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ひとり

 金魚鉢のイメージ。
 狭い空間。牢獄のように狭く、酸素も何もかもが足りない世界。かわいい、きれいと人は覗き込むけど、入れられたものにとってそこは牢獄。やがて飽きられ餓死させられるまで飼い殺される牢獄。入れられたら最後、死ぬまで二度と出られない場所。
 あたしは金魚。不格好でみじめで、金魚鉢の中でパクパクもがくだけの醜い生き物。
 いつから、こんな事になったんだろう?もうそれすらもわからない。
「……」
 授業中。壇上でゆったりした声で教科書の中身が読み上げられる。つらつらと文字や記号が書き連ねられる。かさかさという音があちこちから聞こえる。
 学校生活で一番落ち着くのはこの時間だ。
 こうしていれば普通に生徒でいられる。無視される事もなければ罵倒もない。誹謗も中傷も、妬みもそしりもない。ただ純粋に手を動かす、ただそれだけでいい。
 ただひとつ、いつもは背後から時々きつい視線がくるのだけど無視。今日そこには誰も居ない。
 左を見ると窓の外。空はただ青い。
 机を見る。うっすらと消え残っている誰かの落書き。『売女(ばいた)』と書いてある。
「……」
 ぽかぽかと優しい日差し。
 ひだまりの猫になった気がした。
 
 授業その他が終わると、あたしはすぐに荷物をまとめ席を辞す。
 あの団体以外に所属部なんかない。友達も誰もいない。元はこれでも少しはいたんだけど、あれに関わってしまった途端皆一斉に消えてしまった。まぁ当然。誰だっていくらイケメンの花園だろうが泥沼の矢面に立ちたいわけがない。他ならぬあたしだって本当はそうだった。
 さて、愚痴はそれくらいにして。
 あいつが居ない以上今日は集まりもないわけで、あそこに行く必要は本来ない。
 だけど、あたしの足はあそこに吸い寄せられていく。
 ドアを開けた。
「やっほー、キョンちゃん!」
 真っ先に出迎えたのは古泉イツキ。一姫と書くけどカタカナでイツキとしか書かない。だろうね、いくらなんでも姫はないよ姫は。友達はみんなイツキかイッちゃんと言うらしい。
 ぐわば、といきなりハグろうとするイツキをあたしはスルー。華麗にと付かないのはシャレになんないから。この娘はいろんな意味でやばい。
「それキョンちゃんに言われたくないなぁ。イツキさん、キョンちゃんを助けてあげたいのにー」
「ん、ありがとう、ご厚意だけは本当ありがたくうけとっとくね」
「あらら冷たい」
 実際彼女の言葉は嘘じゃない。助けてくれるというのは冗談でもなんでもなく本気だったりする。あたしのお礼もわりとマジ。
 ただし彼女の助けるとは、あたしと彼を引き離して事態を改善するという意味でもある。
 だからご厚意だけで充分。
「もう、だから強引はダメですって古泉さん。あ、お茶ちょっと待ってくださいね」
 にこにこと今日も執事兼ウエイターしているのは朝比奈先輩。ショタ全開のちょー美少年、でもお約束でアレがでかいとはあいつの弁。あぶねーやつらだ、いつ見たんだろ。
 とりあえず、腐ってないあたしはそっちの世界にゃ興味がない。いやちょっとイジられる朝比奈先輩カッコ当然受けですカッコとじというのは正直ソソル部分もあったりしちゃいますが、あたしはそれ以前にアレでソレでアレレな日常抱えちゃってるわけだし。
 とりあえず周囲を見渡したあたしは、言うべき事をまず言う。
「あ、ごめんなさい朝比奈先輩。今日は帰ります」
 あいつだけでなく彼もいない。それではここにいる意味もないだろう。
 だけど朝比奈先輩は少しだけ困った顔をして、こう言い出した。
「ねえキョンちゃん、たまには長門くんだけじゃなくて僕らともお話しない?」
「そうそう、ね、ね?別にとって食べやしないから。ね?」
「……イツキ、少なくともあんた限定で言えば今の言葉は説得力ないよ」
「えー、女の子なんだからハグくらいいいじゃない」
「普通はそうだね。けどいくらあたしが鈍くても下心のあるハグくらい気づきますから。てーか近寄んな変態」
 ほんと性感帯ばかり狙って刺激してくるし。露骨すぎるっての。
 うむむ、とイツキは少し唸っていたのだけど、
「ん、じゃあ率直にいこっか。ここにいる陣営の代表のひとりとして。これならお話してくれる?」
「……ほんとに率直だね」
「それだけ重要な議題ってことなの。じゃ、いいね?」
「十分だけなら」
 とりあえずそう答えた。長引くときっと不毛な論争に堕ちてしまうから。
 はぁ。
 
