紐緒博士の午後 hachikun 初代ときメモ、本編の20年以上後です。『たそがれ』の番外編になっています。 初代ときメモ、本編の20年以上後です。『[たそがれ|../siori/]』の番外編になっています。 [#改ページ] まえがき[#「 まえがき」は中見出し]  工学博士、|紐緒結奈《ひもおゆいな》。きらめき市出身。彼女は21世紀の日本、いや世界を代表する巨人のひとりであった。  彼女にはたくさんの逸話がある。本来飛び級してもおかしくないのに普通に高校に在籍、しかし同時に伊集院財閥の支援のもとに独自の研究をしていた。そして大学にも進まず名目上の就職、実際は伊集院系の研究機関にそのまま在籍する事となった。  だが、彼女がその名声を決定的にしたのはもっと後の話。日本が大恐慌を起こし一気に凋落してからだった。  これは、そんな天才科学者紐緒結奈の小さな物語である。 [#改ページ] 工場[#「 工場」は中見出し]  ここは郊外の工場である。  かつては自動車メーカーのものだった。今は伊集院財閥所有の工場となり、結奈の指導により、とあるものがせっせと製造され続けていた。 「ふん、まぁこの品質ならよしとするわ。続けなさい」 『了解』  持ってきたサンプルをあれこれ評価し突っ返すと、ロボットはもときたラインへと戻っていった。 「どうかしら?結奈」 「まずまずね」  隣に立つ金髪女性に、まぁこんなものでしょという顔で結奈は答えた。 「この時代によくここまでの素材を集めたわね、さすが伊集院だわ」  対する女性──伊集院レイも、ふるふると首をふった。 「こんなもの、あなたの作ったコ・ジェネレータに比べれば全然大したことないわよ。まさか本当にごみの山を動力源にしてしまうなんてねえ」 「あら」  そんなこと、と言わんばかりに結奈は肩をすくめた。 「無限に増えつづけて利用価値のないものを再利用しているだけじゃない。誰でも考え付くことだわ」  その「誰でも思いつくこと」を本当に実現してしまうから凄いのだが。レイはそう言おうと思ったがやめた。結奈は本気でジェネレータごとき大した発明ではないと思っているようだったからだ。  レイはその実、結奈のコ・ジェネレータはこの黄昏日本を地獄から救うかもしないと考えているが。 「配備計画の方も順調よ。日本領海内の判明ずみのメタンハイドレート海底鉱脈周辺、対馬・竹島などの国境まわりの離島その他もろもろ、要所に防衛網を敷設中よ。すでに一部は実績もあげてる」 「そ、ここまでは予想通りね」  フフンと結奈は不敵に笑った。  弱い国は食い物にされる。資源が、土地が、人が奪われ盗まれ利用される。これは歴史の必然であり事実だ。よいも悪いもない。  日本が急速に落ちぶれ始めた時に結奈が真っ先に懸念したのがそれだった。彼女には別に公共心などないが、生まれ育った国が朝鮮半島や大陸の人々に思うがままに蹂躙されるのを黙って見ているつもりなどなかったからだ。  そして同じ懸念を持っていた伊集院レイに連絡をとり、自分の技術をいくつか提供したのだ。そのひとつがゴミの山を分解して電力に変える紐緒式コ・ジェネレータであり、ここで作られている『防衛ロボH1型』つまり、かつての世界征服ロボの改良版であった。 「それにしても、あのロボットを実戦配備するって結奈の提案を聞いた時は驚いたわね。悪い冗談かと思っちゃった」 「あら。もともと世界征服ロボは拠点防衛用のものだわ。世界征服なんて武器さえ集めれば一人でも可能だけど、防御はそうはいかないじゃないの。そこいらへんは伊集院総裁の貴女のほうが詳しいと思うんだけど?」  そうね、とレイもそれには同意した。 「それに、ロボにはエコロジーの概念も全面導入されているわ。軍隊ってところはエコとは本来程遠い組織なんだから、補給路を断たれてしまったら活動どころか存在の維持すらも怪しくなってしまう。  だけどロボはそんな事もないわけでしょう?  もちろんロボットである以上できる事には限界があるわ。だけどそのあたりだけ本業の軍人や自衛官にお任せしていいんでしょう?彼らだってカカシじゃあるまいし、少しは仕事してもらわなくちゃね」 「そうね」  結奈の口の悪さにレイは苦笑いした。  まぁ結論から言えば、確かに問題なく推移した。  世論は前代未聞の戦闘ロボ防衛網に目を剥いた。