか……想い出に干渉してる?」  あっけにとられた顔で那美がつぶやいた。 「ひとの精神にまで干渉するの?……もはや八歳の女の子の能力じゃないわね」  さくらの言い分はもっともだが、これは無理もない。  彼女たちは知らないが、なのはを魔法使いにしたイデアシード事件はそういうものだった。たった八つや九つの女の子が大の大人の記憶に無数に入り込み干渉を続けた……そんな日々がなのはの精神や能力に影響をあたえないはずがない。  それは、魔法世界からきた人々には理解しえなかったこと。そうした魔法を道具のように使う、ここと異なる価値観と世界観の人間には想像もつかなかったこと。  ひとの精神という異世界を渡る、そんな稀有な力を得た娘。稀代の天才少女。  事件が終わり一人に戻ってからも、なのははその力を研き続けていた。兄と姉が熱心に剣を鍛錬し続ける姿を見ていたなのはは、特に疑問もなくその自らの能力を同じように研鑚し続けた。なのはにとってはそれがあたりまえであり、疑問を挟む理由もなかった。  結果、なのはの精神構造はすでに一般人の常識を外れ、|俄《にわか》|仕込《しこ》みでない本物の魔法使いの領域に到達しつつあったのだが……それを知る者は誰もいない。 「……」  いや、穏やかな狐の友人だけはそれを知っていた。驚く皆を後目に久遠だけは普通にそれを見ていた。  そんな忍たちを見つつ、男の想い出の中でなのはは笑う。 『これがただの妄想でない証拠をお見せします……くーちゃんにはちょっとごめんなさいだけど』 「え?久遠が?」  那美が疑問を挟もうとした瞬間、場面は海鳴からどこかの山中に変わった。    それがゲームの中であることは皆にもわかった。  景色に鮮明さが戻っていた。それは曖昧な妄想でなく、男の記憶を元にしているということだった。  そんな景色の中、神官か巫女のような姿の娘と時代劇の村人のような少年がよりそっている。 「あれ誰?」 「!」  忍とさくらが首をかしげた。だが那美は文字どおりびっくり仰天した。 「まさか……ヤタ君!?そんな!」 「知ってるの?那美?」 「久遠に名前をつけた男の子です!前に久遠の夢で見せてもらったから間違いありません! で、でも」 「でも?」  忍の言葉に、信じられないという顔で那美は首をふった。 「そんなばかな……恭也さんがヤタ君を知ってるはずない!だって、ヤタ君って何百年も昔のひとなんですよ!」 「ええっ!」  忍の目が点になった。 「それじゃあ……これって」 「本当にこれが『現実とゲームの入れ替わった異世界』の中なのか……どちらにしろ単なる妄想じゃあないわね。  ま、本物の恭也さんが那美さんのように久遠に記憶を見せてもらってて、それが影響してるって可能性もあるかもしれないけど」 「……」  冷静にさくらがつぶやき、忍はうなだれた。 『あ、その可能性はないです』  そんなふたりに、どこかからなのはの声が聞こえた。 『おにーちゃん、忍さんにべったりだから……那美さんのこともくーちゃんのことも知らないですよ?たぶん』  ちょっとだけ恨めしそうに、しかし笑うなのは。 『あ、そうそう。最後にもうひとつ面白いのみつけました。……これはさくらさんの』 「!」  ぴく、と自分の名前にさくらが反応した。 「なのはちゃん、それはやめて」 『……さくらさん?』 「なのはちゃん」  ふう、とさくらはためいきをつくと、どこにいるともしれないなのはに声をかけた。 「何をみつけたのかわからなくもないけど……私はそれ、見たくないから」 『で、でも』 「いいの。余計なことはしないで」 『……はい。ごめんなさい』 「ごめんなさいね。きっと良かれと思って言ってくれたんでしょう?」 「……さくら?」  ちょっと悲しそうに笑うさくらを、忍は首をかしげて見ていた。  そう。忍は知らなかった。さくらの高校時代の胸の痛み……相川真一郎にまつわる一連の事実を。忍の記憶にあるのは遠い夏の日、さくらと一緒に遊んでいた彼女の友人たちの姿だけだ。 「……」  何かあるのかな……そう忍は思ったにすぎなかった。 [#改ページ] 誰よりも愛しい兄(1)[#「 誰よりも愛しい兄(1)」は中見出し]  短い異境訪問は終わり、頭を冷やすため少し休憩を挟んだ。  トイレと席を立った忍とさくらは、廊下に出たところでお互いに顔を見合わせた。さすが最愛の姪と叔母、考えるところは一緒だったようだ。 「さくら、どう思う?なのはちゃんの能力」 「……危険だわ。あんな小さい子が持ってていい能力じゃない」  滅多に見せない真剣そのものの顔で、さくらはつぶやいた。 「どう、忍?何か原理とか想像つくかしら?」 「だめ」  忍はあっさりと首をふった。 「原理も理論も全然わからないの。あれはむしろノエルに使われてる遺失技術に近いものだと思う。残念だけど私の頭じゃどうにもならない。正直、今でも夢か幻かって気分」 「そう。やっぱり」  悲しそうにさくらはつぶやいた。 「忍。この件については私に任せなさい」 「どうするの?さくら?……まさか」  忍の目が丸くなった。 「ちょっとまってさくら!そんなことしたらなのはちゃん」 「忍が嫌われ役になるわけにいかないでしょう?恭也さんのこともあるし」  苦笑いをさくらは浮かべた。 「それに、もう遅すぎるのかもしれないわ……あの宝石を取り上げたくらいじゃなんの意味もないのかも」 「どういうこと?」  そんな話をふたりがしていると、那美が部屋から出てきた。 「あ、那美。なのはちゃんは?」 「久遠とお話してます。さっきヤタ君見せたので久遠が落ち込んじゃったみたいで。ごめんって」 「そ」  この休憩が終われば、いよいよ本題に入らねばならない。フォローするなら確かに今だろう。 「ねえ那美さん、ちょっと聞きたいんだけど……神咲としての意見を聞かせてくれる?」 「あ、はい」  真剣な顔で那美は頷いた。 「忍は反対みたいだけど、私は今でも恭也さんの治療にはなのはちゃんをあてるべきだと思うの。だけどなのはちゃんはアレでしょう?あの子の能力のことを考えると心配もなくはない。  那美さん、貴女はどう思うかしら?なのはちゃんのアレ」 「……そうですね」  那美は少し考え、そして答えた。 「わたし以外の神咲の人間なら、なのはちゃんからあの宝石を取りあげようと考えると思います。