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捕縛

 垂直の壁を人間が駆け降りるのは不可能である。もちろんそれは翼がないから。子供でもわかる理屈だ。
 だから私は自分がどうやってそこを駆け降りたのか自覚がない。おそらくは髪を、手足を使って非常階段や窓のへこみをとっかかりに加速を殺したんだろうけど、それでも限度がある。ぶっちゃけ、ただのひとならマンションの上からの落下なんてただですむわけがないのだ。
 だけど私はその時、そうした因果関係を全て忘れ垂直に駆け降りた。
 どうしてあんな気持ちになったんだろう。私は魔だ。魔は冷酷というわけではないけど、ひとつの割り切りを持っているはずだ。ひとの世界でひとでない者が生きるためにはその能力を隠さねばならない。いくら能力があろうと異端は異端で、自分が異端だと悟られたら生きられるものも生きられないからだ。
 それは理性でなく純粋な防衛本能。保護色と同じ。
 だからこそ、瀬尾を助けるためとはいえ駆け降りた私は異常だった。
「え」
 瀬尾の目が点になる。そりゃそうだろう。彼女はお嬢さま然とした遠野秋葉しか知らない。それが活動的なデニム上下を着込み、あまつさえ突然に出現したのだ。驚かない方が嘘だ。
 上から『落ちてきた』ことには気づいてない。そりゃそうだ。ひとが空から降ってきたなんて即座に認識できるわけがない。それは『ありえないこと』だから。
 眼鏡は既に外してあった。
「あ」
 瀬尾の背後にまわり抱えこむ。
 こういうは速攻で且つ強引に進めるに限るわけで、同時に右手は死者の首、それと胴体の二箇所を線にそって切断している。そのまま凝固した血が飛び散る前に瀬尾を抱きかかえ、そのまま一気に百メーターほど向こうまで駆け抜ける。
「くうっ!」
 Gの方向が急激に変わる。逆流しそうな血を押し止め、手近な建物の影にとびこんだ。
「はぁ……はぁ」
 きつい。
 遠野秋葉由来のこの身体は、魔としてはなかなかのものだが決して頑強というわけではない。筋力等もそう。魔の要素を前面に押し出さない限り、その身体能力はわりと一般的なレベルのものでしかない。とどめに、ここしばらくの半幽閉生活で身体は大仕事を忘れている。
 やっぱり、適度な外出は大切よね。
「ふう……って瀬尾!?」
「……」
 てっきり目を点にしているかと思いきや、見ると瀬尾はなかば意識がないようだ。顔色もおかしい。
 ──あ。
「いけない!」
 いきなりの急激な加速に脳内の血が偏ったのか。ち、そっちは想定してなかった。
 なんたる間抜け!
「とお……の……せん……」
「喋らなくていいわ瀬尾!じっとして目を閉じて!深呼吸なさい!」
「……」
 瀬尾は力なくもがいている。目も見えず頭も働いてないだろうに。
「ああもう!」
 とにかくこのままでは置けない。私は瀬尾をそっと抱きかかえ、その動きを止めた。
「……」
「……」
「……」
「……」
 しばらくそのままでいると、瀬尾はゆっくりと正常に戻ったようだった。
「やれやれ。どうやら助かったようね」
 死者の気配は感じない。あっちもあの一体だけだったようだ。
 ふん。アルクェイドや先輩が死者は全部消したと聞いてたけど、狩り残しがまだいたという事か。
 まぁそれはいい。今は瀬尾だ。
「瀬尾。貴女どうしてこんなところにいるの」
「……」
 瀬尾は私の顔をじっと見あげた後、
「あの」
「なに?」
「……こ、こんにちは、えーと、とおの……詩姫さん」
「……はい?」
 一瞬、私は目が点になった。
「ちょっと瀬尾。あなた何言ってるの?」
 だけど、瀬尾はにこにこと小動物じみた可愛らしい笑顔を浮かべると、
「そんなのすぐわかりますよ。遠野先輩は眼鏡をかけませんし、だいいち──」
「だいいち?」
 ちょっとそれは聞き捨てならないことだ。私はそんなに遠野秋葉とは違うのか。
「説明がちょっと難しいんですが、私にはわかります。
 細かいご事情とかはわかりませんが、遠野先輩でない事は見ればなんとなく。
 確かに、服装はともかく外見も態度も遠野先輩そのものですから、普通のひとにもわかるかといえばちょっと疑問ですけど」
「ふ〜ん……それは瀬尾、貴女自身が普通ではないということなのかしら?」
「えっと、たぶんそうです。本当にささいなことなんですけど」
 そうして瀬尾は、自分のもつちょっと風変わりな能力について説明してくれた。
「……なるほど」
「あはは、そ、そんなわけで……すみません黙ってて」
「いえ、いいの。そういう事なら仕方ないわ。生まれつき特殊な能力があるのは当人の責任ではないもの」
 私はためいきをついた。

