真琴は人間ではない。
喧嘩もするし遊びもする仲だが、結局のところ真琴は自分を祐一のパートナーと位置づけてはいない。慕っているのは事実だが、異種族である自分と子を成すことはできず、できたとしてもいい未来はないだろうと本能で知っているからだ。幸いにも祐一には真琴に対して同じような立場の仲間がいるわけで、真琴はふたりが結ばれることを何よりも欲していた。
天野美汐。
かつての祐一と同じく、自分のような狐と交わりをもった娘。真琴の正体を知りつつ祐一と同等以上にかわいがってくれた人間の女の子。それを真琴はとても慕っていた。
「ふう」
一緒のお昼が終わり、大学に戻るという祐一と別れた真琴は町外れの神社の入口まで歩いてきた。ここまでは結構距離があるのだが真琴には通いなれた道だ。美汐はこの神社の娘であり、今は家事手伝いをしながら巫女をして過ごしている。
『天野神社』と書かれた石の門柱を真琴はみつめた。
かつて真琴はこの神社について美汐に尋ねたことがある。すると美汐は「ここで奉っているのは貴女たちですよ真琴。といっても『おいなりさん』とは違うんですが」と苦笑まじりに言ったものだ。
自分たちは神様ではない、なのにどうして奉るのか。真琴はそれを不思議に思い尋ねてみた。すると今度はふふっと笑ってこう返してきた。
『それはね、かつてこの国では、
真琴にはよくわからない話だった。だが美汐は真琴には嘘をつかないので、真琴はそれをそのまま覚えた。
自分たちを奉っているという神社の階段を真琴はゆっくりと登っていく。考えてみればそれは不思議な光景だ。真琴はいわば御神体である。女の子の姿で御神体がそこらを歩き回っている神社というのもちょっと変わっているだろう。
と、そんな真琴に声がかかった。
「おや、真琴ちゃんじゃないか」
「あ！おばさんこんにちは！」
顔見知りのようだ。掃除していた主婦とおぼしき女性に真琴は、祐一が見たら驚くほどきちんとした挨拶を返した。
だが、女性には真琴の猫っかぶりなんてお見通しのようだ。うふふと笑う。
「今日も元気だね。美汐かい？美汐なら上で境内の掃除をしてるよ」
「ありがとう！」
嬉しそうに笑うと走り出す真琴。どうやらゆっくり登っていたのは美汐がいるかどうかわからなかったからのようだ。それを知っている女性もにこやかに微笑み、掃除を再開するのだった。
『帰って』きてからの真琴は、倒れる以前に戻ったかのように元気になった。
以前との唯一の違いは水瀬親子との交流だろう。秋子にはもともとある程度懐いていたが、名雪とも急速に仲良くなっていった。名雪は水瀬家最強の賑やかしの帰還を最愛の従兄弟をとられたちょっと複雑な思いと共に受け止めたが、子供のように名雪に懐くようになった真琴は可愛かったようだ。スポーツ推薦で大学に行き忙しい日々を送ってはいるものの、やはり水瀬家の娘ということか隙あらばしっかり帰ってきてあたりまえのように団欒に混じっている。そしてそんな時、母親や従兄弟へのお土産は忘れても真琴への土産と帰宅時の抱擁は欠かさないのだった。
そんな名雪の好意が真琴にわからないわけがない。ふたりはとても仲良しになった。
真琴も頑張った。以前あっというまに首になった保育所の手伝いも再開した。最初はさすがの保育所もちょっと渋っていたが真琴が子供たちの人気者になるにつけ、だんだんとその扱いかたがわかってきたのだろう。毎日ではないが真琴は乞われ、出かけていく。ガキ大将の元締めをして喧嘩の仲裁をしただの、元気のない子供を引き連れて泥んこになって遊びまくっただの、大人の保育士にできない大活躍を真琴はやらかし続けた。
今や日曜日などに祐一と外出すると、保育園のがきんちょにしょっちゅう声をかけられる真琴である。動物だから子供に近いのか、それとも純真な子供だから『仲間』がわかるのか。とにかく真琴はその居場所をきっちり確保しつつあったわけだ。
閑話休題。
そんな真琴であるが、今でも神社のきつい階段などは苦手である。自分が何者かを知っている今となっては四つ足の獣の姿で駆けあがってみたいとも思うのだが、迂闊にその姿に戻るのは危険だとも知っているし、ひとの属性をなくしては今の暮らしが続けられないのもわかっている。
だから真琴は、しんどくても真琴のまま登る。
「ふう、ふう」
頂上に着いた。
上はそのまま境内になっている。階段の上の端に鳥居があって、ここから先は神様の領域というわけだ。
もちろん真琴は躊躇しない。この神社で神様の領域ということはつまり、真琴たちの領域ということだからだ。ひとの作った勝手な線引きではあるが、その意味でも真琴が躊躇する必要はまったくない。
動悸をゆっくりと沈めつつ、静かな境内にとことこ入っていく。
「おや、狐のお嬢ちゃんかね」
「あ、おばあちゃん！」
美汐の祖母だ。腰が曲がっててゆっくりしか歩けない。だが祐一や美汐と同じ優しい目をした女性である。
