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まえがき

 狂った笑い声が響いている。
 もういない女、ここにはいない女だ。その女の狂った笑顔とけたたましい笑いは完全に耳にこびりついていて、毎夜の如く夢に現れた。
「あははは、あははははははははは!」
 ノコギリを手にした女が、血まみれでけたたましく笑う。
 その目はなぜかまっすぐに誠を見据えている。狂気の光を湛えたまま、まっすぐ誠を見つめてくる。
 動けない。
 うっとりとみつめてくる、目。その目は愛に溢れた女性のものだ。
 ──その姿が、たとえ鮮血にまみれていようと。
 どんなおそろしい狂気に身を染めようと、この女の愛だけは曇らない。泥にまみれようと暗黒の闇に沈もうと、誠に向けて伸ばす、すがるような、しがみつくような柔らかい手だけは絶対に変わらない。
 だが、その想いはあまりにも盲目的で、あまりにも強すぎる。
 誠の愛が欲しい。この女にはそれだけしかない。それだけしか持っていない。
 無垢なる愛。純粋すぎた何か。
 まだ幼すぎた精神が手にしてしまった、強すぎた想いの果て。
 無垢なる想いを抱えきれるのはやはり無垢なる想いしかない。あるいは純粋にその想いを包み込み、痛みをこらえきれる強い保護者だけだ。
 ひとの心は鏡のようなものだから。
「……誠くん」
 血まみれの手にやんわりと、しっかりと抱きしめられた。
「……すき」
 耳許で囁く声。
 濃厚な血の匂い。まだ温かい。世界の血がべったりと誠にもついて、その狂気までもが誠に熱となって伝染していく。
 くすくす、うふふと響く狂気の笑いはどちらのものか。
「……あ」
 と、その時、光が溢れた。
 眩しい光は無理矢理に誠を捕まえた。有無をいわさず誠を闇から引き上げ、血とヘドロとぬくもりの泥濘からずるりと引き抜いてしまった。
 離れていく。遠ざかっていく。
 誠くん、誠くんいかないで、誠くん──そんな悲しげな声が響きわたった。狂女の慟哭が聞こえた。
(──ことのは)
 光にとろとろに融かされつつ、誠はぼんやりと遠い女の名に思いを馳せた。



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