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やりなおし

 わたしが学んだこと。とても大切なこと。
 世界は綺麗(きれい)だということ。それがたとえ悲しみに満ちていたとしても。
  
 静かな秋の日だった。
 傾いた太陽の光が、もうすぐ冬が近付いている事を知らせていた。吐く息はまだ白くもなんともなかったけど、山から降りてくる冷たい風が気温以上に体感温度を下げていた。
 この町に戻ってきたのは、何年ぶりだろう。
 もう一度戻る事になるなんて思わなかった。悲しくて寂しかった思い出ばかりのこの町。たったひとつ、待ち続けた唯一の希望すら潰えた町。
 時の流れは止まらなくて。両親がもう戻らない事を思い知らされて。
 そして折角(せっかく)再会できたたったひとりの大切な友達も、わたしの事を忘れてて……いつしか現れなくなって。
 だけどわたしは、戻ってきた。ある目的のために。
 
 きっかけは、ささいなことだった。
 町を出たところでわたしの暮らしは大きく変わらなかった。やっぱり本の山の中。勉強が研究になってもそれ以外の変化はない。天才科学者の忘れ形見が鳴り物いりで戻ってきた。それ以上でもそれ以下でもない。それは中学や高校時代のそれと全く何も変わる事はなかった。
 そんなある日のことだった。
 ふとしたことからネットで調べ物をしていたわたしは、ある記事を見たのだ。
 それは小さな記事だった。小さな町、あの懐かしい町に新しくできた小さな幼稚園で行われた小さな劇。その特集を組んだ地方新聞のクリップだった。
『おかざき、うしお』
 岡崎なんて名字はどこにでもある。けど、その名前と写りのよくない地方新聞のほのぼのした写真の中のその女の子は、わたしのどこかを小さくつついた。わたしにはその子がどこか、泣きたいのをむりやり笑顔にしているようにしか見えなかったのだ。
 それは、わたしには正視できなかった。きっとかつてのわたしも…いや、もしかしたら今のわたしも同じような顔をしてるんじゃないかと思えたから。
 わたしは悩んだ末、かつて後見人をしてくれていたあのひとに連絡をとった。
 
 町はすっかり変わっていた。
 空き地だった場所には建物が並び、なかったはずの病院が立っていた。他にもさまざまなものが増え、かつての町の姿がみるみる消えていこうとしていた。
 けれど、わたしは悲しいとは思わなかった。
 この町にはいい思い出もあった。けれどそれは遠い歳月の彼方。わたしにはもはや縁のないものだった。本屋さんや図書館しか目に入ってなかった当時のわたしもやはりそうだったんだろう。美しい言葉はたくさんあるけれど、世界はそんなに綺麗なものじゃない。
(ことみ。世界は美しい)
 お父さんの言葉は今もわたしには理解できない。
 いつだったか、大学でわたしに言い寄ってきた男性がいた。関心がなかったからそのまま本を読んでいたら怒ってわたしの本をとりあげた。こわくて泣きそうになったけど、泣いても誰も助けてはくれまい。だから警備員を呼んだ。
 そんなことを何度か繰り返したら、誰もよりつかなくなった。
 わたしは朋也くん以外の男の子なんて知らないけど、本での知識ならわかる。大人になった男の子は「男」になる。そしてわたしは「女」。動物で言えばオスとメス。その意味くらいは知ってるし、友達というわけでもないのにしぶとく言い寄ってくる男が何を求めているかくらいはわかる。彼らはわたしを交尾の対象として欲しているんだろう。
 ひどく不愉快だった。
 あの日々からわたしは結局変わってない。両親を待ち続ける事をやめた代わりにその航跡を追いかけている。それが今のわたし。結局、根底の部分では朋也くんを待ち続けていた日々から何も、何ひとつ変わっているわけではないのだ。
 あのひとに教わった地図を見て、その場所を目指した。
「……」
 古河パン。田舎の小さなパン屋さん。
 ここにははじめて来る。このあたりは住宅街で、お店はこれだけ。こんな場所に昔のわたしはよりつく事はなかった。
 さて、どうしたものか。
 わたしは、人づきあいの経験というものが根本的に欠如している。東西の本の山に埋もれ知識だけは重ねてきたわたしだけど、こういう実戦的知識となるとさっぱりだ。この夕刻、もはや焼きたてでもないだろうにいい匂いのするパン屋さんの前で立ち止まっている。
 なんとも情けない。こんなのが「わが国期待の若き理論物理学者」。我ながら何か間違っているような気がしてしまうのは決して気のせいではあるまい。
「あのー」
「!」
 背後から小さな女の子の声が聞こえて、わたしはピクリと反応してしまう。
「……おきゃくさまですか?」
 振り返ると、それがあの写真にあった『岡崎汐』ちゃんであるとすぐわかった。
 わたしはしゃがみ、女の子の顔を見た。
「……」
「…?」
 あぁ。わかる。
 確かにこの子は朋也くんの子供だった。確認するまでもなくわたしにもわかってしまった。なんとも非論理的だけどかまうまい。
 とりあえず、あいさつする事にした。
「はじめまして」
「……はじめまして」
 一瞬とまどったようだけど、きちんとあいさつしてくれた。
「ことみ。一ノ瀬ことみ。ひらがなみっつでことみ。呼ぶときはことみちゃん」
 続いて自分の名前を告げてみた。
「……ことみちゃん」
「うん」
 学会やなんかではもちろん、学者さんのように挨拶している…つもり。
 でもそれは(かしこ)まった挨拶だろう。それに朋也くんの子供なら、朋也くんにしたのと同じように挨拶したい。そう思った。
「……うしお。おかざきうしお。かんじで『汐』」
 汐ちゃんはそう言って、不思議そうな顔でわたしを見ていた。
 
