伊藤誠は学力的には平凡な日本人の少年である。だから外国語、ましてや触れたこともないフランス語の理解など到底不可能だった。
当初彼は、自分を日本から連れ出した刹那とふたりで日本人学校のフランス語学級に在籍していた。刹那の母親の勤務がいつまでになるかはわからないがよい機会でもあったし、何より言葉が通じないというのは不便だ。先に勉強を進めていた刹那のフォローもあり、若さも手伝ってしばらくのうちにはなんとか片言を話し、簡単な書取りくらいは可能になった。
やがてこちらの普通の学校にもしばし編入したりもした。『子供のような小さな彼女をつれ歩く』誠は西洋人からみると彼自身も幼い容貌をしていたせいか、日本のあの頃のように恋愛のドタバタに巻き込まれる事もなかった。片言で語ればその人当たりのソフトさもあってか『フランスのお姉様』たちに刹那もろとも可愛がられそうになったりする事もあったのだが、そのたびに皆は側にいつもいるちっちゃな女の子の正体と『実は小さな彼女の方が誠をつれ歩いている』という事実を知ることになるのだった。
つきあいが悪いわけではないが、いつも誠を手放さず寡黙がちな刹那。そんな刹那を頼りにし社会的に振る舞わせようとする、お人好しの少年。そのさまは『ほほえましいお子様カップル』と周囲には見えて色恋抜きに一時期、まるでマスコットのような人気者になった。
まぁ、言葉が通じないのはお互いにとって僥倖なのだろうと誠は思っていた。誠より語学力のある刹那が時おり赤くなったり怒ったりしているところをみると、知らぬが仏を決め込んでおいて後で刹那をフォローする方が賢いと誠もだんだんおもいはじめていたからだ。
いつしかだんだんと、誠と刹那の距離は刹那が演出した範囲を越えて接近しはじめていた。
「うん、これがいいんじゃないかな」
「……じゃ、そうする」
「だけど問題は予算か。これはちょっと……なんとか今の貯金を頭金にできればいいんだけど」
「そっちは問題ない。でもいいの?わたしも協力するのに」
「ダメだ」
「どうして?」
「おれの意地だからだ」
「……」
ちょっとためいきをつくと、誠はその中古車を見た。
「住むとこから何から全部刹那と刹那のお母さんに頼りっぱなしなんだぞ?今さら甲斐性なんてどの口が言うんだって感じだけど、これくらいはさせてほしい。ダメかな」
「……わかった」
子供のようなむっつり顔の誠に、刹那は納得しつつ内心くすっと笑った。
異国の空気でゆっくりと回復した誠は文字どおり、誠実で行動力のある男の子になった。女の子に翻弄されてなければ昔のように普通に元気で優しい男の子になるだろう、と考えた刹那の読みは当たりに当たったといえる。
そんなわけで、今ではすっかり誠も清浦家の一員だった。誠を迎えた時の母親の反応はさすがに複雑だったが、今やその母親も誠がすっかりお気に入り。名前こそ伊藤だが、これは遠からず刹那の方が伊藤刹那になるべく話が進みはじめようともしている。誠の願いで「ちゃんと就職してから」という事になってはいるものの、そういう話が出る時点でもう決定したも同然だ。いちおう故郷の母に航空機一回分プラスα程度の貯金を持たされて日本を出てきている誠だが、そのお金はいまだ一円、もとい一ユーロたりとて使われていない。
つまり、ふたりの車を誠だけの力で買いたいというのは、まさに誠の意地以外の何者でもなかった。そんなものより、いずれ必要になる婚約&結婚指輪の方にお金かけてほしい、なんてさすがの刹那も一瞬思ったのだけど、女の子の家におんぶにだっこでずっと御世話になっているというのは男の子にとって本来名誉なことではないだろう。そう考えると、刹那も誠の意地を尊重してあげたいと思うのだった。
しばらく刹那はディーラーのスタッフと何かフランス語で話していた。中古車だし、エンジンの音を一度聞いてみたいという誠の願いもあり、試乗できないかと交渉しているようだった。
話がすんだらしい。スタッフが刹那にキーを渡し、刹那はそれを誠に渡した。
「いいの?」
「当然」
いつもの無表情で刹那は応えた。
誠は都合により免許の取得が刹那より遅れた。金銭的問題で誠が遠慮したことと、日本と違い終身免許ながら取得条件は日本なみに厳しいフランスの免許制度のためだ。日本でいえばまだ若葉マークがとれたばかりであり、その点で刹那より微妙にキャリアが短い。
もっとも、ふたりはもちろん刹那の母連れの時すらも誠がハンドルを握らされるので、誠の運転時間は若葉とは思えないほど長いのだが。
つまるところ、それはふたりに欠けている『男性の家族のポジション』だったのだろう。それを敏感に察知した誠はいつも優しく微笑み、文句ひとつ言わずにハンドルを握るのだった。
