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『たんぽぽ娘(2)』

 一ノ瀬ことみの居室は、ほとんど町外れに近い郊外の新築マンションにある。
 かつては交通の便が悪かった場所なのだが駅がひとつ新設されたために一転、大変便利な場所となった。未だ急行電車は止まらないが、このまま住人が増え続ければ遠からず一等地になるのではないかと言われている。当初は大学の名で部屋を借りていたが現在はことみ名義に変更。何かがあった際には朋也たちを迎え入れる事も可能なよう考えた結果である。大学名義だと正式な親族以外と大学関係者以外を入れるのに問題が出る可能性があったからだ。ちょっと泊めるくらいなら問題はないのだが。
 もっともそんな事、これからその一ノ瀬邸に乗り込もうとする藤林杏には関係なかった。時間あわせに難航したあげく、だったらこちらから行きますと言ってしまった杏なのだが、ことみはそんな彼女にあわてたそぶりも見せず、ではお昼を用意してお待ちしてますと言ったのだ。まぁ学者先生だから店屋物でもとるのだろうと判断した杏は考えた末に了承した。後にそれを杏は後悔する事になるのだが、いくらか頭に血が昇っていた事もあるのだろう。あまり深く考えた行動ではなかった。
「へぇ。このあたりってこんなになってたんだ」
 いささか古ぼけ、子供達のいたずらで落書きつきのスクーター。それを杏は山の斜面に立つ大きなマンションの前で停止させた。
 保育士の仕事をはじめてから、のうのうと遊びに出る機会も減った。スクーターもあの頃のやつを未だに乗りつづけているのだがそろそろ御役御免に近い。だからあまり無理もさせられない。寒い日などはエンジンを温めないと年老いたエンジンは十分な速度を得る事もできず、職場では「ボタンに乗ってくればいいのに」等と冗句まで言われるありさまであった。
 いやこれは半分笑い話ではない。杏はとある雪の朝、本当にボタンに乗せてきてもらった事があったりするのだが…これはまぁ今回語るべき事ではないだろう。いずれ機会があれば。
 さて、いよいよ到着したようだ。杏はヘルメットとグローブをメットインフォルダに納めてロックすると、ことみに聞いた通りの入口から入っていった。
「へぇ」
 ここらの町ではまだ珍しいセキュリティマンションだった。一流ホテルとはいかないが結構立派な入口から入るとこれまた落ち着いた雰囲気のロビーになっており、郵便受けも一般的に見るものとは違う。さらに、各部屋に進むには住人に開けてもらうかパスワードが必要という周到さであった。
「まぁ、日本を代表する学者先生の家って事かしらね」
 肩をすくめると杏はパネルのようなものに向かった。汐に写させてもらった住所メモの番号をなぞってみる。
「あ、これか」
 杏はその部屋番号の書かれたパネルを押した。すると、
『The password number please.』
 いきなり硬い男性の機械音声で、そんな言葉が響きわたった。
「へ……?」
 まさか英語で反応されるとは思わなかった杏は一瞬、ギョッとして立ちすくんでしまった。が、次の瞬間、
『The password number please within thirty-seconds, twenty-nine, twenty-eight, twenty-seven..』
「え?え?えぇぇぇっ!!」
 突然のことに杏は軽いパニックに陥っていた。そうしている間にもみるみる数字は減りつづけていったが、途中でプツリと音がしてその無機質なカウントダウンは停止した。
『そこ押しちゃダメ』
「……あ?」
 突然響いたことみの声だが、杏は未だ固まっているようだった。
『だから、下に着いたら携帯にかけるかインターホン押してって言ったのに…』
 困ったようにつぶやく声。杏はなんとか理性を取り戻したのか一度だけ深呼吸をし、そして
「もう。なんでいきなり英語なのよぉ」
『ここお世話してくれた教授の悪戯(いたずら)なの。好きな声や言葉が設定できるらしいから』
「……」
 まるっきり子供の悪戯だった。
