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本編

 風にそよぐ美しい髪は、まさに女神のそれを思わせた。
 いや、「思わせた」は失礼だろう。もともと彼女は女神である。歪な歴史を辿ってしまったために人類の抑止の側に呼び出されたわけだが、その本質は人類側ではない。それどころか、その歴史さえなければ彼女──メドゥーサは美しき女神として歴史に名を残したはずであった。血と闇を思わせる歪な衣装に身を包み、ひとの奴隷として戦うようなこともなかった。
 いや、過ぎたことだ。(らち)もない思考をライダーは中断した。
「わぁ」
 彼女の懐にはひとりの幼女。幼い、というより半分赤子のような頑是(がんぜ)無い子供である。はじめての天空に恐怖心すらもたず、ライダーに背を預けペガサスの背の上、その白い体の間から見える下界の景色に狂喜している。
 ぺたぺたとペガサスの首に触りつつ喜ぶ。
 拙いを通り越して語彙(ごい)などないに等しい。だがその顔と態度だけでご機嫌なのは考えるまでもない。ペガサスに乗って空を飛ぶというのは普通の人間なら生涯ありえない体験であるが、もちろんその意味がわかる年頃ではない。単に景色の美しさに全身全霊で喜びを表しているだけだ。
 だが、その笑みはライダーの気持ちも幸せにしてくれた。ペガサスも同様のようで、本来人類とは相容れない幻想種であるにもかかわらず、無垢なこの幼女の行動に機嫌を損ねる風もない。むしろライダーが指示する以前に自前でサービス精神を発揮し、小さな幼女が見やすいように角度や速度を調整しながら飛んでいるようだ。
 夜空には一点の雲もない。中空には輝く満月。穏やかな夜。
「──もっと凄いものを見てみますか?」
「?」
 ここで下にあるのは夜景だ。だが、もう少し場所を変え高度を調整すれば、もっともっと多彩で美しい景色をまのあたりにすることができるのを、天空(あま)駆ける騎乗兵(きじょうへい)たる彼女は知っていた。
 少し遠い。だがペガサスは航空機なみの速度で飛べる。今日はまだまだ時間がある。
「ちょっと遠いですがきっと気に入りますよ。行きますか?」
 いく!と幼女は満面の笑みで応えた。ライダーを露ほども疑わぬ、無垢そのものの笑みだった。
 
