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エピローグ

 町外れの小高い丘の上に桜が咲いていた。
 この丘からは町の全てが見渡せる。再開発にさらされたり学校がいくつかなくなり新設され、いつしかすっかり町の姿は変わっていた。変わってないのは線路くらいだが、これも完全に高架となった。かつてのホームの風景はもうない。
 そんな景色を見ながら、ひとりの老人がベンチに座っていた。
 古いスーツ姿に日よけの帽子。舶来の上質のものなのか、ずいぶんと古めかしいスーツながらそれはよく老人の姿に馴染んでいた。老人はステッキにもたれて、ゆったりと町を眺めている。
 その古ぼけたベンチには何度も修理した跡があった。すっかり桜の下の風景に溶けこんではいたが、おそらく元々は町のどこかにあったのを、破棄の際にこっそりここに移設したのだと思われた。
「……いい陽気になったなぁ」
 ぽつり、そうつぶやいた。
 老人の隣には弁当箱、そして額に入った古い写真がある。半世紀以上も前の女学生がそこには写っていて、撮影者であろう誰かに向かって甘やかな、優しい笑顔を浮かべていた。
「それにしても遅いな彼女。さては孫か嫁さんにでも捕まったかかな?」
「誰が捕まったんですか?」
 にやにやと悪戯っぽい笑いを老人が浮かべようとしたちょうどその時、石畳の舗道の影からふわり、と上品そうな老婦人の姿が現れた。こちらはいまどき珍しい見事な和装だ。
 老人の表情が、とても優しくなった。
「やれやれ……そんなとこに脇道があったのか。知らなかったよ」
「遅れそうになりましたからね。近道です」
「そっか」
 婦人が大切そうに抱えた弁当箱を見て、くすくすと楽しそうに目を細めた。
  
「大変だったんですよ本当に。おばあちゃんのお弁当が食べたいって曾孫たちにまとわりつかれちゃってもう。まぁ嬉しいですけど、私のお弁当なんかのどこがいいのかしら?」
「いや、悪くないんじゃないか?ずいぶんと上達したぞこれ」
 どうやら、孫たちに作ったものの余りらしいそれを老人は少しだけつまみ、そして満足そうに笑った。
「そうかしら?まだまだ到底かなわないと思うのだけど」
「そんなことないって。どれ、君も少しだけ食べてみるといい」
「遠慮しときます。そっちのお弁当が目当てなんですし、私はもうほとんど食べられないから」
「──そうか。じゃあちょっと待て」
 老人はつぶやくと自分の弁当を紐解き、少しだけ取り分けて写真の前に置いた。
「──」
「──」
 そして、ふたりでその遺影に手をあわせた。
「食えよ世界。もう五十年過ぎて神様になっちまってるだろうし、今さらだろうけどな」
「私のも本当はいただいて欲しいですけど……だめですよね、やっぱり」
「悪いけどそれはよそうぜ。あの世で刃物片手に追い回されたくない」
「あー、それいわれると弱いですねえ。なんたって私が殺しちゃったんですし」
「あっけらかんと言うなぁ言葉。女ってやっぱ怖いや」
「あら、いまごろ気づいたんですか誠くん?」
 くすくす、あははとふたりは笑った。

 桜の下で『三人』が会うようになったのは、数年前のことだった。
 誠の妻、刹那が急逝した。仕事と家庭を両立して生きた女性だった。誠は妻の最後を見送り、そして丁重に葬った。最後の最後まで妻の前から離れず、周囲は後を追うのではないかと心配したほどだった。途中で仕事をやめ主夫になった誠にとり、妻は誰よりも自慢の愛しい女だった。
 妻を失い子供たちもひとりだち。故郷に戻り死んだように静かに暮らしていた誠の元に、ある日ひとりの老女がやってきた。和服に身を包んだ上品なその女性を見た途端に誠は目に涙を浮かべ、懐かしそうに微笑んだのだった。
 桂言葉と伊藤誠。実に五十年ぶりの再会だった。
 言葉の状況も似たようなものだった。夫は既に見送り、時々孫たちが遊びにくる他は退屈な日々だった。老人会にも時々顔を出していたがその時に懐かしい誠の名を聞き、刹那をなくして沈んでいると聞き、いの一番にかけつけたのだった。
 それから、ふたりのお茶会がはじまった。
 数十年が過ぎた今、あの凄惨な事件はもう風化していた。老人たちには覚えているものも結構いたが、それこそ今さらだろう。六十年たって人が変わったように社交的で明るくなった言葉が今も『誠くん』発言をするのを見るにつけ、もう言うだけ無駄だとあきらめモードに入っているようだった。
 それはそうだろう。愛憎の果てにあれほどの事件を巻き起こし、あまつさえ半世紀以上が過ぎているのだ。まさか本当に今も愛しつづけているなんて、いったい誰が想像しただろう。
 十年想うのは夢のようなもの。二十年想いつづけるのは幻のようなもの。
 だけど、生涯想い続けるというのは……どういう気持ちなのだろうかと。

