さて、この短い物語の最後に、少し不思議なお話をしよう。
晴れて一緒に暮らしはじめたことみと朋也くん。汐のこと、渚のこと、なにもかもが昔とは違うけど、それでもふたりは歩きはじめた。ことみの凍り付いていた歯車は動き出し、朋也の止まっていた時計も時を刻みはじめる。汐もその間ですくすくと育ち、まもなく小学校への入学が決定している。
そんなある日。ことみは駅から自宅への道を歩いていた。
「ふう。すっかり遅くなったの」
すっかり夜になっていた。もう春も近く、寒いには寒いが歩くにはむしろ心地よい。どこかから花の香りがする。
月が真円を描いていた。見事なまでの満月の夜だった。
「あれ?」
ふとことみは、前方に立っている女の子の人影に気づいた。
懐かしい制服を着ていた。自分が着ていたのと同じ色で、今はもう廃止されたはずのものだった。こちらに向いて微笑み立っている。とても優しい目線で、間違いなくことみをまっすぐ見つめている。
心の琴線が、大きく震えた。
「あ」
ことみの歩みが止まった。
女の子はゆっくりとことみに近付いてきた。ことみよりいくぶん背が低く、いくぶん幼児体型でもあった。髪は長くなく、前髪に癖があるのかまとめきれない前髪の一部が少し立っている。きっと風に吹かれて乱れたのだろうとことみは思った。彼女の写真はそのほとんどで前髪のその部分がピンと立っていた。それくらい前髪に癖があったわけだ。
それでもパーマなどで直そうとしないあたり、本人も少しだけそれが気に入っていると思われた。
「こんばんわ。ことみちゃん」
女の子はにっこりと、ことみに笑いかけた。
「あなたはだあれ?」
誰かはわかっているのに、そうことみは問いかけた。
「わたし、ですか?そうですね。ことみちゃんを困らせる悪の演劇部長ということで」
「……いじめる?」
「いえ、いじめません」
第三者にはいささか珍妙な挨拶だった。だがふたりにはそれでいいようだった。
「不思議。ほんもの?」
つい、科学者的思考なのかぺたぺたと触ってしまうことみ。しかし女の子は微笑むだけだ。
そして女の子は、そんなことみに逆に問いかけた。
「えっとですね。ことみちゃん、で間違いないですよね?」
「はい?」
女の子のちょっと困ったような問いかけに、ことみは首をかしげた。
「実はですね。わたしの知ることみちゃんより、今わたしがお話していることみちゃんはその…少し年上のようなんです。でも確かにことみちゃんなので、ちょっと不思議で」
「……あぁ」
なるほど、とことみは納得した。いささか附におちない部分も多々あるようだったが。
「それは大変。渚ちゃん迷子なの」
「え?そ、そうなんですか?」
まるで子供のようにあわてだす渚に、ことみはクスッと笑った。
「きっと心配ないの。この邂逅は本来ありえないものだから」
「はぁ。そうですか」
そうなの、とことみは頷いた。
「渚さ…渚ちゃんの知ってる私は、どんなひと?」
「えっと……そうですね。本人の前で言うのも変な感じですけど」
渚はたどたどしく自分の知る『一ノ瀬ことみ』について説明しはじめた。
「ことみちゃんは今、演劇部の部員さんという事になってます。まぁ名ばかりの、楽しくおしゃべりしたり一緒に遊んだりする団体と化してますが。杏ちゃんや椋ちゃん、それに岡崎さんと五人で」
「……椋ちゃん……朋也くんも?」
杏と少し親交の始まっていたことみだったが、妹の椋は挨拶した事くらいしかなかった。
「もともと、岡崎さんがことみちゃんのために自分の知り合いを集めたっていうのが最初だと思います。たちまち仲良しになっちゃってそんなことどうでもよくなりましたけど。今はことみちゃんが輪の中心にいますね。岡崎さんはことみちゃんの彼氏なのでちょっと特別ですが」
「……そう」
嬉しさ半分、申し訳なさ半分でことみは顔を曇らせた。
「ことみちゃ……って、どう見ても年上なのにことみちゃんって呼ぶのは失礼ですね」
「ううん、いいの。ことみちゃんで」
「あ、そうですか。すみません」
律義に頭を下げると、渚は言葉を続けた。
「今度はことみちゃんの知っているわたしが知りたいです。わたしはどうしてますか?」
「……渚ちゃんは朋也くんと結婚したの」
「はぁ。岡崎さんと……ってえぇっ!!」
結婚という言葉に途中で気づいたのか、渚は真っ赤になってあわてだした。
「わ、わわわわわたしなんかが岡崎さんと、ですか!?」
そんなに驚く事なのかな、と思いことみは首をかしげた。
「子供もいるの。いろいろあってわたしも仲良しなの。とても可愛いの」
それで名前はね、と言いかけたことみだった。だがそこでふと態度をこわばらせてしまった。あまり言うと別人とはいえ、当の渚に『こちらのあなたはもう亡くなってます』なんて言う羽目になりかねないからだった。
もっとも、こっちに渚が『もういない』からこそこの邂逅が成立しているのではないか、とも科学者としてのことみは仮定していたりもした。同じ場所に同じ人物がふたりいるというパラドックスはあまり喜ばしいものではなかったから。
そんなことみに気づいているのかいないのか、渚は複雑そうな顔で笑った。そして
「そうですか。しおちゃん可愛いですか。見てみたいですね」
そんなことを言った。
「!?」
はたして、その言葉はことみをひどく驚かせた。知るはずのない汐の呼び名を渚がつぶやいたからだった。
「……どうして汐ちゃんの名前を知ってるの?」
当然だがことみはそう渚に問いかけた。半面渚は、
