古城の庭に、小さな火が燃えていた。
夕刻。太陽は未だ沈んではいないのだが、ここにはその傾いた光は届いていない。昼なお暗きアインツベルンの森が光を遮っているためであり、既にその小さな火は傍らに立つ古き城のたたずまいをゆらゆらと照らしていた。
「…こんなことしてなんの意味があるの?」
戸惑うような少女の声が、火の隣で小さく響いた。
少女は肉塊を持っている。いや、それは目の前の火で程よく焼きあげられたものだ。男の武骨な手で豪快に料理されたそれは見た目こそワイルドそのものなのだが、少女にも余裕に噛み切れる部分のみを切り取られたもの。味付にも工夫がなされており、少女の口に合うよう細心の注意が払われたものだった。
「食事とは栄養補給のみの手段ではないのだよ、イリヤ」
傍らで男が笑った。
かなりの大男だった。身の丈にして十尺つまり3m近くはあると思われる。現代の感覚でもまさに巨人。
全身を覆うのは毛皮の鎧。しかしただの毛皮でないのは誰の目にも明らかだ。なぜなら毛皮は飛んで来る火の粉をはじき、全てはらはらと地面に落していたからだ。
おそらくはなんらかの魔術的防御があるか、それとも一種の概念武装なのだろう。
未だ火の上には大きな肉が吊られていた。古風な調理法であるが男の動きに無駄はない。手慣れた様子でその肉をぐるぐる回しつつ、残る片手は城内からくすねたらしい酒瓶を持っている。見ればもう暗い地面にも、いくつかのボトルが落ちている。全てこの男が飲んだものだろう。
それは料理用ではない。先程肉に吹きかけたりもしていたが、大部分の酒は男の腹に消えているようだ。
「わたしはともかく、貴方はサーヴァントなのよセイバー?食べる必要なんかないでしょ?」
それでもしっかり少女は肉にかぶりつく。一瞬顔をほころばせるのだが、すぐに仏頂面に戻って男の方を見た。
「…ふたりでこうしている時はクラス名で呼ぶなと言ったのだが?なぜヘラクレスと呼ばぬ?」
「呼べるわけないでしょ!誰が聞いてるかもしれないのに!」
むうう、と怒ったように叫ぶイリヤ。ヘラクレスと呼ばれた男は首をすくめた。
「その心配はわしがする。わしはおまえを守ると約束したのだからね。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。無垢で気高い、わが
男の声には、少女を慈しむ者のトーンが混じっていた。
少女は何かあきらめたような声で、
「娘は余計だわ」
とだけ返した。
男、ヘラクレスの召喚はある意味成功であり、ある意味失敗でもあった。彼の召喚を指揮したアインツベルンは、彼をバーサーカーとして呼ぶ事を意図していたからだ。
そのため、召喚の当事者であるイリヤスフィールへの風当たりは微妙なものとなった。本来なら、最強の戦士であり複数の宝具を駆使する英霊ヘラクレスを呼び出しただけでも大成功なのにイリヤスフィールは褒められる事すらなく、本当ならふたり用意されるはずのお供の女性もひとりだけとなった。ヘラクレスが狂戦士でないのなら不要だろうというただそれだけの理由で。もちろんそこには、イリヤスフィール個人が女の子であるという事情なぞきれいさっぱり無視されていた。道具の性別なぞ知ったことではないという悪意がそこには見え隠れしていた。
幸いただひとりのおつきの女性はイリヤスフィールに悪意なぞ持たない。普通に有能でありまた、イリヤスフィールのある点の世話の理由で彼女と同じホムンクルスが採用されてもいる。しかしその女性は有能だが堅物そのものであり、今は城の中で顔をしかめてふたりの姿を見ているはずだ。彼女はヘラクレスがイリヤスフィールにレディとして、アインツベルンの人間として相応しくない事ばかり強要するのが気に入らない。だから今この時のように、天候さえ許せば屋外での野趣溢れる食事をとらせようとするヘラクレスを好んではいなかった。
そんなこんなを理解しつつも、この偉大なる大男はマイペースを決して崩さない。
「わしの時代にも魔術を使う者はいた。彼らは森を、山河を風を水を好み、それらの精に溶ける事を好んだ。わしは魔術については専門外だが、おまえに不足しているのもそれだ。違うかな?」
いちいち正論だった。イリヤはフンとよそを向いた。
けれど肉を美味しそうに頬張る顔はまんざらでもなく、少し赤面した頬もかつてないほど健康そのものだった。
「確かにその通りだけどそれは人間や幻想種での話よ。ホムンクルスであるわたしになんの意味が」
「あるとも」
ヘラクレスはあっさりと断言すると、肉の一部を手にある巨大な剣で器用に切り取った。
「作られた生命なぞわしの時代にもおった。しかしなイリヤ。作られたものであろうとこの大地に生きるものである事自体は変わらぬ。しかもおまえは普通に食事をとる身ではないか」
