パリのホテルのラウンジで、三人の女が話をしていた。
ひとりはまだ幼さを残す少女。ひとりはその母親であった。もうひとりの女はちょっと困ったような顔で少女を見、不満たらたらの顔をして女を見るということを繰り返していた。
母親は呆れたようにためいきをついた。
「さすがに今回という今回は呆れも怒りも通り越したわ。よりによってせっちゃんの恋人で、しかも自分の娘の想い人である男の子を強引に横から掠めとるなんてね」
「掠めとるって……!人聞きの悪いこと言わないでよちょっと!」
女は怒った。母親のそばで悲しそうにうつむいている少女の顔は目に入ってないようだ。
「だって誠は私を尋ねて来たのよ?バイトの子たちだって『踊子さんに逢いたいって子がきてる』ってはっきり言ってたもの!」
「バイトの子たちが、ね」
はぁ、と母親はためいきをついた。
「ようするに本人に確認はしてないのね?」
え、と驚いたような女の声がした。
「どうせ『こっちにいらっしゃい』なんて呼び寄せて、何も言わせないうちに問答無用で押し倒したんでしょ?違うのかしら?」
「それは」
たじろいだように女の目が泳いだ。母親の目がきつくなった。
「いい大人のすることかしらそれが?しかもその結果がこれなわけ?
はっきり言わせてもらうけどね踊子。これは男をとられたとかそういうレベルの問題じゃないのよわかってる?
そもそも貴女、この事を世界ちゃんになんて言うつもりなの?言いたかないけどせっちゃんから世界ちゃんにはバレるわよ?そこから世界ちゃんがどれだけショック受けても私は一切知りませんからね!」
「そんなぁ……」
怒り心頭の母親と、悲しそうな女。
「……」
おいてけぼりにされている少女は、じっとテーブルを見つめていた。悲しそうな目、悲しそうな顔。
だが、その目にはひとつの悟りのようなものが宿っていた。そしてそのまま少女は椅子を引き、立ち上がった。
「どうしたのせっちゃん?誠くんとお話してみる?」
話題の人物は別室に放りこんである。慣れない異国であり身動きはとれないはずだった。
「必要ない」
ふるふるとせっちゃん──清浦刹那は首をふった。
「おばさんの好きにすればいいんじゃないの?」
そう言って女を見る刹那にはまったく表情がない。
そして女はというと、刹那の言葉だけを真正直に受け取ったようで、ちょっとすまなそうな、でも嬉しそうな顔をした。
「そう」
そんな娘を痛ましいものをみる目で母親──清浦舞は見た。そして無神経な女に文句を言おうとしたのだが、
「ここにいても意味ないし。部屋に戻る」
「そう」
そう言って立ち上がった刹那の方に反応した。
「じゃあ私も部屋に戻るわ」
「お母さんはいいよ別に」
心配ないという顔をした刹那だったが、舞はそんな娘に首をふった。
「そうもいかないわ。せっちゃんと相談したい事もあるしね」
「わかった」
舞は娘に連れ添って立上り、歩きだそうとした。
「ああそうだ、踊子」
「なに?」
困ったような、でも幸せそうな女に振り返り、舞は言った。
「公私の区別はちゃんとつけなさいよ。いくらなんでも、この状況でも貴女を庇うほど私をお人好しだと思わないで頂戴ね」
眉をよせ目を細めて、微かに怒りすら滲ませた顔で言った。
「ん、わかった。ありがと舞」
女はそんな舞がわかっているのかいないのか、おっとりと微笑んでそう返した。
「……じゃあね」
ふたりは女に背を向け、歩きだした。
「……」
女はそんなふたりがエレベータホールの方に消えていくのを確認すると、
「さて。お叱りはすんだところで、寂しがってる誠のフォローフォローっと」
にっこりと微笑み、女は立ち上がった。
「せっちゃんごめんね。でもまぁ、子供時代の淡い失恋の思い出はきっと将来の糧になるよ。
さて、それじゃあ私はと♪」
自分勝手なことだけ一方的に聞くひともいないのにつぶやくと、いそいそと少年の待つ別室に向かって歩いていった。
それは、恋に狂うあまりに周囲が見えていない女の顔だった。
エレベータホールに入り、もうラウンジからは声の届かない場所に来たところで刹那がぽつりとつぶやいた。
「お母さん」
「なに?せっちゃん」
「さっきおばさんに言ってた事って?」
娘の言葉に、舞はふっと自嘲ぎみな笑みを浮かべた。
「つくづく、お人好しなのね私も。せっちゃんのこと笑えないわ」
「え?」
なんでもない、と舞は笑った。
「ま、あれでわかる人なら私より上にいてもおかしくないはずなんだけど。
せっちゃんも仕事してる職場に男の子引き込んで真っ昼間から遊んでるようじゃ……今回もダメでしょうね」
「あ」
刹那もそれに気づいたようだ。
「お母さんの勝ち?」
「娘の不幸と引き換えじゃ、とても喜べたもんじゃないけどね」
