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本編

 21世紀も始まってまもない頃、一組のカップルが華やかな挙式をあげた。
 誰もが認める才色兼備。女の方は以前から優等生で知られており、男の方は努力家で知られていた。ふたりは幼なじみだったが男の方はまるっきりの凡人で、ただ女につりあう男になろうと涙ぐましい努力を続けたあげく、ついにその努力と熱意で女のハートを射止めるに至ったのである。
 もともと女の方も小さい頃からの気安い幼なじみを嫌いではなかった。だからいざ話が進み出すと親展は早かった。双方の親がふたりに好意的だった事もあり、あっというまに婚約が成立。実際の結婚はふたりの希望により、社会人になってから行われた。経済面で自立してからにしたい、それはいかにも生真面目なふたりらしい発想だった。
 そして時は流れた。少年たちは青年となり、そして中年となった。ふたりは幸福にひとの子の親となり、そして祖父祖母にと進み、そして平凡に歳をとっていくはずだった。
 だが、時代は変わっていく。
 そしてここに、ひとつの物語が再開しようとしていた……長い時を越えて。
 
 場末の安飲み屋だった。酒の匂いが充満し、優しい退廃と疲弊した空気に覆われていた。
 カウンターにはひとりの男がいた。仕立てはしっかりしているが古ぼけた背広を着て、ぽつねんとひとり酒を飲んでいた。その目が死んだようになっているのは酔いのためだけではないだろう。白いとっくりが何本も並んでいて、見るからに疲弊しきったサラリーマンの姿そのものだった。
 男の口が動いた。だけど嘆きすらも声にはならない。
 そしてそのまま、ゆっくりとカウンターにうつ伏せになった。
「ちょ、お客さん!」
 あぁ、言わんこっちゃないと店主がぼやいたが、しかし慌てた様子はない。こうして潰れる者はいつの時代にもいたし、男はここしばらくの常連客だったからだ。椅子で寝かせておけば深夜か早朝には目を覚ますだろう、店主は呑気にそう考え、いつものように男を長椅子に移動させようとした。
 と、そんな時だった。
「あの」
 ためらいがちな女の声が聞こえた。へい、らっしゃいと反射的に声を返した店主だったが、
「うちのひと迎えにきました。どうもすみません」
「ありゃ奥さんですか。こりゃどうも助かります」
 少しやぼったいセーターにウインドブレーカーの女。顔立ちは若々しいがおそらく30代以上だろう。緑なす髪の中には白髪も少し混じっていて、目の前の疲れ果てたサラリーマン男の奥さんというのが容易に信じられた。
「さ、がんばって。車まで少し歩くからね」
 手伝おうかという店主に笑って首をふると、慣れてるから大丈夫ですと女は告げた。実際男に手を貸し歩くさまはやけに慣れきっていて、おそらく何度となく似たような事をしたのだと思わせた。
「旦那さん、あまり奥さんに心配かけなさんなよ?」
「あの、すみませんお勘定」
「ああ、いいですよ次きた時で」
 常連相手とはいえ、今時珍しくひとのいい店主だった。女はお礼をいうと、男を連れて飲み屋を出た。 
 女は男を車に載せると自分も乗り込み、ただちにエンジンをかけ発進させた。
 小さな軽自動車だった。巧みにハンドルをたぐり市街地を抜けると、そこは国道一号線。女は西向きに国道に入ると、駐車できる場所まで走ってまず車をとめた。
 街灯はほとんどついてない。だがそこは休憩所にもなっているようで、ぽつねんとひとつだけ明かりがついていた。トラックなどの姿は見えず、第一級の国道とは思えないほど静かだった。オレンジの光と、道路のひび割れが寂寥感をかきたてる。
 女はコンパクトとヘアバンドを出すと、ごそごそと髪をいじりはじめた。長い髪をたばね、まるで少女の髪のように横でそれぞれリング状に結わえた。
 そして男に優しく声をかけた。
主人(ぬしびと)君、主人君」
 男は、もぞ、と動き……そしてうっすらと目をあけた。
「あれ……ここどこだ?」
「わたしの車の中だよ」
 男はぼんやりとそれを見て、そして女の顔を見た。
 しばらく顔の全面に「?」を張り付けていたが、やがて女の髪から遠い記憶を揺さぶられたようだった。あ、と驚いたような、そして例えようもなく懐かしいものを見る優しい目をした。
 うふふ、と女も微笑んだ。
「た、たてばやしさん?まさか」
 今度は女の顔に驚きが浮かんだ。
「うそ……名前まで覚えててくれたんだ。うれしい」
 本当にうれしそうだった。涙まで少し浮かべていた。
「館林さん、おれ」
「いいの。今は眠って」
 女……館林見晴は、男に何も言わせなかった。ネクタイをゆるめてやると後部から毛布をとりだし男にかけた。
「寝てていいよ、主人君。今は何もかも忘れて」
「……うん」
 事態を理解しているのか、それともまだ泥酔の夢うつつなのか。主人と呼ばれた男は素直に目を閉じた。
 その寝顔を確認すると、館林は再び髪をおろしエンジンをかけた。
「燃料……オッケー、よし、いくぞぉ!」
 再び軽自動車は国道に出た。信号やら何やらの確認はいらない。注意すべきは路面状態のみ。
 前後とも見渡す限り、車の気配はない。街灯すらもついていない。
 錆びた「国道1」の文字だけが、寂しげに浮かんでいた。
 