あれは物凄く危険なものですし、なのはちゃんはしっかりした子ですけどやっぱり子供です。せめてもっと大きくなってからじゃないと、どういう悪影響があるのかもわからないですし。  ……ですが正直、もう無意味なんじゃないかと」 「無意味?」  忍が那美の言葉に首をかしげた。 「あの宝石には、なのはちゃんの霊気が満ちてます。何度も何度もなのはちゃんの力を受けるうちに汚染されていったんだと思いますけど、あれはもうなかば、なのはちゃんの一部ともいえると思います。これは推測ですけど、だからこそあれをなのはちゃんに托したひとも回収せずに帰っていったんじゃないでしょうか。もうこれはキミのものだよって。今さら切り離すなんてできないから」 「……そう」  さくらは黙る。この道の専門家がいう言葉に口を挟む気はないようだ。  那美は悲しそうに首をふった。 「わたしたち、少し遅すぎたんです……あの子はもう戻れない。  それがどういう未来につながるかはわからないけど、なのはちゃんはもう、魔法使いとして生きるしかないんだと思います」 「……もしそれが、神咲の仕事になるような存在になっても?」 「!」  忍がさくらの言葉に驚き、顔をあげた。 「なのはちゃん、いい子だからそんなことにはならないと思いますけど……でも」  那美は沈んだ顔をして……そして、思い直すように顔をあげた。 「もしそうなったら、その時はわたしと久遠がなのはちゃんの前に立ちます。  わたしにとっても、久遠にとっても……なのはちゃんは大切ですから」 「……そう。わかった」  さくらは全ての言葉を飲み込むように頷いた。    まずは、さくらが様子見に立った。 「彼の様子を確認してみるわ。それで最終決定しましょう。それでいいわね?」 「うん」  渋々ながら忍も同意した。  正直、忍は自分がなぜここまで反対するのかわからなかった。なのはに見せられたものといい、那美たちの言葉といい、冷静に考えればなのはをぶつけるのが一番だとわかるのに。  心残りが『高町なのは』なのだから、それをぶつければ全ては終わる。  危険?夜の一族がふたりに力不足だが神咲の娘、そして半封印状態とはいえ狐の変化。何かあればその途端に引き離すことくらい朝飯前だろう。  なのに。  なのにどうして、自分は不安を感じているのだろう? 「忍さん」 「何?なのはちゃん?」  目の前にいるのは、その不安の元凶のひとつ。  まさか恭也の妹が、あんなとてつもない能力の持ち主だなんて忍は想像もしていなかった。これに比べれば恭也の剣技や那美の神咲なんて可愛いものだ。確かにすさまじくはあるが理解の外というわけではないから。  異世界からもたらされた技術。そして異世界の力。まるで理解不能の、この世に属さないもの。あまりにも異質すぎて対応方法すらもわからないもの。  理解できない、というのは人間の不安をそそる。ましてや忍は工学系、ばりばりの科学の信徒だ。神咲である那美や異類婚姻の落とし子であるさくらとは思考のベースがまるで違う。不安になるのはあたりまえのことだった。  なのははそんな忍の内心を知ってか知らずか、いつもと変わらずニコニコしている。  だが、その落ち着きぶりが忍には不気味に感じられたのも事実だった。  そうこうしているうちに、さくらが戻った。 「どうだった?さくら?」 「落ち着いたみたいよ。大丈夫、なのはちゃんにお話してもらいましょう」 「はい」  待ちかねていたようになのはが席を立った。すたすたと出口に向かって歩きはじめる。 「あ、ちょっと待って」  那美たちも立った。ドアを出ていくなのはにあわててついていく。  月村邸は広い。その中をなのはは迷いもせず、兄の寝ている部屋にずんずん歩いていく。 「──忍お嬢さま」  ずっと前から黙って忍の背後にいたノエルが、唐突にぽつりと語った。 「なに?ノエル?」 「恭也様の寝ておられるお部屋をどなたかお教えしたのでしょうか?私にその記録はないのですが」 「!」  ノエルの言葉に忍も気づいた。  そしてそれが、忍にひろがっていた不安に火をつけてしまった。 「なのちゃん!」 「はい?」  忍は思わずなのはに駆け寄り、なのはの手を掴んだ。 「忍さん?」 「なのちゃん、やっぱやめよ、ね?」  なのはは、何いってるんですか忍さんといわんばかりに眉をしかめた。 「どうしてですか?」 「どうしてって……だってあいつは恭也じゃないんだよ?」 「そうだけど……でもおにーちゃんですよ?」  うまく言葉にできないのがもどかしいのか、ちょっと困ったようになのはは言った。 「それにですね……今だから言いますけど、なのは、最初からわかってたんです」 「え?」  忍だけではない。あとからきた那美やさくらも首をかしげた。 「今朝、凄い優しい気持ちに包まれて目がさめたんです。ちっちゃい時におにーちゃんにおんぶされてた時みたいな、そんな優しい、懐かしい気持ちです。とても嬉しかったです。  だから、なのはにはわかります。あれはおにーちゃんじゃない、でもおにーちゃんなんです」  そういうと再び歩きだそうとするなのは。でも忍は手を放さない。 「……忍、もう決めたことでしょ?どうしたの?」  背後からさくらが声をかけてくる。でも忍は譲れない。  不安だ。  このなのはに恭也を托す、それが忍をおそろしく不安にさせていた。 「だめ、やっぱりダメ。恭也になのちゃん近づけるなんて危ないよ」  それは嘘ではない。確かに言葉通りだ。  ただし忍の内心では、あの変態恭也もどきよりもなのはの方が危険と感じられはじめていた。  そんな忍を見透かしたように、なのははにっこりと笑う。 「だって、お兄ちゃんなんでしょ?」 「そりゃそうだけどね、なのはちゃん。あれは恭也であって恭也じゃないんだよ?あれはね、なのはちゃんみたいな年頃の女の子が好きな変態ロリコン男なの。なのはちゃんの大好きな恭也とは別人なんだよ?」  言い訳だと自分でもおもっている。確かに言葉通りだが、忍の感じている不安はあの恭也もどきではない。むしろなのはの方だ。  だがその事に忍が思い至る前に、扉の向こうから声がした。 『忍、なのはに変な言葉を教えるんじゃない』 「!」  恭也もどきの声だった。  その言葉に、忍の中の不安もなにも一瞬だけ吹きとんだ。 「立ち聞きしたあげくなにが忍よ!