今日もそう。刹那にキーを渡された誠は苦笑すると、わざと執事のようにドアをあけ、わざと丁寧に一礼して刹那を車に誘った。どうぞお姫様、というわけだ。
刹那もそれを見てクスッと笑い、どこぞのお嬢様のように仰々しくナビゲータシートに乗り込んだ。
それを、なんともほほえましいものを見る目でディーラーのスタッフたちは見ていた。
「ふうん……」
「どう?誠」
「悪くない。さっきエンジンかけた時も異音もなかったし、レスポンスも言うことなし」
「そう」
清浦家にはワゴンが一台ある。荷役にいいからという実用用途に買ったものだが、家族でドライブにはちょっと武骨すぎるかなと誠は考えていた。
女ふたり、しかも活発とはいえない刹那と仕事に忙しい母親ではそんな暇も趣味もなかったのだろう。誠が来てからそういう事が増えたが、それ以前はどこにも出かけていなかった、ということだった。
フランスの郊外を、滑るようにコンパクトカーが走っていく。
この国に来て数年になるが、誠はつい最近まであの世界の死の瞬間に囚われていたといっていい。突然に怯え出すような重傷ではなかったものの、積極的に外に出たり誰かと関係をもったりというのはさすがに腰がひけてしまっていた。
刹那と結婚するかどうかという話が出るにいたり、誠はやっと、自分が遠い異国にいるということを本当の意味で自覚したといえる。
刹那の家におんぶにだっこするばかりで、自分なりのテリトリーをまだ誠は持ってない。この国に根をはるかどうかはともかく、活動領域まで刹那におんぶにだっこというのは、さすがにひとりの人間としてどうだろうか。あの苦く苦しい思い出を踏まえてなお、少しまわりを見る余裕が必要なのではないか。
就職にあたり、セカンドカーの購入を誠が提案したのはそういう理由もあった。
借りてきた猫のような暮らしはもうやめるべきだと。
「オートマチックなのがちょっとさびしいけど、これは仕方ないな」
「あ……うちの車、マニュアル」
武骨なだけあって、今の車は古いしマニュアルだった。
「運転だけに集中するならマニュアルって楽しいと思うけどね。ま、そのうち中年おやじになったらスポーツカー買ってアウトバーンにでも行ってみるかな。そこまでこっちにいればの話だけど」
「誠」
「ん?」
ふと笑いつつ横をみると、これまた微かに笑う刹那の顔。
「……誰といくの?」
「そりゃあ刹那だろ」
「どうせなら週末キャンプの方がいいかも。子供たちと」
「あー、それもいいな。って子供って誰の?」
「私と誠の」
他に誰がいるの?と刹那は表情を変えずに言った。
「あー……それはその」
「心配いらない。そろそろ仕込みはオッケー」
「は?」
どういうことだ、と誠は聞こうとしたのだが、
「今月、生理きてない」
「!」
一瞬、誠はハンドル操作を誤りそうになった。慌てて減速する。
はー、はー、と大汗をかく誠。ちょっと血の気がない。
「嘘」
あたりまえのように刹那はつぶやいた。ぴくりとも動かず顔色も変わっていない。顔も前を見たままだ。
動転しまくっている誠とはあまりにも対照的だった。
「……あのなぁ。脅かすなよ」
「どうして困るの?毎日してるし、なんの不思議もないよ」
ちら、と目だけ誠の方に向けて刹那は言った。
「いや……困っちゃいないけどさ。子供作るとなったらちゃんと計画たてた方がいいっていうか、避妊してるのにできちゃったっていうのは正直嬉しくない」
「計画?」
きょとんとした顔で刹那は聞き返した。
「そ。刹那の体調とかおばさんの都合とかもあるだろ?無計画に作るのは感心できないと思うぞ」
「……どの口が言ってるんだか。けだもののくせに」
「うるさい」
気まずそうに眉をしかめる誠に、刹那は小さくクスッと笑った。
「そう。それが問題」
「は?」
誠にはわけがわからない。わからないから問い返した。
対する刹那は、ちょっと言い淀むように俯いてから続けた。
「世界には中だししてたでしょ?どうして私にはそうしないの?」
「……それは」
いきなり涼しい顔で生々しい話を切り出した刹那に、誠は言葉に詰まった。
その時だった。
『……誠、くん』
『誠』
突然のことだった。
懐かしいふたりの少女の姿が、誠の脳裏にフラッシュバックした。最近では夢にみることも少なくなりつつあったはずのふたりが、両手を広げて誠に向かって微笑みかけていた。
──首から今も鮮血を流し続ける世界。
──右手にノコギリを持ち、狂った瞳で愛しげに誠を見つめる血まみれの言葉。
「……誠?」
「!」
不審げな刹那の言葉に、一瞬で我に返った。
どうやらフラッシュバックを起こしたのは一瞬らしい。誠はあわてて首をふった。
「どうしたの?疲れた?運転代わろうか?」
「いや、いい」
誠は指先が震えるのを感じつつ、車を走らせた。