 『金持ちになるのは難しいが貧乏になるのは簡単』という古い言葉がある。
 前世紀末から今世紀はじめにかけての不況は、日本の屋台骨を根本的に破壊した。円が弱くなった事と石油価格の急激な高騰の連続は、外国から石油と食べ物を買う事で喰いつないでいた日本人の生活を順調に蝕み続けた。石油ショックの時のような急激なものではなかったのだが、製造業をバカにして国民総ホワイトカラー的価値観で突っ走ってきた近代日本では当時のような逞しい回復力を持ちえるはずもなく、まさしくジリ貧といっていい状態が続いた。
 そしてある年、世界的な天候異常で食糧不足が起きた時、ついに破綻が起きた。
 円が暴落を起こし、ただでさえ高価な食糧が少ししか買えなくなったのだ。しかもこれに中東の大油田のひとつが枯渇するという出来事が重なり、オイルショック以来の怪物的な石油高騰(こうとう)が追い討ちをかけた。
 日本は現在、石油があっても食糧自給率は四割以下にすぎない。さらにその石油すらもなくなったのだ。
 わずかな富や資源の備蓄を使い切るや否や、わずか数年で信じられないほどの凋落(ちょうらく)を日本は味わう事になった。
「……」
 慎重に館林は軽自動車を走らせていた。
 昔と違って交通量が少ないので油断禁物だった。まだ舗装などが割れるほどの荒廃はしていないのだが、人間社会の凋落を理解しているのか堂々と動物などがうろついていたりもする。街灯がほとんどついてない事もあり、ひとつ間違えると事故の可能性もあった。
 かつて車が行き交った国道を、野生動物が横行する……。
 ガソリンは今や貴重品だったから、こんな風に自家用車を走らせる者などほとんどいなかった。館林にしても、今日この日のために溜め込んであるガソリンを使っているだけであって、それもほとんど底をついている。今燃料タンクにある分、そして後ろのトランクにある携行缶を使い切ったらもう歩くしかない。
 だが問題ない。館林には勝算があったから。
 そのまま一号線を走り続けてもよかったが、情報では街灯がつき安全なのはむしろ山側だった。16号線の旧道に入り、246号線に移る経路を選択した。
 車などいない深夜の砂漠のような国道に、信号がまだ動いていた。止まる必要などなかったが、館林は律儀に信号にしたがい右折を出して止まった。
 振動で少し意識が戻ったのか、男の頭が動いた。
「館林さん……」
「なぁに?」
 ぼそ、とつぶやく主人の言葉に館林は答える。ただ優しく穏やかな声で。
「……」
 主人は言葉を継がなかったが、館林も何も言わなかった。彼がもう何年も、そういう何気ない優しい会話すら失っているのを館林は知っていたからだ。
 信号が変わった。館林は車をスタートさせた。
 ゆっくりと陸橋を渡る。まるで壊れ物でも積載しているかのように。ウインドウには自分のヘッドライトでてらされたもの以外は何も写らない。あいにくの闇夜だった。
 だから飛ばせない。飛ばす必要もない。
「館林さん」
「ん?」
 しばらくして、また主人の声が聞こえた。
「どこいくの」
「わたしの家」
 ためらう事なく答える館林に、主人の声が詰まった。
「ごめん。迷惑かける」
「気にしないでいいよ。さ、これ飲んで。お茶はそこだから」
 あらかじめ用意してあったのか、左手でひょいと薬を渡し、そしてダッシュボードを指さした。主人はほとんど泥酔しているせいか館林のそんな態度にも反応する事なく、言われるままに薬を飲んだ。
「あれ?ここどこだ?」
「16号だよ。わたしの家、こっちなの」
「へぇ、なんだ館林さん近かったんだ。ちっとも……知らな……」
 その言葉は途中で途切れた。
 館林の用意した薬は、ただでさえ朦朧としている主人の脳を直撃したようだ。たちまちにぐぅぐぅと寝息をたてはじめ、もう動く気配もなかった。
 そんな主人を確認してから、館林は一度車を止めた。シートベルトを締めなおし、毛布をいま一度やさしくかけ直した。そして主人の顔を少しだけ見つめて、
「……」
 そして幸せそうに微笑み、また運転に戻った。
 