だが同時にそれが結奈の指揮によるものだと知った途端「なんだドクトル・ヒモーかい。脅かさないでくれよ」とみるみる沈静してしまったのだ。あとはごくごく普通に、自衛隊のいち部隊として防衛ロボ部隊は認知されてしまった。西側諸国はもちろんの事、あのヒステリックな朝鮮半島や大陸の国までもがそうだった。  正直、さすがのレイすら呆れて言葉もなかった。 「あまりうれしくなさそうね?結奈。平和主義の天才科学者と世界中から認められたのよ?ま、ちょっと変わり者とも思われてるようだけど」 「私が天才なのは当たり前なのよ、そんなもの愚民が認めようが拒もうが知ったことじゃないわ。それに」 「それに?」 「私は天才だけど、変人になった覚えはないわ」 「……」 「なによ失礼ね」  なるほど、そっちで怒っていたのか。  ぷ、クスクスと笑い出すレイに、結奈は思いっきり渋い顔をした。 「で、どうしたのかしら?伊集院総裁がこんな平日にわざわざ現場にくるなんて?」  ああそうね、ごめんなさいねとレイは答えた。 「助手いらない?結奈」 「助手?」  レイの言葉に、結奈は思わず眉を寄せた。  正直いって助手は欲しい。特にエンジニアが必要だったのだが、だが結奈の望みに足る人物など見たこともない。  いや、まぁ仕方ない。結奈の要求レベルが高すぎるのだ。  彼女はあまりにも天才すぎた。正直いって、生まれてこの方助手たり得た人物など過去にたったひとりしか存在しないし、おそらく今後もいないだろうと考えていた。実際彼女の理解者はこのレイや美樹原愛のように、結奈を人格面で評価した知人ばかり。技術面でパートナーたりうる者などひとりもいなかった。  だから結奈はそのまんま答えた。 「いらないわ。理解できたり勤まる者がいるとも思えないし」  ふむ、とレイは頷き、そして爆弾を放ってきた。 「──|主人公《ぬしびとこう》ではダメかしら?」 「!」  なに、と結奈は一瞬目を剥いたが、 「何を言うかと思えば。あれが藤崎詩織のそばから離れるわけがないでしょう?」  やれやれとためいきをついた。  だが、そんな結奈の反応にレイは肩をすくめて、 「あら珍しい、結奈がまだ知らないなんて」 「?」 「彼と藤崎さん、とうとう破綻しちゃったのよ。さっき館林さんから連絡があったわ」 「……」  バカめ。だから言わんこっちゃない。 「あまり驚かないのね結奈?もしかして予測してた?」  まぁね、と結奈は肩をすくめた。 「……|十柱戯《じっちゅうぎ》 |如何様《いかよう》」 「は?」  妙な顔をしたレイに、結奈は腕組みした。 「こんな|巫山戯《ふざけ》た偽名の工学論文が出たのよね、しかも私の得意分野で。そんなの公の他にいるわけないでしょう?」 「えっと、そうなの?」  伊集院レイにはわからない。なんだかんだでレイと公は友人ではあったものの、男装して男で通している以上あまり親しくしすぎる事はできなかったから。  果たして、結奈はこれ以上なく渋い顔をして頷いた。 「きら高時代に、公とボウリング場に行った事があるのよ。知っての通り公はスポーツも国体レベルだったでしょう?で……」  ああ、とレイもポンと手を打った。 「十柱戯ってそうか、つまりボウリングね。  結奈、あなた『ボウリングでイカサマ』して彼に勝ったのね?しかも彼にバレた。違う?」  イカサマを漢字で書くと如何様である。  そうよ、と結奈は渋い顔で頷き、あっはははとレイは笑った。 「それって彼と結奈にだけしかわからない暗号みたいなものでしょう?助けを求めてたんじゃないの?」 「ええ」  だから手は打ったわよ、と結奈は大きく頷いた。 「具体的に何を求めてるのかわからなかったから、とりあえず藤崎詩織の動向を調べたの。彼女が大学関係に仕事を求めていたから、東大にパイプのあるアメリカの大学関係者にコンタクトをとって便宜を図らせたわ。彼女が息子ともども、うまく保護されるようにね」 「なるほど。……息子ともども?」  んん?と一瞬、何か悩むように眉を寄せたレイだったが、 「ちょっと待って結奈!まさか貴女」 「それについては否定するわ」  結奈は首を振った。 「私の性格は公も知ってるはずよ。そんな私にすがるという事は、多少の波風くらい織り込み済みだと私は理解してたわ。