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本編・三

 この世に偶然などないと誰かが言った。
 かつて、清浦刹那と伊藤誠を結んだのは(いたる)だった。たまたまラディッシュの客だった止が刹那に懐き、たまたま帰宅途中で出会い、そして物語の両輪は回り始めた。
 しかしそれは、本当に『たまたま』なのだろうか。
 タロットカード・(major)アルカナの十番『運命の輪(wheels of fortune)』はそれを違うと言い、あるいは正しいと言う。緻密で壮大な運命の流れの中にひとは生きている。ただ人の視線はあまりにも狭く小さいがゆえにそれを把握できないのだと。それは例えれば盲人が象を撫でてその全体像を掴もうとするようなもので、宇宙的にいえば規則正しいこの世の転輪(てんりん)が、ひとの目線では不思議であやふやなものとしか見えない。そういうものなのだと。
 だが、だからといって全てが決まっていると(うつむ)く悲観的な運命論者の考えはこれまた間違いだ。
 全てがたとえ決まっているとしても、それをひとが認識できないのなら現実は同じことだろう。袋の中の猫が死んでいるに決まっていると嘆くより、生きている可能性を信じて力を尽くせばいいのではないか。どうせふたつにひとつならば。
 やれるだけやってみて、がんばれるだけがんばってみよう。結果がついて来るかどうかはわからないが、当然やれるだけの事をしなければ天命(てんめい)もまた巡っては来ないのだから。生きるとは、運命とは結局そういうことではないのか。
 十年の時を越えて出会った刹那と止。
 これは偶然なのだろうか、それとも……?
 
 小さかった止しか覚えてない刹那にとり、目の前の女子高生があの止というのはなんとも妙な気分だった。まるでそれは突然にタイムスリップしてしまったような気分でもあった。
 だがもちろんそれは違う。研究生活に明けくれていた刹那は自分が既に四捨五入すると三十路(みそじ)であるという事実すら忘れていた。だから刹那は突然現れた過去からの来訪者に、改めて自分の過ごした時間を思いちょっとためいきをつく事になった。
 思えば、誠のことをふっきろうと勉強に没頭したのがはじまりだった。
 うじうじと誠のことで悩み続けるのはよくないと思った。だが誠と顔をあわせれば未練がつのるだけだろう。自分の元に戻ってくれないか、そんなことを埓もなく考え続けてしまうかもしれない。
 だからすぐに渡欧に応じたし、その後も日本のことなど考えもせず、母の帰省にもつきあわず猛然と勉学に没頭してきた。気づけば象牙の塔で頭角をあらわし、いっぱしの学者として名を馳せるまでにもなっていた。
 だが、本当にそれでよかったのか。
 むきになって諦めず、たとえ泥沼になろうと血の雨が降ろうと誠に固執し、しがみつくべきではなかったのか。あの桂言葉に勝てたかどうかはともかく、ぼろぼろになるまでとことんやってみて、それで泣いて諦めた方がよりよい人生になったのではないか。
 かつての友達とも既に交流が絶えてひさしい。世界とすら没交渉になってもう何年にもなる。今は何をしているのかもわからない。
「……」
 過去に問うてみたところで過ぎた時間は戻らない。科学者らしからぬ益体もない思索を自分がしているのに気づき、刹那はフッと渇いた笑いを浮かべた。
「?」
 ナビゲータシートに座った止が、懐かしいものをみる目で刹那を見ている。
「なぁに?」
 運転しながら横目にだが、自然と昔の優しい口調が出た。
 幼児時代と同じように応対されていることに止も気づいていたが、止はそれをまったく咎めることすらしなかった。むしろ「それでいいの」と言わんばかりににっこりと笑った。
「キオウラ」
「その呼び方はもう勘弁してほしいな。止ちゃん」
 止はそんな刹那の言葉にくすっと笑うと、
「じゃあ、せっちゃん?」
「!」
 なんでその呼び名をと驚いた顔をした刹那に、止は淡々と答えた。
「だってお兄ちゃん、寝言でいつも呼んでたもん。せっちゃんって」
「え」
 どういうことだろうと刹那は思ったが、それ以上聞くべきではないという気持ちがその疑問を同時に抑え込んでいた。
 だがそんな刹那の心をまるで読んでいるかのように止の話は続く。
「お兄ちゃん、ずっと忘れてなかったよ」
「え?」
「ううん、心ちゃんや言葉おねえちゃんのことだって大切にしてたし好きだったと思う。だけど心の底じゃあ、ずっとせっちゃんのことを忘れてなかったんだよ。
 まぁお兄ちゃんの性格はああだから、そんなこと普段は口にしないよね。
 でも(わたし)にはわかる」
「……」
 ごめん、それ以上は言わないでと刹那は止を遮ろうとした。
 こんな年月の果てに今さらそんなこといわれても困る。刹那にも社会的立場があるし、もうあの頃のように好きか嫌いかだけで生きられるような状態ではないのだから。
 しかし、刹那がそれを口にする前に止はアハハと笑った。
「そんなことないって」
「え?」
 突然の止の言葉に、刹那は首をかしげた。
 車は走り続けている。ハンドルを握っているのは刹那であり、当然ながら刹那は止の顔ばかりに注視しているわけにはいかない。
「何が『そんなことない』の?」
 (はなは)だしく()(だぶりゅー)(いち)(えいち)を欠いた止の言葉に苦笑して問い返した。
「素直になろうよキオウラ」
「いや、だから」
 わけわかんないって、ついでにキオウラはやめれと突っ込もうとした刹那だったが、
 
