[目次][戻る][進む]

驚愕

 少年はいつまでも少年ではいられない。
 前島鹿子が鹿之助の女装である事は、今となっては承知の事実だった。しかし第二文芸部の活動当時、それを知っていたのは母校の生徒たちだけだったといえる。少なくともステージや映像ごしでしか彼らを知らない場合、それが女装と即座に気づくのはある種の慧眼(けいがん)の持ち主だけに限られていた。ようするに、それなりに人生経験のある大人たちということで、そして彼らは苦笑いするだけで野暮なツッコミはしなかった。
 だからこそ『彼女』の存在はずっと謎めいていた。今も昔も。
 たとえばネット上。写真の人物が男か女かについて常に議論し騙されるネット中毒患者たちだが、彼らは残されている鹿子の写真をじっと見て「男だね」と言い切る。だがその彼らの分析によれば、たぶん前島鹿子は性同一障害やら趣味やらの果ての女装子ではないだろうと言われている。そして、その事について今も議論がなされていた。
 
『よく見てみなよ。動きが男っぽいのに衣装や容姿だけが本格的すぎるだろ?つまり本人は女装した事なんかないのさ。むしろこれは誰かが女装「させている」って事さ』
『でもさ、誰がそんな事するんだ?他のメンバーかい?』
『メイク担当は女の子たちだろう?だからそうなんじゃない?んーでも衣装はどうだろうね?』
 
 あなたが女装経験のある男性ならおわかりと思うが、男の身で女装するのは簡単なことではない。
 お店で試着すらも簡単にはできない。下着の知識もないし、そもそも男性用と女性用では衣類のコンセプトからして根本的に違うことも少なくないのだ。まさに「ないないづくし」であり、これを乗り越えて女装を極めるのは本当に大変なことなのである。
 まぁ定番として、最初はたいてい強烈な背徳感(はいとくかん)にビクつきながら姉か母親の衣服を着てみることになる。もちろんそれはちぐはぐだし化粧もしてないすっぴんであり、とても第三者の視線に耐えうるものではない。幼女の「はじめてのお化粧」を大の男がやると思えば間違いない。ぶっちゃけグロくてキモい。
 その意味で鹿子はあまりにもナチュラルで「女性すぎる女装」だった。見栄えよく、しかも男である事を巧妙に隠しきったうえで他メンバーとの違和感がない服装とメイク。高校生という年代を考えれば、これを単体の女装経験者と考えるのは相当に無理がある。他の女性メンバーに上から下までプロデュースしてもらっていると考えるのが自然だろう。
 いかに規格外とはいえ高校生の部活バンドなのだ。おそらくは当時の椎野きらりをはじめとする他メンバー総員で『彼女』を飾っていたのだろうと皆は推測していた。着替えの最後まで待たされたあげく、女性陣に取り囲まれ仏頂面で強制メイクを受けるシャイな男の子の姿がそこに見えるようではないか。微笑ましい青春の一ページというやつだ。
 そしてそれは、当事者たちの真実ともほとんど一致している。
 衣装選びやメイクアップに複数の女性の手が入っているという意見は、ネットだけでなく芸能系のメイク専門家も指摘していた。だから前島鹿子自身がバンドメンバーの手により生まれた『作品』だというのは少なくともネット上、それに鹿子の存在を知るコアな音楽ファンの間では常識となっていた。
 だが繰り返すが、少年はいつまでも少年ではいられない。
 いかにあの頃の鹿之助が女顔の美少年だろうと、大人になればそうはいかない。骨相も違うし脂肪のつきかたも根本的に違う。そも『美少年』というのは中性的だから美少年なのであり、完全に男として成熟すれば当然それは失われる。だから大人の男は基本的に女装には向かない。大人になってからもそれをやろうとすれば、それは色々と代償を支払うことになる。男の女装とは幼児時代が最も容易で、そして大人になればなるほど似合わなくなっていくものなのだ。
 そのはずだった。
 