卒業の時『私の元に戻りたいなら、いつでもコンタクトしてきなさい』と言ってあるんだし。  今の世の中と公の家の経済状況を見れば、公が地方への展開と移住を求めている事くらい容易に想像はできた。そして、そのためには息子の学歴絡みで都心を離れたがらない藤崎詩織がネックということも。そして私に連絡しあぐねた挙句、ダメ元で変な論文なんか出すに至った情けない経緯もね」 「ダメ元?」 「公はね」  うっとりと結奈の目が細められたのは、懐かしい日々への憧憬か。 「公は、私がまだ自分に関心を持っているかどうか自信がなかったのよ。だから論文を書き、それを友人を通して偽名で発表した。私が論文の意味に気づいてリアクションするかどうか、それを試金石にしたのね」 「はあ、なるほど」  なるほど。まぁ論理的ではある。いろいろと非常識ではあるが。 「で、私はちょっとだけ彼の背中を押してあげた。それだけよ」 「……」  どっちもどっちだとレイは思った。  が、とりあえず苦言を呈するならば、それは、 「でも、それって結局結奈のせいなんじゃないかしら?彼と藤崎さんの間を決定的にしたのは」  あのねえ、と結奈は首をふった。 「バカ言わないで欲しいものね。  だいたい、どうして私が二人の仲を裂く必要があるのかしら?私は公を部下として欲しいとは思うけど、自分の男にしようと思った事なんて一度もないのよ。今回だって、単に経済的に動きやすくなるよう支援しただけじゃないの。  結果としてそれが破綻の原因になったのかもしれないけど、それだけの理由でそこまで責められる謂れはないわ」  ふう、とためいきをついた。  レイはというと「男にする気がない?じゃあどうして未だに呼び捨てなの?」などと突っ込みたくはあった。しかし今の結奈に突っ込んでもおそらく無駄なのは重々理解していたので、もちろんそんなことはおくびにも出さなかった。 「やれやれ、しょうがないわね。じゃあ私も出迎えに行こうかしら」 「……私も?」  どういう意味だと言い返そうとしたレイに、結奈は笑った。 「私を拾って公を迎えにいく、そのつもりできたんでしょう?レイ」 「あはは、バレてた?」  今度はレイが苦笑いする番だった。 [#改ページ] 再会[#「 再会」は中見出し]  理解力と知識だけなら結奈を越えかねないほどの力を持っていた唯一の男、主人公。  高校時代、そんな公の可能性に気づいて科学部に引きずり込んだのは結奈だ。目にとまったのはほとんど奇跡のような偶然なのだけど、ふと気になって公の成績データに携帯端末でアクセスした結奈はピンときた。入試時点やその前のデータにある成績の低さを考えると、目の前で公が解いている方程式は難しすぎる。もちろん勉強すればたどり着けるのかもしれないが、数ヶ月でたどり着くには学ぶべき基礎知識が多すぎる。  何かの不正?ありえない。  主人公が幼なじみを追って入学してきたのはわかっている。わざわざ成績を低く見せてリスクをしょいこむには彼の成績は低すぎる。落ちてしまったら意味がないではないか。  ではなぜ?  簡単だろう。ありえないのなら不正ではないということだ。  つまり入試からほんの数ヶ月、たったそれだけの間に彼は、理系限定とはいえ落ちこぼれからトップクラスに成り上がってみせたのだ。    ──おもしろい。この男を確保しよう。    結果は結奈の狙い通りだった。  公は言うなれば『秀才の原石』だった。ちょっとやる気を刺激してやるだけでおもしろいように劇的に伸びた。きらめき高校にぎりぎり入学したような男が半年とかけずに高校レベルの理系の履修を完了し、二年の終わりには結奈の助手をつとめていたのだから。  だが、高校卒業でふたりの道は分かたれた。  あれほどの才能を持ちながら、公は幼なじみの一挙手一投足に支配されていた。だから藤崎詩織の選んだ一流大学に、そのままついていってしまったのだ。  馬鹿ねと結奈はためいきをついたものだ。公にではない。その公にひとことの助言もしない藤崎詩織にだ。  公の才能には気づいているはずだ。なのになぜ、自分目当てに目が眩んでいる公に手をさしのべてやらないのか?  女は男が考えるほど粛々とした生き物ではない。女を飾るのが男の甲斐性なら、男を飾るのだって女の甲斐性なのだ。男が才能を腐らせているのなら、それを花開かせ大成させる。