 ふたりが知り合ったきっかけは、ほんの些細なことだった。
 数ヵ月前。まだよちよち歩きの幼女は隣家の猛犬に吠えられた。ひとりで外出する歳ではもちろんなく母親の目を盗んで外を歩いていたわけだが、幼女にしてみればその犬は怪物といっていいサイズだった。当然ながら盛大に怯えて大泣きした。
 そんな彼女を、たまたま通りかかったライダーが助けた。それだけだったのだ。
 彼女の家は衛宮家からわずか数軒隣だった。駆けつけた家人に状況を説明したのだが、助けてくれたライダーに彼女は完膚なきまでに懐いてしまっていた。彼らは生前の衛宮切嗣とある程度ご近所づきあいもしていたらしく、その縁者を名乗ったライダーにも好意的だった。結局なしくずしに夕食にも呼ばれた。夜に顛末を聞いた桜や士郎にも微笑ましく応対され、ちょっとだけライダーは不本意でもあったのだが。
 ライダーと幼女はその日から友人になった。
 ライダーは子供の扱いが苦手だったから幼女に一方的に懐かれる関係であったが、その幼い微笑ましさはライダーも嫌いではなかったのである。
 そんなある日のこと。
「実家のお義父(とう)様が死去されたのですか。それはそれは」
 はい、と幼女の母親がつぶやいた。その顔は母親というよりむしろ『娘』の顔だった。夫の父親とはいえ、その人物との関係は実子同然だったのだろうなとライダーは思った。
 女神メドゥーサはゴルゴン三姉妹の末娘。当然その父親はひとではなく神である。だからその気持ちがわかるとは言えなかったが、家族というものの意味はわかる。もし桜が目の前で亡くなるようなことがあれば、自分もきっとこの世との接点がなくなり消滅するまでの短い時間、きっと同じ顔をするのだろうなとは思った。恐かったふたりの姉だが、同時に愛しい存在でもあったように。
 いくつになっても家族は家族。親しき家族が居なくなる悲しみはきっと変わるまい。
「それで、ぶしつけなお願いで恐縮なのですが」
 二日ほど娘を預ってもらえませんか、と母親は切り出した。
 聞けば、父親は出張中なのだという。こちらに戻る手筈は整えているが今日中に戻るのはどう考えても不可能な場所にいる。そして彼女は今すぐにでも実家に戻らねばならず、実家の方には子供の面倒を見られる者が誰もいない。
「うちの子は人見知りが激しいんですの。ライダーさんには本当に懐いてますし、どうかお願いできませんでしょうか」
「はぁ、それはお困りですね」
 申し訳ないがライダーは断るつもりだった。
 折の悪いことに、桜と士郎はまだ小さな息子を伴い旅行中だった。ライダーも誘われていたのだが、たまには自分ぬきで遊んできなさいと送り出したのだ。桜が福引きで当てた旅行チケットは親子用であったし、なんとなく気乗りもしなかったからだ。今にして思えばそれは虫の知らせであったのだろうが。
 すみませんが、とライダーが言い出そうとした。だが、
「らいだー」
「……」
 たどたどしく自分をライダーと呼び、べったりとくっつく幼女のぬくもりのせいだろう。ライダーはそれを断ることができなかった。
「……ところでひとつ伺ってもいいかしら?」
「はい?」
 娘の顔を見て『母親』に戻ったらしい女性がふと、疑問をなげた。
「ライダーさんというのは愛称ですわね?お国ではなんというお名前なんですの?」
 突然の質問だが、まぁ当然の疑問かもしれない。ライダーという愛称は女性のそれとしては奇妙だろうから。
 かりにも娘を預けようという相手だ。なんとなく気になった、それ以上のものではないのだろう。
「本名はちょっと仰々しいので。それにきっとこの国では笑われます。
 ライダーという称号を名乗っているのは、それが私の特技に由来するからなのです。それのこの方が少なくとも本名よりは親しみをもってもらえますし、私の資質をよく表してもいる」
 嘘ではないだろう。ライダーの本名は、あまり今の人間にはよいイメージがない。
 はたして、母親は興味いっぱいの表情を浮かべた。
「まぁ……どんなお名前なんですの?仰々しいということは古風なのかしら?それとも故事や神話に由来するような特別なお名前?」
 ちょっとライダーは考えた。そして一瞬だけ幼女の頭をなで、まぁいいかと苦笑した。
 真名を明らかにするのは危険行為であり違反行為だ。だが子をもつ普通の日本の主婦に話したところで今さら問題にはなるまい。
「……メドゥーサと申します。古い神話に由来する名です」
 だが、ライダーは母親の切り返しにちょっとだけ驚くことになった。母親はライダーになついている娘を微笑ましく見つつ、
「まぁ。確かに古風なお名前ね。それじゃあ、お姉様がふたりいらしたりするのかしら?」
 などと平然と応えてきたからである。
「はい。エウリュアレとステンノというふたりの姉が」
「ゴルゴンの三姉妹ですわね」
「ご存じなのですか?」
 ちょっと驚いた。日本でその名を知るのはかなりの神話好きくらいだろうに。
「ええ……これでも神話や昔話は子供の頃から好きなんですの」
 うふふ、と母親は笑った。
「でも素敵ねえ。本当に神話からとられたお名前なんて……でもそうね、普通に名乗るにはちょっと仰々しすぎるかしら。ライダーさん本当にお綺麗ですものね、むしろ洒落にならなさすぎて笑われちゃうかも」
「やはりそう思われますか。私も正直、日本で名乗るには仰々しすぎるので、この名はなるべく名乗らないようにしているのです。
 すみませんが」
「ええわかってるわ。これはここだけの内緒、ですわね」
「はい。すみません」
「うふ、謝るのはこっちの方だわ。言いにくいことを無理に伺ってしまってごめんなさいね」
「とんでもありません」
 由来どころかご当人そのものだから、とライダーは内心苦笑いした。
 母親は珍名さん以上のイメージはもたなかったようだ。最近では日本でも日本武尊(ヤマトタケル)やイザナミなどの神話時代の名が子供につけられることがあるし、まさか目の前の女性が本物のメドゥーサなどと考える方がおかしい。常識的に考えてそれは、食堂でおいしそうにカレーを食べているお人好しそうな青年をつかまえて、この人実はウルト○マンなのではと疑うに等しいことだ。まじめに考える者がいるとすれば、そいつは精神病院いきだろう。
 だが、そんなことよりむしろライダーは別の面が気になった。
「ちなみに余談になりますが」
「はい?」
「姉ふたりは女神の名に(たが)わず美しいのですが……残念ながら私は名前負けしています。正直申し上げますと、怪物伝説のイメージの方が私に近い気がする。
 由来をご存知らしい貴女ですから申し上げますが……いささかですがトラウマもあります」
「……うふふ」
 まるでできの悪い娘を見るような微笑ましい顔で、彼女は笑う。
 そういえば、この手の話をするとサクラもおなじように苦笑しますねと、ライダーは不思議そうに首をかしげた。
 自分の美貌について自信がこれっぽっちもないあたり、それはライダーらしい反応でもあった。
 