「……」
 椎野きらりから送られてきた写メールには、あの頃よりもさらに輪をかけて美しい鹿子の姿があった。
 いや、それどころではない。
 いまや写メール程度のレベルでは、幼なじみである千絵の目で見ても女にしか見えなくなっていた。
 あの頃も確かに女装が似合ってはいたが、しかし不慣れゆえの違和感がどこかにあったものだ。立ち振る舞いも言葉遣いもほとんど男のままなのだから、それはむしろ当然とも言えた。ツアーの終盤ともなると仕草までも女っぽくなって驚くほどだったが、何より本人がそれに危機感を持っていたこともある。ツアーが終わればアッというまに少女は少年に戻った。
 だが写メールに写る鹿子には、その違和感すらもほとんどない。
 確かに純粋に女の目で見れば違和感がないではない。だが天才的な歌舞伎の女形がある意味本物の女よりも女性的であるように、何か有無を言わさぬ異様な美しさを写メールの鹿子は秘めていた。
 おそらくこの鹿子なら、普通に女性用の施設を使っても誰もとがめられまい。普通の女性以上に女そのものだ。
『ごめんね黙ってて。でも、つい最近までものすごい状態だったんだよ』
 まだまだ大変なんだけどねーと、深刻な話を屈託なく笑うきらり。
「いったい何があったの?なんで鹿之助がまた女になってるの?それに」
 それに……この徹底的な女性化ぶりはいったい何事なのか。単なる女装のレベルとはとても思えない。
『うん。順序立てて話すね』
 きらりから聞かされる「その後の鹿之助」は、千絵の想像を遙かに越える凄まじいものだった。
 鹿之助は職場からリストラされた。いくらなんでも新人同然の若き社員をリストラするとはどういう事かと首をひねっていた千絵なのだが、その理由もきらりは知っていた。当人から聞き出したのだという。
『なんかね、内部のトラブルに巻き込まれたみたい』
 電話の向こうのきらりの声も、少し悲しそうだった。
『不景気だし、もっともな理由があれば働き盛りだってすぐ切られるみたいだね。鹿クン困っちゃって仕事捜したみたいなんだけど、運良く、ううん悪くなのかな?見つかったところが都内のライブハウスの仕事でね』
 ライブハウス?
「ちょっとまってきらり、それどこのライブハウス?」
 きらりは関東の某所にあるライブハウスの名をあげた。千絵はそこを知らなかったが、村上たちの情報網から外れているとは思いにくい場所だ。
「変ね。そんな場所なら村上君たちが気づかないとは思えないんだけど……あ、もしかしてきらりが口止めしてたの?」
 それならそうと早く言えと言いたいところだが、今はそんな時ではない。事実の確認の方が先だろう。
 が、きらりの返答は千絵の想像の完全に斜め上だった。
『あのね、そこのオーナーって以前、熱狂的な鹿子ちゃんファンだったんだって』
「……え?」
 内心ぎょっとするものを千絵は感じた。どうしてそこで鹿子の名が出るのか?鹿之助でなく?
 不穏だ。
 だが、聞かずにはいられない。
『その人、鹿クンが鹿子ちゃんだったって知って鹿クンを脅迫したんだよ。おれの言うとおりにしないと椎野きらりの彼氏はオカマだって噂をばらまくとか色んな手でね。そうすれば言うことを聞かせられると思ったんだね』
「……なにそれ」
 その光景を想像し、千絵は思わずゾッとした。
 だがその後については、もうその千絵にしても聞くに堪えないものだった。
 その男は『鹿之助』でなく『鹿子』を雇ったのだ。それも従業員などではなく自分の愛人として。
「……なんというか、言葉がないわ」
『うん。わたしもそう思ったよ』
 男が男を愛人にする、というのが千絵にとっては想定外だった。それだけに衝撃は小さくなかった。
 自宅で囲われていては見つかるはずがない。そりゃあ無理な話だったろう。
 それでも鹿子にきらりがたどり着いたのは、もう執念というしかなかった。