近所づきあいが下手ならサポートしてやる。そうやって男を前面にだし、賞罰を一身に受けさせることで漁夫の利を得る、それが女というものだろう。男が成功すれば経済的な豊かさを享受できるし、男が落ちればさっさと見捨てて金だけふんだくればいい。男に擦り寄る女の本性とはつまり、そういうもの。  歴史にもいい例がある。  千数百年前。アラブの貧乏商人だった男にひとりの女性実業家が惚れ込んだ。彼女は男を自分の夫として逆玉に載せ、立派な豪商に育て上げたばかりか悟りまで開かせた。天使の幻影が現れ韻を詠まされたと怯える気弱な夫を励ましその気にさせ、とうとう宗教家にまでしてしまった。  女の名はハディージャ。男の名はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ( )。  そう。  あの怪物的巨大宗教であるイスラム教は、ハディージャという女がいなければ誕生しなかったのだ。彼女が手を添えた事で彼は道を開き、人類史を変えてしまうほどの途方もない巨人に成長した。その才能は秘めたものだったのかもしれないが、それを引き出したのはまぎれもなく彼女だ。  愛する者の支えと激励というのは、ひとりの人間をこうも変えてしまうという事。そのあまりにも典型的な例と言える。  閑話休題。  結局はそのあたりが、藤崎詩織の限界だったのかもしれない。  藤崎詩織は確かに才女ではあったのだけど、くっついた男を背後から操るという女としての能力には欠けていたのだろう。だからこそ最初から理想が高く、女に操られなくとも自力で立っている男を理想としていたのかもしれない。  あの頃の結奈にはわからなかったが、今こそ言える。  少なくとも公の相手に藤崎は相応しくない。  公のような男にとり、平均的高スペックの保守派の女なんてのは最悪の組み合わせだ。たとえバランスが崩れていようと突出した『何か』をもつ者が公には必要なのだから。  藤崎詩織では、公には釣り合わない。 「……」  結奈はそこまで考えたところで、その|益体《やくたい》もない思考を止めた。  藤崎の悪口を言ったところで過ぎた時間は戻らない。論文を見る限り公のレベルは低くないが、本当に今も使えるかどうかは会って、使ってみないとわからない。結奈個人としては公が来る事がちょっぴり楽しみではあったのだけど、紐緒博士としての評価は当然別問題。女として公を捕縛する役目は館林がやってくれるとしても、工学系技術者としての見極め、場合によっては再起動なども結奈が担当する事になるだろう。  空はただ|蒼《あお》く、雲ひとつない。ちち、ちちち、と遠くで小鳥の鳴き声がする。  機械の音は一切しない。空もただひたすらに蒼。 「空が綺麗ね。昔からこんな綺麗だったのかしら」 「それだけ世界中が停滞している。そういう事よ」  世界的な不景気の波は、史上最悪と言われた2009年のさらに数倍以上とされていた。日本ほどひどくはないが、他の国でもそれなりに大変にはなっていたのだ。  そういう理由により、昨年から今年にかけて世界の工場稼働率は例年の三割程度でしかなかった。 「ま、私が生きている間くらいには、全世界がフル操業中でもこれより綺麗な空にしてみるわ」 「大きく出たわね結奈」  レイが横で微笑む。 「まさか。公が高校時代からずっと私の助手なら、今現実にそうなってるところよ」 「断言するのね」 「当然でしょう?公を科学の世界に引き込んだのはこの私なのよ」  そう、公がいれば。結奈は思った。  公の頭脳が健在ならば、助手どころか相棒にすらなってくれるだろう。ふたりで組めば自分の力は何倍にも使える、できる事も当然何倍にもなるのだ!  館林見晴が女として公との時間を取り戻すのなら、私は科学者として公との時間を取り戻そう。そう結奈は思っていた。 「きた」  二人は廃棄されたGS、道路脇に立っていた。目の前の道路は市道にあたる。  錆だらけのGSは外見上は廃墟にしか見えない。裏に巨大な工場があるのだが、ここが操業していた頃は工場まわりや従業員の需要でいつも賑わっていたものだ。そして工場が停止してしまったその日、このスタンドも終わった。国道にも面さず工場需要で百パーセント支えられていたがゆえの結末だった。  ヒビだらけで、その割れ目から雑草まで生えた道路脇。