なれなれしく言わないで気持ち悪いわね!だいたいニセモノのくせに恭也みたいなこと言ってんじゃないわよ!」  すぱーんと激情のままに言い切り、そして内心ぎょっとする。これではまるで、いつも恭也と馬鹿言い合う時のようではないか?言葉こそ罵倒そのものだが。  そして、まったくいつものタイミングで恭也からも罵声が返ってきた。 『俺のことなんかどうでもいい!なのはに変なこと教えるのはやめろと言ってるんだ!おまえ分別のない人間じゃないだろ!なのはの年頃を考えてくれ!』 「!」  その瞬間、忍の中でいろんな気持ちがわやくちゃに崩れた。  言葉こそ罵声だが、いつもの恭也のそれだった。べたべたといちゃつく毎日と同様、すでに小さな激突もいくつか経験している忍である。そういう時の耳なれた、ちょっとおかんむりモードの恭也の優しい声のままだった。  返した言葉は当然のごとく泣き声だった。 「なんで……なんでそんなとこだけ恭也そっくりなのよぉ……」 『……すまん』  扉の向こうの声は、本気ですまなさそうだった。それがまた忍の心を傷めた。  偽物のくせに、どうして心が痛むのか。忍は全身から力が抜け、崩れ落ちそうな気分になった。  と、その時だった。 「おにーちゃん、入っていい?」  忍の荒れる内心をよそに、なのははすでにドアに手をかけていた。 [#改ページ] 誰よりも愛しい兄(2)[#「 誰よりも愛しい兄(2)」は中見出し]  女の子という言葉がある。  だが、それを『やがて女になる子供』だと正しく理解しているかというと、少なくとも忍自身は微妙だったと思う。親に反発するかノエルの修理かで過ごしてきた忍の子供時代は、男だ女だというニュアンスからはあまりにも遠いものであったから。  だが、本当に早熟な女の子というのは幼稚園の頃ですら『女の子』しているものだ。いや、なまじ子供であるがゆえに手段も態度も大人が唖然とするほどにも容赦がない。それは世に毒されているわけでもなければ汚れているわけでもない。純粋ゆえに苛烈。  それを知らない忍は本当に驚いた。たった八つの女の子がこれほどに『女の子』であるという事実に。    忍たちが部屋に入った時、既になのはは恭也もどきと対面していた。  獲物を眼前に変態男がどんな顔をしているのかと忍は内心不愉快だったのだが、そんな忍の予想に反して、いやもしかしたら男の反応は予想通りだった。男はなんとも言えない透明な笑みで、まるで怯える子猫に応対するように優しくなのはに語りかけていたからだ。  なんて幸せそうな、そして寂しそうな顔なのだろう。そう忍は思った。  ──それは、あこがれ。  それは小さな娘に溺愛する歳老いた父のようだった。あるいは、憧れの美しき妖精に奇跡の確率で出会えた死にかけの戦士のようでもあった。間違っても男が女にする顔ではない。愛くるしいものを慈しみ褒めたたえる、そうした純粋な賛美と好意の顔だった。  どう足掻いても届かないもの。星よりも遠い憧れ。  絶対にたどり着けないはずの無限の彼方の輝きに、なんの奇跡かたどり着いてしまった。そんな歓喜と寂寥の笑みだった。 「……」  那美が悲しそうにしていた。男の気持ちがあまりにもわかりやすいからだろう。 「存在が揺らぎはじめた。もうすぐね」  さくらがつぶやいた。見れば確かに男の周囲が揺らぎ始めている。  あれが霊気というものか。あまりに強いせいか、夜の一族とはいえこういうものに疎い忍の目にもそれがはっきりと見えた。  ──いのちのほのお──。 「……」  ふと気づくと、男は忍を見ていた。  何か言いたげに一瞬だけ忍を見た男だが、すぐに思い直したのか目の前のなのはとの会話にもどる。なんだろ、後で問い質そうかと思ったその直後に忍は苦笑する。  次があるわけがない。  この男はここで消えるのだから。あとに残るは忍の愛する恭也であり、このロリコン変態男ではない。  男がなのはに呼びかけた。なのははハイと返事をした。  何かを問いかけているようだが、なのははそれがわからないらしい。首をかしげるなのはの表情はわからないが、男の安堵半分、不安半分の表情がそれ以上に雄弁だった。  男の知る『史実』つまり、ゲームとやらで起きたはずの良くない出来事か何かを確認しているのだろうかと忍は思う。  なんの能力もないただの男──あれの持つ唯一のアドバンテージはそれくらいしかないから。この世界の過去と未来をゲームという形で限定的にせよ俯瞰できるというのなら、その知識をなのはに托すことが彼にできる唯一のことだろうから。  話が終わったらしい。  男はなのはに何か含め、部屋から出そうとした。男の周囲の揺らぎはますます大きくなり、もしかしたら普通の人間にも察知できるんじゃないかと思うくらいに強烈になっていく。きっと『最後』を見せたくないのだろう、そう思った。  まったく、悲しくなるほどに恭也そのものだ。優しいなのはのお兄ちゃん、偽者だろうとなんだろうとそれだけはまったく変わらない。  ──だが。 「いや」 「──え?」  忍は驚いた。男でさえも驚いたようだった。  なぜ、拒む?  その男は兄ではない、なのはは知っているはずだ。身体は恭也でも中身は別物、それなのに。  どうして、たかが偽者とのわかれを惜しむ?なぜ?なぜ?なぜ?  そんな時、なのはの声が響いた。顔は男に向いたまま。 「さくらさん忍さん那美さん、ごめん、みんなでてってほしい」  ──な、何を言ってる?  なかば混乱したまま、忍はそれに反論した。 「ダメ。桃子さんたちに無理いってなのちゃん連れてきたんだから。今のこいつとふたりっきりにするなんてできないよ」  それは万が一を考えてさっき皆で決めた言い訳。そうでないと最悪、なのはの能力などについて恭也が知ることになってしまうから。桃子さんたちには後でうまく事情を説明するつもりだったわけだが……。  なのははその反論に納得できなかったのか、忍の方に振り返った。 「忍さん」  なのはは振り向き、忍の顔を見た。 「!」  忍はその瞬間、なのはの表情にぎょっとしてしまった。  ──なのはは、女の顔をしていた。  年端もいかない、そんな言葉がぴったりくる僅か八歳のなのはが女の顔をしている。それ自体が忍には驚愕を越えてUFOでも見たような気分だった。いったいなんの悪夢かと目をこする。 (──なんて)  なんという憂いを秘めた目だろう、と忍は思った。子供の目じゃない、子供は断じてそんな目をしないと忍は底知れない恐ろしさと共に感じた。  それはさくらたちも同様なのだろう。誰もぎょっとしたような気配を見せただけで声ひとつあげない。 「くー」  訂正、久遠だけは平然とそんななのはを普通に見ていた。動物だからなのか、それともこの小ささで数百年という年月を経たがゆえのことなのか。  ほぼ外見通りの年月しか生きていない忍にはわからない。 「忍」  さくらが横で促してきた。出ましょう、と。 「さ、さくら、でも!」  危険だ。  あのなのはは危険だ。たとえ恭也が何者だろうとそれが魂のみであり、乗っ取られた形で恭也自体がそこに存在するのなら、  ──この化け物と恭也をふたりっきりにしてはいけない。 「……」  出るわよ、とさくらに引っ張られた。 「……」  目の前にはなのはの視線。『出ていけ』と言外に言っているのがわかる。 「……」  結局さくらにひきずられ、忍は部屋から出た。   「さくら!あれほっといて平気なの!?那美も!」  部屋の外に出た忍の開口一番がそれだった。中に聞こえることも考慮したうえで、わざと大声で詰め寄る。  さくらは困った顔の那美をかばうように、忍の前に立った。 「忍。そうはいうけどね……止めてどうするの?  恭也さんは放っておいても二分とたたずに昇華しちゃうわよ?それにあの恭也さんはなのはちゃんに何もしないし、最後のお話くらいさせてあげたって」 「あの顔見なかったの!?おとなしく『お話』だけですますと思うわけ!?」  そう。あれは完全に女の顔をしていた。  たった八歳の女の子が女の顔をする。常識的にいうと信じられないが、それはマセガキとかそういうレベルではない。大人の女、それも普通の女からすると最高にやばいタイプの女の顔だ。  忍はそういうタイプの女とつきあいがあるわけではないが、いくらなんでもあれはわかる。人の形をした女郎蜘蛛のようなものだ。モラルも常識も踏み越えて男を喰う類の情念の化け物。あんなものに気づかないほど忍は女として鈍感ではない。  魔法なんてものの才能といい、この本質といい……さすが恭也の妹というべきか。いやな方向までとんでもなく型破りすぎる。  いかに妹とはいえ……いや妹だからこそ、二分どころか二秒だって恭也とふたりっきりにはできない。 「そうは言ってもねえ」  さくらは困ったように、そんな姪の気持ちに眉をよせた。 「なのはちゃんがあんなに恭也さんのこと好きだったなんて知らなかった。きっと『本物じゃない』ってあたりで普段の枷が外れたんでしょうね……まぁ忍、本物の恭也さんが戻ってからそのあたりは考えましょう。でも問題ないでしょうけどね」 「どうしてそんなことわかるのよ!」  激昂する忍に、さくらは静かに言う。 「だって忍、あれほどの気持ちを今までまったく出してないのよ?忍だって気づかなかったでしょう?つまり、なのはちゃんはなのはちゃんできちんと一線を引いてたのよ。いくらお兄ちゃんが好きでも恋人にはなれないんだし」 「甘いってば!」  忍は激昂した。  いつもは鋭くしっかりした自慢の叔母なのに、どうして恋愛ごとの機敏にはいまいち疎いのか。至らぬ姪っ子の自分ですらわかるのにと忍は憤慨した。  だが、それは無理もないことだったろう。  綺堂さくらという女は、未だに高校時代の大好きな先輩を忘れていない。そういうロマンチックな体質の女性なのだ。しかもそれは初恋でなく、もっと昔に一目惚れなども経験している。つまり、それなりにいくつかの恋は経験ずみなのだ。それが叶ったかどうかは別として。  ほとんど初恋の男をいきなりゲットしてしまった忍とは根本的に土壌が違う。しかもあの男にその遠い日の恋を応援されてしまい、かなり気持ちがぐらついてもいるのも事実。  兄への想いを秘めた幼い少女を攻める気持ちにはなれなかった。たとえその気持ちが、激しくアナーキーなものだったとしても。  しかし当然それを忍は知らない。知らないからもう爆発寸前だった。  ──と、その時だった。 「──結界?」  ぼそ、と那美がつぶやいたひとことが忍の激昂を止めた。 「なに、那美?」 「ああやっぱり結界だ!嘘、いったいいつのまに!」  慌てた口調で那美はドアノブを握った。 「開かない……どうして?」 「なに?さくら、ロックした?」 「私が鍵なんて持ってるわけないでしょ?」  さくらが肩をすくめた。それはそうだ。 「誰もロックしておりません。──皆さん下がってください」  ずっと影のように控えていたノエルが宣言し、皆はドアから離れた。 「戦闘用の力を使います。ドアを破壊してしまうかもしれません」 「いいわ、やってノエル!」  はい、とノエルは頷くと、おもむろに古い真鍮製のドアノブを強引に回そうとした。 「──回りません」 「えぇ!?冗談でしょ、ただの真鍮製よこれ!」  これには忍も愕然とした。  ノエルの力は最新の鋼鉄製ドアだって歪ませる。場合によってはドアの方が先におしゃかになる。自動人形の腕力とはそれほどのすさまじいものだ。もちろん旧式の真鍮の鍵など問題にはしない。最悪、鍵ごとノブをドアからもぎとることだってできる。  そのノエルがビクとも動かせない木製のドアと真鍮の鍵。それは何か?  決まっている。何か別の原理でドアごと固められているせいだ。 「さがってなさいノエル。私がやるわ」  さくらの右手が髪と同じ、ゆらめくような色の光に包まれた。 「!」  急激にもりあがるさくらの力を感じたのか、那美がビクッと反応する。だが忍もさくらも構ってはいられない。 「この!」  むんずとさくらはノブを掴み、鍵ごと一気に破壊した。 「ふう──ってまだ開かない!?」  既にドアロックも何もないのにドアはビクともしない。しょうがないわねとさくらはドアそのものも破壊しようとしたのだが、 「さくらお嬢様、そこまで壊していただければ後は私でも問題ありません」 「あ、そう?」 「はい」  そういうとノエルはドアの破壊部分に手をかけ、まるで紙細工でも破るかのようにばり、ばりと簡単にドアを破壊していった。 「あのぅ……このドア、すごく硬そうなんですけど……って忍さん!いきなりとびこむのは危険で…」  ちょっとビビッたらしい神咲の巫女さんが、少し情けない声をあげたがやはり無視。