『んーとね、サトっちに相談してみたの。サトっちは鹿クンのことも覚えててね、心当たりを捜してくれたみたい』
 だが、それも簡単ではなかった。
 サトっちというのはきらりの友達で、あの頃のきらりにギターをプレゼントした関西のヤクザだ。彼はタニマチの申し出こそ断られたものの今でもきらりたちのファンで、もちろんきらりのファンクラブにも入っている。そしてきらりもまた、彼にもらったGibson Les Paul Jr.を今もライブなどで愛用している。
 彼はあくまで関西の人。東には顔が当然きかない。
 だがきらりの件以降、彼は音楽関係に目を向けライブハウスなどに少なからぬ投資もしていた。きらりファンの間でも異色の有名人となっており、同じくきらりファンである「東の同業者」へのパイプも同時に構築されていた。歴史的に東と西の仲がよくない事を思えば決して太いものではないが、きらりという存在を間にはさむ事で、細いながらも立派な連絡チャンネルができていたわけだ。
 そこを通じて次第を流した。きらりの古巣であるバンドメンバーが行方不明になっていると。
 東の事情通はその言葉だけで鹿之助のことだと飲み込んだ。きらりの父親の死に相対した彼女の思い人を、彼女自身に聞かされたファンクラブの幹部、そしてサトっちの同業者は当然知っていたからだ。
 即座にひとが動き始めた。そして、その情報網にひとつのデータが引っかかった。
 とあるゲイバーの常連であるライブハウスのオーナーが、かつてバンドでベースを弾いていた女装の美少年を囲っているらしいというものだった。
『凄かったよぉ。マネージャーに事情話して、東のお友達関係の病院に入れてもらったんだけど』
「あんた自分で踏み込んだの?無茶するわねえ」
 何かあったらどうするのか。
『たまたまだよ。スケジュール満載だったけどお休みにちょうど当たってたから』
 うそつけ。千絵は内心ごちた。
 おそらくは何件か仕事を飛ばしたのだろう。きらりは確かにもう新人のぺーぺーではないのかもしれないが、それにしても無茶をする。
 踏み込んだといっても当然きらり単身ではないはずだ。おそらく関東のその筋の『お友達』の協力があるはずで、へたに写真週刊誌などに拾われでもしたら大変なことになってしまうではないか。
 そのことを指摘すると、あははときらりは笑った。
『大丈夫だよ。蛇の道はへびっていうでしょう?結構慣れちゃったよ』
 あまり楽しそうな話ではなさそうなので、とりあえず千絵は「そっか」という返事だけで片付けた。
 きらりの話は続く。
 きらりが保護した時、鹿之助は割り当てられた自室にいた。オーナーが鹿子ファンであったというのは伊達ではなかったらしく、そこにいたのはほとんど普通の女性と区別できないまでに女性化した鹿子の姿だった。そして物理的健康面でも特に問題はなかった。小さな外傷などはあったが。
 だが肝心の内面はというと、もう完膚無きまでにボロボロだった。
 まず、女性ホルモンが投与されていた。
 強制なので間違いなく違法なのだが、行方不明のほとんどの期間、鹿之助は女性ホルモン投与を受けていた。しかも素人判断の無茶な投与ではなく、きちんと専門家の処方に基づいた処置が施されていた。
「なにそれ……まさか」
『うん。自分の思い描いた鹿子ちゃんに鹿クンを近づけようとしたんだね』
 無茶苦茶だ。いったい人間をなんだと思っているのか。
 成人男性に女性ホルモンを投与した場合、極端な女性化は起こらない。声も高くならないし使う薬剤によっては健康面にも悪影響が及ぶ。
 だが皮肉なことに、鹿之助はナチュラルに鹿子を演じられるほどには中性的だった。このためホルモン投与の結果、わりと早い時期に高校時代の鹿子の容姿が戻ってきたらしい。
 そして最後に、鹿之助たちにとっては最悪の事態が明らかになった。
『鹿クンね、クラインフェルターなんだって。47XXYらしいんだ』
