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『尋問』

 翌日、杏は仕事の合間を狙い一ノ瀬ことみの現住所を調べにかかった。しかし思ったよりそれは難航する結果になってしまった。そもそも彼女の職種である保育士(かつては保母と呼ばれた)という仕事は非常に忙しい。また作業の内容上、汐には知られたくないわけだがその汐は自分の受け持ち担当の園児。でただでさえ教育に携わる仕事は低年齢ほど忙しいというのに余計な気遣いまで必要になるわけで、結局ある程度のことを調べあげた頃にはとっくに昼を回っていた。しかもそれすら『高校経由では連絡のつけようがない』という事実を確認したにすぎなかったのである。
 友人は不明。大学に問い合わせるにも一ノ瀬ことみは今正式な研究室に詰めているわけではない。いわば自宅勤務であり、連絡するという事はすなわち個人的なコンタクトになる。正式な問い合わせはもちろん可能だが、今すぐというわけにはいかないらしい。
 とりあえずメールアドレスは教わったのだが携帯のものではない。その時点で杏は躊躇してしまった。今の世の中メールで連絡くらいあたりまえとはいえそれは携帯での話。パソコンが得意でない杏は携帯からパソコンあてにメールが出せる事は頭では知っているものの、パソコンと携帯でメールをやりとりすると面倒が多い事もよく知っている。
 現実には、メール慣れした人間なら携帯相手と見るやそれにあわせて打ち返すのがあたりまえなのだが園児の父兄にそれを求めるのはまだ無理があるだろう。若い親ならともかく歳をとった親もいるのだから。
「う〜ん…」
 閑話休題。
 参ったなと頭を抱えている杏。学生時代よりいくぶん荒れた髪が垂れた。本当は忙殺の日々の中、手間のかかる長髪なんて明日にもざっくり切りたいのであるがそうもいかない事情もある。猪のくせに職員扱いで出入り自由のボタンの存在といい、杏はこの界隈にしがらみがとても多かった。
 ほとんど無意識に左手で髪をもて遊ぶ。杏が苛ついている時の最近の癖なのだが本人に自覚はない。
 その背後に小さな影が近付いてきた。
「せんせー?」
「え?」
 あわててふりむくと、そこには汐がいた。
「せんせー?どうしたの?」
「う、ううん、なんでもないのよ。それより汐ちゃんこそどうしたの?」
 子供ゆえの敏感さなのか単なる偶然なのか、汐の登場はあまりにタイミングがよすぎた。杏はドキリとする内心を抑えつつ、勤めて平静を装うしかなかった。
 だが。
「んー、わたしじゃないの。せんせーなの」
「あら、先生はどうもしないけど?」
 ん?と汐の目線までかがみ、にっこりとわらいかけた。杏としては最大限の演技をしたつもりだった。しかし、
「どうしたの汐ちゃん?」
「せんせー、うそついてる」
「!」
 純粋な目にまっすぐ射貫かれて、杏は二の句が告げなくなった。
「いや、あのね汐ちゃん」
「どうしてうそつくの?わたしにはいえないこと?」
 子供というのは時として、大人よりはるかに敏感に虚偽を見抜く。純粋であるがゆえのことだろう。それはよくある事であり杏とてそういう事態に対応するスキルがないわけでもないのだが、
 しかし、汐の目線は少しばかり他の子と違っていると杏は思った。
 考えてみれば、実の父にずっと放置されていたような子である。本来なら性格に歪みのひとつもあろうというのに汐はちょっとオドオドするところがあるくらいで普通の子となんら変わらない。それはそれで凄い事なのだが、この非常な敏感さもそれに由来するものではないだろうか。
 杏はじっと考えた末、ええいままよと頭を切替えた。
「ねえ汐ちゃん。実は相談したい事あるんだけどいいかな?」
「そうだん?うん、いいよ。ふたりだけで?」
 一瞬、相談という語彙がないのではと思ったのだが杞憂だったらしい。汐はにっこりと笑った。
「それが一番いいけど、ここでもいいよ。あのね汐ちゃん、先生、ことみちゃんってひととお話してみたいの」
 単刀直入。こどもの純粋な疑問に対しありのままをぶつけてみる。杏らしい方法だった。
 対する汐は杏の意図をどこまで理解しているのか、首をかしげた。
「ことみちゃんと?おうちにくればお話できるよ」
「あー、ふたりだけでお話してみたいの。とも…パパには内緒でね」
 朋也にいられては困るという言葉は意図的に伏せた。しかし敏感な汐に変な疑念を抱かせたくないと思い、朋也には内緒という言葉は正直に混ぜた。
 対する汐はその言葉を反芻するようにじっと考えていた。そして顔をあげ、
「おんな同士のお話?」
「え、ええそう。汐ちゃんもそういうのわかるの?」
「うん!早苗さんとそんなおはなしした事があるの。あっきーにはないしょって」
 どんな話をしたのだろう。杏はその内容が気になったが今重要なのはその事ではない。
「そうなの。できれば、ことみちゃんとふたりだけで」
「んー…」
 汐は少し悩んでいたようだが、やがて「ちょっとまっててね」といって姿を消し、通園用の手提げを持って戻ってきた。
「えっとね、れんらくさきのうら」
「連絡先の裏?…あぁ、連絡先の紙の裏ね」
 汐から手提げを受け取ると父兄連絡用の名札をつまんだ。中を見ると一枚の紙片が挟まっている。
「これね…どれどれ。んー」
 はたして、そこには一ノ瀬ことみ博士の研究室兼自宅と思われる直通番号、それに携帯の番号までも記されていた。少し子供っぽくはあるが繊細な女性の字だ。
「ねえ汐ちゃん。これって、ことみちゃんが書いてくれたの?」
「うん。パパはおしごとでおそとにいるから、どうしてもつうじないときはこっちにって」
 しかし、それなら第二連絡欄があるはずだ。どうしてそちらに書かないのだろうか。見るとそこには古河パンの電話番号が記されている。朋也がくる前は第一連絡先になっていたものだ。
 杏が悩んでいると汐がにこっと笑った。子供の笑みだ。
「えっとね、ことみちゃんはおともだちなの。だから『ふけい』のとこには書かないんだって」
「なるほど」
 連絡先を持たせるほどに親しいのにこういう点は頑固なまでに線を引いている。なるほど、送り迎えすら拒否するのだからこれも当然といえば当然なのだろうが、
「納得…するべきなのかしらね?これは」
 なんとなく朋也とことみの微妙なスタンスというか、そういうものを象徴しているかのように杏には思えた。
 とにかくその連絡先をメモする。そして紙片を丁寧に元に戻し、汐に名札を返した。
「ありがとう汐ちゃん」
「うん。それでいつくるの?」
「え?」
「せんせー、うちにくるんじゃないの?」
「…あー」
 どうやら汐の中では「ことみと逢う、イコール家にくる」となってしまっているらしい。それに気づいた杏は苦い顔をした。
「あのね汐ちゃん。家だとパパがいるでしょ?」
「あ、そっか」
 むむ、と顔をしかめる汐。その顔が考え込んだ時の朋也に似ている気がして、杏は内心くすりと笑った。
「だったら『あぽ』とらないとダメだね」
「へ?あぽって?」
「んーと、ことみちゃん言ってたの。いそがしいひとは『あぽ』とらないとダメなの」
「…あぁ、アポね。うん、そうそう」
 まさか五歳の幼児からアポなんて言葉を想像するわけがない。杏は自分の顔が盛大にひきつるのを感じていた。



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