 そんなこんなで、一時的であるが幼女を預る身となったライダーである。
 明日の夜は桜たちも戻る予定だった。そうなれば問題はないのだが、一晩とはいえ小さな女の子のおもりをするのはライダーにとっても未知の経験だった。
 桜の子は母親にべったりだったし、たまにライダーが面倒みても昼間だけのことだった。おかげさまでトイレや食事の世話はなんとかなったが、夜のこととなるとどうにも勝手がわからない。幸いにも幼女は男の子用の遊び道具にも関心を示してくれたので夕食までは問題なかったのだが、下手に退屈させて母親を求め泣きだしたりしたら洒落にならない。
 なんとか、寝つくまで何か楽しいことに熱中させられないか。
「正直、困りましたね」
「?」
「なんでもありませんよ」
 きょとんとする幼女の頭をなで、ライダーはにっこり笑った。
 幼女はライダーに本当に懐いていた。今も衛宮家の居間に座っているライダーのそばから離れようともしない。子供部屋からもってきた童話の絵本……大河が持ち込んだものだ……を熱心に見ている。
 と、その時だった。幼女が一枚の絵を見て不思議そうな顔をした。
「らいだー……」
「なんですか?……あぁ、それはペガサスですね」
「ぺがさす?」
「はい」
 そこには、ペガサスとそれに乗る勇者……たぶん元ネタはペルセウスだろう者が描かれていた。
 しかし、字も読めない幼女が選んだのがよりによってギリシャ神話、それもよりによって自分に関係するものとは。誰かの嫌がらせか運命の皮肉かとライダーは苦々しい思いでもあった。ギリシャ神話ではペガサスは殺されたメドゥーサの血から生まれたともいわれているし、現実にメドゥーサは自分の血でペガサスを召喚する。
 正直、笑えない。ライダーの正体も知らずにこの絵本を無邪気に持ち込んだ大河もそうだが、ただの偶然とは思えない何かを感じてしまう。
「おうまさん……?」
 (はなは)だしく語彙に問題があるが、どうやら馬なのに翼があって飛べるのはなぜだと聞いているらしい。
 なんと応えたものかと一瞬考えたライダーだったが、
「……乗ってみますか?ペガサス」
「!」
 どうやら言った意味はわかるらしい。びっくりした顔で幼女はライダーを見た。
 ライダーは笑うと人差指を口にあて、
「誰にもいわない、内緒だと約束してくれるなら、かまいませんよ」
「……ないしょ?」
「そうです。お父様お母様、お友達にも言っちゃダメ、内緒です。できますか?」
「……うん、ないしょ」
「はい」
 幼女の語彙に「内緒」はないようだ。しかし、誰にも言うなというニュアンスは理解できたようだ。
 彼女はライダーの真似をして口に指をあて、うん、とうなずいたのだった。
 