はぁ、とためいきをついた。
娘はそんな母に、まだ泣き顔のままだがクスッと笑った。
だが、
「ごめんね、せっちゃん」
「え?」
「もっと早く気づけばよかった。踊子たちとの飲み会の時とかに気づいていれば、こんなひどい事には」
「……」
じっと見つめる刹那の前で、舞は涙を浮かべていた。
「泣かなくていいよ。お母さんのせいじゃないし」
「わかってる、ありがとねせっちゃん。
でも情けないじゃない。よりによって親友と思っていた相手に、しかも自分のじゃなく娘の恋人を目の前でとられたのよ?それもこんなひどい状況で。
ここまでみじめな思いを味わったのは初めてよ。あのひとに裏切られた時だってこんな気持ちはなかったのに!」
悔しそうな、悲しそうな舞。刹那も眉をしかめた。
「……ごめん。もっと執着した方がよかった?」
「!」
娘の気遣いに気づいた母は、ぶんぶんと子供のように首をふった。
そして、優しい母の笑顔を浮かべた。
「いいのよ別に。せっちゃんが彼に執着するならいくらでも協力してあげるけど、そんな気もないのに意地だけで張り合っても単に無駄に傷つくだけだわ。
ふふ、だめね私も。娘にそこまで気を使わせてちゃ」
「……」
「でもいいの?本当にいいの?踊子に誠くんあげちゃって」
「いい」
「どうして?ここには踊子はいないし、遠慮はいらないから言ってくれない?」
「……」
刹那は母親の顔を見て、そして悲しそうに首をふった。
「まこちゃんが好き。本当は渡したくなんかない。
だけど……まこちゃんをつなぎ止められる自信がない。あんなのどうやってつなぎ止められるか正直想像もつかない」
「どういうこと?」
眉をしかめた舞に、刹那は語った。
「まこちゃんは、空港で会うまで『年上のお姉さん』が誰なのか知らないって言ってた。これは嘘じゃないと思う。世界のお母さんであることはもちろん、パリ出張でいない事すらもまったく知らなかったんだと思う。
だって夏祭りの時まこちゃん言ってたもの。俺は弄ばれただけだって。おばさん本当に何も話してなかったんだね。おまけに携帯忘れてるから連絡もつかないし、まこちゃんすっかり『俺、捨てられたらしい』って完全に諦めちゃってた」
「!」
舞の顔が驚きに染まった。
「まこちゃんは私を追ってきた、これはたぶん間違いない。だってそうでしょ?行き先もわからないひとをフランスまで追いかけてくる理由がわからないし、かりにラディッシュで行き先を訊いたとしても、捨てられモードのまこちゃんがいきなりここまでくるなんてやっぱりおかしい」
「……」
舞は刹那の話を訊くうち、まさかという顔になってきた。
そして刹那も、そんな舞にうんと頷いた。
「ということは」
「うんそう。おばさんに一瞬で籠絡されちゃったわけ」
「嘘」
あっけにとられた顔の舞を見つつ、悲しげに刹那は頷いた。
「まこちゃんにとっておばさんがそれほどに好みなのか、そんな理由はどうでもいい。
だけどそんな理由で、はるばるヨーロッパまで追っかけてきた女の子の目の前であんな風にあっさり籠絡されちゃうような男の子をうまく扱うことなんて私には絶対無理。できないし、正直したくない」
「そりゃまぁ……ううん、そんなのせっちゃんどころか私にも、踊子にも無理ね」
「そう?」
「ええそう。そんなの扱える技術があるんなら、うちはそもそも母子家庭になんかなってないわよ。踊子もね」
「そっか」
ふう、と舞はためいきをついた。脳裏に刹那の父の顔が浮かんだのだろうか。
「わかった。確かにそりゃ諦めて正解。お母さんもそう思う」
「うん」
娘は何もいわず、母に寄り添った。母も娘の背中に手を添えた。
娘の背中は震えていた。しかし母はそれに気づかないふりをしつつただ優しく、優しく包んでいた。
「ルームサービスでもとろっか」
「おなかすいてない」
さすがにいっぱいいっぱいなのだろう。泣きそうな娘に頬を寄せ、舞は諭すように言った。
「食べられなくても少し食べなさい。空きっ腹にお酒はよくないから」
「え」
「いっぱい飲もう。で、お母さんにお話訊かせて頂戴。せっちゃんがもういい、もう何も話したくないって思うまで、思うぞんぶん何でもぶちまけなさい。
こういう時はね、信用できる相手にぜんぶぶちまけるのがいいの。
お母さんには何もしてあげられない。だけど、お話くらいならいくらでも聞いてあげられるもの。誰にも言えないようなこと、世界ちゃんにも内緒にしてたようなこと、なんでもいい、全部聞いてあげる」
「……」
「どう?」
「……」
「ん?」
「……うん」
娘は母の胸に顔を埋めた。涙を見せたくないからだった。
母は娘を黙って抱き、じっと立ち尽くしていた。