携帯電話を置いたきらりは、ベッドサイドで大きく背伸びをした。
「ん」
とりあえず今日は予定がない。以前はバラエティ番組の収録があったのだけど、前回の収録で「卒業」している。今年から原点復帰というコンセプトの元に「音楽性の追求」への方向転換をする事に決定していて、それと全く相容れないバラエティ番組のいくつかは降りる事が決定していた。
そう。もう恐れるものはない。コマは揃ったのだから。
「……」
あの頃のメンバーは戻らない。過ぎた時は戻しようがない。
でも今、きらりの手の中には鹿之助がいる。
「……」
微笑み。
きらりの浮かべたそれは愛情に満たされていたが、同時に何かが違っていた。
あの日。
鹿之助と思われる情報を入手したと聞いたきらりは即座に行動を起こした。大切な人の一大事なので仮病を使わせてくださいと単刀直入すぎる直談判でねじこみ強引に休みをもらうと、いつもの変装をして事務所を飛び出した。
裏通りにはポンコツの軽四が止まっていて、パンク少年っぽいモヒカン君が「こっちこっち」と手招きしていた。きらりはそれに躊躇なく乗り込む。背後から影のようにやってくる芸能記者たちがいるが、モヒカン君はそれを承知の上で発進させた。ポンコツもパンクも外見だけで、明らかにライセンス持ちの強烈なハンドリングとそれ用のチューンドカーだった。
市街地専用に調整された小さな軽で二度ほど追手を巻き、さらに車を公園横の駐車場で降りて裏手の森を反対側に抜けると、そこには黒塗りのベンツ。いかにも「これはやばい系です」と全身から雰囲気全開のそれの中から男の手が「おいでおいで」をして、きらりはそこにためらわず飛び込んだ。
車の中には初老の男性がいた。警察関係者が見たら顔色を変えるような日本裏社会の超大物なのだが、きらりは「ごめんね忙しいのに、ありがとう」と単に恐縮しただけで、待っていた男の方も「あぁ気にするな、お嬢の大切な人なんだろう?」などと微笑むだけだったりする。
車は音もなくスタートし、男から写真いりで直接説明を受けた。
拉致されたうえにエストロゲン、つまり女性ホルモンまで投与されていること。犯人は元熱狂的シカコファンであった事。
健康問題はなさそうだが精神的ダメージは計りしれず、そして急速に女性化が進んでいること。
とりあえず男の方は今ごろ無力化してあるはず。鹿之助くんの回収は君が直接やるといい、それっぽくない若いのをつけてあげるから。そう男はいった。
はい、ときらりは答えた。
現場についてみると、そこにいたのはライブハウスでよくみる「頼もしいお友達」たちだった。不躾な芸能記者がきらりの邪魔をしようとすると彼らは影のように現れるのだが、今日は表で堂々ときらりの到着を待ってくれていた。
挨拶もそこそこに、案内されるままに部屋に向かった。
そして、そこに鹿クンはいたのだ。変わり果てた姿で。
きらりの社宅はマンションの一室になっていた。
古い言い方をすればドル箱であったが彼女の金銭面での稼ぎ高は、決して古参のベテランと比較しても大きくはなかった。むしろ現在のきらりの価値は人脈の方にあり、このマンションも彼女の個人的な友人から事務所に寄付されたものだ。どういう用途に使われていたのかは知らないが、広いうえに完全な防音装置を持っていて、中でバンドが演奏しても平気なようになっていた。マーシャル三段が複数あっても平気な程度の電力量も確保されていた。
ソロの歌手だったきらりは、それを使えなかった。あまりにも広すぎたからだ。
だが今。
「……」
目の前のソファーベッドで、鹿子が眠っている。傍らにはベースが置いてあって、シールドはアンプにささりっぱなしだ。きっと練習していたのだろう。
あの頃の中性的な美少女とはだいぶ違っていた。エストロゲンの働きで胸もふくらんでいたし、体型もしっかりと女性の丸みを帯びていた。顔立ちも柔和な女性のものになっている。どう見ても男性には見えない。むしろ女のきらりですらも一瞬毛が逆立つほどの、とんでもない美女になってしまっていた。
「……」
きらりは鹿子に屈み込み、そして口付けした。
「……ん」
鹿子は身じろぎし、そしてゆっくりと目を開けた。
「おはよう。鹿クン」
「……寝てた」
「うん。よく寝てたね。まだ眠い?」
「ちょっと」
「そ。じゃあ寝てていいよ」
「うん」
そう言うと、また鹿子は眠ってしまった。薬の後遺症もあるのだろうが、まるで眠り姫だ。
食事は下ごしらえがすみ、レンジが調理中だ。まだしばらくかかる。きらりも20分はする事がない。
「ん、わたしもちょっと寝よ」
鹿子にかけてあるシーツをちょっとだけはぐると、中に潜り込んで鹿子に抱きついた。
ちょっとばかりクンクンと匂いをかいでみたり。
「うは、匂いも女の子だ……こんなになっちゃうんだ」
そう言いつつ、ふわぁぁ、とあくびをした。
そして、
「……」
きらりもまた、鹿子にくっついたまま眠ってしまった。
もちろん、今現在エストロゲンは投与されていない。だからいずれ鹿子は鹿之助に戻る事になるのだろう。まぁ、クラインフェルターゆえにホルモン量が少ないという問題点があり事態はそう簡単ではないのだけど、だからといって急いで元に戻すべく男性ホルモンを投与する事には、きらりは反対だった。
そんなの鹿クンじゃない!だめだよ!
鎮静剤で眠ったまま検査されている鹿子を前に、そうきらりは強硬に主張したのだ。
何年でも、いや何十年でも直るまで待つから。女の幸せなんて後回しでもいいから。
なるべくゆっくり、自然に、鹿之助の身体の負担にならないよう元に戻してあげてほしいときらりは言った。
ひとの身体は機械ではない。元々ホルモン量の少ない身体に強制的に過給器のごとくホルモンを喰わせるというのは正直いい事ではないだろう。それでなくとも一年近くも女性ホルモンを投与され続けた身体に、今度は同レベルの男性ホルモンを喰わせ続けるというのは、それはさすがに負荷が大きすぎないか。きらりはそう言ったのだ。
「……」
きらりの顔は幸せそうだった。
どんなに誘っても来てくれなかった鹿クンが、ここにいる。きらりが守らなくちゃならない弱い立場になって、すやすやとかわいらしい息をたてている。
「……鹿クン、起きてる?」
返事はない。熟睡しているようだ。
「鹿クンはわかってないみたいだけど、私は本当はとても悪い子なんだよ。
だって嬉しいんだもの。鹿クンがこんなひどい目にあったっていうのに、私は嬉しいんだよ。
だって……」
半分がた夢の中にいるきらりの顔が、幸せそうな微笑みに彩られる。
「これで、私は鹿クンといつも一緒だもの。いつだって守ってあげられるし、いつだって助けてあげられるもの」
丸みを帯びた鹿子の腰に、きらりの手が伸びた。
今の鹿子とはセックスもできない。エストロゲンは性欲を剥ぎ取り、勃起も起きなくしてしまう。起きている時に迫っても不快な思いをさせてしまうだけだ。
それは、悲しい。
だけど、嬉しい。
「……」
鹿子の喉に触れた。
そこには男性の喉仏がなく、小さな手術跡があった。
「……」
その小さな傷跡に、きらりは口付けした。
そして、今度こそぐっすりと眠った。
その年、初代第二文芸部バンドあがりの女ふたりがユニットを結成。
日本の音楽シーンに、いまいちどの大嵐が訪れた。
(おわり)