 ペガサスはいわゆる幻想種である。ライダーの駆るペガサスは神話時代から年代を重ねすぎ、幻想種の最高峰である竜種の一歩手前にまで到達している。もはや人間の魔術などに侵される存在ではない。ほとんど精霊の領域といってもいい。
 もちろん彼らは全てガイア側であり、人類側ではない。ライダー自身も半人半神とはいえ女神やら魔物やらという属性ばかりが強く出ているためこれも同様。ひとの世界と交わるものではなく、交わったとしてもそれは反英雄。やはり人の側ではない。
 だから普通、ひとはどう足掻いてもペガサスを駆ることはできない。あのセイバーとてペガサスを駆れるかどうかは疑問だ。
 だが同時にペガサスは穏やかで優しい幻想種でもある。馬という動物がそうであるように。
 はたして、召喚したペガサスは幼女にまったく警戒しなかった。
「ぺがさすー」
 純白のペガサスを目の前にして、幼女は大喜びでぺたぺた触りだした。
 ペガサスもそんな幼女が可愛いと映ったのか、されるままであった。頭をさげて幼女の体に鼻面を突っ込んでフガフガやってみたり、なんともサービス精神の旺盛なこと。きゃっきゃと喜ぶ幼女を見つめるその目は穏やかで優しさにあふれている。まるでその姿は「すべての人間がこの子のようなら、私たちも幸せだったのに」とつぶやいているかのようだった。
 実際、人間はこんな穏やかな種族までも滅ぼしてしまった。無知とエゴのために。
「いい子。彼女を載せて飛んでくれますか?」
「……」
 喜んで、とそのつぶらな瞳は言っているようだった。
 
 単車乗り(ライダー)はよく風にたとえられるが、単車乗り(ライダー)にとって風は基本的に敵対者である。高速でぶっとばす単車乗り(ライダー)にとって風は体力を奪ったり時には事故の原因にもなる存在であり、それは単車のさらに数倍の速度で飛べる彼女、騎乗兵(ライダー)にしても同じことだ。特に今夜は小さな同乗者がいるため、ライダーは慎重に結界で彼女を守っていた。
 だが、その状態ですらペガサスはジェット機にも迫る速度で飛ぶ。
「わぁ」
 結界ごしの風──それでも子供には充分な強風である──に目を細めつつ、幼女はその小さな手を叩いて大喜びだった。
 騎乗しての飛行という意味ではおそらく神話世界の領域での飛行も、まだ恐怖も知らない幼女には楽しい遊覧飛行に感じるようだった。月光を浴びて夜空を飛ぶペガサスの上で、新幹線よりも速く飛んで行く景色に幼女は小さな目をキラキラさせて夢中である。
 夜空に輝く銀色の月。雲のひとつもない澄んだ夜空。
 夜のネオンの上空をふたりは飛ぶ。純白のペガサスの背に乗り、ささやかな自由を満喫して。地に這う星々は後方に飛ぶように流れ、遠くには月光に照らされた山脈のシルエットが見えている。吹き抜ける風。夜空は暗く、そしてほのかにまぶしい月光。
 ──この天空は私たちのもの──
「?」
 ふと、思い出したように幼女が背後のライダーを見上げた。びっくりしたように自分を見上げるその顔に、何かまずいことでもしたのかなとライダーは一瞬眉をよせた。
「どうしたのですか?」
「……」
 それは感謝なのか、それとも別の理由なのか。幼女の表情はちょっと微妙でわかりづらかった。もしかしたら本人にも例えられないのかもしれない。悪い感情ではなさそうだが。
 そして、ライダーにもその感情が理解できるわけがなかった。彼女はそんな感情を向けられることを知らない、あるいは知っていたとしても昔すぎて記憶になかったからだ。
 ──崇拝?心酔?う〜ん……すごいなライダー、あんな小さい子にここまで慕われるのか。
 ──ライダーに失礼ですよ先輩。ライダーは元女神様なんですから。
 ──いえ、それはいいのですが……崇拝、ですか?
 一瞬、既視感(デジャヴュ)のように()らないはずの記憶が頭をもたげ、ライダーは一瞬だけ眉をしかめた。
 おかしい。自分には予知能力はないはずだ。どうして、見たはずのない光景が瞼に浮かぶのだろうか?
 ライダーは知らない。なにより、自分自身についてのある面を知らない。
 かつてのメドゥーサが戦いのうちに怪物へと変貌したように、彼女たちの能力や姿は決して固定されきったものではない。現在の英霊としての姿が必ずしも生前の姿とイコールではないように、時間と状況、周囲に気持ちによってその姿や能力は影響を受けるものだ。
 桜と士郎に家族として愛され、すっかり穏やかな本来の姿を取り戻しつつあるライダー。その彼女が今、小さな女の子の全幅の信頼により、かつての神性の片鱗を覗かせたということだ。
 幼女はすでに視線を戻し、飽きることなく変わりつづける景色を堪能している。
「……さて」
 ライダーは気をとりなおし、ペガサスの背に手を添えた。
 上空に少しだけ雲があった。その雲がペガサスの移動によりゆっくりと角度を変え、そして月をちょうど隠す位置になった。
「止まりなさい」
 その瞬間、ペガサスの羽ばたきが変わった。高速飛行用の小刻みな羽ばたきから一転して盛大に翼を広げ、逆風を起こして空中で急制動をかけた。
「!」
 びっくりしたようにそのペガサスの背にしがみつこうとする幼女。その体を背後からしっかりと支えるライダー。
「落ち着いて……さ、周囲をよく見てみなさい」
 幼女の体を支えつつ、指さしてその視線を誘導するライダー。
「……わぁ!」
 ライダーの指先を追って視線を巡らせた幼女の口から、感嘆の声が漏れた。
 