 正直驚いた。
 瀬尾は大したことないと言うけれど、断片的で制御できないといっても未来が見えるというのはかなり奇異なる能力だろう。少なくともそれで彼女は私、正しくは遠野秋葉と遠野詩姫を襲った出来事をかなり的確に把握したうえ胸が潰れるほど心配し、あげくのはてにとうとう自ら駆けつけてきたというわけだ。
 しかも、しっかりと私のいるマンションに。
「浅上にここを知ってる者が他にいるのかしら?蒼香や羽居は?」
「知りません。危険だと思ったし、私自身もここまで正確に居場所や状況がわかってるって自信がなかったんです。
 それに連絡をとるかどうかは私の決める事ではないと思いましたから」
「そうね。配慮ありがとう」
「いえ、とんでもないです」
 にこにこと小動物のような笑みを瀬尾は浮かべた。
 うわ、可愛い。ひさびさにクリティカルヒットだわ。ううむ。むずむずする。
 だけどそうね。はっきり言っておかないと危険だわ。
「瀬尾」
「あ、はい」
 何か言われると思ったのだろう。顔にぴしっと緊張が走る。
「事情はわかったし、他のひとに隠してくれたのもありがたいわ。正直いまは微妙すぎるの。貴女には本当に感謝してる。
 ひとつのことを除いてね」
「あ」
 ええい、そんな怯えた顔するんじゃない!まるで私が悪人みたいじゃないか。
「そこまでわかっているならどうして来たの。貴女が来たからってどうにもなるもんじゃないってこともわかってたでしょう?」
「それは」
 うう、と泣きそうな顔をする瀬尾。やりにくいなぁもう。
「それは、じゃないでしょう。そこまで状況を把握してるんなら、少なくとも危険である事はわかったはずよね?なのにどうして来たの?
 私を心配させて楽しいの?貴女」
「……それは」
「答えなさい瀬尾。返答次第じゃ、熨斗(のし)つけてそのまま宅急便で送り返すわよ?」
 もちろんナマモノ指定で。
「それはぁ」
「それはなに?」
 うー、と瀬尾は涙目でつぶやいた。
「……よくないと思ったから」
「よくない?何が?」
 瀬尾の鼻先に顔を近づけた。さっきから抱きかかえたままなのでちょっと傍目(はため)には危険な光景かもしれない。
 はたして、瀬尾は困った顔でこう言った。
「人殺しなんてよくないって、思ったから」
「はい?」
 私は一瞬、ぽかんとしてしまった。
「……それって、つまりこういう事なのかしら?
 瀬尾は私が人殺しをしてまわってると思った。で、それを注意しにきた。そういうこと?」
「えっと……たぶんそうです」
 あいかわらず困り顔で瀬尾は言った。
 なるほど、彼女はその『能力』で私が狩りをしているシーンを見たんだろう。で、よりによって犯人が私である事にびっくり仰天、後先考えずにすっとんできてしまった、と。
 ためいきが出た。
「瀬尾。貴女ばかでしょ?」
「う」
 とても不本意そうに、だけど言い訳できなさそうな悲しそうな、そんな複雑な顔で瀬尾はぼやいた。
 えぇい、ぼやきたいのはこっちの方だ大馬鹿者!
「とにかくもう帰りなさい瀬尾。本来ならもう遅いから泊めてあげたいとこだけど、知っての通り遠野の家はもうないの。今御世話になってるとこは他人の家だし、同居人には会わない方がいい。貴女が普通の人間として生涯を終えたいのなら絶対会ってはいけない相手よ」
「……先輩」
 悲しそうな顔。でも、心配してくれて嬉しい。瀬尾はそんな顔をしている。
 ああもう、そんな子犬みたいな顔しないでよ。帰したくなくなっちゃうじゃない。もっと抱きしめてめっちゃくちゃにして、ぬいぐるみ代わりに抱きしめてベッドでおねんねしてみたいとかそういう類の。
 ──あ。まずい。
「!」
 トクン、と胸が鳴った。
 トクン、トクン、トクン。心臓が鳴る。私の中の『遠野志貴』が反応している。遠野秋葉の『お持ち帰りしたい』気持ちと男性としての『可愛い女の子をゲットしたい』気持ちが共鳴してる。
 いけないダメ、よして──
 相手は瀬尾なのよ?可愛い後輩なのよ?なんで『そういう意味で』手を出したいなんて考えてしまうの?
 くそ、これじゃまるで変態じゃない!
「──ぁ」
「えっとあの」
 身体が熱い。疼く。乳首が硬くなってるのがわかる。
 瀬尾の困り顔。おいしそう。こねくり回して泣かせてあげ──!
 だめ、だめだったら!!
「……先輩?」
「!」
 無理矢理衝動を押し殺した。ぶるぶると頭をふる。
「────とにかく、だめよ瀬尾。
 繰り返すけど、貴女はこれ以上関わってはダメ。帰って、そして全て忘れなさい。それが貴女のためなんだから」
「はあ。でも」
「でもじゃないの!」
「で、でもそれは」
 だけどその時、
「ふうん?それって手遅れなんじゃない?詩姫」
「!」
 アルクェイドの澄んだ声が、背後から響いた。



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