 調べてもらった結果は、わたしの予想をはるかに上回るひどいものだった。
 朋也くんのお母さんは朋也くんを生んで亡くなっていた。朋也くんはお父さんひとりに育てられた。そのお父さんも身を持ちくずし、わたしと再会した高校時代の頃にはまるで同居する他人同士のような醒めた関係になっていたらしい。朋也くんはバスケへの夢も絶たれ、荒れた暮らしをしていたようだ。
 知らなかった。わたしはあまりにも、何も知らなかった。お母さんが亡くなっている事は出会った頃の朋也くんとの会話で知ってたけど、まさかこんな状況下にあるなんてまるっきり想像もできていなかった。情けないことだ。
 わたしは貰った調査結果の分厚い冊子をひたすら読み続けた。
 
「そうか。あんた、小僧のおさななじみかい」
 古河秋生さん。渚さんの父にして朋也くんの義父にあたるひとだった。信じられないくらい若いけど。
「さすがは朋也さんですね。こんなお友達の方もおられたなんて」
 こちらは早苗さん。お祖母様と言うにはあまりにも若すぎる。夫婦揃って仙人か何かだろうか?若作りなんていうレベルではない。専門外だけど興味をそそられる。
「女ばかりなのは気に入らんけどな。あの馬鹿、どういう人生送ってやがったんだか」
「あたりまえですよ。渚を選び、渚が選んだ朋也さんですもの。それだけ魅力的ということです」
「あの小僧がなあ。うーん」
 ふたりは朋也くんをとても心配しているようだった。
 秋生さんは昔のわたしなら間違いなく近付かないタイプのひとだった。いぢめるひとだからだ。声をかけられた時は思わずまわれ右して逃げ出しそうになった。
 けどわたしは踏み止まった。そうせざるをえなかったから。そしてそれは結果として正しかった。
 話してみると、この秋生さんは朋也くんと似ているのがわかった。ぶっきらぼうで乱暴者だけど、とても優しいひとなのだ。
 泣きそうになったわたしと困り果てた秋生さん。わたしたちを家に呼び込んでくれたのが早苗さんという図式だ。ちなみに汐ちゃんは奥の部屋で遊んでいる。
「ごめんなさい。そんなことより今は朋也くんの現状を知りたいの」
 その言葉に秋生さんは苦い顔をした。
「ここに来たという事はある程度の事は知ってるんだろ?」
「はい」
「ひどいことを言うようだがやめとけ。今のあいつは……あんたにとってあいつがどういう存在なのかはわからねえが、きっとつらい目にあうぞ」
「……」
 秋生さんの目がわたしの目を見据(みす)えた。
「それでも、わたしは行かなくちゃ」
「……」
「たとえ朋也くんが忘れていたとしても、朋也くんはわたしの大切なお友達なの。
 たとえ朋也くんがわたしの知らないひとになっていたとしても、わたしは会わなくちゃいけないの。
 それは朋也くんのためじゃない。わたしのためなの」
 そう。これは朋也くんのためじゃない。わたしのためだ。
 わたしには友達がいない。ずっと引き篭ったままだったわたしは結局、たまたま偶然でお庭に迷いこんできた朋也くん以外、誰もお友達なんてできなかった。
 あたりまえだ。出会う機会もなく自分から話そうともせず、それでどうして友達が作れるというのか。
 朋也くんがどういう状態にあるかも知らず、ただ朋也くんがくる事だけを待ち続け最後には泣いたわたし。今考えたらただの馬鹿だ。あたりまえではないか。わたしにわたしの事情があったように朋也くんにも朋也くんの事情があった。それだけのことなのだ。
 あまりにも分が悪い賭けかもしれない。手持ちの札もゼロに近い。ギャンブルというのをわたしはやった事がないけど、こんな低確率の賭けにわざわざ載る馬鹿なんてわたしくらいのものかもしれない。
 だけどわたしは退けない。
「……そうかよ」
 秋生さんと早苗さんは結局、いくつかの事を教えてくれた。
 