 星空の中に、ふたりはいた。
 
 月の光が雲に遮られたせいか、星空がよく見えていた。
 眼下にはネオンがきらめていた。人間世界の輝きはこうして上空から見ると星々のコロニーを思わせる。天空のそれとは違う、ひとのこしらえた星空だ。
 視線を巡らせると、その星空が突然にとぎれているのに気づく。
「あれは海です。駿河湾というのだそうです」
 ぼそり、と小さな声でライダーがつぶやく。
 月光は眼下のネオンや星空こそ遮らないが、周囲の山々はきちんと照らしていた。上空からの視界は遙か遠方まで見渡せて、右後方遙かまで山々は続いている。ライダーのいうように眼下の海が駿河湾なら、それは伊豆半島の山なみなのだろう。
 そして、前方には──黒く巨大な山容。
「……ふじさん?」
「そうです、富士山です。よく知ってますね」
「えへへー」
 得意そうに幼女は笑った。
 会話もろくに成り立たない幼女である。確かに、富士山という存在はともかくその名称まできちんと覚えているというのは凄い。親の名前すらまだきちんと言えない年頃なのに。
 ふたりは富士山の山頂の少し上にいた。航空機ほどの高度ではないが、静岡側の山頂のもう少し南で、その巨大な姿をかろうじて見下ろす程度に上空ではある。周囲には日本中部の山脈が累々と、月光に照らされて暗く延びているのがはっきりと観察できる。
 なるほど、航空機を使えばもっと上空には行ける。衛星を使えばさらに高高度からの撮影も可能だ。その意味では特異すぎる光景ではない。
 だが富士山のすぐ近くは気流の乱れが激しく、人間の航空機が寄りつくには危険な場所でもある。こんなところで平然とホバリングができるのは、それこそペガサスのような特殊な飛翔体でもないと不可能。
 ひとの到達できない、空。ひとの見られない、ひとの世界の景色。
「……あの山頂からならば、似たような夜景を見ることもできるでしょうね。もっとも、晴天の深夜を狙って富士山に登るというのは言うほど簡単なことではないでしょうが」
「?」
「いえ、なんでもありませんよ……さ、そろそろ帰りましょうか」
「……」
 幼女は不満そうだ。もっと見ていたいのだろう。
 ライダーはクスッと笑うと、
「残念ですが、ちょっと時間を誤りました。これ以上夜更しするのはよくないですから」
「……」
 むう、と膨れる幼女。だがライダーはクスクスと笑うだけだ。
「またいつか連れてきてあげますよ。次はもう少し早い時間に、もっとゆっくりと。
 もっとも、あなたが内緒にしてくれればですが」
「……ないしょ?」
「はい、内緒。私と貴女だけのひみつ、です」
「……うん」
 ライダーと幼女は、楽しそうにお互いの唇に指をあて、くすくすと笑った。
 
