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涼と律子

 草木も眠る丑三(うしみ)つ時。秋月涼(あきづき りょう)の住む部屋にひとりの来客がいた。
 もっともその客人、秋月律子(りつこ)は前日の宵の口からそこにいたのだが。異性ではあるが従姉妹であり小さい頃から姉弟に近い関係だった。だから二人とも明日の仕事に差し支えるという問題を除けば、客観的な意味の問題はないはずだった。
「うん、涼の言いたい事はわかった」
 律子は一瞬だけ少しうつむき、そして再び涼の顔を見た。
「でもね、いくらなんでもまだ大丈夫なんじゃないの?そりゃあ、いつまでも女の子アイドル続けられるわけがないっていうのはわかるけど、でも、だからって今やめる必要なんてないと思うけど?少なくとも今、あんたは押しも押されぬトップアイドルなのよ?誰もが着ける席じゃないって私が言うまでもなくわかってるでしょう?」
「もちろん」
「だったら!」
「うん。でももう決めたから」
 涼の目は、ただひたすらに静かで穏やかだった。
「……」
 律子は反論しようとした。だが涼の穏やかな瞳を思わず覗き込んだ途端、言葉が続かなくなってしまった。
 それは律子の知らない涼だった。
 なよなよした少年だったかつての彼とは全く違っていた。だが、だからといって大人の男性の頼もしさなども微塵も感じる事ができない。むしろ大人になりかけた女性のそれに近いように律子には感じられた。
 いつのまに。
 彼女の可愛い従弟は、いつのまにこんな顔をするようになった?
「あのね、律子姉ちゃん」
 涼の口元が僅かに歪み、そして少しだけ眉がしかめられた。
「どのみち、あの日……男である事をカミングアウトする道が閉ざされた時点でこの日がくるのはわかってたんだよ。ずっと無理して続ける事だってできないわけじゃないけど、でも、僕を女の子だと信じて夢を見てくれているみんなを悲しませる事はしたくないんだ」
「今あんたが突然去れば、その、夢見てくれているファンに対する裏切りじゃないの?」
 辛うじて浮かんだ反論を口にする。
 だが律子にもわかっている。性別を偽っている時点で涼は皆を裏切っているのだ。しかもそれは元々本人の意志ではなく、周囲に強制されてやむなく始めた事。
 そも、ここに律子がいる事自体がその証拠。彼女もまた涼にそれを強いた一人であり、その罪悪感が彼女をここに居させているのだから。
 そんな律子の内心を知っている涼も小さく首をふり微笑んだ。
「それで……それで涼、やめてどうするつもりなの?」
「当分雲隠れかな。いくら今トップアイドルでも芸能界の動きは早いでしょう?何年かたてば誰も顔なんて覚えちゃいないだろうから」
「そ。876プロの方には話したの?」
「社長には猛烈に止められた。でも押し切ったよ」
「なんて言って説得したの?今まさに絶頂期のあんたを手放すなんて普通ありえないと思うけど」
「このまま進めば確実に、たぶん最悪の形で男だとばれますよって言って納得してもらった」
「……そう」
 それしか律子には言えなかった。
 涼は現役トップアイドルである。その実力も人気も今や「日本人なら誰もが知っている」という状態に近い。初期にいくつかの挫折があり一時は潰れそうにもなったのだが、元々涼は大きな才能を持っていた。だからアイドルを続けているうちにとうとうトップアイドルまで登りつめたし、今やまさに押しも押されぬ絶頂期。
 もし今、そのトップアイドルが男であるとセンセーショナルにすっぱ抜かれたら?