 古河渚。朋也くんの選んだ女の子。
 高校時代の最後、朋也くんは古河パンに事実上居候していたといっていい。縁が切れたも同然のお父さんのいる家には全くよりつかず、古河の家に住み着き、時には店番をしたりしながら病弱な渚さんの相手をして過ごしていたらしい。そして高校を出てほどなく朋也くんは働きはじめ、渚さんとふたりで暮らしはじめた。
 だけど、悲劇は続く。
 やがて朋也くんの子を身籠った渚さん。だけど彼女は倒れてしまった。命をとるか子供をとるかの選択をする事になり、
 そして渚さんは亡くなってしまった。小さく大切な命、汐ちゃんとひきかえに。
 報告書の最後は朋也くんの育児放棄、そして、すさんだ今の暮らしの事で締められている。
 子供を得た事のないわたしには渚さんの気持ちはわからないと思う。けれどわたしも女だ。同じ立場におかれたらどうしたろう。朋也くんと自分の愛の結晶である子供を殺すことができたかどうか疑わしい。やはり命をかけて生もうとしたかもしれない。母として。
 そして朋也くんの気持ちは少しだけわかる。突然の事故と長い時間の果てという違いはあれ、大切な存在をなくしてしまったという事実は同じだから。現実を受け入れられず、長い間来るはずもない朋也くんを待ち続けた。つまりそれは逃げなのだけど、そうした部分も同じだからだ。
 ならば、わたしが動こう。
 朋也くんはわたしの事を覚えちゃいないだろう。だけど朋也くんが朋也くんのままであるならば、わたしにもまだ手は残されていると思う。
 いや、手がなくともわたしはそうしたい。そうしなければならない。

 わたしは朋也くんの目にどう写っていたのだろう?良きにつけ悪きにつけ、きっと個性的な存在ではあったのだと思う。
 古河パンで無理を言ってお弁当を作らせてもらった。わたしと朋也くんの間をつなぐ方法なんて知らない。ただわたしは、わたしの知るこの方法しか思い付かなかった。それだけだ。
 買ってきた専門書を手にとる。あの頃と同じ。違うのはもう夕方であること、そしてここが図書館でもあの懐かしい家でもなく、朋也くんが住んでいるアパートの入口であるということ。
 そして……手元には一冊だけ古ぼけた物語の本がある。
 あたりまえだけど、怪訝そうな顔をする住民の方々。しまいには大家さんまでやってきた。けど、朋也くんのお友達なのと言うと少し黙りこみ…そして考えた末、何かあったらお部屋にいらっしゃいとまで言ってくれた。心配してくれているのがよくわかった。
 ありがとう。それだけ言った。
 しばらく時間が過ぎた。
 かつん、かつんと登ってくる足音が朋也くんだと気づいたのはなぜだろう。もう子供でもない。高校生でもない。ある意味、おじさんと言えなくもない歳になった朋也くん。わたしも決して若くはない。お母さんになってもおかしくない歳だ。
「……はぁ?」
 朋也くんの第一声はそれだった。
 汚れた作業服を着ていた。片手にはコンビニエンスストアの袋。晩ごはんのお弁当だろう。あたためられた匂いがつんと鼻をつく。
 ずいぶん老けてしまった、朋也くん。……朋也くん?
「???」
「いや、はてな三つ並べられても困る。てーかおまえ誰だ?わけわかんねえのはこっちなんだが?」
 それはそうだ。わたしを覚えてないのなら単なる変なひとだろう。
 だからわたしは自己紹介からはじめた。
「はじめまして」
「……」
「ことみ。一ノ瀬ことみ。ひらがなみっつでことみ。呼ぶときはことみちゃん」
「……」
 朋也くんはしばらく、狐にでもつままれたかのような顔をしていた。しばらく何かを思い出そうとするかのように考え込み……
「……なんで?」
 どうやら思い出したらしい。
「おなかすいたの?」
「いや、おなかすいたかっておまえ……」
 とりあえずわたしはお弁当を出した。あの頃のように。
「ま、まてまてまて、ちょっと待て!ひとんちの玄関で何やってんだおまえっ!」
「食べる?」
「おまえ、あいかわらずひとの話聞いてねえのな全然」
 呆れたように肩をすくめた朋也くん。
「しょうがないな。ちょっとどけ。中片付けるから中で食おう」
 どうやら諦めたらしい。だけど
「中はだめ」
「?」
 来客であるわたしが中に入ることを拒否するとは思わなかったんだろう。今度こそ朋也くん、不思議そうな顔をしてる。
 だけど、わたしは思う。
 現実を受け入れない朋也くんはあの頃のわたしと同じ。唯一の違いといえば、わたしにとって朋也くんは両親と同じだった。つまり家の中に入ってきても一向にかまわない存在。
 だけど、今の朋也くんにとってわたしはそうじゃないだろう。だとしたら、うかつに入るわけにはいかない。
 家の中というのはそういうものだと思う。来客を拒むわけじゃないけど、それは自分と、自分が最も大切にしているひとが第一の空間なのだと。本来のいちばんである渚さんを今も待ち続ける朋也くんの部屋に、今のわたしが入るわけにはいかない。
「……」
 朋也くんはためいきをついた。わたしの意図がわかったとは思えないけど、だけど優しい微笑みを浮かべた。
「ったく。何が面白くてこんなとこまでやってきたのか知らねえけど」
「……」
「ああ、わかったわかった。だけど茶くらい入れさせろ。ついでにドアの中くらいには頼むから入れ。まだそれほどじゃないけど風邪ひくぞ馬鹿」
「……」
 わたしは黙って頷いた。
 
