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カスミとスミカ

 少女が海を見ていた。
 爽やかな、まだ少し冷たい風が渡っていた。それは少女の長い、ツインテールの髪をなでていたが、その心地よい冷たさすらも少女には心地よさげだった。
「……」
 公園には誰もいない。どこかからの木々のざわめきの他には、なにもない。
 さんざめく町の喧騒も、今ははるか遠い。
 海の向こうにも町がある。しかしそれは、反射する太陽の光ほどもはっきりとはしていない。
 そして暖かく、冷たく吹きつづける風。
「……」
 そんな、なんでもない風景を少女『社霞(やしろかすみ)』は見ている。ちょっと遠い目をして。
 ──そう。そんな風景が実は、とてもとても大切なものであるかのように。
「かすみちゃーん!」
「!」
 女性の呼び声がし、霞は振り向いた。長い銀髪が少し遅れて揺れる。
「かすみちゃーん!」
「……」
 遠くから駆けてくる女性の姿に、霞はクスッと笑った。
 ──そんな大急ぎでくる必要も、叫ぶ必要もここにはないのに。

 学園を卒業してもう何年にもなるが、霞と純夏は今も仲良し以上だった。大学でも同じ道に進み、その姿は時として純夏の婚約者である白銀武すらも嫉妬させたと言われている。
『同じ紙の表と裏』──巷の下馬評である。
 霞は飛び級の特待生である。留学生であるが、本人の強い希望でこのまま日本に住み続けることも確定している。だがその理由というのがちょっと奇妙だった。
 いわく、「この国にはわたしの大切なひとたちがいるんです。それは研究のためにもなります」と。
 周囲は当初、彼女の言葉の意味がわからなかった。だがそのうち、彼女と誰よりも親しい友人が同じ研究室に入ってくるに至り、周囲は「あぁ」と納得したのだった。
 つまり彼女が日本在住にこだわったのは、彼女自身で育てあげた有能なスタッフがいるからなのだと。彼女は、その者が自分の元に追い付いてくるのを待っていたのだと彼らは考えた。
 それは、その後の彼らの活躍を思えばある意味正解と言えたかもしれない。もっとも、もちろん彼らの事実全てを言い当てたわけではなかったのだが。
「いいけどさ、うちの両親なんかいまだに首ひねってるよ。飛び級の特待生と三人で研究室に入るなんて私とタケルちゃんにできるわけないって。ひどいよもう!」
「ふふっ」
 喫茶店でぼやく純夏の仏頂面をみつつ、霞は目を細めて微笑んだ。
「まぁ学園時代よりはマシだけどね。あの頃なんてさ、わたしもタケルちゃんの成績がいきなりあがった時なんてふたりで不正したなんて言い出すんだよ〜?実際は霞ちゃんにふたりして勉強教えてもらってただけなのに」
「そうですね。おふたりはただ『やればできる』を実証しただけですが」
 そういって霞はオレンジジュースのストローに口をつけた。
「純夏さんもタケルさんも必要な能力は持っていました。本来持っている能力を使わせるだけなんだから楽なものです。なにしろ、自覚してもらえばそれだけでいいんですから」
「そうだよね。あの頃霞ちゃん、いやに明確に断言したもんね。ふたりいっしょに白陵大入るなんて簡単だって。わたしたちは元々そのくらいできるって」
「はい」
「まさかあの時は、本当にタケルちゃんとふたりしてここまでくるなんて夢にも思わなかったけどね」
 くすくすと純夏が笑う。それに霞も微笑んで返した。
「それはわたしも同意見です。能力面ではともかく、まさかタケルさんがわたしの研究分野にまで興味をもってくださるなんて。それに純夏さんも」
「いや、わたしは単にタケルちゃんにくっついてきただけだからね。
 それよりも凄いのはタケルちゃんだよぉ。霞ちゃんのレポート読んでて、これ面白ぇ、オレもやりてぇなんて言い出すんだもの。びっくりしたよもぉ。あれ、白陵入るって言い出した時よりひどいよ。ほんっと、大変だったんだから」
「ふふ。でも、その『大変』で本当にここまで来ちゃったおふたりは凄いですよ」
「……そうかも」
 照れたような顔の純夏。霞はそれを見て、楽しそうにくすくす笑うのだった。
「それにしても」
「はい?」
「霞ちゃんって、あの頃どうしてああも断言してたの?タケルちゃんもわたしもやればできるって。
 言っちゃなんだけど、タケルちゃんはともかくわたしはお馬鹿さんだよ?まぁ今はあの頃より少しはおりこうさんかもしれないけど、それはあくまで結果だよ。
 あの頃のわたしを見て、どうして霞ちゃんはああも断言できたのかな?」
「……そう改めて聞かれても返答に困りますけど」
 霞は一瞬だけ言葉につまったが、よどみなくそう答えた。
「まぁあえて言えば単なる観察の結果です。
 それに、タケルさんが『やればできる』のは純夏さんもご存知でしたよね?」
「そりゃあね。タケルちゃんはなんでもできる。やらないだけだよ」
「はい。で、私はその純夏さんがタケルさんと同等かそれ以上だとわかっていた。それだけです」
「……」
 明快に言いきられ、困ったように苦笑する純夏。にっこりと笑う霞。
 窓辺に暖かい陽光。
 ふたりは一種、不思議な空気をまとわりつかせていた。

