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異界事情(上)

 過呼吸症候群というやつを知っているだろうか?コンサートなんかで倒れる人が出るアレなんだが、要するに極度の緊張が原因で倒れてしまうわけだ。たぶん多くは心因性らしいんだが詳しい事はよくわかっていない。ただ一つ言える事は、臓器選択性といって、極度のストレスで強烈な胃痛や割れるような頭痛を感じる人と同じようなものらしい。呼吸困難に似た症状を起こして倒れるが、症状の派手さに比べてさほど重篤ではないという。
 しかしまぁ、という事はだ。
 俺自身はこれ初体験なわけなんで、ならば本来のこの身体の持ち主である女の俺の問題なんだろう。そうだよな?長門(男)?
「そういう事になる」
 あっさりと長門(男)は認めた。
「だが君はそれを知るべきではないと思う。これはこの世界のSOS団が抱えてしまっている問題と密接な関係があるが、君の世界とは本来関係ない事だから」
「……そっか」
 少し考えた末に俺はそう答えた。
 俺は長門のマンションにいた。ぽつねんと居間のど真ん中に布団が敷かれていて、俺はそこに寝かされていた。
 相変わらず生活感どころか家具もない空っぽの部屋だったが、布団のまわりにだけ不思議と暖かさを感じた。
「……なに?」
「いや、なんでもない」
 この部屋と長門(男)の顔を見た瞬間、俺の中で何かがピクッと動いた。またドキドキが止まらなくなるんじゃないかと一瞬あせったが、それは本当にその一瞬だけだった。
 だがその一瞬だけで充分だった。俺は、この身体の持ち主がこの部屋と長門(男)に対してどういう感情を持っているかが何故か理解できちまった。
 なるほど。そりゃあドキドキするはずだ。当たり前といっちゃ当たり前だろう。
 中に入り込んじまってる俺としちゃキモさ全開の状況なんだが、この場合は俺の方が闖入者であって二人に罪はない。責めるわけにもいくまい。
 しかし、長門(男)とねえ。確かに同性の俺の目で見てもいい男なのは見りゃわかるが、しかしそもそも人間じゃないってあたりは気にならんもんなのかね?
 いかに俺自身とはいえ別人、しかも異性ときている。当たり前だがその真意などわかりようもない。
 正直、事情を聞いてみたい。いったいどういうきっかけがあってこの事態になったのか。
 確かにこれは追求すべきじゃないだろう。よその人間である俺が関わるべきでない問題だ。
 ただ最低限の疑問だけは解消させて欲しいので、そこだけ聞く事にした。
「話はわかった。ただ俺個人的にはこいつが心配だ。似ても似つかない姿だがやっぱり俺なんだろうからな。どうだ、ならば答えられる範囲だけでいいから教えてくれないか?」
「答えられる範囲なら」
 長門(男)が頷いたのを確認すると、俺は率直なところを告げた。
「じゃあまずズバリ確認させてもらう。この身体本来の持ち主とおまえ、個人的に深い関係だろ?違ってたら指摘してくれ」
「……それは答えられない」
 それ認めたのと同じ事だぞ長門(男)。まぁだからこそ困った顔なんだろうが。
 しかし、よりによって両思いかよ。俺は天を仰ぎたい心境だった。
「そういう事なら仕方ないか。いや、おまえの言う通りそれはこの世界の問題だし俺は関わるべきじゃない。だがおまえの顔を見るたびに卒倒してたんじゃ俺も困る」
「それは問題ない、本来の君は対処法を知っているからね。まれに少し休まなくてはならないが」
「そうか」
 なるほど。
 しかし、どう考えてもこれは面倒極まる状態だな。
 立場を元の世界の俺に置き換えてみれば簡単じゃないか。もし俺がハルヒそっちのけで長門か朝比奈さんに本格的に入れあげてしまったら、放置されたハルヒが何を考えるかって事だ。
 最悪な事に俺はその実例をよく知っている。朝比奈さんと楽しく遊んでいた俺を見たハルヒがかつて何をした?
 そうだ、たったそれだけのためにあいつは世界ひとつをまるごと再構築しようとした。実際には俺と朝比奈さんの間には何もなくて、ほんの小さな誤解にすぎなかったにも関わらずだ。
 あれがもし完全無欠に本気だったら?
 もし俺が朝比奈さんか長門に本気で惚れちまっていて、その最悪のタイミングをハルヒに目撃されていたとしたら?