忍はもうそれどころではない。われ先にと中にとびこんだ。  そこにある光景を目にした忍は、 「!」  絶句した。 「わ、な、ななななのはちゃん!何やってんの!」  遅れて入ってきたらしい那美が素っ頓狂な声をあげた。    なのはは男にしなだれかかり、くちづけしていたのだった。 [#改ページ] 幼きメイガス[#「 幼きメイガス」は中見出し]  キスくらい誰だってしている。親しければ家族だってキスするだろう。そう言う者もいるかもしれない。確かにそういう部分の欧米化は日本でも進んでいて、そのうち欧州で下品と揶揄されるフランスにすら追い付いてしまうのかもしれない。  フレンチキスといえば英国では下品なキス、人前で平然と濃厚に下品にやらかすディーブキスのことであると広く流布すればこういう面の欧米化は止まるんじゃないかと言う者もいるのだが、少なくとも現時点でそれは成功していない。それどころかフレンチという言葉が美しく感じるのか子供の恋愛の触れるようなキスをフレンチキスと描写してしまうありさまだ。  ふざけているにもほどがある。白人の国をそこまで異常に美化したいのか。それとも日本人は一億総国際オンチ揃いなのか。  いや、そんなことはどうでもいい。  とにかく忍はその瞬間切れた。理性が破滅の音とともにふっ飛んだ。  なのはが恭也にキスしている、しかも一方的かつ濃厚にやらかしている。その光景を見た忍はたぶん生まれてはじめて完膚なきまでにブチ切れた。    刹那、世界が、暗転した。   「──あ?」  次の瞬間、忍は床に倒れていた。  いや、一瞬だと思ったのは単に忍の感覚上のこと。実際には数秒が経過していたらしい。その証拠になのはは恭也に口づけしておらず、忍の方を向いてあの可愛い杖を突き出していて──、 「……やったわね」  自分がこんな肉食獣のような声を出すことを、忍は知らなかった。  どうやら自分はなのはに攻撃をしかけたらしい。最近は恋人の血を定期的に吸っているため忍の能力はかなり向上している。さくらのそれには敵わないだろうが、とりあえず恭也の足手まといになる心配はなかろうと忍は考えている。もちろんそんな実戦を経験したいというわけではないが。  それを弾き飛ばされた。全力ではないとはいえ小さななのはに。ごくあっさりと。  視界が一瞬赤く染まった。夜の一族としての能力を全開にしている自分を自覚する。  忍は本来優しい娘だ。あの安次郎が殺戮モードに入りかけた忍を叱ったのは記憶に新しいが、それは別に策略があったためではない。彼は忍が本当は暴力を嫌う子だと知っていたから、ひとを傷つけることを嫌うおまえがそんなことしちゃいかんと叱ったにすぎない。あの安次郎ですら忍を暴力的な娘ではないと知っていて、しかもそれを悪く思ってはいなかった。忍にとっては迷惑な話かもしれないが。  だが優しいとは戦えないという意味ではない。むしろ普段優しいからこそ本気で大噴火すると手のつけられない|狂戦士《バーサーカー》と化す。それが人間というものだ。  忍はゆっくりとたちあがり、なのはを睨み付けた。  いくらなのはに特殊な能力があろうと人間の子供である。能力全開にした夜の一族を相手にしては、気迫だけで心臓すら止まりかねない。伝説の吸血鬼が視線だけでひとを幻惑するように、本気になった夜の一族は途方もなく恐ろしい存在なのだ。  ──なのに。 「!」  なのははそんな忍など眼中にないようだった。何かに気づいたようにハッと椅子に座る男を振り返る。慌てて男を揺り起こそうとして、 「……」  あぁ……、と悲しげななのはの声が響いた。 「……?」  忍はなのはの行動が理解できない。なんだろうと首をかしげていたが、 「……」  ゆっくりと忍の方に向きなおったなのはは、忍どころか高町家の誰もみたことがないほどに怒りに満ちていた。  そして、ゆっくりと口を開いた。 「──なんてことしてくれたんですか」 「は?」  忍はわけがわからず、思わず問い返していた。 「何いってるの?」 「おにーちゃん消えちゃったじゃないですか!」 「???」  さっぱりわからない。この子は何を言いたいのか?  なんなのと聞き返そうとした忍だったが、続いたなのはの言葉に忍は目を丸くした。 「もうちょっとでおにーちゃんを捕まえられたのに!」 「ちょ、ちょっと待ちなさいなのはちゃん、それどういうこと?」 「どうもこうもないです!もうちょっとでなのはだけのおにーちゃんが手に入ったのに!どうして邪魔するんですか!」 「……は?」  全然わけがわからない。  忍の内心をひとことで表現するなら『呆然』というのが正直なところだろう。怒りの鉾先がいきなり消失し、忍はどう反応していいのかわからなくなってしまった。目が点になるというのはまさにこういうことだろう。  だが、なのはが何か恭也にやらかそうとしたのには忍も気づいた。どうやら自分の一撃はなのはに何のダメージも与えられなかったようだが、何かの企みを邪魔することはできたらしい。  いったい何を邪魔したんだろうと忍は思ったのだけど、口にする前に那美が口を開いた。 「まさか、なのはちゃん……彼を昇華させずに高町先輩に閉じ込めようとしたの?」 「え……?」 「……」  なのはは語らない。だがその沈黙はなによりも雄弁だった。  だが当然、忍は沈黙していられない。 「それどういうこと?」 「どうもこうもないです」  当然でしょうといわんばかりになのはは眉をよせた。 「あのおにーちゃんは消えたくないって思ってました。なのはも消えてほしくなかったです。そりゃあおにーちゃんがおにーちゃんでなくなっちゃったらイヤだけど、たまにでもお話できたらなのはもうれしいです。  なのに……どうしてくれるんですか!」 「ちょ、ちょっと待ちなさいって」  なのはの言動が理解できない。忍は頭をふり思考をまとめようとした。  だが、その前にさくらがなのはの言葉を要約した。 「すると何?なのはちゃんは、あのひとにお兄ちゃんになってほしかったの?」 「はい。……だめですか?」 「ダメですかって……」  あっけにとられる、という言葉はこういう時に使うべきだろう。まさに忍はあっけにとられてしまった。 「なのはちゃん、あれは恭也じゃないのよ?偽者だったのよ?