 議論は少しだけ紛糾した。とはいえ最初にあたしが十分と言ったのを忘れてないらしく、ちゃんと十分で切り上げるところはさすがだった。あたしを評価してるわけじゃないのはわかってるけど、とりあえず切り捨てるつもりはないらしい。
「私たちだってひとの恋路は邪魔したくないんだけどね。まぁ、私はキョンちゃんかっさらわれた事についてとっても不満なんだけど、あなた自身が望んでるんだし、そもそも確認されているTFEI端末で最強でオンリーワンとまで言われている長門くんに敵対するなんて考えたくもないし。
 けど危険は危険なのよ。あなただけじゃない、場合によってはこの世界すべてが危険にさらされるのよ?わかってる?」
「……」
 イツキの言う事は確かに正しい。
 実はレズビアンらしい本人の趣向が少しアレなんだけど、でもそういう事はともかく彼女個人は信用に足りる。それに客観的にいってその主張自体にも大変同意だったり。
 だけどね。
「うん、わかってる。わかってるんだけど……」
 ひとの気持ちは計算ずくじゃ動かない。決まってしまったあたしの心は、もうあたし自身にだって動かせない。
「……はぁ」
 あたしが困っていると、なぜかイツキが困ったようなためいきをつく。
「そんなアンニュイな顔して悩まれるとイツキさん困っちゃうんだけどなぁ。くぅぅぅ、ねね、やっぱり私と」
()です」
 ががーん、という表情を顔に張り付けて悶えるイツキ。うう、本人には悪いけどちょっとキモい。
「ちょっといいかな」
 今度は朝比奈先輩。
 近くでよく見てもやっぱりショタ風味。とてもじゃないが『先輩』には見えないカワイイ系美少年。
 だけど自称『時をかける少女ならぬ少年』が本物なのはあたしも知ってるし、可愛い顔に似合わない深い思索といい、外見で歳を判断しちゃいけないと思う。ハルヒコにおもちゃにされている姿はちょっと、いやかなりアレだけど。
 おっと、萌えてる場合じゃない。朝比奈先輩もまじめな話みたい。
「本当は僕もこんな事言いたくないんだけど、最近本当に危険な状況になってるんだよ。
 あのね、実は最近、未来への接続が恐ろしいほど不安定になってるんだ。しかも古泉さんと意見交換した結果、それが古泉さんたちの言う『閉鎖空間』や『神人』の出現とリンクしている可能性も指摘されてるんだよ」
「……へえ」
 それは初耳。
 ついでに言うと、イツキと朝比奈先輩がそんな話をしている事自体も驚きかも。
 どうやら二人の背後の組織とやらは団結を強めてるみたい。あとで彼にも訊いてみよう。ま、訊いてあたしにどうにかなる問題でもないけど。
「自分が聞いてもどうにもならないって顔だね?」
「!」
 う、油断していて表情を読まれたらしい。朝比奈先輩の顔がいつになく厳しいものになった。
「本当のところを言えば、僕も職務上は古泉さんの意見に賛成ではあるんだ。キョンちゃんが本当に大切にすべき人は他にいて、少なくともそれは長門くんじゃない。これは僕らにとっては史実、もう過ぎた事なんだから間違いない。
 だけど、それは別に今の話じゃなくてもいいと思うんだ。だって今は今、未来は未来だもの。
 ただこれだけは忘れないで欲しいんだ。君にとって涼宮くんは決して軽い存在じゃない。無理に仲良くする必要はないけど今の状況は」
 ばん、と机を叩いた。もちろんあたしの手だ。
 無言であたしは立ち上がった。そして言った。
「いろいろ考えてくださってるのにこんな事言ってすみません、でも言わせてください。
 抽象的にぼかさないではっきり言ったらどうなんですか?これくらい繰り返されたらいくらあたしだってわかりますよ。
 つまり、先輩の知ってる史実とやらでは、あたしとハルヒコがくっついてる。そう言いたいんでしょう?」
「……」
 沈黙もまた答えなり、だ。頭の悪いあたしだってこの程度の知識はあった。
「本当ごめんなさい。でも、この問題はどうにもならないと思います。今さら変えられないし、変えたくもありません」
「で、でもキョンちゃん!僕たちは!」
 その先は無視した。するつもりだった。そのままドアに向かって歩き手をかけた。
 でも……どうしてだろう?振り返らないまま最後にひとこと、あたしは余計な言葉を付け足していた。
「あのですね、朝比奈先輩。
 あたしにはよくわからないけど……こんな、あたしみたいなどうでもいい女ひとりの選択が『世界』の行く末と関わるとか、個人的にはちゃんちゃらおかしいんですけど……でももし、それが世界に影響を与えてしまうっていうんなら」
 そこまで言って、
「それが世界の選択ってやつなんじゃないですか?……だったら滅びちゃえばいいんですよ。いっそ」
「キョンちゃん!」
「それじゃ」
 それだけ言って、あたしは部室を辞した。
 ドアを閉めようとした瞬間、厳しい表情の朝比奈先輩とイツキの顔が見えた。
(……ふうん、そっか)
 その表情は知ってる。かつて何度となく見た顔。
 ずっとお友達だった誰かが、お友達でなくなった瞬間の顔だ。……朝比奈先輩はやっぱり男の子かな、ちょっと複雑そうだけど。
 ドアを閉め、歩き出す。
『○×さん?あの子たちならいないわよ?さぁ知らないわねえ』
『ちょっと、あんた近寄らないでくれる?仲間と思われたらこっちがタダじゃすまないんだからね。あっち行きなさいよ』
『げ、こいつやだー。ちょっと誰か代わってよー』
 懐かしい痛みがふっと蘇る。じくじく、ちくちくと痛みだす。
 下駄箱に汚物を突っ込まれようが、机が見るに耐えない落書きで埋め尽くされようが、ありとあらゆる授業や行事でガン無視されようがそんなものは慣れる。それに最近は『彼』がそれに気づいて何かしたのか、汚物や落書きみたいな取り返しのつかない露骨な奴は激減した、うん。時々机にコンドーム入ってるくらいの可愛いお茶目ばかり。
 けど、時折こうして現れてはあたしの心に重しをかける。
 思えばSOS団入ってすぐの頃は本当、冗談でなくもう終わりかと思ったなぁ。まぁあの頃はハルヒコも今よりはまともで防火壁になってくれたりもしたんだけど、もとよりあいつに頼るのは毒を毒で制するのと変わらない。実際あいつは後日、一番身近な猛毒へと変わり果てていった。
 小さなためいきをひとつ。
 見上げれば、いつのまにか空が夕方に近い。
「ん」
 いいや急ごう。急げば早く安らぎに会えるから。



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