 そう。
 それはもう、再構築なんてレベルじゃすまないかもしれない。
 最近はハルヒだって常識的になってきた。少なくともいきなり世界を再構築、なんて不安定な事はもうないといっていい。
 だけど、男と女という厄介な懸案事項は話が別だ。
 比較的常識的な普通の女だって愛に狂えば車で家に突っ込んだり人をはねたりと凶行に走る。こういう事件は昔から起きていて、江戸を火の海に変えちまった女すらいる。狂った女ほど始末におえないもんはないってのは古今東西を問わず世界の伝統なんだ。
 ましてやハルヒなら……冗談でなく世界そのものと無理心中しちまいかねん。
「なるほど、それでか……つまりその、秘密にしなくちゃという相反する気持ちがピークに達すると倒れちまうと」
「そんなところだ」
 もちろん俺は男だし、いくら長門とはいえ男相手に恋愛する趣味はない。そりゃさすがにまっぴらごめんである。
 だが、この身体本来の持ち主は当たり前だが女で、しかもこの長門(男)とそういう関係。そしてたぶんだが、今こうして話している間も『彼女』は消えているわけじゃないんだろう。俺が認識できないだけで、おそらくは『彼女』もいる。だからこそ俺が本来持たないはずの感情に反応してしまうんだろう。
 試しに長門(男)に尋ねてみたら、少し悩んだ末にそうだと答えた。
「なるほど最悪だな。誰も悪くないだけに……いやむしろ、誰も責められないだけに本気でシャレになってない」
「……」
 長門(男)の表情はあまり変わらない。そのあたりはやっぱり長門らしい。だが、それでも悔しさや悲しさ、切なさがにじみ出ているのもわかる。
 だが、次に続いた長門(男)の言葉にはさすがにムッとした。
「一度、記憶を操作して忘れさせようとしたんだが激怒して拒否された。そんな事したら絶対許さないと言われて……本来その程度の事で任務を放り出してはいけないんだが、俺にはどうしてもできなかった」
「あたりまえだろバカ」
 え?という顔をして俺を見る長門(男)を、俺は腕組みして睨みつけてやった。
「それはおまえが間違ってるぞ長門。俺がその立場だったとしても冗談じゃねえと怒るぞ絶対に」
「だがそれが一番いい。『なかったこと』にしておけば隠し事をする必要もなく、何の問題も起きない。本来の流れの通りに君は涼宮ハルヒと結びつく事になる。……ちなみにこちらでの名前はハルヒではないが」
 いや、ハルヒの名前の事はとりあえずどうでもいいから。
「だから、ふざけんなと言ってんだテメエ」
「……」
 困惑している長門(男)。
 畜生、なんで長門とはいえ男相手にラブラブ話しなきゃいけないんだよ。いくら俺の外見がポニテの美少女だろうが俺自身の目線だと男同士なんだっつーの。頼むから勘弁してくれよ。
 だぁぁぁぁもう、帰ったら絶対殴るぞハルヒのやつ!
「ひとの記憶をいじったからって心までいじれるわけじゃねえ、それがわからないとは言わせねえぞ?おまえだって自分の心が制御できなくて騒動を起こしたじゃないか、違うか?なあ!」
「それは」
 そうだ。こいつだって知らないはずがない。こいつ自身が知らなかったとしても、俺の世界の長門と同期したんなら当然今はわかっているはずなんだ。
 たとえ無敵のこいつだって、心までは制御できない。
 理由?簡単だ、人間とはそういう生き物であって、こいつはその人間と同等にあろうとするモノだからだ。
 あの朝倉なんかに比べると無口で不器用な印象がどうにも拭えないんだが、それは親玉がそう設計しちまったからにすぎない。武骨だから人間味がないなんて事はない。少なくとも長門なら女だろうと男だろうと、クラスメートを捕まえて「有機生命体の死の概念がよくわからない」なんてトチ狂った事は言わない。言うはずがない。
 だから俺も言う。
「だからその選択だけはとるな、絶対だ。わかったか?」
「……ありがとう」
「は?何礼言ってんだ、仲間だろうが。……いや、俺は厳密には違うのかもしれないが」
「……」
 特に何も言わないが、その沈黙が悪い意味でない事は俺にもよくわかっていた。
 そう。
 こいつや黄緑さんの同類があと何人いるのか、なんて事は俺は知らない。
 だが賭けてもいい。こいつはたぶん他のどいつよりもぶっちぎりに人間に近い。ただ表現が下手糞なだけなんだ。
 そう……人間と恋に落ちてしまえるほどに。
「!」
 うぁ、また心臓がドクンと鳴った。
 ちなみにまったくの余談なんだが、何がキモいかって一番キモいのは他ならぬ俺自身のような気がしてきた。
 元の世界で、古泉がやたら近づいてきて困らされた事が何度かある。キモい離れろと何度言ったか俺は覚えちゃいないんだが、どういうわけか古泉の奴はまったく応えない。もしかしたら本当にガチホモなんじゃないかと訝った事も一度や二度じゃない。
 だが、この長門はキモくない。古泉が余裕で霞むテライケメンにも関わらずだ。
 それどころかドキドキが止まらない。いや、もちろんこの身体本来の持ち主がドキドキしてるんであって俺にホモっ気はこれっぽっちもありゃしないんだが、いくら間借り中とはいえ今は俺の身体でもあるんだっての!