 要は玄関に変なものを仕掛けて来訪者を驚かすノリなのだろう。なまじ大人で変に知恵があるため悪質さに研きがかかっている。たとえばもし言語設定にラテン語の設定が可能だったり、文字に古代メソポタミアの楔型文字が使えるなら彼らは喜んでそれを選んだに違いない。あわれな来訪者を驚かすには奇矯であるに越したことはないからだ。
 しかし実のところ、それを知りつつそのままにしてあることみもやはり世間の感覚からはズレているといえる。これくらいは軽いお茶目の範疇なのだろう。
「…はぁ」
 盛大にためいきをつきつつ、カチャリと外れて開くオートロックを杏は見ていた。

 豪華ではあるがいかつい造りのエレベータで昇ると、その先はことみの部屋であった。 
 学者の家というのを杏ははじめて見る。当然興味しんしんだったが、内装は驚くほど簡素なものだった。女性らしい家具など皆無に近く、無味乾燥ですらある室内。しかし書籍類だけは膨大で、専門書らしいものから何を書いているのかさっぱりわからない外国語までが一画を完全に埋めつくしている。そしてその奥には素人目にも普通のパソコンとは一線を画した大きなワークステーション。画面も杏の使うWindowsとも職員のひとりが使うMacintoshとも違うもので、見たこともない画面が表示され英文のメッセージが次々と流れている。
 たしかにそこは、日本を代表する若き理論物理学者の部屋なのだという事を杏にも自覚させるものだった。
 どこかから漂う煮物の匂いが、むしろ違和感を感じさせていた。
「いらっしゃいなの」
「あ、どうも」
 ただし、目の前にいる女性はどう見てもその学者然とした光景とはアンバランスだった。
 たしかに、盛大に浮世離れはしている。もの言いも態度も異常に子供っぽいのだ。少し癖のある長い黒髪は色を除けば杏の方がむしろ綺麗なほどなのだが、よく暖房のきいた部屋で薄手の地味なセーターを着込み微笑む姿はたしかに大人だ。なにげにかなりのナイスバディでもある。その体格に杏は密かに敗北感をおぼえた。
 しかし、なんだろう。この全体に漂う悪い意味でない子供っぽさは。へたすると今どきの子供たちより澄んだ瞳で、じっと杏をみつめている。
 ここまで来る間に抱いていたことみへの敵愾心が、杏の中でみるみるしぼんでしまっていた。
「えっと、改めて自己紹介いいかしら」
 このまま見つめあっててもしかたない。杏は予定をすすめる事にした。
「私は藤林杏。電話で言った通り朋也の友人で、今は汐ちゃんの受け持ちをしてる保育士でもあるわ。よろしく」
 とりあえずフレンドリーに話しかけてみた。今後どういう応対をするにしろ、まずは話してみなくては始まらない。実際そのために来たのだし。
 対することみは姿勢をただし、丁寧におじぎをした。そして、
「一ノ瀬ことみ。ひらがなみっつでことみ。呼ぶ時はことみちゃん」
「……」
 まるで幼女のような挨拶に、さすがの杏も一瞬だが唖然としてしまった。だがすぐ気持ちを切替え、
「ことみね。私のは漢字一文字。あんずと書いて杏よ」
「杏ちゃん。いいお名前」
「ありがとう。ことみもいい名前ね」
「ありがとう。お父さんとお母さんにもらった大切な名前なの」
 なんとも子供っぽい会話だが、たしかにことみの雰囲気にはよく似合っていた。
 杏は知らないのだがが平時のことみはこんな挨拶はしない。一ノ瀬博士として挨拶する時は歳相応とはいかないがもっときちんとした挨拶をする。それは大学での生活や後見人の影響でもあった。
 ようするに、朋也の友人であるから朋也に対するのと同じ挨拶をしたわけだ。この時点で杏はことみにかなり好意的な応対をされているといえる。
「座ってて。今、お昼持ってくるから」
「ええ」
 一瞬手伝おうかと思ったが初対面の人間の台所にいきなり行くのもなんだろう。それに店屋物なら食器の数なんかも少しだろうしと杏は思い、素直に応接用の椅子に腰かけた。
 だが約三十秒後、居間に現れたことみを見た杏は自分の間違いに気づいた。
「おまちどうさまなの」
 あらかじめ準備してあったのだろう。大きなお盆にことみが載せてきたものはさっき感じた煮物の匂いの正体だった。
「……ポトフ?」
