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『きっかけ』

 ことみが朋也と再会したきっかけは、朋也の娘、汐の幼稚園についての記事を見たからだった。
 卒業と共に都心に出、父母の研究を文字どおり追いかけるように同じ研究に没頭していたことみ。彼女の目にその地方記事が届いたのは文字どおりの偶然である。とある文献について検索していた時に、「岡崎汐」の文字を見てしまい、その名と顔に何かひっかかるものを感じたからだった。
 幼稚園のある地名、そしてたまたま偶然にもあの町に「岡崎」姓は非常に少なかった。両親の残した強い人脈が未だに機能し続けていた事、ことみが他人に興味を示した事を快く思った後見人の好意もそれを後押しする形になった。たちまちことみの元には懐かしい「岡崎朋也くん」の現在の情報が報告書と共に届けられる事になったのだ。
 だがその結果は、昔の「朋也くん」と高校時代にただ一度名前を聞いたきりの彼しか知らないことみには衝撃的にすぎたのも事実だった。
 生まれてまもなく母をなくした朋也。父との諍いからバスケの選手生命を失い、軌道を踏み外していった朋也。そして、そんな朋也の支えともなった古河渚という娘の存在。そしてついにはその支えたる渚をも失い、残された娘の育児すら放棄してしまったこともその報告書には隠さず記されていた。
 ことみはその報告書をじっと見ていた。まるまる二日、飲みも食べも眠りもせずにその報告書を繰り返し読み、窓の外を見つめてじっと何かを考えているようだった。
 そして数日後、ことみは突然に都心のキャンパスを退く旨を告げた。
 大学側は驚いたが後見人の紳士は特に驚くまでもなく、ことみに休学を認め両親と暮らした思い出の町で休息させる旨を大学に了承させた。さらにいくつかの機関も動きだし、一ノ瀬夫妻も愛したあの町に娘までもが戻ろうとするのには何か意味があるのかもしれないという意見まで出た。一部にはささやかな誤解もあるようだが結果として言えばことみの休学は認められ、どうしてもという場合は地元の大学内に特別研究室を構えてもよいという旨の同意まで交わされる事になった。
 それは父母の威光ゆえではない。
 ことみ本人には自覚がなかったが、一ノ瀬ことみという人物自体の人徳の方がむしろ大きかった。本来ならライバルであるはずの同門の教授陣にすら一目おかれ、そして個人的に目もかけられる。故郷に戻ると言えば利害を越えていくつもの学閥が支援を申し出た事からもそれは伺えるだろう。
 とにかく一ノ瀬ことみというキャラクターにはそういう面があった。
 ややもすると閉鎖的な日本の象牙の塔ではあるが、ことみの幼女のごとき性格と行動、しかしそれと裏腹の飛び抜けた知性は非常にうまく機能したようだ。何よりことみ本人には物欲や功名心というものが徹底的に欠けており、そのくせ研究については妥協がない。さらにどんな相手だろうとマイペースに近寄りその独特の空気に巻き込んでしまう。
 結果として、そうしたことみが信用におけると判断した者たちが彼女のまわりには集まりやすい。彼女を間に置くとうまくいかない交渉もスムースに進むケースが多い。そんなわけで、ことみを媒介にして本来ありえない共同研究などがスタートした例もあった。もはや一ノ瀬ことみの名は単に理論物理学の若き博士号もちというだけには留まらなくなっていた。
 もっとも、研究面でのフレンドリーさやその愛らしい立ち振舞いとは裏腹に私生活、とくに昼食時は孤独を好む習性も知られてはいたが。必ず複数の箸を用意し、まるで誰かを待つように半分だけ弁当を食べる。その奇矯な行動も有名だった。いったい誰を待ちつづけているのか。それもまた、わけ知り顔の業界人たちの噂にたびたびのぼるのだった。
 はたして、ことみは故郷に戻ってきた。既にあの家には住めずアパートを借りた。女性用のものでアパートというよりマンションに近いものだが、それはネット経由で研究の続行を求める学会側の強い要望の結果だった。部屋には大学でことみが愛用しているワークステーションが移設され、これくらいは要るだろうとギガビットのネットワークが直結された。それはまさに破格の扱いであったが純粋に研究者であることみには料理の値段はわかっても愛用するUNIXワークステーションの価格なんて知るはずもない。ただ「ありがとう」とお礼を言うに留まった。
 閑話休題。
 そんなわけで戻ったことみはまず古河パンを尋ねた。そこで事情を尋ねた。朋也のもとに行く事をそこの主人には止められたがことみは黙って首をふり、あの遠い日にそうしたようにお弁当と二膳の御箸を用意した。そんなことみの姿は遠い日を知る者ならことみが昔に戻ったように見えたかもしれないが、それは違うだろう。なぜならことみは待つために行くわけではない。待ち構えるために自ら赴くのだから。
 そして一年の半分の時、ことみは弁当と本を片手に朋也のアパートに通い詰めた。何があろうとことみは絶対にひかず、翌日には平然と弁当をもって現れた。雨の日も風の日も、一日とて休まず亀のように粘り強く。
 のほほんとしているがひたむきで頑固なことみ。手ずから作り持参する弁当。渚を失い荒れていた朋也にそれはおおきな意味を持った。弁当だけなら古河の者も作れたろう。ひたむきな愛情をかたむけられる者もいたろう。しかし両方できる余裕のある者はそうそういないし、ましてやずっと休まずである。さらに言えば、渚を思い出すだけなら朋也はむしろそれを拒んだろう。実際最初、ことみは冷酷なほどの扱いを受けたのだ。
 ひたすら辛抱強く毎日毎日通いつめることみに、とうとう朋也がゆらぎだした。少しずつ態度が和らぎ、やがて不思議な懐かしさを伴う食事風景を共にするようになっていく。
 そしてついにある日、朋也の記憶のほつれが解けた。会話の中でことみが口をすべらせた事が原因で朋也は一冊の本と巡りあう事となり、それがきっかけになって遠い記憶の蓋が開いてしまったのだ。
 朋也は忘れ去っていた自分を恥じことみに謝った。けれどことみはそんな朋也を喜ぶのではなくその手を引き、古河パンに連れていって娘にあわせたのである。
 全ての時間が、ゆっくりと動き出していた。
 遠いあの日と今は違う、そうことみは言った。ふたりとも大人だし朋也は既婚者、さらに妻の忘れ形見である娘もいる。ことみもそういう現実を理解していて、だからまず朋也が朋也としての自分を取り戻す事を求めた。大切な娘を二度と泣かせないように。
 そうしてついにふたりは長い時を越え「朋也くんとことみちゃん」に戻った。



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