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『たんぽぽ娘(1)』

 一ノ瀬ことみへの連絡は実に簡単だった。
 たった1コール、携帯にかけただけだった。即座に相手は出た。しかもそればかりか、こちらが何も言わないうちに『汐ちゃんどうしたの?何かあったの?』とあわてた若い女性の声。
 杏は一瞬、いやな予感がした。
 類似の反応を見せる父兄は少なからず存在したが、子煩悩を通り越して性格破綻直前まで逝っているような者もいたからだ。この手の輩には人間の会話が通じないことが多い。自分の子供が可愛いのはわかるが、自分とこの子さえよければ他なんぞ死のうがどうしようが知ったことじゃないという態度はいかがなものか。幼児相手とはいえこちらは団体生活の初歩の初歩もいちおうカリキュラムに入っている。あんたこそ入園しなさいよと言いたくなるようなろくでもない親は杏程度のキャリアでも既に両手に余るほどに遭遇していた。素直なぶん子供の方がはるかにましだ。
 胃が痛みそうになるのをおさえつつ、杏は言葉を継いだ。
「すみません、一ノ瀬ことみ博士でしょうか。わたくし、汐ちゃんの担当で岡崎くんの元同級生でもある藤林杏といいます。失礼ですけど汐ちゃんからこの番号を教えていただいてお電話さしあげてます」
『!』
 電話の向こうでは一瞬だけ音が止まり、そして、少し困ったような声に代わった。
『…汐ちゃんに何かあったんじゃないのね。よかった…』
 心底安堵したような声だった。
 杏は胃の痛みがさらに増したような気がした。賭けてもいい、この指定電話番号は汐専用だ。それもたぶん余程のことがないと使ってはならないと言い含めたものに違いない。だから即座に汐に呼びかけたわけだ。汐がかけたか、汐に何かあって名札を見た者しか絶対かけて来ない番号だから。
 たったそれだけで、ことみがいかに汐をかわいがってるか杏にはわかりすぎるほどわかってしまった。
「驚かせてすみません。実は一ノ瀬博士におりいってお話があるんです。とも…いえ、朋也の件で」
 岡崎と言い直そうとした杏だったが、結局朋也と名前で言った。初対面の相手なのにどうしてなのか、自分自身でもわからなかった。
『朋也くんの……?』
 対する一ノ瀬ことみは、くんづけで返答してきた。
 なるほどと杏は思った。朋也も呼び捨てのようだしこれは相当深い関係、あるいは余程この一ノ瀬博士が子供っぽい性格かに違いないと杏は速攻で結論づけた。
 どちらかはさすがにわからない。やはり直接話してみたいものだ。
「あまりお時間をとらせるつもりはありません。ですが、できれば直接お会いしてみたいです。なにより私は朋也の友人であると同時に汐ちゃんの教育担当ですし、他にもちょっと色々ありまして。博士もお忙しいとは思いますが、できればどこかでお時間をいただければ」
 言外に、時間をとれという意志をこめて杏は話した。なんとしてでも会わねばならない、そんな強迫観念が杏の中で急速に育ちつつあった。
 どうして自分がそこまで敵意を燃やすのか、杏自身もわからずに。
『そうですね……』
 対する一ノ瀬ことみは、ちょっとオドオドした雰囲気の声になった。杏が今まで一度も聞いた事もないような速さでキーボードをタイプする音が背後で聞こえ、そして
『……二時間後、午後二時まででどうでしょうか。そちらは幼稚園ですか?』
「はい、そうですけど二時間後ですか?そちら遠いんでしょうか?」
 それではほとんど「昼食ついで」くらいしか時間がとれないではないか。こっちは一日あけたというのに何様だこの女、と杏は自分のことを完全に棚にあげて思った。
 少しイラつくような反応をしてみる。簡単に言えば相手を萎縮させる手だ。どうにもこの一ノ瀬博士、押しが弱そうだと判断してのことだった。
 はたして、一ノ瀬ことみは少し戸惑ったあとにぽつりと言った。
『新しい式の演算依頼を出すのと学生からの質問依頼の返答に約九十分必要とするの。あとは幼稚園近郊への移動に徒歩で二十四分少々、午後二時までの理由は夕食の材料を買うための吟味と商店街の往復に平時で平均一時間から一時間四十五分の時間と調理に約一時間四十分。さらに……』
「わかりました。その時間でいいです」
 まさか分刻みの予定に詳細な解説までつけられるとは思わなかった。杏はあわててことみの言葉を遮った。
「で、場所ですけど」
 これ以上計算違いの事態でも起きたらたまらない。杏はさっさと細かい場所の指定にはいる事にした。
 そんな杏のかたわらで、ボタンが平和そうに目を閉じていた。



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