元々は工業地帯だったのかもしれないが、今は見渡す限り道路と廃墟ばかり。ゴーストタウンそのもの。  そんな光景に、はるか向こうから何かが近づいていた。  それは軽自動車だった。女が運転し、助手席に誰かがいる。  空色に塗られた古くさいそれは、しかしその古さに関わらず快調そうだった。燃費を考えてかゆっくりと、しかし確実にふたりの待つところに向かってきていた。 「ふてくされてるわね、彼」 「当然、でもちゃんと現実は受け入れてるはずよ。公はそこまでバカじゃないわ」  あの頃だって、結奈も驚くほど現在の自分を理解していた。「詩織とつりあうには」という枕詞がいつもついていたが、現状を理解し順応する能力は高いということだろう。実際、科学部に引き込んでから順応にかかるのもあっというまで、気づいたら他の部員に混じって普通に活動していた。  やがて軽自動車は、ふたりの前にゆっくりと停止した。 「こんにちはー」 「お疲れ様館林さん。燃料入れるから手伝ってくれる?」 「はい!」  館林が車を降りた。レイにしたがってGSの機械の始動を手伝いはじめる。「こんなので給油できるんですか?」「もちろんよ。でなきゃ私がいるわけないでしょう?」「そっか」などという声が聞こえている。  結奈はそんなふたりを見ながら、公がふてくされている側の窓に歩み寄った。 「ずいぶんとシケた顔ね公」 「紐緒さんか」  久しぶり、と公は苦笑いした。自分の立場を思っての自嘲だろう。 「失業したって聞いて人買いにきたわ。また私の助手をなさい公」 「は?いやちょっと待て」  いきなりの事に公は慌て出した。 「俺、今朝の今日でまるっきりわけがわからないんだけど。そもそも失業ってなんだよ」  なるほど、全くわかっていないらしい。 「だって、館林さんと住むんでしょう?今の職場に通いつづけるのは不可能よ」 「いや、横浜だろ彼女。だったら」  どうも何か勘違いしているらしい。やれやれと結奈は内心ひとりごちた。 「どこをどう誤解してそうなったのか知らないけど、館林さんが住んでいるのは私の住んでる工場兼研究所のすぐ近くよ。当然横浜どころか神奈川県ですらないわ。  彼女に聞いてないの?公、ここにくるまで貴方何してたの?」 「いやその、俺酒場で寝ちまってさ。気づいたら館林さんの車で御殿場近くにいて」 「……」  どうやら泥酔したところを文字通りかっさらわれたらしい。それどこのヒロインよと結奈は呆れた。  だがまぁいい、経過なぞどうでもいい事だ。 「そ。じゃあ簡単に説明するわね。  彼女が今いるところはまぁ、簡単にいえば農村なのよ。隣村との間に伊集院所有の工場があってね、で、関係者はどちらかの村に住んでいるってわけ。村の方には税金の他に工場から電力も供給していて、かわりに職員の衣食住の点でいろいろ便宜をはかってもらってるわ。  とりあえずこんなところ。わかったかしら?」 「なるほど」  ふむ、と公は結奈の言葉を吟味するように頷いた。 「まぁ住居とか細かいところは館林さんと相談すればいい、そっちには私もレイも口をだしはしないわ。  口を出すのは週末の余暇でなく本業の方ね。で、どうする?」 「いや、どうするって言われても」  公はぽりぽりと指で頬を掻いていたが、 「館林さんとこで厄介になる以上そのへんも確認してから返事する。だけど俺の希望としては」 「わかった。待ってるわ」 「っておい、返事聞かなくていいのかよ」  聞くまでもないでしょ、と結奈は背を向けて肩をすくめた。 「あの論文──ツッコミどころが山ほどあるけどまぁ使えるわ。たたき台としてね」  背後で、あっという声がした。 「研究を続けたいんでしょう?だったら私のところに来るしかないわ。選択肢なんて最初から貴方にはないのよ」  それについての返事はなかった。  だがそのかわり、マヌケな質問を結奈は聞くことになった。 「なぁ、紐緒さん」 「何かしら?」 「レイって誰だ?まさかあの伊集院が関係してるのか?」 「──は?」  どうやらこの男は、いろいろと浦島太郎のままらしかった。  結奈は「何バカなこと言ってるの?」と不機嫌そのものの顔をしてみせた。そんなつまらない事までいちいち説明しなくちゃならないのかと。  だが。その目はちっとも不機嫌そうではない。  もちろんその事に女ふたりは気づいていた。