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『終章・川の字(4) 結話(けつわ)』

 世界はひとつではない。
 それは多くの科学者が推測し述べた事であり、決して絵物語ではなかった。愛する娘に超弦理論(ちょうげんりろん)に由来する名をつけた一ノ瀬夫妻もそうで、彼らはこの世界が生まれる時に別れた異世界の行方を探し突き止めたと言われる。残念ながらその理論は発表される事なくふたりはこの世を去ってしまったが、残された娘も理論物理学の道に進みあまつさえ名を馳せつつある。このため一時はその難解さからトンデモに近い扱いすらうけた超弦理論も次第に趣きを変えつつあり、かつては同理論を批判していた学者もこれを用いて論文を書くまでになった。1980年代に発表されて以来浮き沈みの激しかった超弦理論だが、ここ数十年のうちに革命的進歩を遂げる可能性も指摘されている。
 ことみとは琴の弦が奏でる調べの事。超弦理論で言う『振動』つまり世界のなれそめがすなわち彼女の名である。父母の道に進むのかそれとも別の側面から真実に迫るのか。そのあたりは未だ未知のベールに包まれてはいるのだが。
 とはいえ、ここ数日のことみにはそんな事よりもっと大切なことがあった。朋也とその娘との関係だ。ずっとひとりぼっちだったことみだがもはや孤独ではなくなった。今はまだそれがことみの『一ノ瀬博士』としての面に影響を与えてはいないのだが、いずれ全ては変わり出すだろう。
 この短い物語も、ようやく終わりを迎えようとしていた。
 
 やっと綺麗になってきた花壇に、色とりどりの花が植えられていた。
 大きな手と小さな手。さっさと仕事を進める手と、たどたどしくそれを追いかける手だった。もう随分と作業が進んでいるのかふたりの移動した後にはさまざまな花が咲き乱れる。手入れのすんだばかりの芝生から水分と草の匂いがたちのぼり、わずかな風がそれをとりまきやわらかな空間を形作っていた。
「汐、もう休んでていいんだぞ」
「やだ」
 意地でもパパと一緒にやると言いたいらしい。その母親そっくりの顔に朋也は懐かしいような、さびしいような顔をした。
「そっか。じゃあ汐、ちょっとお願いあるんだけどいいか」
「なに?」
「ことみにお昼まだって聞いてきてくれるか?」
「うん、わかった」
 汐は神妙な頷くと、トテトテと古ぼけた家に向かって歩いていった。
「先に手を洗うんだぞ!」
「うん!」
 いちいち振り向いて答える。そのしぐさまでいちいち母親に似ている。朋也はためいきをつくとまた庭に目を戻した。
「さぁて、今のうちに草刈り機使うか。あれ動かすと自分にやらせろってうるさいからな汐は」
 あれはさすがに六歳児にはあぶないからな…そう言うと朋也は、愉快そうにニヤニヤ笑うのだった。
 
 庭に面した大窓から入ると、そこは古びた洋風の応接間である。
 かつて、まだ小さな子供だったことみと朋也の出会った場所。そこに汐はあがりこみ、とてとてと歩いていく。埃こそ綺麗に掃除されているが長い年月に晒された広間はいい具合にくたびれていて、まだどこかさびしそうに見える。
 だがそんな感傷など汐には関係ない。ことみと朋也がどんな気持ちでそこを見ているかなんて彼女には意味がない。汐にとっては『おっきくて古いおうち』でしかないからだ。
 もしも少しだけ、時が違っていたらどうなったろう?たとえばことみと朋也が結婚し、その娘として汐が生まれていたのなら?あるいは渚が存命で、朋也の友人宅としてここを訪れていたならば?
 いや、それこそ詮ない事だろう。ことみの娘なら汐は汐ではないし、渚が存命ならそもそもこの家はことみの手には戻らなかった。それどころか朋也は「ことみちゃん」を思い出す事もなくきっと、岡崎家と古河家のふたつを中心に汐の世界も構成されていたに違いないのだから。運命とは得てしてそういうもので『完璧』はありえない。何かを得るためには何かが犠牲になる。そういう事なのだろう。
 少なくともこの世界では『一ノ瀬ことみ』は救われた。せめてそれだけでも喜ぶべきなのだろう。
「ことみちゃーん」
 廊下出つつ汐は叫んだ。しかし返事を期待しているわけではないようで、そのまま薄暗い廊下を歩いて台所へ向かっていった。
「ん、どうしたの汐ちゃん?」
 果たして、台所には割烹着姿でスカーフをしたことみの姿があった。
 建物の他の箇所がボロボロもいいところなのに、台所だけは傷み具合がとても少なかった。少なくとも数年前まではきっちりと手入れがなされていた事が伺える。実際、書斎と寝室それにここは高校時代までことみの生活空間だったわけで、どの道具もきちんと手入れが施され使用される日を待ち構えていた。なんならおせち料理フルセットだって作れるの、とは自慢げなことみの談。実際、裏ごし器ひとつまでしっかり馬の毛が使われている懲りようだった。
「あのね、ことみちゃん。お昼まぁだってパパが」
「えっとね、もう少しなの」
 そのひとことで、朋也の深意までなんとなく察してしまうことみ。本来あまり気がきくタイプではないのだがそこはそれ、頭の回転の早さで補っているようだ。
 実際、ことみはクスクス笑うと戸棚に手を伸ばした。
「汐ちゃん手伝ってくれる?おなかペコペコのパパのために」
「うん、てつだう!」
 汐は満面の笑みを浮かべてにっこりと笑った。
 
