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本編・二

 パリの郊外を一台の銀色のコンパクトカーが滑るように走っていた。
 空は快晴の夕刻近く、まるでいつかの夏の日だった。車はシャルル・ド・ゴール国際空港を目指しており、少し赤みを帯びた陽光がその銀色のボディに不思議と映える。なんてことはないただの車だが、どことなく未来を想像させるのは乗っている人間のせいか。不思議な雰囲気をもった車だった。
 やがてその車は空港に乗り付けると、パーキングの一角に停車した。ドアが開き、白衣の東洋人女性がそこから降り立った。
 紫外線対策なのか他の理由なのか、女性は薄いサングラスをかけていた。白衣をまとったその姿は、まるでどこかの研究員、いや博士か。小柄であるがサングラスが大人っぽい雰囲気を醸し出している。全身をまとう雰囲気といい、おそらく理工系の研究者か。
 白衣の下は飾り気のない、しかし一応外出用なのか茶系のシックなレディーススーツのようである。しかし白衣を着ているためそれが全てぶち壊しになっている。サングラスのなんとなく他人を拒絶する硬い雰囲気といい、やむにやまれぬ用事でいやいや出てきた、そんな雰囲気を全身にまとわりつかせていた。
「まったく、もう」
 日本語で何かつぶやくと、女性はすたすたと歩き入口に向かっていった。
 
 と、その時、それは起きた。
 
「きゃっ」
「わっ!」
 突然に誰かがぶつかってきて、女性は激しく転倒してしまった。
「あいたたた……何?」
「〜〜!!」
 痛む尻を抑えつつ立とうとして景色が妙に鮮明なのに気づく。サングラスがふっとんでしまったようだ。みれば離れた場所でそれはまっぷたつになっている。
 女性はハァ、とためいきをついた。予備が車にあるからまぁいいかと改めて衝突者を見つつ立ち上がった。
 ちょっぴり薄汚れていたが若い東洋系の女の子だった。日本人かもしれない。パリくんだりをうろうろする若い日本人旅行者にも貧乏旅行者は時々いて、見るもみすぼらしい姿だがのんびりと旅を楽しむ姿は、それはそれで優雅(ゆうが)かもしれないと女性は思っていたりもする。
 だが、女の子はそういう感じではなかった。むしろスリか何かに身ぐるみ持ち去られて無一文、そういう雰囲気を全身から(かも)し出していた。ツインテールの可愛いはずの髪もどこなく煤けて見えたし、まだまだ子供っぽさを残しつつもどこか微妙に大人びた雰囲気も持っていた。それを女性は家庭環境の複雑な子なんだろうとふと思った。女性に洞察力があったのではない。彼女自身の家庭環境がちょっと特殊だったため、似たような雰囲気をそこに嗅ぎ付けたわけだ。
 なんとなく、関わってはいけないもののような気がした。
 気がしたのだが、女性は偽悪(ぎあく)を気取ってもそこまで割り切れる性格ではなかった。自分を馬鹿者と内心(ののし)りつつも女の子の手をとり、起こしてやろうとした。
「ほらしっかり。立てる?」
「……」
 だが女性に手を掴まれた女の子は、ぽかーんとした顔で女性の顔をまじまじと見るだけだ。
「なぁに?」
 いったいなんなのよこの子、それとも日本人じゃないのかしらと思いつつ女性はつい子供に問いかけるように首をかしげたのだが、
「!」
 その瞬間、女の子は何かに気づいたようにアッという声をあげた。
「……キオウラ?」
「は?」
 なんで自分の名を知っている、しかもなぜ『キオウラ』と幼児語で?と女性は聞こうとしてふたたび女の子の顔を見た。
 その瞬間、女性──清浦刹那の中で古い記憶が爆ぜた。
「……もしかして……間違ってたらごめんね。えっと……まさか貴女」
「キオウラ!キオウラだぁ!!」
「え?え?え????い、いたるちゃん!?」
「キオウラ、キオウラぁ〜っ!!」
 がっしりとだきつき泣きだした女の子に、文字どおり刹那は目を白黒させた。
 