 畜生なんてひどいドーピングだ。
 同じ身体に恋する乙女がいて男相手にホルモン全開なんだぞ、いったい俺にどうしろというんだ。
 くそ、このままじゃ俺自身が後ろ指さされる事態になりかねん、何とかしなければ。
「……キョン」
 ふと気づくと長門(男)が目の前にいる。見たこともないような優しい目をしているが、それを見た俺は思わず総毛立った。
 だが同時に、キュンっと胸が苦しくなった。下の方で何かが外れたような気がした。
 や、やばい。
 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい!!!!!
 大混乱していると、急に視界が上を向いた。顎を手で押さえられているようだった。
 それがつまり、長門(男)に顎を持たれて強制的に上向かされたのだと悟った瞬間、もう目の前には長門(男)の顔があった。
 うわああああああっ!!
「まてストップこらっ!!」
 必死こいて抵抗すると、長門(男)はようやく止まった。
 ぜえぜえと荒い息をつく。なんだかもう無茶苦茶だった。
「……残念」
「ぜ、全然残念じゃねえから、ていうか俺を巻き込むな。そういうのは俺が帰ってから、元のこの身体の持ち主と好きにしろ」
「……」
 いや、そこでどうして首をかしげる?しかも、
「まぁいい。後の調査は向こうの俺に任せる」
 なんか意味不明の事言い出すし。
「……そろそろ本格的にわけがわからないんだが?」
「知らなくていい」
 そう言うと、ふっと長門(男)は微苦笑と共に肩をすくめた。俺の世界の長門では絶対ありえない感情表現だった。
 だがそれは男だから、とかそういう問題ではないだろう。やっぱり、こっちの俺とそういう関係にあるのが原因なのかね?
 ふむ。
「なぁ長門」
「何?」
 ふと気づいた事を俺は言ってみた。本当にただ単に思いついた事を言ってみただけなんだが。
「こっちの俺はここにちょくちょく来てるんだよな?たぶん」
「……」
 否定しない。
 まぁそうだよな、ここなら出入りの時さえ注意すれば後は安全だ。間違ってもハルヒに現場を押さえられる事はない。この世界に朝倉がまだいるのかどうかは知らないが、秘め事には最適だろう。
 だが、俺が言いたかったのはそこじゃない。
「しかし、ここで俺たちは何をしてるんだ?家具があるわけでなし、まさかソレばっかりってわけじゃないんだろ?」
 露骨な話題が混じっているが、あえて踏み込んでみた。
 対する長門(男)は本当に不思議そうな顔をした。
「それを知ってどうする?」
「単なる興味さ。男女が長い時間を過ごす空間にしては生活感皆無だからなここ」
 いや、他の部屋にあるのかもしれないがな。
 だけど、それにしても本当に何もない。
 俺の世界の長門ならわかる。あいつにとってここは待機場所以外の何者でもなかったから、せいぜい本を読むためのテーブルがひとつあれば他には何もいらなかったはずだ。
 だがこの長門(男)は違う。女とつきあってる以上、いくらこいつが宇宙人印のアンドロイドだからって何もなしというわけにはいかないだろう。
「……」
 長門(男)はしばらく沈黙していたが、やがてぼそっと語った。
「歌をうたっている」
「歌?」
 そう、と長門は頷いた。
「一緒に料理したりする事もするし男女の営みにもつれ込む事もあるが、圧倒的に多いのは歌。なぜなら歌は他の作業と同時にできるから。料理の途中でもベッドの中でも、シャワーを浴びながらでも歌える。ここ防音だし」
「……なるほど」
 生々しい返事をされてちょっと困ったが、へぇ。歌とはちょっと意表をつかれたな。
「デュエットしたりとかしてるのか?いやまさかそれはないか」
 いくらなんでもベタすぎるだろうそれは。どこのオヤジ趣味だっての。
 だが、ちょっとばかし俺は甘すぎたようだ。何がって?決まってる。デュエットと言った途端に長門(男)がやたらうれしそうな顔になったかと思うと、
「……歌う?」
 もし尻尾があったらちぎれんばかりに振りまくっているだろう顔をして、満面の笑みになったからだ。
 んで、いくらなんでもそんなありえない(インクレディブル)長門の顔を見せられた俺は抵抗する事も忘れ、
「……うん」
 そう答えてしまっていた。



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