 少し時間を戻そう。
 ことみと朋也は汐と古河家の勧めもあり、一緒に住むことになった。
 ただことみの強い意志から正式の婚儀は棚上げされている。法的には内縁の妻という事になるがこれでもいくばくかの保証は受けられる。実際、朋也はこれにより会社から少し補助がもらえる事になった。
 それは、ことみなりの汐への気遣いだった。
 汐がどれだけ無き母を慕っているかをことみは知っていた。そして幼くして両親を無くしたことみはその思いを大切にしてあげたかった。家庭のぬくもりはあげたい。でも汐の『おかあさん』を自分の存在が壊してしまうのは避けたい。少なくとも汐がそれを望むまでは……そうことみは言った。朋也どころか古河の両親にまで勧められたのに絶対に首を縦にふらず、汐ちゃんが大きくなるまではこのままでいいの、と言いきったのだった。
 そしてそれは数年後、小学校の作文に『ふたりのママ』について汐が書く事でひと騒動の原因となったり、ことみの影響を受けた汐が勉強にも意欲を見せ朋也が驚くほどの優秀な子に変貌していく原因ともなるのだが……それはまぁいい。とにかく三人は今、この家に住みはじめているのだった。
 もっとも、とある筋が買い戻してくれたとはいえ長い間の無人状態で一ノ瀬邸はあまりにもぼろぼろだった。とりあえずアパートなみの広さの居住空間を用意してまずそこから作業を開始。ことみの元寝室と両親の書斎、台所をキープしたところで本格的にことみも朋也もアパートやマンションを思いきって引き払い、こちらに転居してくる事になった。
 だがことみはともかく朋也の場合、渚の思い出の染み着いたアパートを引き払うのは並大抵ではない思いがあった。ことみと汐に先に行かせると朋也は、渚の遺影とふたりでアパートに残った。
 その時は、そう…こんな感じだった。
 
