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『疑惑』

 とある夜半。とある町はずれの民家の居間。
 二十代とおぼしき長髪の女と、それと瓜ふたつの顔をしたショートカットの女が向かい合い応接用ソファに座っていた。それに寄り添うのは優男。一見して双子の姉妹と、その片方の相方といった感じのメンバーだった。
 長髪の女の傍らには何故か立派な猪が蹲っている。成獣の猪というと怒れば熊も逃げ出すとんでもない猛獣なのだが、まるで主に忠実な大型犬のように女の側に待機していた。小さなウリ坊の頃からよほど可愛がられているのだろうが、それは一般的にいってかなり異様な光景ではあった。
「しかしボタン、大きくなったよなあ杏ちゃん」
 ボタンとはこの猪のことだった。
 しみじみと男が言うと長髪の女…藤林(きょう)の目が少し厳しくなった。知り合った頃、まだウリボウだったボタンを鍋にしようとした事がいまだに尾を引いていた。
「そんなことはどうでもいいの。それより、この一ノ瀬ことみって女についてなんだけど。何かわかった?(りょう)
 長髪の女はふたりに向かい、何か知らないかと声をかけた。
「うん、そのひとの事はわたしも調べたけど……正直、お姉ちゃんが知ってる以上のことは」
「そう。勝平は?あんた、昔はマスコミ関係にも顔効いたんでしょ?」
 杏のおはちが妹の旦那、柊勝平(ひいらぎ かっぺい)に向いた。
「そりゃ昔のことだよ。それに僕はスポーツ関連だから学者さんとかはちょっと」
「使えないわねえ」
「お姉ちゃん。無茶いわないで」
 少し苛立った感じの姉に、妹が苦笑いで反論した。とはいえそれは意訳すれば「何か名案ない?あんた」「今のところないよお姉ちゃん」「そっかー」という意味の予定調和であって、実は口論でもなんでもない。
 で、それを理解している勝平もニコニコ笑っている。
「ただねえ。このプロフィール見る限りじゃ、あの朋也にどう接点があるものかまるでわからないのよね。日本の学会期待の星の若き理論物理学の権威である一ノ瀬ことみ博士。これと……あの甲斐性なしの朋也よ?まぁ確かに私たちの同学年だったのは事実だけど接点なんてそれだけでしょ?朋也相手じゃ会話もネタもありえないし。正直、宇宙人同士の方がまだマシなんじゃないかしら?」
「お姉ちゃん……それ、ひどすぎ」
 ひどいと言いつつその妹も限りなく笑顔だ。哀れ朋也。
「これがね、坂上さんとかならわかるの。今はOLだっけ彼女?朋也とはあの頃から知り合いみたいだし」
 坂上智代。後は市長かと囁かれている女性である。一ノ瀬ことみとは別の意味で有名人だったが、浮世離れの感の強い前者と違いこちらは普通に才女である。
 そんな智代であるが、実は朋也と知り合いなのも承知の事実だった。渚の卒業のおりに現れふたりと親しく会話しているのが目撃されているし、本人にも「朋也はバカ仲間」だという話を聞いている。
「……ふう」
 杏は憮然とした顔でテーブルのお菓子を三つ摘んだ。
 ふたつは床のボタン用の皿の入れた。自分はひとつ。食べるのも手癖ならボタンにもわけてやるのも手癖。ぼりぼりとお菓子を食べる音が足元で響くのを確認し、杏もたべはじめた。
 そんな姉を妹が優しい目で見ているが当の姉は気づいていない。またそんな椋も、夫が微笑んで自分を見ているのには気づいていなかったりする。
 なにげに、まったりとした空気が流れていた。
「とにかく敵の真意を知りたいのよね。どういうつもりで朋也に近付いてるのか。いったい何がしたいのか。単に好奇心じゃないのはわかってるつもりだけど、汐ちゃんや朋也の話を総合すると、もう一年近く朋也のとこに通い続けてるらしいし」
「敵ってお姉ちゃん、それは……って一年!?」