そりゃさっきはなのはちゃんに優しくしてくれたかもしれないけど、いつか狼になってぱっくり食べられちゃうかもしれないんだよ?なのはちゃんにはまだわかんないかもしれないけど、とてもあぶない人なんだよ?  なのはちゃんは、恭也がそんなあぶない奴にのっとられたままでもよかったっていうの?  ううんそれよりも、恭也が恭也でなくなってもいいっていうわけ?」  なんだかんだでなのはは八歳である。理解できそうな言葉を選びつつ忍は言った。むろんこの時点で既に怒りなどはどこかへ消えている。  だが、忍の認識はある意味とても甘かった。 「……」  なのははその瞬間、久遠を除くその場の全員が総毛立つような透明な微笑みを浮かべたのである。  くふ、と淫蕩かつ可憐に笑う。愛くるしい外観とあいまって、その姿は夜の一族も裸足で逃げ出すほどに蠱惑的だった。  忍は一瞬、比喩でなく本当に震え上がった。 「おにーちゃんはおにーちゃんのままですよ。あのおにーちゃんとおにーちゃんを入れ換えちゃったら別人じゃないですか。なのははそんなことしないです。  ただあのおにーちゃんが、なのはのおにーちゃんの一部になってくれたらそれでいいんです。なのははそれだけでいいです。  そうすれば……おにーちゃんはずっと、ずっとなのはのものになるから」 「……」 「……」 「……」  忍は固まっていた。さくらすらも顔色を変えていた。那美に至っては、完全に神咲の顔でなのはを見ていた。    この目の前にいる少女は何者なのか?  この可愛い高町家の末娘に、いったい何が起きているのか?    いったい、何がこの娘をこうも狂わせているのか?   「なのはちゃん」  さくらが声を絞り出した。やさしく諭すように。 「そんなことしなくても恭也さんは優しいお兄さんでしょう?なのはちゃんにつらく当たったり蔑ろにするようなひとじゃないでしょう?  どうしてそんなこと考えるの?」  なのはは、嬉しそうにハイと頷いた。お兄ちゃんっ子の可愛い笑顔だった。  だが次の瞬間、その顔は少し寂しそうなものにかわる。 「──でも、なのはのものじゃないです」 「あたりまえじゃない!」  忍が思わず突っ込んだ。 「家族なのよ?おもちゃじゃないのよ?生きた人間なのよ?誰かが誰かのもの、なんてことあるわけないでしょ!」 「……でも今、おにーちゃんは忍さんのものじゃないですか」 「!」  思わず絶句する忍。 「なのはが子供だから何も知らないって思ってるんでしょう?  そりゃあ、なのはは子供です。少なくとも大人じゃないです。そんなことわかってます。  ──でも、なのはは何も知らないわけじゃないです」  なのはは怒りの目を忍に向けた。 「おにーちゃんだって男の子です。それに忍さんはとても綺麗で優しいひとです。わたしだって大好きです。おかーさんやおねーちゃんよりも好きってわけじゃないけど、でもなのはは大好きです。おにーちゃんが忍さんを好きになるのもしかたないって思います。  ──でも、おにーちゃんをひとりじめするのは許さない」 「い、いやその……そんなこと言われてもね」  忍は必死で反論した。するしかなかった。 「そ、そもそも恭也には恭也の気持ちがあるでしょ?恭也がどれくらい私のこと好きかわからないけど、だけど恭也は私が好きって言ってくれたわけで」 「言ってないですよ?ずっと一緒にいるって言っただけで」  忍の言葉を、ざっくりとなのはは切捨てた。まるで全てを見透かしているかのように。 「だいたい、おにーちゃんは好きとか愛してるとか簡単に口に出すひとじゃないです。忍さんのことがすごく好きなのは事実ですけど……忍さん、言ってもないことを言ったっていうのは悪いことですよ?」  むう、と眉を寄せる。そのしぐさは実に子供らしくて歳相応に可愛い。  だが、その口が語る事は子供の愛らしさとはまったく正反対。 「……ふうん」  そのさまをじっと見ていたさくらが、いつもと変わらない優しい口調でなのはに問いかけた。 「じゃあ、なのはちゃんは恭也さんにどうしてほしいの?  もしかして、忍みたいな恋人になりたいの?」 「さくら!」  とんでもないことを言い出す叔母に忍が驚愕の声をあげた。  だが、 「──恋人、ですか?」  そんなさくらの言葉に、なのはは夢見るような微笑みを浮かべた。頬をかわいくピンクに染めて。 「はい……なりたいです。なりたいなぁ……」 「ふふ、やっぱりそうなんだ」 「はい」 「えぇっ!」  忍は目を丸くしてさくらを見、そしてなのはを見た。信じられないという表情を浮かべて。 「ふうん、そっかそっか。じゃあ忍に嫉妬しちゃうのも無理ないわね」  さくらはゆっくりとなのはに近付き、その小さな身体をよいしょと抱きあげた。 「む、なんか子供扱いです」 「イヤ?」 「……イヤじゃ……ない、です、けど」  困ったようにつぶやくなのは。でも逆らわないのはさくらの腕の中が心地よいからだろう。 「桃子さんはだっこしてくれないの?」 「……なのは、最近大きくなったから。おかーさんそんなに腕力ないし。それに忙しいし。  おねーちゃんやフィアッセさんだと赤ちゃん扱いされちゃうし、レンちゃんと晶ちゃんはそういうキャラじゃないです」 「恭也さんは?」 「おにーちゃんは……もう子供じゃないぞってそっぽ向かれちゃいます」 「あらあら」  うふふ、とさくらは笑い、なのはに頬ずりした。にゃあ、となのはは猫のような声をあげて避けようとするが、本気で嫌がってはいない様子でむしろその目は嬉しそうだった。 「ところでなのはちゃん、おなかすいてない?もうお昼まわってるし」 「……すいてます」 「じゃ、何かノエルに作ってもらいましょうか。  あーでもその前になのはちゃん。その杖仕舞ってくれないかな?出したまんまでしょ?」  なのはは素直に頷いた。その瞬間に左手に持ったままだった杖が消え、なのはの胸元にペンダントが戻った。  それを確認したさくらはウンウンと優しく頷くと、 「あと、忍にごめんなさいしてくれる?なのはちゃん、気持ちはわかるけど忍のことも好きなんでしょう?  なのにあんなこと言って。このままだと忍、すねちゃうわよ?」 「あ……はい」  そういうとなのはは忍の方を見た。 「……」  忍はというと、さっきからそのまま固まっていた。あまりの展開に事態がまったく理解できなかったからだ。  