「……やっぱり、ちょっと気になるかな」
「はい?」
 喫茶店を出てふたりは歩いていた。
「その話もっと聞きたいな。霞ちゃんがよければだけど」
「……」
 霞は首をすくめ、春用コートの襟をたてた。
「ねえ霞ちゃん」
「……」
 純夏は霞の前に回った。
「霞ちゃんは、わたしやタケルちゃんを苦しめたくない、困らせたくないんだよね?」
「……え?」
 霞の表情が驚きに変わった。
「……あの、どうしてそう思うんですか?」
「わたし、ずっとひっかかってたことがあるんだけど」
 純夏はにっこりと笑った。
「霞ちゃんが転校してきたあの日……タケルちゃんを見た顔。泣きながらわたしにありがとうって言ったこと。あれはそういう事なんでしょ?」
「……」
「何度かうちにお泊まりにきた時には困った顔して教えてくれなかったけど、やっぱりそれって、そういうことなんだよね?」
「……」
 困ったように霞は顔をそむけた。
 だが、純夏は執拗に霞の前に回り込んだ。反対側に向き直っても追いかけてきた。にこにこ笑顔のまま。
 困り果てた霞は、やめてくださいと怒った顔で言おうとしたのだが、
「!?」
 純夏の顔がその瞬間、悲しげに歪んだ。
「……あ、あの……純夏さん?」
「かなしいこと、あったんだよね?」
「!」
 霞の驚き顔が歪んだ。
「つらいこと、いっぱいあったんだよね?」
「……」
 霞は反応できなかった。
 動けないでいる霞を、純夏の身体がコートごと包み込んだ。
「ごめんね霞ちゃん。わたしもタケルちゃんも、何もわからなくて」
「……!」
 純夏の腕の中で、霞の目から涙がこぼれた。
「お願いだから話して。少しでもいい、その荷物をわたしにもちょうだい」
「……すみかさん」
「つらいならタケルちゃんには内緒でいい。だけどわたしには話してほしいの」
「……」
 純夏の右手が霞の頬に触れた。
 霞は純夏より小さい。だから、霞は至近距離で純夏をみあげる形になった。
「──私もはっきりと『覚えてる』わけじゃないんです」
「うん」
「それに、言っても信じてくれないと思います。それほどまでに荒唐無稽な内容なんです」
「……でも、霞ちゃんには事実なんでしょ?」
「……」
 霞は、ちいさく頷いた。
「あのね霞ちゃん」
 小さな霞に頬ずりするように、純夏は抱き締めなおした。
「私、どうしてか霞ちゃんのことは信じられると思う。
 タケルちゃんはよく私を、すぐにひとを信じるお人好しのおバカっていうけど、私って本当はそんな素直な子じゃないんだよ。誰でも信じるわけじゃないし、誰にでも心を開いてるわけじゃない。タケルちゃんは唯一の例外ってだけ。
 だけど」
「……だけど、なんですか?」
 ぼそ、と霞は不安気に言う。くすっと純夏は笑う。
「だけど、霞ちゃんは違う。
 私にもよくわからないけど、霞ちゃんは特別なんだよ。好きとか嫌いとかそういうのじゃなくて……う〜んなんていうか……そう」
 うん、と自分で確認するように純夏は頷いた。
「半身、かな」
「!」
 霞の目が丸くなった。
「んー、自分でもわけわかんない。でもこれだけは確かだよ。
 変なひとって思われるかもしけないけど、私にはね、霞ちゃんがまるでもうひとりの私のように思えるんだよ。友達でもない、もちろん家族の誰かでもない。もっともっと近い存在。心の一部とかどこかを共有してて、それゆえにふたりでひとり、みたいな。
 実際、似たようなこと前にタケルちゃんも言ってたもの。はじめて霞ちゃんを見た時、何か凄く懐かしかったって。自分は確かにこの子を知ってて、ものすごく親しい存在みたいな気がしてならなかったって。
 まぁ私はそれ聞いた時、タケルちゃんがとうとう妄想の果てにイケナイ世界(ロリコン)に片足突っ込んじゃったのかと思ったんだけどさ」
「……」
 霞は一瞬、怒っていいのか笑っていいのかわからない、という顔をした。
 そして意を決したように純夏の顔を見た。
「……きっと純夏さんは信じてくれないと思います。それに何より、厳密にはそれは『私』の想い出じゃないって香月先生もおっしゃっておられましたし」
「香月先生が?」
「はい」
 霞の手も純夏の頬に伸びた。
「だけど……それはほんとうのこと。つらいこと、かなしいこと、さびしいこと。そして、とてもあたたかかったこと」
「……」
 霞を抱く純夏の手に少し力がこもった。
 一瞬だけ霞はピクッと反応したが、やがてそのまま純夏の腕の中で大人しくなった。
「大丈夫」
 霞の耳に純夏の声が響く。
「霞ちゃんはタケルちゃんの次によくわかる。だから心配いらないよ」
「……わかりました」
 ふたりはいつのまにか、両手でしっかりと抱き合い、そして見つめあっていた。そんな二人のまわりをゆっくりと、時間だけが流れていた。
 
 その小さな事件を目撃した人々の口から「かすみとすみかの爛れた関係疑惑」が本格的に流れはじめることになった。
 だがそれは、本稿とはまた別のお話である。
 
(おわり)



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