 姉の暴言に苦言を発しようとした妹だったが、尋常でない時間の長さにはさすがに驚いたようだ。
「何より理解できないのが朋也よ。嘘みたいに無警戒なんだから。それでいて渚の話持ち出したら相変わらず忘れてないみたいだし。正直わけわかんないわ」
「もしかして……そのひと、汐ちゃんの送り迎えなんかも来たりしてるの?お姉ちゃん」
 だがそんな椋の懸念を杏は首をふって否定した。
「一度も来てないわ。汐ちゃんにもそれとなく聞いてみたけど、朋也に一度頼まれて断ったりもしてるみたい。理由は知らないけど」
 もし来たら追い込みかけてやるのに、といわんばかりに眉を寄せる杏。
 そんな姉の怒りとは別に、椋はふと思い当たった事を口にする。
「もしかして……汐ちゃんに気を使ってる?」
「まさか。いくらなんでも」
 ふるふると杏は首をふった。
 普通、父子家庭の男性と仲良くなった女性なら、子供とも打ち解けようと努力するものではないのか。子供がどうでもいいのなら話は別だが、朋也が渚の忘れ形見である汐を無視して他の女とくっつくなんてそもそもありえない。だから朋也を落としたいなら汐と仲良くなるのは絶対条件のはずだし、そのためなら送り迎えというのはよいチャンスではないか。少なくとも自分がその立場なら間違いなくそうだと杏は思った。
 だが、一ノ瀬ことみは父親の送り迎え要請すら断ったという。それが何を意味するのか。
「とにかく情報がたりなすぎるわ。一ノ瀬ことみについてもっと知らなくちゃ」
 しかし、唯一朋也と接点がある可能性のある高校時代のデータがまるで存在しない。同じクラスだった子を何人か探したり友人の伝手で聞いてみても何も出てこないのだ。印象が弱かったのか接点がなさすぎたのか、同じクラスでも名前はともかく当人の印象となるとまるで覚えてないひとが大多数であった。
「杏ちゃん、その事なんだけど」
 ふたり顔つきあわせて思考モードに入りそうな姉妹に口を挟んだのは、さっき使えないと言われた男、柊勝平であった。
「ちゃんづけはやめなさいよいい加減に。椋の立場がないじゃない」
 長髪の義姉、杏に言われてアハハそうだねと無邪気に笑った勝平。しかし傍らの妻はあまり気にしていないようだが。
 どうでもいいことだが、勝平が杏をちゃんづけにするのは理由がある。初期にはお姉さんとか杏さんだったのだが、とある事件が元になって椋ちゃん杏ちゃんと呼ぶようになった。つまり親愛のあらわれなのだ。後に椋と結婚したが杏だけ呼び名が変わらず今に至っている。
 これがもし、朋也も巻き込んでひと波乱あった末ならもう少し違うのかもしれないが。
「ふたりの関係なんだけどさ。渚さんの実家……古河パンの方で聞いてきたんだよ僕」
 え、という顔をした掠。どうやら奥さんにすら話してなかったようだ。
「何よそれ?どういう事?」
 眉を寄せる杏にウンと頷く勝平。
「えっとね、僕が聞いたのは一ノ瀬さんというひとが岡崎さんの幼なじみらしいって事なんだけど」
「……おさななじみ?」
 姉妹は勝平の言葉に一瞬口を閉ざし、そしてお互いの顔を見た。何かを確認するようにウンウンと頷きあうと、
「それ本当!?嘘じゃないでしょうね!」
「勝平さん!いつのまにそんな事調べてたんですか!」
 姉妹同時に攻められ、ちょっと慌てた勝平。あははと冷汗をかいた。
「いや、それが本当らしいよ。詳しい事は古河のひとも知らないみたいだったけど……杏ちゃんはあのひとたちともよくお話してるんでしょう?聞いてないの?」
「残念だけど知らないわ。だってあのひとたちが汐ちゃんの迎えに来てたのは朋也が迎えに来る前までなんだし」
 杏が渋い顔をした。
「いくら受け持ちの子の保護者だからって『この子のお父さんは岡崎朋也ですか』なんて聞けるもんじゃないし。『この子、あの岡崎なんだろうな』って思ってたくらいで朋也の子だって確信があったわけじゃないのよね」
