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逃走

 キィ……。
 車庫に入ると、ひととおりの整備を終えたCLが冷たい空気の中に鎮座していた。
 着替えなどの荷物はたぶん洗濯に回されているのだろう、そこにはなかった。まぁ着替えなんて非常用の一回分だけだし、置き去りにしてもかまわない。燃料と工具、お金があれば間に合う。
 工具を積みなおし、ガソリン携行缶を定位置に戻した。
 ミラー位置をちょいちょいと直し、ギアをニュートラルにしてサイドスタンドをはらう。
 壁ぎわギリギリに押し歩き、目指すところまで来たら右手を伸ばし、シャッターのスイッチを押した。
 ……ガタン!
 静かな作動音がして、巨大なシャッターがせりあがりはじめた。
 一応、ぎりぎり単車が出るくらいまでの高さまで、ゆっくりと開けなくては出られない。
「……」
 外の空気が開くシャッターの隙間から感じられた。
 異様に冷たい空気だ。おそらく今夜にも雪が降り、下は凍結するのだろう。
 季節からいっても、今度降り出したら完璧に積もるだろう。もしかして峠で雪に出くわすかもしれないが、夜間でなければ凍結には至りはすまい。石狩地方まで逃げ出せればこっちの勝ちだ。最悪、苫小牧からフェリーで出ればいいからだ。
「フッ……雪の中ではライダーは生きられないのさ」
 などと、バカっほいふざけた台詞をつぶやいてみる。
 別に意味はない、ただ半分ヤケクソになっているだけである。わはは。
 正直言うと、ここまで崖っぷちぎりぎりの強行軍はもう何年ぶりだった。
 次に降ったら根雪は確実という激烈にヤバい状況での南下である。雪中行軍の装備なんて持ってきてないわけで、最悪、今日中に苫小牧方面に逃げ出さないと帰れなくなってしまう可能性が高かった。
 シャッターが開いた。
 外に出ると、重くて低い雲……まぎれもない雪雲が空を被っていた。
 まだ空全面には広がっていない。それに雪が降っている間は気温は下がらないものだから、今ならギリギリまだ間に合う。
 ハンドル左についている、チョークレバーを手前いっぱいに引く。
 キーをオンにするとニュートラルランプがつき、ライトが点灯する。
 右側の長い、大排気量4サイクル独特のキックスターターを引き出し、地球の重力と勢いにまかせて思いっきり踏み込む。
 
 ……ガシュッ!!!!
 バッ……バッバッバッバッバッバババババババーーーーーー!!!!
 
 単気筒とはいえ現代的なショート・ストロークであるCLのエンジンは、一瞬だけ重苦しそうに息をついだ次の瞬間、元気よく目覚めた。
 たかが400ccとはいえ古式ゆかしい空冷エンジンのさだめ、延々と長い暖気の時間がここからスタートする。だが今の俺にはそれを待ち続ける余裕はさすがにない。エンジンに負担をかけない範囲でそろそろとクラッチをつなぎ、倉田邱の外までCLを引き出しにかかる事にする。
「祐一さんっ!?」
「!!」
 佐祐理さんの声が聞こえ、さすがにギョッとした。
 やべっ!さすがに気づいたか!
 エンジンは……当然まだ暖まってない。だがここから離れるくらいはしなくてはなるまい。
「……」
 佐祐理さんの姿はまだ見えなかった。さっきの声の方向からして、今は廊下を走っているのだろう。
 見えない佐祐理さんに一応手をあげて礼をしておく。
(ふ、決まったぜ。やっぱり単車乗りは去りぎわが肝心だよな)
 よし、クラッチ切ってギアをローに入れて(カコン)、さぁ帰るぞ東京にっ!!
 ……と、その時だった。
「……あれ?」
 ……ぽろろ……ぽろろ……
 唐突にエンジンが息をつきはじめた。
「ちょ、ちょっと待ていっ!」
 やめろ、なんでこのタイミングでトラブルなんて!!
(パニックしてスロットルをガンガン開いている)
 だが無情にもエンジンはみるみるストールし、やがて「ぼろろ……ぼるぼる……ぽすん」と止まってしまった。
「わぁぁぁぁぁっ!ちょ、ちょっとぉ~~っ!」
 な、ななななななぜこのタイミングでエンストするかっ!!(大泣)
(左足を出して単車を支え、キックペダルを出している)
 スコッ!……スコッスコッスコッスコッスコッ……!!!
「ず、すわわわわわぁっ!な、ななななななな、なんでやねんっ!!(蒼白)」
「あ、祐一さん。燃料コックがオフですよ~」
「お、サンキュな佐祐理さ……!?」
「……」
「……」
 いやその……今、真後ろでした声はというと、
「……」
「……」
 おそるおそる振り向くと……そこにはいるのはやっぱり佐祐理さんなわけで。
「……あ、あの~……」
「はい?」
 佐祐理さんはニコニコ笑いながら何故かメットを手に持っていた。
 う、うぐぅ……お間抜けな俺(泣)。
 だがそんな余裕もなく、佐祐理さんからにこやかに言葉がかけられる。
「祐一さん♪」
「は、はいい~(大汗)!」
「もうすっかり風邪も治られたみたいですね。よかったです~」
「は、はは、ははは……」
 ひぃ……笑ってるけど手はしっかりと荷台(キャリア)握り締めてますよ?
「どちらに行かれるんですか?」
「いや、ちょっと街までパーツを買いに」
「藤○サイクルは日曜日、お休みですよ?」
「あ、そ、そうなんだ。モ○スターは?」
「ご存知なかったんですか?あちらはもうずいぶん以前に閉店されたんですよ?」
「へ!?そうなの!?」
「はい。ですから」
「?」
 佐祐理さんはいたずらっぽく笑うと、俺の肩に手を置いた。
 走ってきたのか……いや実際そうだろう。俺が逃げだそうとしている事くらい、佐祐理さんが気づかないわけがないからな……頬がちょっぴり赤くて、こんな事言うとちょっとアレなのだけど、なんだか可愛い。
「佐祐理を、お買い物に連れていってください」
「か、買い物!?」
「はいー……駄目ですか?」
「い、いやその……ゆ、雪が降る前にほら」
「どこかにお出かけになるんですか?」
「う、うんそう。遅くなったらやばいし」
「大丈夫です。峠はこれから積雪になりますけど、街はまだ問題ありませんよ♪」
「い、いや、そうじゃなくてね」
 う、うわっ!!マジかよ!!な、なんとか逃げ出さないと、マジで雪に閉じ込められるっ!!
「祐一さん」
「?」
「……ヘルメットとってください」
「え?」
「……」
「……あぁ、わかった」
 メットを脱いだ。ふさがっていた耳が風にさらされ、びゅうっという風の音が鮮明になる。
「なに、どうし……!?」
「……」
 唐突に、佐祐理さんに俺は抱きしめられていた。甘い、佐祐理さんの香りがいっぱいに広がって、俺の頭はしばしパニックに陥った。
 