「あ、やっぱりしおちゃんってつけたんですね。いえ、昔から子供ができたらそうつけようって内心思っていたものですから。あくまで夢ですけど」
そう、やたらと嬉しそうに笑った。
その笑顔はことみには少し眩しすぎた。渚の最後を聞いていることみには、とても直視できそうにないものだった。
「そうなの」
たったそれだけ、ことみはやっとのことで答えた。
そんなことみを見て渚は何か考えているようだった。そして何か決めたように顔をあげた。
「さて、ではわたしはそろそろ行きます」
「帰るの?大丈夫?」
「はい」
渚はにっこりと笑った。
「実はわたし、知ってるかもしれませんけど病気がちなんです。あまりウロウロしているとお父さんやお母さんに心配かけてしまいます」
「そう。気をつけてね」
「はい、ことみちゃんも」
できれば、早く話を打ち切りたいとことみは思った。いらぬ事を言い傷つけるかもしれないから。
「……」
渚はというと、そんなことみを優しい目で見ていた。まるで全てを知っているかのような、そんな微笑みで。
そして渚は微笑み、ことみの頭をなでた。
「……渚ちゃん?」
さすがに怪訝そうな顔でことみが眉をしかめると、
「…とも…岡崎さんとしおちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
「!!」
そして顔色を変えたことみが何か言いかける前に、
「それじゃ」
たったそれだけをいい残して、渚は消えてしまった。
「…」
ことみはしばらく、呆然としたまま立ちすくんでいた。
「どうして?」
ことみの分析では、それこそありえない事だった。
どういう原理で渚が訪れていたのかは知らない。確かに触れた手に手応えがあり髪には重量感すらあった。ことみの知覚が狂って幻覚を見ているのでなければ、それは確かに渚だったのだ。
消えたことがおかしいのではない。そんな事より、なぜ『こちらの渚がもう生きてない事を彼女が知っているのか』。そちらの方がはるかに異常事態だった。
渚が何かの現象により『たまたま』来訪したのならそんな事知っている可能性は低いはずだ。そして、たとえ彼女の世界になにかしらの方法で異世界を訪れる手段があったとしても、こちらの事情をきちんと把握するためには何度となく来訪しなければならないはずだし、そんな事をすればこの狭い町のこと。死んだはずの女の子が古い制服姿でうろうろしていれば当然話題になるだろう。情報を集めるためには誰かに聞かなくてはならないわけだし渚の知人はあまり多くなかったと聞いている。つまり彼女が動けば話題になっている可能性が高いのだ。
しかし、そんな話聞いたこともない。
「もしかして」
ことみは、両親が発表しようとして結局幻と消えた論文のことを思い出した。
「もしかして、あの世界の…?」
ことみはまさかと思った。しかし、小さいながらも確かに可能性があるのも事実だった。
この町にこだわり、この町でことみを育てようとした両親。その両親が発表しようとしていた論文についての話。
そして、聞いたこともない不思議な現象で来訪してきた、この世界の者でない古河渚。
「……」
ごくりと、ことみは唾を飲みこんだ。そして空を見上げ、きゅっと唇を結んだ。
「……追いつけるかも」
それはことみの遠い夢。父母の発表できなかった論文を自分の手で完成させる……そんな、そんな遠い夢。
「追いつけるかもしれない」
もういちど、ことみは繰り返した。いつしか握りしめた手に汗が滲んだ。
とりあえず帰らなくては。そう思いことみが歩きだそうとしたまさにその時、
「やっほー。ことみ!」
「杏ちゃん」
「ごふっ」
見れば、そこには妹所有の軽ワゴンから顔を出した杏の姿が。なぜかボタンも伴っていた。
「ボタンちゃん、こんばんわなの」
「ごふっ」
ボタンはご機嫌そうにあいさつを返した。
「乗りなさいよことみ。送ってってあげるから」
「え、でも」
遠慮することみに杏はけらけらと笑って言葉をつないだ。
「いいのいいの。あんたんちに殴り込みかける途中なんだからむしろありがたいくらいよ。まさか、あんたの留守中に汐ちゃんはともかく朋也んとこに押しかけるわけにゃいかないもの」
見れば後部座席には重箱がある。中身は料理だろうか。
「この間あんたんちで食べさせて貰ったでしょ?あれの反撃」
ようするに、味で敗北したのでリターンマッチを狙ってきたらしい。
「いつまでもあんたに負けてらんないもんね。一ノ瀬博士」
おどけてわざと博士の名で呼ぶ杏にことみも微笑む。
「受けてたつの。愛するひとのためのお料理だもの。簡単に負けるつもりはないの」
「はぁ…言ってくれるわこの子。いいわ乗りなさい!」
「わかったの」
一ノ瀬ことみを主軸にした短い物語は、これで終わりである。
彼女が結局朋也とどうなったのか。一ノ瀬ことみでなく岡崎ことみになれたのか。この物語ではそれを語らない。汐の元に現れた光と渚との邂逅が何を意味するのか、それも語られる事はない。前者は未来のことであり未だ確定してはいない。後者に至っては重要ではないしそも、これから生涯の全てまたはいくばくかを賭けて当のことみが挑む問題でもある。それが単なる並行世界なのか、それとも超弦理論の示すところの高次の忘れられた世界のひとつなのか。それは未来の、あるいは他の誰かの手に委ねる事となろう。
そして、確かに今はそんなことどうでもいいのだ。なぜなら、
「パパ」
「ん?」
「ことみちゃん」
「なぁに?汐ちゃん」
「……なんでもない」
「???」
左右に並ぶふたりを見て満足げに笑う、汐の笑顔こそがその解答なのだろうから。
(おわり)