 そうして、わたしの時間はゆるりと動きはじめた。
 潤沢ではなかったけどお金はまだあった。だから近くにアパートを借りた。大学はとりあえず休学にした。といっても既に学生ではないので正しくは休学ではない。そして皆の強い要望で、こちらに居ながらでもある程度の仕事はできるようにとパソコンが送られてきた。
 それはかつての両親の暮らしと大差なかった。結局形は違えど、両親の愛したこの町に、両親と同じようにして戻ってきたわけだ。
 そしてわたしは夕刻になると必ず、朋也くんの部屋の前にいた。
 秋生さん早苗さん、汐ちゃんの他にも知合いができた。同じアパートの住人さん。公子さんと風子ちゃん。朋也くんを心配して現れた何人かの人々。毎日のようにアパートの前に座るわたしにいろいろ話をしてくれた。
 だけど皆、朋也くんが戻る時間になると帰っていった。
 
 そして、半年ほど過ぎた。
 
「よう、ことみ」
「おかえりなさい」
 その日、はじめて朋也くんはわたしに笑顔を見せた。
 それはあの頃とは違う、憂いに満ちた笑顔ではあった。でも呆れ顔でもなんでもない、本当に心からの笑顔だった。
「なあことみ、中で食おうぜ」
「………いいの?」
 しばし悩んで答えたわたしに、朋也くんはこんな事を言ってきた。
「……ったく、本当にタイムマシンに乗ってきやがるなんてな。俺は呆れたぞ」
「!」
 期待してもいなかった言葉に、わたしは思わず顔をあげた。
「……仕方ないの。ここはわたしのお気に入りの時空座標だから」
 あの頃と重なり、そしてあの頃とは違うやりとり。
「わたしもあなたもいろいろあったの。ここにはあなたしかいないし鹿もいないの。だけどやっぱり、わたしはここに居たかったの」
「おまえ大学はどうしたんだよ。……ていうかもう学生って歳じゃないか」
「今は研究員なの。お父様とお母様の跡をついだの。いくつかの仕事はここじゃできないけど、ある程度はパソコンがあれば事足りるの」
「そっか」
 朋也くんはためいきをついた。
 すっかり朋也くんは以前の朋也くんに戻っていた。何年かの歳月は老いを感じさせたけど、やっぱりそれはかつての朋也くんで…
「なぁことみ」
 朋也くんの言葉を待たず、わたしは立ち上がった。
「朋也くん、いこ」
「え?」
 怪訝そうな顔をした朋也くんは、じっとわたしを見た。
「いいから」
 問答無用で急かした。
 