あの怪物じみたなのは。まるで異星人のようなぶっとんだ論理を展開し、実の兄をモノ扱いしたり忍のような関係になりたいと言い放ったなのはも異様なら、それをにっこり笑ってあっさり鎮めてしまったさくらも理解できなかった。ふりあげた拳の行き場がない。  で、さくらの腕の中でなのはは悲しそうな顔をした。 「忍さん、ごめんなさい。なのは、ちょっと悪い子でした」  ちょっとじゃないだろと忍は内心思ったが、さくらの顔が「怒っちゃだめよ」と言っているようでどうにもきつく言えない。  ちょっとだけ逡巡したのだが、 「ま、いいよ。なのはちゃんの忌憚のない気持ちも聞けたしね。……でも本気でライバル宣言されたのには焦ったけどなぁ」  そう言って苦笑いすることにした。  対するなのはも苦笑いして、 「それは全然本気なんですけど……でも忍さんに嫌われるのもイヤですから」 「あっはは、なのちゃんもなかなか複雑だね」 「はい」  それもまた忌憚のない本心。  どういう価値観と思考を持っているのかわからない。この小さな少女が秘めた異様さを理解できるだろうか、そう思うと忍は内心ためいきをつきたくなる。兄にとりついた変態男をそのまま兄の中に閉じ込めようとしたり、実の兄と恋人になりたいと放言したみたり。  さくらとの会話を鑑みるになのははやっぱり子供だ。まだ子供だから意味がわかってないのかもしれないが……それにしてもさっきの表情と態度は子供のそれとはとても思えない。  ──まぁ、時間をかけて観察するしかないか。  忍は結局、そう結論づけた。 「えっと……とりあえず解決、かな?」 「くうん」  最初から最後まで傍観者も同然だった那美と久遠の声が、静かに部屋の中に響いた。 [#改ページ] なかよし?[#「 なかよし?」は中見出し] 「ようするにね、あの魔法とかいう力のせいだと思うの」  食事を終えてくつろぐ時間の中、さくらはそんなことを言った。 「よく考えて忍。この子は他人の記憶に入り込めるのよ?細かい経緯は知らないけど、こんな小さな子がよその人間の精神を覗くようなことが日常的にできたら何をするのかしら?  ──つまりね、この子は背伸びしてるのよ」 「背伸び?あれが?」  そう、とさくらはのんびりと微笑んだ。  食事の後、なのはは眠ってしまった。誰かの記憶に潜るなんていう行為はやはり疲れるのか、それともここに来るまでに無理をしていたのか。兄もまだ目を覚まさないのでとりあえずふたりともソファに放置状態である。  さくらはなのはが気に入ったのか、自分の隣で寝かせているが。 「たぶん──そうね。恭也さんと忍がセックスしてるところでも見ちゃったんじゃないかな?」 「!」  一瞬、忍は飲みかけた紅茶を吹き出しそうになってしまった。 「そんなに驚くこと?なのはちゃんの能力なら不思議はないでしょ?」 「……そりゃ頭ではそう思うけど」  赤面しながら忍がつぶやいた。くすっとさくらは笑った。 「話を戻すけど。  忍、子供はよく大人に憧れるでしょう?わけもわからずにお化粧してみたり嗜好品に手を出してみたり。よくわからないからとりあえず外見から入るしかないのよね。可愛いとこ見せたくてがんばってお化粧して、でもおばけみたいになっちゃって笑われて傷ついたりするわけ」 「……妙に具体的なのはどうして?」 「さぁ?」  くすくす笑いが少し大きくなった。なんだかなぁと忍は眉をよせたが、とりあえず自分のことではあるまいと強引に結論づけた。 「で、なのはちゃんもそう。この子は単に大人の女性の真似をしてみただけ。お兄ちゃんをとられたくなくて、大人の女の人っぽく振る舞って忍に対抗してみただけ。ただそれだけなの。  この子にしてみれば、あの恭也さんもチャンスだったんでしょうね。なのはちゃん大好き!な男性の心を取り込めば、恭也さんが忍だけじゃなく自分も見てくれる、家にいる時間が増えると思ったんでしょ?」 「……そんな可愛いものかなぁ?」  忍は、先刻の魔物じみたなのはの姿を思い出す。 「とてもそんな風には見えなかったよ?もっとアナーキーっていうか、すごくやばそうな感じで」 「そりゃあ誰かの記憶がモデルなんでしょう?確かに結構真に迫ってたものね。私も最初ギョッとしたし」  思い出したようにクスッとまたさくらは笑う。 「そりゃあ魔法なんて力をもっててそれを日常に織り込んでる子だもの、普通の子と同じ思考をするとは限らないわ。忍と恭也さんの情事を目撃しちゃったのだってきっと、そういうことだと思う。大人の本音と建前までもが開け透けになる世界をこの子がどういう目で見ているのかはわからないけど……でもね、逆にいうとそんな暮らしの中でここまで純真であり続けているっていうのは凄いことじゃない?  ま、ちょっと忍は大変かもしれないけど、恭也さんの妹でしょう?いい子だし、がんばって仲良くしてあげなさいな」 「……簡単に言うし」  忍はちょっとだけむくれた。  さくらには可愛い子供の演技に見えるのかもしれないが、正直忍にはうまくやれる自信などなかった。  しかし、そんな姪に叔母は朗らかに笑う。 「心配ないわよ。だって既に結構仲良しじゃない?」 「さくらにはそう見えるかもしれないけど……」  だが、さくらはふるふると首をふった。 「忍も大好きって言ってたでしょ?なのはちゃん。あれは嘘偽りのない本心だと思うわ。  賭けてもいい。きっとうまくいくわよ」 「……」  さくらの言葉に、忍はうーんと腕組みをした。    恭也が目を覚まし、なのはとふたり帰宅となった。  忍は高町家に同行することになった。最初は送るだけだったのだが、打ち合わせ通りに恭也を海浜公園で拾ったと電話で告げると猛烈に恐縮され、あたりまえのように夕食に招待されてしまったからだ。  さくらは那美と共に月村邸を辞した。ふたりで話したいことがあるのだという。記憶がなく首をかしげる恭也とふたりは、ノエルの運転する車で高町家に向かっていた。 「わけがわからん。いったい何がどうなってるんだ?さくらさんはともかく神咲さんまで」 「那美は私が呼んだの。恭也の倒れ方が気になったから那美の目で見てもらったってわけ。恭也にも話したでしょう?神咲の家がどういうものか。  さくらは昔身体が弱かったから病気とかには詳しいの。ふたりとも恭也が起きるまでずっと見ててくれたんだよ?  