 空港で目的の書類を受け取りつつ、(いたる)に簡単な事情を聞いた。
 小さかった止ももう高校生、あの頃の自分と同じ世代になっていた。身の丈は刹那より高く、スタイルも悪くない。大人になっても体型すらあまり変わっていない刹那とはあまりに対照的だった。
 彼女は兄の結婚後も定期的に兄のところに遊びにくる生活を続けており、また兄もそんな妹に相変わらず甘いようだ。海外滞在中ですら妹が来たいというと航空券とパスポート発行手数料を送りつけてきたという話を聞くにつけ、これはもう完全に兄バカだと刹那は呆れた。
 近郊ならともかく欧米(おうべい)ともなれば、かかる運賃も当然大きくなる。可愛い妹のためなのだから怪しい格安チケットより安全第一に取得するだろうし、それは一般人に気軽にとれる金額ではないはずだ。
 小さい止を猫かわいがりしていた当時の誠を思いだし、刹那は苦笑いを浮かべた。
 しかし、なんという偶然だろう。
 パリも広いしこの空港も大きい。それがなんの悪戯(いたずら)なのか門前で知合いと正面衝突をやらかしてしまった。まるで奇跡のような信じられない邂逅(かいこう)は、刹那の心を大きくあの頃に向けて動かした。
 思ったところで昔は戻らない。あの頃の(はかな)い幸せはもう過去のもの。誠はもう結婚していると聞いているが、実は刹那は相手の名前すら知らない。そういう話題には知らんぷりを通していたからだ。
 学業と研究だけに没頭してきた刹那は、とうとう工学博士として世界中に知られるまでに至ってしまった。取得したパテントは(すで)に生涯食えるほどになっており無理に仕事に没頭する必要もないのだが、刹那は休む時間などいらぬと研究生活をずっと続けていた。
「え?じゃあ離婚したの?」
 うん、そうだよと止は寂しそうに笑った。
「言葉おねえちゃんと結婚したんだけど、心ちゃんと時々逢ってるのがばれて大騒ぎになったの」
「……バカ」
 よりによって妻の実妹(いもうと)と浮気するなんて。
 だが、刹那の考えを止は首をふって否定した。
「んーそれがね、ちょっと複雑なんだよ。
 もともとお兄ちゃんはね、心ちゃんが好きだったの。心ちゃんはお兄ちゃんが本当に大好きでね、まだ子供だからダメっていうお兄ちゃんにかまわずアタックを続けて、とうとうお兄ちゃんをその気にさせちゃったんだって。
 だけど心ちゃんはあの頃まだ○学校だったでしょ?だから言葉おねえちゃんが無理矢理引き離したんだよね」
「うわ」
 当時の、まだ子供の心ちゃんを思いだす。誠くんは私が好きと言い放っていた可愛い姿がまぶたに浮かんだ。
「ということは……桂さん姉妹でまこちゃんをとりあったんだ」
 あまつさえ、結婚後も勝負はつかず泥沼になっていたということか。
「そういうこと」
 ふう、と止はためいきをついた。
 誠と別れの電話をした後、その後の彼らの動向を刹那は知らない。だが止の話が正しいのなら、あのままの日々を延々続けたまま大人になったということか。きっとまだ子供っぽさも残していた誠を巡る三人の関係は、やがてその喧騒(けんそう)はそのままに『おんなのたたかい』にシフトしていったのだろうか。
 ちょっと冷汗が出る思いを、刹那は味わった。
 書類を受け取った。本当はすぐにでも研究所に戻る必要があるのだが、その前に確認することがあった。
「で、今日はどうしたの?お兄ちゃんは?」
「……」
 止は悲しそうに目を臥せた。
「……そう」
 聞かない方がよさそうだと刹那は判断し、それだけ答えた。
「パスポートとかお金はお兄ちゃんのとこ?」
「パスポートはあるよ。お金は……途中で盗まれたみたい」
 やっぱりか。
「日本に帰ろうとして気づいたの?」
「うん。本当は帰るかどうするか悩んでたんだけど」
「なるほど」
 お金ならなんとかなる。じゃあ、とりあえず今は保護かと刹那は笑った。
「止ちゃん」
「?」
 刹那はくすっと笑った。笑うところではないような気もしたが。
「じゃあ今日は泊めてあげる。研究所住まいだから綺麗なとこじゃないけど」
 そう言って刹那は止の肩をぽんと叩き、運転に集中した。



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