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本編

 清浦(きようら)刹那(せつな)は泣いていた。
 放心状態(ほうしんじょうたい)でフローリングの床にぺったん座りしている。床には涙がぽたぽたと落ちていて、開いたままの携帯電話は床に放り出されている。声もなく、ただ涙だけがひたすらに流れている。
「刹那」
 気づかしげにかけられた声にも反応しない。ただ震え、泣くしかない。
 
 二時間前の、電話による会話はこうだった。
 
『そうだったのか……ごめん』
「だから、ね。そんなわけだから、まこちゃん」
『ごめん』
「え?」
『誤解がとけて気持ちは晴れた、本当にありがとう。でも……悪いけど、もう戻れないんだ』
「ど、どうして?どういうこと?まこちゃん」
『ごめん』
「ごめんじゃわからないよまこちゃん!どうしたの?何があったの?」
『短かったけど、本当に楽しかった。ありがとな、せ……刹那』
「!」
『…………』
「……桂さん?」
『ああ、そうだね。色々あって、まだ正式なおつきあいとかじゃないけど。だけど仲良くやってるつもり』
「つきあうつもりなんだ?正式に」
『ああ』
「……ほんとにもう、終わっちゃったんだね」
『ああ』
「いまさらもう、遅いんだ」
『ごめん』
「謝ることないよ。まこちゃ……い……」
『清浦?』
 
 清浦刹那、はじめての恋の終焉だった。
 
 さよならという言葉がでなかった。やむなくごめんと言ったつもりだが、それすらちゃんと発音できたかどうかすら定かではない。刹那にはもうそんな余裕が残ってなく、ただ電話を切った。
 失ってしまった。
 父親問題にかまけて、ほんの二日だけ伊藤(いとう)(まこと)から目を離してしまった。なかなか掴まらない誠よりも父親との対話を優先して、とにかく片付けられる問題を片付けたうえで誠との誤解を解こうと考えてしまった。
 そのたった二日の間に、誠を(うば)われてしまった。
「……」
 いや違う、と刹那は自問する。
 確かに誠は(いろ)仕掛(じか)けに弱い、そんな事はつきあいの短い刹那にもすぐわかった。
 だけどあの最後の優しい顔は違う。何かを諦め、何かを振り切った顔だ。誰かにたらしこまれたとしてもああいう顔はしないはずだ。あれは浮気の果てに相手を捨てる顔じゃない。それは誠の言動からいっても明らかなことだ。
 どうして、誤解を解くことを最優先にしなかったのか。
 父であることを言えなかったとしても他に何かフォローする術くらい考えればあったはずだ。多少の嘘を混ぜてでも身内でありそういう関係ではありえない事だけでも納得してもらえれば、それだけでも誠が自分を諦め、他の女の子のところへ去ってしまうような事態は防げたはずだ。
 あれほどまでに誠の周囲は、誠狙いの女性で溢れていたというのに……。
 刹那は泣いた。自壊(じかい)しそうな精神を抱え、ただひたすら泣きつづけた。
 それ以外に、まるでする事がないかのように。
「刹那」
 呼びかける男の声を、刹那はまったく聞いていない。
 携帯電話は誰の着信も告げず、ただ沈黙するだけだった。
 
 数日後、刹那は(しゅん)に父と呼びかけたうえで絶交を正式に申し出た。
 瞬が悪いとは刹那は考えなかったが、最後の最後で口を塞ぎ叫ばせなかった事だけは許すつもりがなかった。あそこで駆け寄り事実を話したところでもう遅かったのだろうと彼女の明晰(めいせき)な頭脳は理解していたが、それでも許せないものは許せなかった。
 もっとも瞬の考えもわかる。女性に(さと)い瞬はもう取り返しがつかないことを誠の態度で悟ったのだろう。だから悪あがきをさせて傷つけないために無理矢理に自分を引かせたのだろう。それはよくわかっていた。
 だとしても、ダメだった。
 たとえ無駄だとしても、足掻くだけ足掻かせて欲しかった。たとえそれでボロボロになったとしてもその結果は自分のものであって誰かのせいではない。少なくとも、こんな情けない結末を迎えるよりも少しはマシだったのではないか……そう刹那は思った。
 瞬の気持ちはわかる。彼はただ父として自分を守ってくれたにすぎないのだろう。
 だが、あの状況で引き離されることなんて自分は望まなかった。
「そうか」
 理路整然(りろせいぜん)と気持ちを語り、しかも父親(じぶん)にも配慮している刹那を見て、瞬は悲しそうに寂しそうに、そしてちょっとだけ誇らしげにうなずいた。
「ああ、その推論は正しい。おまえは賢いよ刹那。俺はてっきり感情的に憎まれると思っていたんだが、まさかそこまで冷静に、こんな早く見抜いてしまうなんて完全に予想外だった。
 こう言われても嬉しくないかもしれないが……さすがは俺の娘だ」
「うん、嬉しくない」
 刹那も瞬の言葉に、悲しそうにうつむいて答えた。
「だが刹那。俺と絶交といっても現時点で俺はおまえの親権を持っているわけじゃあない。もう口もきかないというだけの事のために、こうしてラディッシュまでわざわざ来てくれたのかい?
 それとも、他に何か?」
「うん」
 刹那は悲しげに、ぽつりと答えた。
「たぶんお母さんはパリに出張になる。それに私はついて行って、そのまま向こうの大学まで行きたいと思う。出張にならない場合は日本で勉強する事になるけど、どちらにしろいずれお母さんをひとりにする事になると思う。
 私が頼むのは筋違いだけど……お母さんを見ててあげて。できる程度でいいから」
「そうか」
 娘の言葉に瞬は腕を組んだ。そしてじっと考えた末、
「断る」
 そう、きっぱりと言ってのけた。
 対する刹那は「え」と目を丸くした。渋られる可能性は考えたが、まさかきっぱり断られるとは思ってもみなかったからだ。
「またずいぶんあっさりと。お母さんのことは嫌い?」
「そういう事じゃない。問題があるということだ」
「問題?」
「ああ」
 瞬は(けわ)しい顔で腕組みをした。そして、
「他人の女の子のそんな頼みをおいそれとはきけない。他の女とうかつな口をきくなと娘に厳命(げんめい)されているからな」
「は?」
 眉をしかめる刹那に、瞬はにやりと笑った。
「他ならぬ可愛い娘のお願いならいくらでも聞こう。だが他人の、しかも女の子の言葉に従うのはなぁ……娘との約束を反故にしてしまうだろう?それはしたくない」
「……」
 ようするに、絶交するなら言うこともきかないというつもりか。刹那は一瞬、口をあんぐりとあけてしまった。
 その可愛い反応に、瞬は馬鹿(ばか)(おや)の顔全開でにっこりと微笑んだ。
「さぁどうする?」
「……ずるい」
「ずるいのは刹那だぞ?もう絶交だ、でも言うことは聞けというのは……いくらなんでもひどいとは思わないか?」
「……わかった。絶交は取り下げるからお願いをきいて」
 はぁ、と刹那はためいきをついた。瞬はよしよし、と嬉しそうに笑った。
「刹那の言いたいことはわかった。まぁなんでも好きにするといい。きっかけはともかく、それがおまえの決めた未来なら俺はそれに口だししない。がんばれ」
「うん。ありがとう」
 刹那はまだ悲しみをはりつけた顔で、だが小さく、確実に微笑んだ。
 
 数ヵ月後、刹那は母と共に渡欧(とおう)した。
 
 そして、十年の歳月が過ぎた。



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