「元はポトフなの。でも毎日少しずつ色々入れちゃってるから、今はただの煮物なの」
 ありあわせでごめんね、とことみは恥ずかしそうに笑った。ようするに店屋物ではなく、いつもの自分の食事と同じものを杏にも用意してくれたらしい。自分が学者という生き物に対して持っていた偏見に今さらながらに気づき、杏は内心赤面する自分を感じた。
 だがそれよりも杏には気になる事があった。ことみの運んでくるおかずや食器群だ。
 とんでもなく使いこまれた、しかし綺麗な食器類。生活感のにじむ塗装のはげた鍋。中に入っているものもメインディシュのポトフもどきにつけあわせの浅漬けやその他の雑多な食べ物たち。若い独身女性ひとりの食卓にあるものとしてはあまりにも家庭的すぎはしないか。
 杏自身は一人暮しの経験はない。だが友達の部屋や妹の新居などを見て多少の知識はある。ことみの食卓はどう考えても仕事のある独身女性のそれではない。明らかに度を越している。
 そして、趣味で料理をするひとのそれのようにも思えない。一部の食器の年期の入りかたからしても、一年や二年毎日使って程度のものではない。少なくとも十年単位の時間が過ぎている。
 じり、と杏の中で違和感が疼いた。
 やがて食器や食材が並べ終わった。女ふたりが食べるにはいささか多すぎる量だった。
「食べられるだけ食べて。食べきる事よりむしろ種類を多くとるのがいいの」
「なるほどね」
 もう何も言うことはなかった。杏は素直にうなずいた。
「いただきましょう」
「……いただきます」
 まるで子供のようにお行儀よく、ふたりは食事をはじめた。
 たくさん並べられた料理は、どれもとても美味しいものだった。ただの煮物と自称するポトフもどきですら、食べてみるとちゃんとポトフの味を残している。煮すぎて味がボケているさまを想像していた杏は少し驚かされた。ありあわせとことみは言うがとんでもない。見た目が地味ではあるがどれも立派な料理だ。そしてどこか懐かしい。本格的なところと家庭的なところが、微妙にミックスされていた。
 自分もそれなりに料理ができるつもりだったが、そんな杏にもここまでやれる自信はなかった。
「実はお弁当の残りなの」
 そんな杏の疑問に、ことみは的確な解答をよこした。
「お弁当?」
 ここで仕事しているのにどうしてと言いかけて杏は気づいた。要は朋也のところへ持参しているというわけだ。
「朋也くんはやっぱり男の子だから、簡単な炒め物中心で凝ったお料理はあまり得意じゃないの。だから私が色々持っていくの。私にできる事はそれくらいだから」
「……それは朋也のため?」
 食事をいただきつつ、一番聞きたかった質問を杏はしてみた。だが、
「違うの。朋也くんのためじゃない」
 ことみの反応は杏の予想を完全に裏切っていた。とても悲しげだったからだ。
「……話してみなさいよ」
「え?」
 杏は思わずつぶやいていた。
「朋也や汐ちゃんには言えない事でしょ?それは」
「……」
「初対面の人間に言う事じゃないかもしれないけど、私も朋也と無関係な人間じゃないわ。そして身内でもない。愚痴こぼす相手としては悪くないかもしれないわよ?」
 何を言ってるんだろう、そう杏は思った。
 自分はことみを糾弾しに来たのではないか。渚を失い荒れていた朋也の心の隙間を利用し、岡崎親子の間にまんまと後から入り込んだ異物。その化けの皮を剥ぎに来たのではないのか自分は。なぜ敵に味方するような行為をするのか。矛盾しているではないか。
 いや。それも違うと杏のどこかがつぶやいた。
 藤林杏。おまえはただ、朋也を見知らぬ女に奪われるのが許せなかっただけだとそれは言った。渚には勝てなかったがもうその渚はいない。なのに、そう思った矢先に別の女が朋也にすり寄っていた。それが憎くて許せなかっただけではないのかと。自分が悪いのを他人のせいにしていただけではないのかと。
 違う、と杏は否定しようとした。そんな事はないといいたかった。
 だけど。
「…うん」
 目の前で悲しそうにうつむくことみ。それが答えだった。