「しかし……こうして会えて本当によかったな」
「あら、もしかしてもう危ないですか?」
 ちっとも深刻そうでない顔で、老いた言葉がつぶやいた。
「ああ、実は絶対安静なんだ。今ごろ病院じゃ孫たちと先生が大騒動してるかも」
「まぁ」
 くすくす、と言葉は笑った。
「偶然ですね。私も本当は病院逃げだし組です。お互いまだ動けてよかったですね」
「笑うなよ。ほんとはここ来る間に心臓止まるんじゃないかって、すごい不安だったんだぞ。
 言葉の顔見ないで死ぬのだけはごめんだからな」
「似たようなものです。曾孫たちは何も知りませんからね。なんとかお弁当作って持たせてやって、いちばん年長の子がさすがに気づいて病院に連絡してる間に逃げ出したんですよ。
 やれやれです。まさか、二十年も前にやんちゃっ子の孫に教わった裏道を今ごろ使うなんて」
「なるほど、そういうことか。最後の最後まではた迷惑だよなぁおれたち」
「ええ、ほんとうに」
 ふたりは笑った。大笑いしたはずだがその声はもう小さかった。
「ああ……なんか気が抜けたら眠くなってきたな。ちょっとひと眠りすっか」
「ふふ……いいですよ」
 え、と誠が問いかける間もなく、言葉は膝をそろえてぽんぽん、と叩いた。
「はい、どうぞ。こんなおばあちゃんでごめんなさいね」
「膝枕かよ……いいのかな、おれ」
 さすがに躊躇した誠に、言葉はにっこりと微笑んだ。
「いいんですよ誠くん。よぼよぼになっちゃいましたけど、いちおうお姫様の膝の上です」
「じゃあおれは歳くった貧乏国の王子様か。なんだか冴えないなぁ」
「そりゃあもう。悪人同士ですから」
「それもそっか」
「はい」
 何十年も昔の話をまるで昨日のことのように応じ返し、ふたりはウフフと笑った。
「さて、それじゃ騙された王子様はお姫様に化けた悪い妖精(ファタ・モルガーナ)の膝の上でおやすみさせてもらうとすっか」
「それじゃ私だけ悪いみたいじゃないですか。ずるいですよ誠くん。
 あ、でもその役割だと、私の膝は理想郷ですか?あいかわらずお上手なんだからもう」
 そんなこんなを話しつつ、誠はベンチにねころがり、言葉の膝に頭を載せた。
「重くないか?言葉」
「ちょっと。まぁ……誠くんが眠っちゃうまでくらいなら」
「そっか」
 お互い、もうそれが近いのには気づいていた。互いの顔が急速に生気を失っていくのを見て、近付いてくるそれを確かに感じていた。
 だからこそ、ふたりはそこから動かなかった。
「……誠、くん」
 万感の想いを込めて、霞んだ目で優しく老人(まこと)を見つめる老女(ことのは)
「……ことの、は」
 少し苦しくなってきたのか、辛そうに眉をひそめた。
「……愛してる」
「ああ……おれ、も、だ」
 老人は嬉しそうに微笑み、そのままゆっくりと動かなくなった。ふう、と長い息がこぼれた。
 老女はその老人をみて少し涙を浮かべた。そのまま口づけしようと顔を寄せ、そこで何か糸が切れたように力をなくし、そのままゆっくりと老人にからみつくように倒れた。長いが狭いベンチからふたりの身体がずれ、そのままふたりはまだ幼い春の柔らかい草の上に、抱きあうようにころげ落ちた。写真立てがそれを追うように、ぱたんと落ちた。
 
 お互いの家族がそこに駆けつけた時、ふたりはまるで物語の主人公のように手をとりあい、まるで眠るように死んでいた。
 
 ふるぼけた写真立てが、その手に重なるように倒れていた。

(おわり)



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