「ちょ、嘘。ほんとに?」
『うん』
 クラインフェルターというのは一種の性染色体異常だ。聞き慣れない名前だが実はよくある現象で、男性の五百人にひとりくらいは罹患しているものだ。男性なのにX染色体がひとつないしは二つ以上余計に存在するというもので、普通に暮らすぶんにはなんの問題もないことが多い。しかし精子数が極めて少ないか無精子だったりするので、不妊治療などで明らかになることが多い。
 こう書くと大変な病気のようだが、クラインフェルターは自覚症状に個人差が大きい。鹿之助の場合は外見上も性格もとりあえずちゃんとした男性だ。どういう生き方をするかにもよるが、もしかしたら生涯自分のそんな体質なんて知ることもなかったかもしれない。
 しかし。
 しかし鹿之助の場合、その体質までもが悲劇となった。
 確かに自覚症状はなかったろう。だがクラインフェルターである限り男性ホルモンの量自体は普通の男性よりも相当に少ないはずだった。だからこその鹿子だったのだろう。常人より一個だけ多いX染色体が今も機能し続けていたために男性化がまだ完了しておらず、どこか中性的だった。だからこそ、あれほども女装が強烈に似合ってしまったのだ。
 そういう危ういバランスの上に鹿之助の肉体は維持されていた。
 それを外部からのホルモン注入で崩してしまったのだ。
『元々ホルモン量が少ないところに女性ホルモン投与なんて受けちゃったからね。あっというまに変わっちゃったみたいだよ』
 脂質の男性の皮膚が女性の乾燥肌に変わった。内臓脂肪が落ちて皮下脂肪がつくようになった。顔つきまで変わりだした。まだ若さを残していた事、もともと綺麗な肌だったこともあるが、握手した手の感触までもが女性化していった。その変化はおそらく劇的なもので、診察した医者をも驚かせたろう。
 そして、心身のあらゆる面が女性化の様相を呈していったのである。
「……」
 既に千絵は、どう言葉をつないでいいのかわからなくなっていた。
 心身まで女性化。では、きらりとの関係はどうなるのか?
 そんな千絵に気づいているのかいないのか、きらりの言葉は続く。
『まぁとにかく、当分鹿クンは鹿子ちゃんのままでいるしかないね。今のままじゃどこにいっても女の子扱いだろうし』
「そんなにすごいの?」
 うん、すごいよときらりはため息をついた。
『保護されたからすぐに男性化治療ってわけにもいかないんだって。無理にやると何が起きるかわからないから、焦らずゆっくりやりましょうっていうのが診て貰った先生の判断なんだよ。元々の体質のこともあるしね』
「そう。で、鹿之助本人の様子はどうなの?」
 かなりひどいよ、ときらりは言った。
『でもね、演奏してると元気なんだよ。それだけに集中できるせいかもしれないけど。
 TVに出したのはね、そのためなんだよ。鹿クンずっと練習だけは欠かさなかったからね、ちょっとあわせたらばっちりだったよ。
 あとは、これを突破口にじっくり治療していくつもり』
「そっか。ご家族にはどうするの?私かカッシーから連絡しとく?」
『いい、ありがとう。この後鹿クンちには私から説明しとくから』
「そ」
 とりあえず、今はこれだけでいいだろう。
「ねえきらり。最後にひとつだけ聞いていい?」
 ん?なぁに?と、きらりは言った。
 千絵は最後にひとつだけ、間違ってたらごめんねと言いつつ爆弾を投げた。
「あんた、もっとずっと前に知ってたんじゃないの?もしかして。鹿之助が抜き差しならない状況になるまで迷ったりしてた?どうしよう、とか」
『……そんなことないよ、うん』
 その沈黙と反応は、きらりの父が亡くなった頃の鹿之助のそれにどこか似ていた。



感想メールフォーム


PLZ 選んでください(未選択だとエラー)







-+-
inserted by FC2 system