 おそらく彼女もまた、渚に負けた者なのだろう。どういういきさつがあるのか知らないが、幼なじみという情報が本当ならことみの朋也への思いは非常に古くて深いものだろう。なぜなら高校卒業以降にふたりの間に接点はないのだから、ことみが朋也への思いを募らせたのは少なくとも高校かそれ以前なのは間違いないだろうから。
 それでもことみは負けてしまった。渚がそれだけの女の子だったのか、それとも単に自分やことみが悪かったのか。おそらくは後者なのだろう…口惜しい事だが。
 そして、それでもことみは踏み出した。自分が日々に忙殺され朋也のことを忘れかけていたその時に。ことみ自身だって一ノ瀬博士として立派な仕事をしていたというのに、それでも朋也の現状を知り、なんとかしようと駆けつけたのだろう。それは大変な事だったはずだ。距離的には目と鼻の先にいた自分と違いことみは都心の大学で研究生活をしていたのだ。どれだけの犠牲を払ってことみが戻ってきたのか、杏にはもはや想像すらもつかない。
 ことみの内側ではたぶん今も変わらず朋也への思いが燃えつづけていたのだろう。純粋に、そして激しく。自分のそれなど問題にならないほどに。
 根拠はない。だがおそらく事実だと杏は思った。自分がことみに対して感じた反感の正体もそれだ。自分にはできない事をことみはやっていたから。それを感じ、それに対して苛立っていたのだと。
 完敗だった。
 朋也にとってことみの位置づけがどうなっているのかはわからない。だが自分にことみの真似は逆立ちしてもできない。自分もおそらく昔も今も朋也を忘れてはいない。だけど自分は朋也を一時的にせよ忘れ、ことみは忘れなかった。そういう事なのだ。
「聞かせてくれる?ことみ。私もできる事なら協力したげるから」
 杏は内心自嘲していた。こりゃ今夜は自棄酒(やけざけ)かしらね、そんな事をまるで他人事のように考えた。ライバルに塩を送るどころか手を貸して自滅しようというのだ。もはや馬鹿を通り越して笑うしかなかった。
 でも、どうせ馬鹿ならお人好しの大馬鹿の方がいいだろう、そう杏は思った。
 
 夜。
 朋也たちの元へ駆けていったことみ。その背中を杏は見つめていた。
「やっと行ったわね」
 杏がことみの元を辞したのは四時間ほど前だった。しかし杏はそのまま帰る事はしなかった。その手には大きな買い物袋がある。中身は酒とつまみだった。隣町のバイク屋でカーボンの詰まったマフラーを交換し、時間潰しに近くの大きなデパートで歩き回ったあげくさんざ迷い買い込んだものだ。飲みたい気分だが安酒を食らいすぎると二日酔いで仕事に響く。滅多に飲まないお気に入りの高価な酒と、普段なら高くてちょっぴりしか買わないつまみ。ボタン用のおみやげもあるので自然とその量は多くなった。
 そして帰りに寄ってみたら、ちょうど大きな包みを持ったことみを見掛けたというわけだ。おそらく弁当なのだろう。肉体労働をしている朋也と育ち盛りの汐のため、かなり多めに作ってあるのは言うまでもない。
「お姉ちゃん」
「椋」
 振り向くとそこには軽のワゴン車が止まっていた。椋がひとりで乗っている。
「あんたどうしたの?こんなとこで」
「お姉ちゃんとこに行くつもりだったの。ちょうどよかった」
 助手席に包みがある。酒とつまみらしい。理解のありすぎる妹だった。
「あんた仕事は?旦那と子供はどうしたのよ」
「勝平さんは子供たちと遊園地のイベントだってこの寒いのに。仕事は非番」
 気をきかせて椋を送り出してくれたらしい。夫婦そろってお人好しは健在のようだ。
「あんた、やっぱり何か知ってたわね。残らず吐かせてやるから」
「知ってたんじゃない。知ったの。昼間に古河パンで汐ちゃんたちに聞いて」
「あ、そ」
 どうやら椋は椋で色々聞き回っていたらしい。そして姉の状況を予想したのだろう。
「なんかムカつくわねあんた。いいわ、とことんつきあってもらうから」
「はいはい」
 杏はそっぽを向いてスクーターのエンジンをかけた。姉の意地で、妹にだけは涙を見せないように。
 そして椋も姉の顔を見ないようメーターパネルに視線を落とした。
 そのさまは、何年たっても変わらない仲良し姉妹の姿そのものだった。



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