「長生きする必要もないし、目的が果たされればそれでいいの」
頑なにイリヤスフィールは言い切った。
だが、ヘラクレスはそんなイリヤスフィールを優しい目で見ていた。酒を地面に置くと自分もどっかと座り込み、やにわにイリヤスフィールの身体を抱えようとする。
イリヤスフィールはそんなヘラクレスの態度にも慣れているようだった。なすがまま、そのままヘラクレスの膝の上にぺったん座りになる。イリヤスフィールは童女のようなその扱いに最初はひどく抵抗したものだが、どうして逆らうことができよう。そして数限られた『令呪』まで使って歯向かうような事でもないのだ。
そうして完成したその姿は、酒好きの山賊の長が幼い愛娘を魚に酒を飲む光景を思わせた。たくさんの家来こそそこには居ないが。
神代より訪れた伝説の長は、美味そうに酒を嗜みつつつぶやく。
「予言してもよいぞイリヤ。おまえの『目的』とやらにはきっと時間がかかるだろう」
「…え?」
首をかしげるイリヤに、ヘラクレスは豪快に笑った。
「なに予感は予感、説明などできぬさ。
しかしなイリヤ。わしはこれでも十二の死の試煉を乗り越えた男。そのわしの予感が言うのだよ。おまえはおまえの望むものをきっと得られると。そのためにわしはここに居るのだとな」
自分の焼いた肉を頬張り、うむ、美味いと満足そうにつぶやくヘラクレス。
「…わたしの目的にそう時間はかからないわ。言ったでしょう?わたしの目的は聖杯となり帰還すること。そしてキリツグの殺害。そのふたつだけだって」
だがそう言うイリヤスフィールの言葉には、以前ほどの力はなかった。
イリヤスフィール自身も何かを感じていた。言い知れぬ予感を。それはバーサーカー召喚のつもりがセイバー召喚となってしまったあの時、あの瞬間から心の底でずっと感じ続けている事だった。
『今回の聖杯戦争は違う』と。
「まぁよい。
あの山影から月が昇る頃、戦いがはじまる。我らの出張るはその時でよかろうよ」
「どういうこと?」
いぶかしげに顔をあげるイリヤスフィールに、ヘラクレスは答える。
「先日戦った者…あの槍使いの気配が動いておる。探策を続けておるようだが…」
ヘラクレスは、キャスターのように全ての気配の察知はできない。
けれど彼には経験があり神代の時代に築いた独特の感性もあった。サーヴァントのようなものなら一度戦えば、かなり不完全ながらその位置を知ることもできた。
「つい先程だが、何者かと槍で戦ったようだ。どえらい勢いでマナを吸い込んだからな。宝具の力を解放したのであろう」
「…どういうこと?あのサーヴァントはマスターから『探策』の司令を受けていたって」
宝具を解放するという事は相手を殺すということだ。それは探策せよとの司令と反する。イリヤスフィールは魔術師の顔に戻って眉をひそめた。
だがそんなイリヤスフィールを見て、ヘラクレスはただ頷いただけだ。
「計算違いの事態が起きたのだろう。あの
「…たとえば?」
「探策するはずのサーヴァントが徒党を組んでいたか。複数同時相手ではどうしようもあるまいよ。まぁいきがかり上の一時的共闘かもしれぬが」
「!!」
だが、お気楽そうなヘラクレスと違いイリヤスフィールはすっくと立ち上がった。
「むう。まだ早いと思うのだが…」
「何言ってるのセイバー!すぐ行くわよ!相手の確認もしなくちゃ…」
「…やれやれ。うっかり火をつけてしもうたか。迂闊迂闊」
しれっとつぶやくとヘラクレスは立ち上がった。左手でイリヤスフィールの身体を抱えあげて。
そしてそのまま、イリヤスフィールを肩に乗せてしまった。
「…どうしてそう、ひとを子供扱いしたがるのかしら?再教育が必要ね」
その少し物騒な言葉に、ヘラクレスはにやりと笑った。
「わしは子供を肩に乗せる趣味はない。女を肩に乗せるというのは元来、寝所に持ち帰り抱くためであろう」
「!!」
いきなりの露骨な反応に、イリヤスフィールは真っ赤になった。
「仮にも召喚者であるおまえを抱きはせぬ。おまえが求めぬ限りはな、安心せよ」
「もう!ああ言えばこう言うこう言えばああ言う。少しは大人しくできないの?」
「ふははは!…さて」
ひとしきり楽しげに笑うと、ヘラクレスはきりりと顔を引き締めた。そこには年嵩の手練れの戦士の顔がある。
いつしか、足もとで燃えていた火はひとりでに消えていた。燃えつきたというよりまるで、見えない手がさっさと消してしまったかのように。
「わしの目に力を送れ、イリヤ。わしの足とそなたの目があれば森など怱ちに抜けられよう」
「ええ。わかってるわ」
古き英霊と幼き魔術師は力をあわせる。ふたりでひとつの魔道生命であるかのように。
「…しっかり掴まっておれよ」
殺那、巨大な影が森を駆けた。
(おわり)