 古河パンが近付くにつれ、朋也くんは明らかに逃げ腰になっていた。
「お、おいことみ」
「くるの」
 わたしは有無をいわさず、朋也くんをずるずると引っ張っていた。
「ごはんは家族でおいしく食べるものなの。だから朋也くんには、はんぶんこする相手がちゃんといるの」
 そう。それはわたしじゃなくて汐ちゃん。あなたの娘。
「いや、でも俺は」
 育児放棄のことを言いたいんだろう。それにずっと娘を拒絶していたんだから、いまさら娘にあわせる顔がないという事も。
「そんなの『ただいま』でいいの」
「はぁ?てーかワケわかんねえよ!ことみ、おまえいったい」
 困り果てている朋也くんを無視してわたしは言う。
「こんにちは、汐ちゃん」
「!」
「……こ、こんにちは、ことみちゃん」
 そこには、汐ちゃんが立っていた。
 たぶん秋生さんと遊んでいたんだろう。わたしの姿を見てやってきて、朋也くんをみつけてびっくり。そんな感じの顔だった。
 そしてわたしは朋也くんを前に出す。
「お、おい」
「ただいまなの。朋也くん」
「……」
 わたしをみつめ、汐ちゃんをみつめた朋也くん。しばし悩んだ末、
「ただいま、汐」
 そう言った。とても優しい、少しばかり緊張を含んだ声で。
 汐ちゃんは目を丸くしていた。たぶんだけど、朋也くんに優しい言葉をかけてもらった事なんてないんじゃないだろうか。信じられないという顔で朋也くんを見ていた。
 だけどその顔はだんだん歪んできた。
「お、おい」
 とまどうような朋也くんの声。だけど歪みは止まらず、とうとう涙にあふれて
「パパぁっ!!!」
 そう叫んで朋也くんの胸に飛び込んだ。
 朋也くんは困ったような、泣きそうな顔をしていた。いや泣いていた。しがみつく汐ちゃんのぬくもりを確かめるようにゆっくりと抱きしめ、ごめん、ごめんなと小さな声で繰り返していた。
 ちくり、と胸が痛んだ。
 これで肩の荷が降りたと思った。これで朋也くんは立ち直る。汐ちゃんがあんな悲しい笑顔をする必要もない。全てはこれからなんだと。
 わたしは、ひとりに戻ったみたいだけど……でも、これでいい。
 わたしは踵を返した。アパートに帰ってごはんを食べようと思った。寂しいけど、以前ほどは辛くはない。そんな気がしたから。
 そんな…気がしたから。
 
「こら待て、仕掛け人」
 いきなり肩を掴まれた。秋生さんだった。
「てめーが帰ってどうすんだ。来るんだよ」
「え…でも」
 わたしは古河でも岡崎でもない。よその家族の中には入れない。入っちゃいけない。
「半年粘って天の岩戸を開けちまった果報もんはおまえだろ。黙って小僧の隣に座りやがれ」
「で、でも」
 焦った。どう答えればいいのかわからなかった。
「俺たちが何も知らなかったとでも思ってやがるのか?おまえが半年通い続けた事くらい小僧の関係者ならひとり残らず知ってんだよ。
 後のことは知らん。おまえたちふたり、いや三人で話し合って決めればいい。だが今はその報酬を黙って受け取れ。俺たちすらできなかった事をおまえはやっちまったんだからな」
「……」
 ああ、なるほどと思った。自分でもよくわからなかったが。
「はい」
 だからわたしは、そう答えた。
 夕日が綺麗だった。世界は赤系を基調にしたグラデーションに変わりつつあった。
 古河パンの前。向こうの公園に長く伸びる影。子供たちがひとり、またひとりと去っていく。
 遅すぎた親子のはじまりが、そこにあった。
 
 わたしが学んだこと。とても大切なこと。
 世界は綺麗だということ。それがたとえ悲しみに満ちていたとしても。
 この先どうなるかなんてわからない。朋也くんが今更わたしを選んでくれる、なんて虫のいいことを考えているわけでもない。わたしとしてはそうなってくれたら嬉しいけど、世の中そううまくいくとは限らない。だいいちわたしは朋也くんが最も輝いていた時代も最も苦しんでいた時代も知らない。わたしはわたしの世界に埋没し、世界がこんな綺麗なものである事すら知らずにいたのだから。
 
 だけど今だけは…夢を見させてもらおう。
 ことみちゃんと朋也くん、ふたりの長い長い道が再び交わる…そんなたわいもない、遠い夢を。

(おわり)



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