わかっていないのは結奈本人、それと目の前のにぶちん男ふたりだけなのであった。 [#改ページ] 夜[#「 夜」は中見出し]  夕闇が、夜のしじまを包んでいた。  昼間であればコ・ジェネレータ用と思われるごみを積載したトラックが時々見えるのだが、それは日没以降には走っていなかった。工場は静かな山村に光を漏らさないよう、そしてわずかのエネルギーも無駄にしないようできているため、深夜ともなれば村は本当に静かだった。街灯を最小限にしていることもあって、それはまさしく太古の静けさだった。  山村は、夜の|帳《とばり》の中にあった。  星がすさまじく美しい。星の海という言葉にふさわしい夜空。  とてもではないが、日本全土を守るロボット兵の工場があるとは思えない。 「本当にあれでよかったの?結奈」  工場の来客用宿舎。ワイングラス片手にレイは言った。 「何を言いたいのかしら」 「館林さんに彼をあげてしまったことよ。後悔しない?」 「……」  結奈は無言のまま同じグラスでオレンジジュースを飲んでいた。一瞬たりとも思考力を奪われる事を嫌う、禁欲的な科学者らしい選択だった。  そんな結奈にレイは笑う。 「私には本音を言ってね結奈。同じ男狙ってたよしみじゃないの。  それに私知ってるのよ?彼は確かに藤崎さんを射止めたけれど、彼が高校時代に一番デートしたのは結奈、あなたでしょう?」 「……つまらないことまでよく覚えてるわね」  しばし逡巡したようだが、あきらめたようにぽつりとつぶやいた。 「この私の才能に努力だけで食らいついてきた男よ。あのまま力をつけていけば、いったいどうなっていたか。  私が気に入っていたのは主人公という人間のもつ未知の素質。そういう事よ」 「自覚がないのもねえ」 「……」  結奈はそれ以上反論しなかった。ただグラスを傾けた。 「結奈」 「何かしら」 「たまには飲まない?」  ほろ酔いの顔で、レイはじっと結奈をみる。 「飲み過ぎよレイ」 「飲も」 「……」 「ね」 「……」  とうとう結奈も折れて、グラスにワインが注がれた。  普段全く飲んでいないだけあって、飲み始めると結奈の顔はたちまち赤くなった。あっというまに目がすわってくる。 「……」  そうして落ち着いてきた頃、結奈は「ふん」と鼻をならした。 「待ってるのよ、私は」 「待ってる?何を?」  ほえ?と、完全にできあがっているレイを横目に結奈は笑う。普段の冷徹な結奈とはまた違う、しかしある意味邪悪な笑みだ。 「どんな手を使おうと、公自身を確保している限り最後に勝つには私。そういう事よ」 「……」  レイは不思議そうに、そんな結奈の横顔をみていた。  だがある瞬間「げっ」と一瞬で酔いがさめたような顔をした。半分青ざめながらもさらにワインに手をのばし、飲むというよりほとんど煽りつつも再び結奈をみた。 「……」  結奈はまた笑っていた。完全に酔ってしまったようで、つい先刻レイを青ざめさせた笑みはもうそこにはない。 「ふっ」  酔っぱらいの顔で、何かぶつぶつつぶやいている。  よく聞けば、意識の電子化がどうとか義体がどうとか聞き捨てならない言葉も耳に入ってくる。だがレイはそれ以前に、ちりちりとうなじに危険な予感が感じられるような強烈なやばさを結奈の雰囲気に感じていた。  それは、おそろしくも懐かしい雰囲気……そう、きらめき高校時代の結奈のそれに違いない。 「ふ」  ふと気づくと、レイもまたうっすらと笑い始めていた。 「……なるほど。では紐緒くん、豊かな未来を祝して乾杯といこうか」  あの頃のレイの口調で、おどけて言ってみる。結奈もそれにあわせてニヤリと笑う。 「そうね。いただこうかしら伊集院君?」  ふふ、はははとふたりは笑いあった。   満点の星空に、ひとすじの光が流れた。    時代は巡る。  後に『21世紀の伝説』と呼ばれた歴史がまもなく始まろうとしていた。   (おわり) [#改ページ] あとがき[#「 あとがき」は中見出し]  紐緒閣下に敬意を表します。  また、なんと本SSに感想をくださった方がおられました。今も初代ときメモSSを求める方がおられる、という事はとても心強く、そしてうれしいものでした。    お読みいただきありがとうございます。  そして、ありがとうございました。