 ……いかないで。
 
 言われるまでもなかった……彼女の背中が、肩の震えが、どうしようもなくその意思を俺に伝えてきていた。
 暖かく、柔らかい佐祐理さんの感触の前に俺はどうしようもなく、ただ、その場を動く事ができなかった。
 だめだ。
 俺は、いけない。
 彼女を……佐祐理さんを置いていくなんて……できやしない。
「……」
 一瞬、震えている佐祐理さんの姿が、夢の中の泣いている佐祐理さんの姿と重なった。
「……わかったよ。佐祐理さん」
「!?」
「しかし、その格好じゃちょっと寒くないか?」
「あ、大丈夫です」
「?」
 にこにこと佐祐理さんは笑った。けど、どこか含みのある笑いだ。
「佐祐理は風の子ですから。それに、祐一さんの後ろで小さくなってますから♪」
「うわ、それずるいなぁ」
「あははは、それより祐一さん」
「あぁわかってる。ちょっと待て、携行缶降ろしちまうから」
「はい」
「あ、あと佐祐理さん」
「はい?」
「14ミリのボルト二本、ある?タンデム用のステップ外してあるんだよ」
「あ、はい。わかりました」
 とてとてと走っていく佐祐理さん。
「……けど」
 佐祐理さんの背中を見ながら自問する。本当にいいのかと。やっぱりそれは舞を裏切るって事なんじゃないかと。
 だけどその瞬間、
 
 ……ゲシッ!!!
 
「!」
 なんか、また舞に激しく頭をどつかれたような気がした。
「どうされたんですか祐一さん!?」
 気づくと佐祐理さんは戻っていて、俺の顔を少し心配そうに見ていた。
「まだ調子悪いですか?でしたら」
「いや、なんでもない。なんか、いきなり誰かに頭をどつかれたような」
「佐祐理はそんな事しませんよ?……祐一さん?」
「あぁ、大丈夫……しかし、なんか懐かしい一撃だったな。まるで舞のツッコミ……!?」
「……あ」
「……」
「……」
 思わずふたりで顔を見合わせた。
「……やっぱり、これはそういう事かな」
「……」
 佐祐理さんは何も言わないが、その表情だけで何を言わんとしているかはわかった。
「佐祐理さん」
「はい?」
「途中で牛丼買って行こう。テイクアウトで」
「……あ、はい!そうですね」
 穏やかな顔で、また佐祐理さんはにっこりと笑った。
 
 冬の雨は、あがった。
 大地には冷たい風が吹き荒れ、空には重たい雲がたれ込め、遠くに見える山々は、白い冠雪が既に(ふもと)のすぐ近くまで迫っていた。
 この街を単車で縦横無尽に走れる季節は、あとわずか。時がめぐれば長く、白く、凍てつく冬が全てをすっぽりと包み込むのだ。
 でも、だからこそ人は暖かくなれる。
 だからこそ、ひとは悩み、苦しみ……その苦悩の数だけ、優しくなれる。
「……」
 CLの静かな排気音が、俺と佐祐理さんを優しく包んでいた。
 街までのちょっとしたひとっぱしり……ただそれだけなのだが、俺にはその道のりが、長い長い季節の果てにやっと掴んだ、かけがえのない季節のはじまり。そう思えてならなかった。
 そうだ。
 俺と佐祐理さんの季節は、今やっと、長い年月をへて、ようやく始まろうとしていたのだった。
 
(おわり)
完(2001/3/20)
第一改訂版(2009/12/07)
最終復刻版(2009/12/21)



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