 藤崎詩織は秀才だった。この点について異論のある者はおそらくいないだろう。
 しかし秀才とは同時に、天才ではないという意味でもある。それが意味するものは「高スペックではあるが平凡」だという事になる。学園のヒロインとも呼ばれた彼女であったが、その実常識的で保守的な女性でもあったのだ。主人公はそういう詩織を愛したわけで、だから結婚後のふたりの暮らしも平凡そのものだった。平和な社会が続いたならば、おそらく何の問題もなかったに違いない。
 だが、突然やってきた未曾有の社会問題がふたりの未来を狂わせる事になった。
 詩織のためとはいえ、高校時代から流行にもアンテナを張り巡らせていた公である。社会にただならぬ空気を感じた時、彼はすぐさま行動を起こそうとした。つまり息子を連れて疎開する事を詩織に持ちかけた。このままだと大変な事になる、少なくともきらめき市、またはもっと田舎に知己をたどり移住したほうがいいと。
 しかし、それに対して詩織が反対した。いくらなんでも大げさではないかと。
 ふたりの息子はちょうど受験の時期だった。そんな息子が父親の言う田舎暮らしに興味を持ってしまったのがさらに事態を悪化させた。どんな世の中になったとしても学歴は重要だし自分たちの子にはその力がある、それなのに、確かに危険だという確証もないのにどうして今の暮らしを捨て田舎にいくのかと詩織は強硬に主張した。そしてそれに藤崎や主人の家の親も同調した。公は言い知れぬ不安を感じつつも、どうしてもそんな詩織に強く出る事ができなかったのだ。
 そして、それがふたりの運命を決定的にしてしまった。
 恐慌が始まり主人家の生活も巻き込まれた。息子のため妻のため、なんとか収入だけでも維持しようと駆け回る公。その公に対し、あれだけ疎開をと言っていたのにイザそうなったら会社から帰らないとぼやく詩織。今さら何を言うんだと怒る公。そんな二人の衝突に揺れる息子。
 意見の相違は、すぐに家庭内不和に達した。
 公の家族関係は、日本経済と競うように急激に冷え込んだ。なまじ幼なじみなのが災いしていらぬトラブルまで頻発し、会話すらも全くなくなっていった。辛うじて携帯電話だけは動作していたから、同じ家にいても必要なことはメールで伝える状況になった。唯一の頼りだった息子は基本的に母の味方であり、家における公の立場はほとんどゼロに近くなっていた。
 そして昨日。それは起きた。
 公が帰ると家は冷えきっており冷蔵庫に何もなかった。きらめき市の実家に息子づれで帰ったのかもしれないが、それにしても何も聞いてない。確認しようにも、最近きらめき市付近は電話が通じにくいことが多かった。
 公は落胆した。ふらふらと外に出て……そしていつもの飲み屋に逃げ込んだのである。
 閑話休題。
 夜空は次第に早朝に変わろうとしていた。闇夜がじわりと明るくなりはじめ、燃料の節約のために見晴は車のライトを切り車幅灯に切り替えた。昔なら事故の元で決してやるべきではない対応だが、見渡す限り車なんか全然いないのだから、そうしても問題なかった。
 新聞配達のオートバイすらいない国道。街灯も消えた街はまるで死の世界だ。コンビニも売るものがないので朝の七時までは閉じている。大昔がそうだったように、街は早朝の静寂の中にあった。
 まだ古ぼけてない道路標識が、その道路が国道246号である事、もうすぐ御殿場(ごてんば)である事を示していた。
 もぞ、と公が動いた。見晴は優しく微笑み、おはようと告げた。
「おはよう……」
 毛布から顔を出した公はぼんやりと周囲を見て、そして驚きの声をあげた。
「館林さん……ここどこだ?どこに向かってるんだい?」
「足柄。もうすぐ御殿場だよ」
 こともなげに答える見晴に、公の目は点になった。
「ま、まてまてまて、戻らなくちゃ」
「誰もいない家に?」
「!」
 ぐうの音もない公に、見晴は悲しげな笑いで答えた。
「主人君やっぱり何も知らされてないんだ。あのね、藤崎さんは孝之君のところにいったんだよ」
 孝之とは息子の名だった。
「どういう事?」
 なんでそんな事知ってる、という言葉を公は飲み込んだ。高校当時の見晴を思えば、この不便な世の中でもそのくらいはやってのけそうな気がしたからだった。
 それに、たとえそれが事実でないにしても確認の術はもうない……詩織を旧姓で普通に呼ぶ見晴の態度に、公はなんとなく直感していた。
 見晴の言葉は続く。
「藤崎さんの大学時代の知り合いがね、住み込みで講師をやらないかって話をもってきたの。主人君が大学でサッカーやってた頃、藤崎さんはあちこちにコネ作ってたんだよ。今は教育関係もひとが足りないし、臨時という事で資格がなくても講師をやらせてもらえるみたいだね。孝之君の学費も免除になるんだって」
「……俺にひとことも言わないで、か」
 公の顔はもう、ほとんど泣き笑いに近かった。
 確かにふたりの関係は冷えるだけ冷えきっていた。高校一年のはじめのあの頃よりもひどい状況で、なまじ夫婦であったがゆえにその冷え込みようは絶対零度といってもいい状況だった。それは確かに事実だ。
 だけど公はいつも思っていた。もっと詩織と会話しよう、そしてお互いに歩み寄ろうと。
 それは詩織も同じではなかったんだろうか?
「つまり俺は……恋女房に逃げられちまったって事か」
 最後の方はもう言葉になってなかった。ぽろぽろと涙を流し、男泣きに泣いていた。
 そんな公に見晴は何も言わなかった。ただ、空いている片手を公の頭に回し、やさしく頭をなでた。
(藤崎さん、主人君はもらったよ……もう二度と離さない)
 見晴の心の声が、明けてきた青空に溶けた。
 ウインドウの向こうに見える道路標識が、御殿場市の入り口である事を示していた。
 