 確かにそれは最悪の事態だろう。最悪の場合、同じ事務所所属のアイドル全員巻き込んで壊滅的な事態をもたらすかもしれない。
 芸能プロはあくまで商売だ。876プロの社長がいかに人格者でも、涼に一切カミングアウトさせなかった程度にはやっぱり、どこまでも経営者。そこはうまく立ち回り、他の子に被害が及ばないようそうなったら涼だけを綺麗に切り捨てるだろう。
 だがどのみち、飛び抜けた稼ぎ頭の大惨事にうまく対応できるとは考えにくい。涼や彼らの対応がひとつ間違えば何が起きるかわからない。
 綺麗に去りたいという涼の意志は、876プロ社長としても同じ気持ちだろう。おそらくその線で説得したに違いない。
「わかったわ」
 律子は頷き、そして少し首をかしげた。
「雲隠れするにしてもあてはあるの?お友達や誰かにはどう伝えるの?なんなら中継役くらいするけど?」
 だが律子はこの言葉にも後悔する事になる。なぜなら、
「ありがとう。あては、まぁなくもないよ。あと別れが必要な人はもうすませたから。ずっと連絡をとりつづけたい人は……誰もいない」
「いない?ひとりも?」
 いくら忙しかったからといっても友達のひとりやふたりいたろうに。
 だが。
「うん。アイドルである事がバレそうになってシラを切ったり、いろいろやってるうちに学校の友達は誰もいなくなった。まぁその、薄々気づいてるからこそ遠巻きにして誰も近づいてこないのかもしれないけど」
「……そっか」
 律子はこういう事に疎い人物ではない。それが、ずるずると続いた性別詐称の結果だという事にもちろん気づいた。
 性別さえ詐称してなければ無理に秘密にする必要はない。アイドルとプライベートの両立は難しいだろうが、それでも何とか維持できる友達のひとりもいたろうに。
 ようするに、とっくの昔にプライベートなんて無くなってしまっていたわけか。
 爽やかな涼の笑顔が痛すぎる。
 だが律子は目を背ける事だけはしなかった。自分がそれをしてはならないと思っていた。
 話は続く。
「桜井さんだっけ?彼女とはとっても仲良しなんじゃないの?」
 駆け出し同然の頃からライバル兼友人のような状態になっていたアイドル、桜井夢子。涼とふたりが親友である事も、そして夢子が一時悪い道に走っていたのを涼が引き戻した事なども知られている。
 だが。
「たぶん嫌われたと思う。さすがに今回は」
「……そう」
 見ていられない。
 涼の顔がはじめて大きく歪んだ事で、桜井夢子に対する涼の感情なんて余裕で理解できた。
 だが、どうしようもない事も確かにわかった。
「単にびっくりしてるだけじゃないの?男の子だって言ってなかったんでしょう?」
「ずっと前に言ったよ。信じてくれなかったけど」
「今回は信じたのね?でも、どうやって?」
 嫌な予感を感じつつも、聞かずにはいられない。
「簡単だよ。脱いで見せた」
「……」
「二度と顔見せるなってさ。あはは」
「……」
 笑い事じゃないだろと思ったが、涼の透明すぎる笑みの痛々しさにどうにも突っ込めなかった。
「876プロの同僚の方は?」
「絵理ちゃんはとっくに気づいてた。知った時は本当にびっくりしたそうだけど、僕がカミングアウトするために努力していた事とか、オーディション落ちてその道が閉ざされた事もわかってた。どうも納得したうえで知らんぷりしてくれてたみたい。今さらながら頭さげたよ。
 愛ちゃんはものすごくビックリしてドン引きだったけど、今まで仲間としてやってきた事で信じてくれたみたいで、男のひとでも涼さんは涼さんですって笑ってくれた」
「よかったじゃない」
「うん。でも二人にはもう会えない。一緒にいるとこをフォーカスでもされたら迷惑がかかる」
「……そ。わかった」
 それだけ聞くと、律子はたちあがった。
「この時間に帰るの?泊まってけば?」
「大丈夫、うちにはマメマメしいプロデューサがひとりいるから」
 そう言うと携帯をてにとり電話をかけた。相手が出る前に切る。
「これで迎えがくるわ。お邪魔したわね涼」
「そっか。わかった、おやすみ律子姉ちゃん」
 静かな微笑み。穏やかな月光のような澄んだ微笑み。
 男性のそれとはとても思えない笑顔を、律子は見続ける事ができなかった。



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