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『終章・川の字(1) 食卓』

 アパートの中では、既に連日恒例になった夕食会が催されていた。
 いつもより二時間ほど時間が遅かったのだが、朋也と汐はことみを待っていた。朋也は汐だけ先に食べさせようとしたのだが汐はそれを断固として拒否した。みんなで食べる方がおいしいよと言われれば、確かに朋也も納得せざるを得なかった。
 それは渚の考えかたであり古河の家の伝統でもあったからだ。
 そしてことみはやってきた。遅れてごめんなさいと頭をさげることみの荷物を朋也は奪い取り、汐はストーブの前にことみを連れていく。いつもの場所にことみがコートをかける間に、冷やすものはあるか必要な皿はと朋也が質問する。その間に汐はまだ拙い手つきでテーブルを拭いている。
 もはや、来るのがあたりまえといった応対だった。実際ことみは一日も休まず来続けていたのだが。
「今日はこんばんわなの」
 そして食事の前、ことみは必ず渚の遺影の前で手をあわせる。これもいつもの事だ。どうして食事前なのか朋也は尋ねた事があるがことみは苦笑して答えない。汐には話した事があるのだが、その時朋也は外に追い出されて教えてもらえなかった。汐も『やくそくだから』と朋也にも古河の人達にも絶対話そうとしない。
 ただひとつわかるのは、それ以降のことみと汐が今まで以上に仲良くなったことくらいだ。
「いただきましょう」
「いただきます」
「いただきます」
 ことみが音頭をとり朋也がそれに続く。遠い昔の光景そのものだった。違うのはふたりが大人になっていることと、朋也の横で汐も復唱していること。それはとても微笑ましい姿だった。
 そしてそれは、ここしばらくですっかり日常となった岡崎家のいつもの光景でもあった。
 渚と同居時代に買った小さなテーブル。それとことみのお弁当のために朋也が買ったもうひとつのテーブルにたくさんの食べ物が並んでいる。今日は洋風の食卓だ。野菜類が多めだが汐にも食べやすいようさまざまな工夫がことみの手でなされている。おいしそうにそれを次々と食べていく汐を朋也は複雑そうな目で見ていた。それを見たことみはクスッと小さく笑った。
「なんだ?俺の顔に何かついてるか?」
「思い出したの。お母さんが朋也くんに野菜を食べさせてた時のこと」
「え?そんな事あったっけか?」
 朋也の返事に『ええ』と頷いてことみは続けた。
「お母さんの残してくれたものの中にお料理メモがあったの。昔朋也くんと食べたお菓子や軽いお食事のレシピがいっぱいいっぱい書いてあったんだけど、ひとつひとつの料理について朋也くんの好き嫌いとその克服方法まで細かく記してあったの」
「初耳だぞそれ」
 むむむ、と首をかしげた朋也だったが、
「あれ?でもおかしいな。俺、ことみのお母さんに嫌いなものなんて食べさせられた記憶ないぞ。嫌な事だから忘れちまったのかな」
 そんな朋也の疑問に、ことみは首をふって続けた。
「それはお母さんの魔法。お料理も物理現象も知らないひとには魔法と同じなの」
「魔法?」
 ええ、とことみは夢見るように頷いた。
「朋也くんは朋也くんの嫌いなものもたくさん食べてた。私もそう。けど朋也くんも私も何ひとつおぼえてない。おいしかったこと、それだけしか覚えてない。そうでしょう?」
「ああ」
「なのに身体は覚えている。これは食べられるものだって認識する。そして大人になればきちんとそれを普通に食べられる。それがお料理の魔法。根拠はないけどたぶんそういうものだと思う」
「へぇ」
 そうして『おかわり』と差し出された汐のお茶椀を微笑んで受け取る。
「朋也くん用のお母さんのレシピは今も役立ってるの。知ってる?汐ちゃんの好き嫌いって昔の朋也くんとほとんど変わらないの。朋也くん、きっと無意識に自分が苦手だったものを避けてお料理してるから」
「それは」
 朋也は否定できなかった。確かに思い返せばそういう部分はあるように思えるからだ。
「それは別にいいの。今は私がいるし、私がいなければ早苗さんが同じ事をしていたと思う。だから朋也くんはその事を気にする必要はないの。汐ちゃんのお父さんとして、できる事をすればいいんだと思う」
「そっか。ありがとな、ことみ」
「お礼なんかいいの。やりたくてやってる事だから」
 朋也はこの時点で知らない事がたくさんあった。今日ことみが遅れたのは杏の来訪で時間がずれたからだがそんな事ことみはひとことも言っていなかった。いや、そもそもことみが携帯の番号を汐に持たせている事すらも朋也はまだ知らない。正式に記録されている第二連絡先は古河パンだし、汐の祖父母である古河の両親以上にでしゃばるつもりもことみにはなかったからだ。自分は「友達」であって家族にはなりえてないから。
 しかしそれは明日にも朋也の知るところとなるのだが……今はそれはいい。とにかく今三人はまったりとした平和をむさぼっていた。
「……」
 そして汐は、パパとことみちゃんの距離が次第に詰まっていくのを今日もにこにこ笑って見ていた。ちょっとだけお姉さんになった気分で。
 



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