ま、とりあえず復活してくれて安心したよ」 「それはすまなかった……で、うちの妹はなぜ?」 「恭也を先にみつけたのはなのはちゃんなんだよ。恭也を回収する時、なのはちゃんもいっしょに誘拐したってわけ。とてもそのまま帰りそうになかったしね」 「すまん、世話をかけたな」 「何いってんだか。恭也はうちの子なんだからなのはちゃんもうちの子同然だよ」 「……その、うちの子ってフレーズはなんなんだ?」  わけがわからんという顔をして恭也は忍を見た。  だが、忍は『それはおんなのこのひ・み・つ♪』といわんばかりに片目をつむって指を口にあてた。そして恭也でなくなのはと目配せする。 「さぁ?なんだろうね、なのはちゃん?」 「あは、なんでしょうね?」 「ねー」 「??」  首をかしげる恭也をはさみ、忍となのはがにこやかに笑う。 (うふふ、恭也はあげないよ、なのはちゃん♪) (望むところです、負けませんから) 「「ねー♪」」 「……なんかふたりとも異様に和やかだな」 「あははは」 「えへへ」  車の中、楽しげな笑いが響きわたる。困ったように首をかしげる恭也。 「ノエル……いったいこれはどういうことだ?」 「ありていにいえば……そうですね、修羅場、でしょうか」 「ん?なんか楽しそうだなノエル」 「いえ、とんでもない」 「?」  興味ぶかそうに笑うノエルに、またまた首をかしげる恭也。  楽しそうな団欒をのせたまま、車は高町家にだんだんと近寄っていた。   (とりあえず終わり) [#改ページ] 設定[#「 設定」は中見出し]  超のつく実験作です。まだまだ研究の余地あり。  基本的に『いもうとがほしかった男』と同一なのでそちらを参照。なお、以下の点に注意されたし。   『なのはとレイジングハートにまつわる独自設定』  『いもうとがほしかった男』にも類似の解説をしてありますが、改めて説明。  イデアシード事件が忍シナリオと並行して発生し先に収束、しかもレイジングハートが壊れずになのはの手元に残ったことになっています。本編と違うのはたったそれだけなのですが、ただそれだけの『小さな差異』のせいで、あらゆる事象がドミノ倒しのように色々と変わってしまっています。  たとえば、なのはの性質の変化。  なのはは恭也と美由希が毎日鍛錬を続けるのをあたりまえに見て育った娘なので、特に疑問もなくその稀有な能力を研き続けています。結果としてアニメの砲撃系とはまったく違う、サイコダイヴや空間干渉といったむしろ『魔女』という言葉にふさわしい能力を高めつつあります。  またそれゆえに性格の一部も急激に変化しています。基本的には本編相応の女の子なのですが、アニメのリリカルなのはで「あんな小学生がいたらイヤ過ぎる」と一部の大きい人達に言わせたような大人びた変化がこのなのはにも起きようとしています。  また恭也より先に那美や久遠の本質に関わることにもなりました。  ただしその条件変化によって失ったものもあります。  忍シナリオ中の恭也をさしおいて久遠事件にも関わってしまったため、なのはの魔力や事態への対応能力がリリカルなのは本編よりも向上してしまいました。しかしその結果レイジングハートはひどいダメージをうけてしまい、リンディの手で修理とある程度の強化が行われた。  リンディは、なのはの魔力が予想よりはるかに大きいことに着目した。そして久遠のような現住生物が存在することも懸念して、レイジングハートをよりなのは向けに調整した。なのはの強い魔力に依存するよう思い切った切替えを行うことにより、破壊や摩耗から本体を守れるように、また長い時間の独立稼働にも耐えうるよう調整を行った。  だがそのおかげでレイジングハートも、そしてなのはの基礎能力も上がってしまうことになった。またイデアシード事件で致命的な破損を受けることもなくなったばかりか、なのはの魔力とより深く連動したレイジングハートは事件後もその輝きを失わなかった。稼働状態のままなのはの手元に残る原因ともなったわけです。  クロノとの恋愛フラグも立たなくなってしまった。クロノは高町家と関わり高町桃子を救うのに手を貸したが、なのはを守るべき愛しい女の子というより頼もしい異境の少女魔術師と認識してしまった。つまり恋に落ちるまでには至らなかった。友人としていつか再訪を約束して去っただけです。  いつかは恋愛対象として認識する可能性もまだあるが、それはまだ未来の可能性にすぎない。  なのはは自分の能力を磨き続け、いつかはリンディやクロノの世界へ行ってみたいと思っているようです。  また、再訪を約束したクロノたちの言葉も単にリップサービスではないようです。もちろんそれは恋人としてではなく、レイジングハートとなのはの状況を把握するためですが。場合によってはアニメのなのはがそうだったように、ミッドチルダに誘われる事になるのかもしれません。  ほんの小さな時間軸の変化。それが次々と事態の変貌を呼び込む。  いろいろな意味で、なのはの運命は予測できない方向に向かっているようです。   『忍が恭也たちの剣を知っている事について』  忍・ノエルルートでは、忍は終盤まで恭也の戦闘力を知りません。美由希・フィアッセルートでは恭也が訓練中に負傷するエピソードがあり、ここで忍は驚き、おそらくは自動人形クラスとおもわれる戦闘力を秘めた恭也と美由希に素直な敬意と賛辞をおくっていますが、この類似イベントは忍自身の問題があり、忍ルートでは発生しないようです。ただ高町家におじゃましている日常イベントはたくさんあるので、忍と恭也が一緒にいる時間が長すぎて、訓練そのものをあまり目にしてなかったのでしょう。高町兄妹の訓練時間はかなり長いのですが、その肝心の兄が忍にべったりなわけですから。  このSSでは忍イベントの進行が遅れているので、そういうチャンスがあったのだということにしています。   『久遠の正体を恭也が知らないことについて』  ここの『史実』では那美ルートに深入りしてません。そして本来の『リリカルなのは』と違って本編との時間のずれが存在しません。  よって、恭也はもちろん高町勢は久遠の正体を知らないことになっています。  ですが、これには裏があります。本当は恭也だけはなのは絡みで久遠のことを知っているわけですが、これは内緒という約束なので隠しているのです。