その老女は巫女装束をまとっていた。
巫女といっても色々ある。すでにかなりボケの入っているらしいこの女性だが、若いころからここにいただけあって神社の仕事にはそつがない。だから動けるうちはと家族も好きにさせていた。
そんな女性であるが、彼女はなんと出会い頭にひとめで真琴を妖狐と見抜き、美汐と祐一を驚かせたという経緯の持ち主だ。今日も今日とて真琴を見て小さな声で何やら拝み、そしてにっこりと微笑んだ。
「今日も元気じゃのう。どれ、油揚げはないがお菓子は食うかの？揚げたてじゃぞ」
「わ、ありがと」
手作りらしい揚げ菓子をもらう。地味な味だが真琴はそれが好きだった。嬉しそうに笑い、さっそく古風な紙製の袋に手を突っ込みつつ老婆に問いかける。
それを見た老婆も微笑ましそうに目を細める。
「ねえ、美汐いる？」
「サヨコさん？あぁいるとも。呼んでやろうかの。…サヨコさん、サヨコさぁ〜んっ！！」
大声で違う名を呼び出す老婆に真琴は笑う。いつもの事だからだ。
この老婆、
呼びわけられないのはボケた結果だろう。だが区別はちゃんとできているのだし、それでいいではないかと。
ボケるとは、ひとが動物に還ることではないのかと真琴はいう。以前、真琴自身がそういう最後を辿ったことを知っている祐一は、なるほどそういう考え方もあるかとある意味納得したものだが。
だがもちろん、名前を呼んでほしい美汐は納得できるわけがない。
「お婆ちゃん。私は美汐です。…で、どうされ…あら？真琴？」
「うん！」
朱と白の巫女装束で、美汐は出て来た。祖母と同じ衣装だが若いだけあってきりっとしている。真琴は嬉しそうに微笑んだ。
真琴と美汐はいつものように、本殿入口にある階段に座った。
ここでよく美汐と真琴は話し込む。祐一たちに内緒の話や昔のことなど、とりとめもないことをよく話すのだった。
見ためにはサボりである。父である神主がその事でちょっと渋ったことがあるのだが、真琴が他でもない妖狐であることを知っている祖母がそれをやんわりと制した。天野家ではもちろん真琴の正体なぞ知るわけではないし聞いても信じなかったろうが、祖母が母でなくかつての巫女の顔で「あの娘は妖狐と深い関わりのある娘じゃ。見守ってやりなさい」と息子を嗜めるのに彼も何かを感じたのだろう。真琴が相手の時に限り、そうして堂々とサボる事も特例として認められているのだった。
「…そうですか」
真琴は美汐に、さっきの祐一とのお話をしたようだ。美汐は考えこんでいる。
「美汐はイヤ？祐一と結婚するの」
首をかしげて問いかける真琴に、美汐はいいえと首をふった。
「イヤじゃないですよ。ちょっと意外だけど」
「え？どうして？」
こんなに仲良しなのに、と不思議がる真琴に、美汐はちょっとさびしそうに首をふった。
「相沢さんはてっきり、川澄先輩と一緒になられるのかと」
「暴力女？あれは違うよ」
よりによって『暴力女』ときたか。美汐は吹き出しそうになった。
「違うってどうしてですか？川澄先輩も今は昔と違って随分優しくなったでしょう？真琴のことも可愛がってくれてるじゃないですか」
それは事実だ。舞は真琴に優しいし、真琴も最近では結構懐いている。
だが、真琴は首をふった。
「それ違う、美汐」
「？」
「あのね、美汐。あの女が祐一に懐いてるのは、真琴と同じようなもの」
「？どういうことですか？確かに川澄先輩は不思議な力を持っているそうですけど」
真琴の件といい、どうも祐一という人間は不思議なものをひきつける要素があるようだ。その意味で、ひとでありながら特異な能力をもつという川澄舞は祐一の連れあいにはぴったりだろう。
だが真琴はむしろ、美汐の言葉に驚いたようだ。
「へぇ……祐一、話したんだそれ」
「ええ、そうですけど？」
「……」
真琴はまるで、美汐って意外にお鈍さんなのねという顔で美汐を見ていた。
「な、なんですか真琴？」
「あのね美汐……それ真琴以外じゃ、秋子さんも名雪も知らないんだよ？」
「！」
さすがにその意味を悟ったのだろう。美汐の目が丸くなった。
「たぶん、真琴の他で知ってるのは……飼育係と美汐だけじゃないかな」
「今度は飼育係ですか……いくら温厚な倉田先輩でもそのうち怒りますよ？」
うふふと笑う美汐。真琴の奔放ぶりにちょっと呆れたらしい。
「とにかく、そういうわけで祐一にとっても美汐は特別。だから真琴は祐一と美汐の子供が見たいの」
「短絡ですね真琴は」
とはいえ、美汐も照れているのだからまんざらでもないのだろう。
じっと美汐は考え込んでいたが、やがて「よし」と悪戯っぽく笑うと真琴に顔を向けた。
「なに？」
「まぁ、それもいいでしょう」
「ほんと！」
やったぁ、と嬉しそうに笑う真琴に、美汐は目を細めた。
「いいですけど……じゃあひとつ頼まれてくれませんか？真琴」
「ん、いいよ。なになに」
「耳貸しなさい」
「うん」