「いいなぁ。わたしも見たかったなぁそれ」
「苦肉の策でしたから。今にもお母さんと泣きだすんじゃないかと本当に不安でしたよ」
「ライダー、わたしが頼んでも絶対乗せてくれないのに。いいなぁペガサス」
「大人の人間を乗せるのはあの子が嫌がるんです。物心つかぬ幼児ならどうかと思ったのですが……気に入ってくれて本当に助かりました」
「へぇ。命令したんじゃなくて、ちゃんと確認したんだな」
「当然です」
 翌々日。父親が菓子折り持参で迎えにきて幼女の帰ったあと。居間で士郎、桜、ライダーがまったりとくつろいでいた。桜たちの幼い息子は、ただいま爆睡中である。
「しかし、言ってくれればすぐにでも戻ってきたのに。ペガサスまで持ち出したってことは相当に大変だったんだろ?」
「親子水入らずに水をさすのはどうかと思いましたので。それに」
 そこまでライダーはいうと、ちょっと苦笑いした。
「それに?」
「なんとなく……姉たちの苦労がわかったような気がして。
 昔は傍若無人でとかく苦手なふたりでしたが、私を心配してはるばる遠い離島まできてくれたりと、基本的にはとても優しい姉たちでもありました。
 きっと、私の知らないところでそういう苦労もしていたんだろうと」
「そっか。そういやライダーってお姉さんいたんだよな。どんな人だったんだ?女神だもんな。やっぱりライダーみたいな美人さんなのか?」
「どんな、と言いますか……私など比較にならないほどの可憐で愛らしい姿でした」
「ライダーが比較にならないって……正直想像もつかないな。へぇ……」
 士郎の言葉に、ちょっと昔を思い出そうとしたライダーだったが、
「……」
「桜。なんで俺をじっと見てるんだ?」
「……」
「その、目が怖いんだけど」
「なんの話ですか?先輩」
「いやその」
 にこにこ笑いながら全然笑ってない桜の目に、ライダーはくすっと笑った。
「ライダー?」
「なんでもありませんよ士郎。
 それより、温泉で起きた面白い事件とやらを話してくださいませんか?ちょっと気になりますので」
「そうそう聞いてライダー、先輩ったら」
「え……まてまて桜、その話は」
「いーえ言います。聞いてライダー、先輩ったら旅行中も夜中に起き出してひとりで鍛錬してたんだから。
 それだけならまだしも、夜中にあの子が起き出してそれ見ちゃってもう大変。僕も魔法使いになるんだって言い出しちゃって」
「あらら……それはまた。
 ところでサクラ、何度も言いますがそろそろその『先輩』はなんとかした方がいいのでは。タイガにもリンにも言われているでしょう?」
 楽しい団欒の時間が流れていた。
 ライダーは会話しつつ、幼女のぬくもりを思い出していた。無心に自分を頼り、自分に懐いている存在。どこか桜に似た感じのする小さなもの。
(私も、あの子が気に入ってしまったのかもしれませんね)
 間違いなくそうだろう。関係者でもないただの人間の子をペガサスに載せて夜空を飛んだのだ。聖杯戦争以降、自分ひとりでも滅多に駆り出さなかったペガサスをである。
 どうしてなのか。どうして自分は、あの小さな子が気に入ってしまったのか。
(……いえ、たぶんそれは)
 きっと、あの子は私たちと長いつきあいになる。だからなんだろうとライダーは思った。
 それは漠然とした気持ちというより、女神としてのライダーの何かが感じる予感の一種であった。
 
 事実、後に大きくなったその幼女は衛宮家にお嫁入りすることになるのだが……それはまた別のお話である。
 
(おわり)



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