「なるほど。そりゃそうだよね」
 納得したように勝平も頷いた。
「今も言ったように古河のひとたちもあまり詳しくは知らないんだよ。でもこれだけはわかってる。一ノ瀬さんは岡崎さんを尋ねていく前、古河パンに寄って汐ちゃんにも会ってるし古河夫妻にも岡崎さんの状態を聞いていったらしいんだ。でもね、だいたいの事情は前もって全部わかってたんじゃないかって言ってたよ。あとはお弁当箱を持参しててね、古河パンの台所を借りてお弁当作って岡崎さんとこに向かったらしい」
 三人は知らない。その後半年にわたり、ことみが雨の日も風の日もお弁当を抱えて朋也のアパートのドアの前に座り続けた事までは。
「お弁当……?手作り弁当で釣ったっての?まさか」
 高校時代の朋也ならともかく、渚と住み子供まで設けた朋也がそんなことで釣られるわけがない。そう杏は思った。そしてそれは確かに正しかった。相手がことみでなければだが。
 もちろん三人はそんな事情など知らない。だが言いしれぬ不安は駆け抜けたようで、面々の顔に少しずつ翳りがさした。
「とにかくだね」
 最後に口火を切ったのは、勝平だった。
「僕らじゃ岡崎さんにも古河の家にも接点がなさすぎる。だからこれ以上は難しいと思う。これ以上動けるとすれば、それは杏ちゃん……あとはボタンかな」
「ボタンが?どうして?」
 考えごとをしていたのだろう。勝平の言葉に単にあいづちを打っていた杏が顔をあげた。ボタンの名に反応したのだ。同時に名前を呼ばれたと感じたのか、ボタンも耳をピクリと動かした。
「杏ちゃんは汐ちゃんの先生だけど、それ以上は踏み込めないわけでしょう?でもボタンは違うよね。汐ちゃんとボタンは仲良しなんでしょ?」
「まぁね。ボタンと汐ちゃんはほんとに仲良しだもの。この子、ひとりで匂い辿って古河の家まで遊びに行った事すらあるみたいだし」
 その日杏は自宅にいた。幼稚園経由で古河パンから連絡があった。ボタンを汐が遅くまで引き留めてしまったため、気をきかせた家人が幼稚園に連絡してくれたのだった。
 もしかしたら。あの時に朋也のことを聞いていれば、それがきっかけで古河の家と交流できたのかもしれないと杏は思う。結局は園児の事とはいえ他人の家庭内事情に踏み込むのをためらった杏と、そして破滅的なまでのタイミングの悪さがそうさせなかったのだが。その日は妹夫婦が実家である自宅を尋ねてくる日であり長居はできなかったし、後日あらためて早苗さんにでも聞こうとしたらその日からは朋也本人が送り迎えにやってきたからだ。汐に聞いた話では杏とボタンが引き上げていくらもたたないうちにことみが朋也を連れて現れたらしいから、今思えばまさに間が悪いとしかいいようがない。あと少しいればそれだけで、全ての事情もふたりの口から聞けたかもしれないのに。
 ふと思考が脇道にそれているのに気づき、杏は姿勢をただした。勝平はそんな杏を(つま)を見るのとはまた違う優しい目で見ていた。
 それは子供をみる時と同じ、家族をみる目だった。
「だったら簡単だよ。幼稚園の先生としてでなく、ボタンの飼い主がボタンの友達やその家族とお話するのさ。それで問題にはならないでしょう?」
「……あんた、結構卑怯な性格ね。そんな面があるとは知らなかったわ」
「スポーツは駆け引きも重要なんだよ。知らなかった?」
 元悲劇の天才スプリンターはそう言うと、心折れていた自分を支えてくれた優しい女、そしてその義姉ににっこりと笑いかけた。ちょっぴり微妙な沈黙が生まれた。
 ごふっという声がした。ボタンが優しい(しゅじん)の身体にすり寄っていた。それはものいわぬ猪であるボタンがいつも示す、親愛の情だった。



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