「なぁ、渚」
 何もなくなったアパートの部屋。渚の遺影と向かいあい、朋也はつぶやいた。
 もともと古かったアパートはここ数年でさらに古びてしまっていた。本当に安いアパートで畳の手入れなんかは現状渡しであり、あまり多くなかった家具がなくなった部分だけがいくらか新しさを残している。その色の違いこそがここで重ねた歳月そのものであり、過ぎた時間を物語っている。一応礼儀ということで汐がぶち抜いてしまった障子だけが綺麗に張り替えてあったが、それが新しすぎて少し浮いてもいた。
 静かな空間に西陽があたる。渚もあの頃こうして待っていたんだろうか、と朋也はふとそんな事も考えた。
「ここに来た日、おぼえてるか?後から考えればママゴトみたいな引っ越しだったけど、早苗さんもおっさんも何も言わずに俺たちを送り出してくれたよな」
 そう言うと、朋也は悲しそうな顔で何もない部屋の中を見回した。
「だんご大家族も連れて行っちまったけど、いいよな?おまえも一緒だから……けど、けどよ」
 誰もいなくなったせいだろうか。朋也の目は涙で潤んでいた。
「俺、あたりまえだけどさ、あの日……こんな結末が来るなんて考えもしなかったからさ。なんていうか」
 そうつぶやくと顔を伏せた。ぽろりと涙がこぼれた。
「ひどいよな俺。渚のことだって忘れてないのに、昔泣かせた女の子に手を引いてもらってやっと立ち直って、ちゃっかり昔のこと思い出したりしてさ。
 ことみが籍入れようとしないのもわかるよ。ほんとはさ、俺がちゃんとしないといけないのに。ことみを新しいお母さんだって汐に紹介して納得させなきゃいけないのにそれができないんだ。このままでいいわけがないのに、そんな簡単なことすらも俺はできないんだよ渚。
 なぁ渚。
 俺、ことみが好きだ。たぶんこれは間違いない。渚を忘れたわけじゃないのに、でもたしかにことみが好きなんだ。一緒にいたいと思う。
 なのに、俺はことみを昔よりもっと不幸にしようとしてるんだ。こんなことって」
「アホ」
「!?」
 と、だしぬけに響いた声に朋也は驚き振り向いた。
「おっさんか」
 そこには、古河秋生の姿があった。
「引っ越しぐらい手伝うつもりだったんだが……遅かったらしいな。まぁ新居の方は早苗が手伝いに行ってるから大目にみろや」
 そう言っているわりに秋生は悪びれた様子もなかった。それに視線が何かいつもと違うようにも朋也には見えた。
 だから朋也も答えた。
「あの場所に行ってたのか」
「まぁな。すまん」
「いや、いい。そういう事なら」
 秋生は頷くと部屋にあがりこみ、朋也同様に渚の遺影に向かい座った。
 ちなみに『あの場所』とは渚の過去に由来するふたりだけの秘密の場所だった。ふたりだけしかそれを知らず、その顛末も知らない。渚の父が渚の夫にだけ教えた。そういう場所だった。
 その渚を思い出にしていこうとしている元夫の前で、秋生は渚の写真を感慨深げに眺めた。
「知ってるかおまえ」
「え?」
 秋生はタバコに火をつけながらつぶやいた。
「ことみちゃんな、俺と早苗に『私、渚さんの妹になっていいですか』って言ってたぞ」
「……」
「一ノ瀬夫妻のことは俺より元教員の早苗が詳しいんだ。早苗も直接の面識はなかったらしいけど、この町から世界的な偉い学者が出たってことでよく覚えてたらしい。いろいろ聞かされたよ。なんでも、物理学って学問自体を根こそぎひっくりかえすようなとんでもねえ理論を研究してたらしい。
 早苗のやつ、ひとり娘のことも少し覚えててな。そう、貴女があの…って、微笑んで言ってたっけか」
「そっか」
「けど、そんなご両親を早くになくしちまってよ、とてもさびしい子供時代を過ごしたらしいな。正直なとこ、話聞いてて俺はおまえをブン殴りたくなったぞ。まぁ渚の親としちゃそうもいかねえが」
 そう言うと、ポケットから出した携帯灰皿にたばこを潰して仕舞い込んだ。
「幸せにしてやれ、朋也」
「……」
「あれは昔のおまえ以上に家族って奴に飢えてる。だからこそ汐をああも可愛がるし、一緒に過ごせる事こそ第一義だから正式な妻の座なんてのもどうでもいい。そしておまえや汐と一緒に暮らせて先妻の両親である俺と早苗まで実の親同然に慕ってくれる。わかるだろ朋也、おまえならその意味が」
「ああ」
 秋生の言葉に朋也も頷いた。
「あの子なら俺も早苗もなんの文句もねえ。たぶん渚もそう言うだろうよ。おまえと好き合う女ならまだ今後も出るかもしれないが、汐も、ましてや俺たちまで全部ひっくるめてなんて存在は早々現れねえだろう。その意味であの子は得がたい存在だ。特に汐とおまえにはな」
「……あんたもだろ、変態親父」
「あぁ?」
 ちろりと流し目をする朋也に、秋生は怪訝そうな顔をした。
「ぁんだよ」
「あのな。汐ならまだしも三十路(みそじ)近い女に『あっきー』なんて呼ばせるか普通?はっきりいって今度ばかりは常識疑ったぞ俺」
「ああ、そのことか」
 しかし、言葉を継ごうとする秋生を朋也は遮った。
「ま、さすがのあんたも半分冗談で言わせたんだろうけどな。あいつそういうとこ信じらんねえくらい素直なんだから、渚もそう呼んでたなんて嘘教えるなよ」
「いや……それは俺も早苗に言われてすぐ訂正したんだが」
 ぶす、と困ったような顔で秋生はつぶやいた。朋也はそんな秋生を見てためいきをつき、
「だろうな。でも気に入っちゃって『あっきー』連呼したんだろことみのやつ」
「なんだ、そこまで聞いてたのかよ」
「いんや何も。ただ、ことみが妙に楽しそうに『あっきー』呼ばわりするからな」
「……いやその……さすがにあれはな」
 人前でも散々やられたのだろう。困ったように額をぽりぽり掻いた。
「はぁ」
 朋也は笑った。涙のあとが残っていたから、見事な泣き笑いの顔だった。
 男ふたり。何もなくなったアパートでもういない女の遺影の前。それはあまりに格好悪い姿だった。少なくとも昔の朋也なら他人相手に絶対見せるような姿ではなかった。
『……』
 渚の写真が、ふたりに向かって微笑んでいるように見えた。
 どこからか、誰かが歌う『だんご大家族』が微かに聞こえていた。



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