 結局主人公はそのまま、館林見晴と共に西の国に消えた。
 家族がその事に気づいたのは一週間後だった。息子が父も大学に連れ出そうと連絡をとろうとしたが、職場の方にもまったく姿を見せておらず、自宅にもまったく帰った気配がなかったからだった。ただちに捜索願いが出されたが、おりしも食糧危機と慢性的な燃料不足の今、行方不明の人間が見つかる事はまずありえない状況となっていた。
 主人詩織は悩んだ末、昔の知人の伝手で伊集院家に相談をもちかけた。だが伊集院家はなぜか詩織の依頼を断った。今や当主となっていた伊集院レイの名で詩織に届いた丁寧な手紙には、もう主人は戻らないから失踪届けを出したほうがいい、という事が書かれていた。さらに情報として、館林見晴が主人を保護したらしいが居場所はわからないという文面も添えられていた。
 詩織は驚き、そして泣いた。
 彼女もまた公と同様冷えきった関係の改善を望んでいた。ただ息子の事を考えれば田舎に行く気にはなれず、彼女なりの方法で経済面を安定させてからと考えていた。それがゆえの大学入りだったのに、その公が消えてしまったのだ。しかも、あの館林見晴が側にいるとは。
 高校時代、公は館林をほとんど知らなかったらしい。だが詩織は知っていた。もし自分が公の隣にいなければ、そこには彼女がいただろう事も。詩織がもし公を手放してしまえば、傷心の公のためにすべてを投げだし兼ねないほどに公に夢中だということも。
 まさか、まさか20年以上たった今も変わらなかったとは。
 公ともう少しきちんと対話すればよかったと詩織は嘆いた。しかしもはやすべて手遅れだった。
 
 時代はさらに変わっていく。
 藤崎に戻った詩織が公に再会する事は、その後生涯なかったという。
 風の噂では館林見晴と畑つきの家に住み、たくさんの子供たちに囲まれて平和に農家暮らしをしているとの事だった。しかしその話を漸く耳にした頃には、もう詩織は公の事をあきらめてしまっていた。それよりも息子の事のほうが今の彼女には大切だったし、仕事もやりがいのある事が増えて楽しくなりつつあった。
 やがて息子が自立すると詩織はその持てる能力をフルに発揮し、藤崎博士として黄昏の日本社会をたくましく生き抜いた。その姿は公の妻として家にいた頃とは比べようもなく輝いていたという。
 どちらが幸せだったのか?
 いや、それは本人たちが決める事だろう。
 
(おわり)



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