「だって止にはわかるもの。『キオウラはお兄ちゃんがすき』って」
「!」
 
 その自信に満ちた幼げな声は、ひどく刹那の心を狼狽させた。
 実際、刹那は止と話すうちにあの頃の記憶や想いが急速によみがえってくるのを感じていた。恋だの愛だのという感覚からずっと離れ学術の世界に生きていた刹那である。その想いは渇いた土地に水が染み込むように、刹那の精神を急速に(むしば)みはじめていた。
 単に懐かしんでいるだけかもしれない。
 だけど刹那の心には懐かしさと同時に暖かさもあふれ出していた。止との邂逅はまるで刹那の中の止まっていた何かを動かしてしまったようで、急速に刹那の中の何かが変わろうとしていた。
 この子は危険だ。そんな気がした。
「ねえ、キオウラ」
「なに?」
 そんな刹那の内心を知ってから知らずか、えへへーと止は笑う。
「お兄ちゃんに逢いたい?」
「!」
 一瞬返事に詰まり、刹那はあわてて首を横に振った。
 だが、その一瞬の躊躇(ちゅうちょ)を止は見逃さない。
「逢いたいでしょ?」
「まさか。止ちゃんには悪いけど、今さらまこちゃんがどうとか思わないよ」
 ふぅん、と信じてない風の声が響く。
「だったらどうして『まこちゃん』って呼ぶの?」
「!」
 あっと刹那は口を濁した。どうやら自分がまこちゃん呼ばわりしているのに気づいてなかったらしい。
 止はナビゲータシートに大人しく座っている。もちろん何か悪さをしたりとかはしていない。
 だが刹那はまるで、止に弄ばれているような奇妙な気分を味わっていた。
「ねえ止ちゃん」
「なに?」
「あの後……って言ってもわからないかな、えっとその」
「ん、キオウラと逢わなくなってからのお兄ちゃん?」
「そう」
 ありがたいことにそのものずばりの返事が返ってきた。
「んーとね、心ちゃんと言葉おねえちゃんがよくおうちにくるようになったよ。でも、お兄ちゃんはお母さんが『キオウラさんはどうしたの?わかれちゃった?』って聞いたら、その名はもう出さないでくれって答えてた。
 あーごめんね、止はまだあの頃子供だったから、悲しそうとかそういう雰囲気でしか覚えてないの」
「いいよ、充分」
 あの小さかった止がそこまで覚えているだけでも立派なものだ。およめさんになるの!なんて言ってたのは伊達ではなく、大好きなお兄ちゃんを子供ながらにしっかり観察していたということなのだろう。
 だが刹那は、それに続いた止の言葉に胸をつまらせた。
「お兄ちゃん、泣いてた」
「え?」
「夜中に目が()めたの。私はお兄ちゃんのとこに行くといつも一緒に寝てたんだけど、そうしたらお兄ちゃん、せっちゃんってつぶやいて夢の中で泣いてた。
 後で聞いても起きたお兄ちゃんは夢を覚えてないの。だけど、それはキオウラの事だね、きっと夢の中で思い出してたんだよって寂しそうに言った。
 で、私も気になってお母さんと同じ質問をしてみたの。キオウラとどうしてわかれちゃったのって」
「そしたら?」
 刹那はいつのまにか、止の話にひきずりこまれつつあった。
「んー……誰にも言っちゃだめだぞって言ってたけどキオウラならいいよね、だってキオウラの話だもん。
 えっとね、お兄ちゃんはキオウラのお父さんに逢ったんだけどお父さんとは知らなくて、キオウラの昔の恋人だと思っちゃったんだって」
「うん」
 それは知ってる。
 問題はどうしてそこから、いきなりあの時の別れの笑顔に結び付いたかだ。刹那は結局そのあたりの細かい経緯(けいい)については知らないままだった。
 ゆっくりと古い記憶を掘り出すように、止は語った。
「お兄ちゃんはラディッシュに行って、キオウラとそのお父さんが仲良くお話したりしてるところを見たんだって。
 それは本当に仲良しな感じで、キオウラがその人の事大好きなのがよくわかって。
 とてもかなわない、自分には出る幕がないってのがわかっちゃったんだって」
「……それだけで?」
 たったそれだけのことで、と言いかけた刹那の脳裏で遠い記憶が掠めた。
 誠は一度ラディッシュで食い逃げもとい飲み逃げをした事がある。バイトの先輩たちには待ちくたびれて怒って帰っちゃったよと言われて、刹那はごめんなさいと謝って料金を立て替えた。
 そういえば、誠に連絡しようとしても一切つながらなくなったのはちょうどあの後ではなかったか。
 探しても見付からない。連絡してもつかまらない。家に行ってもお母さんしかいない。困った刹那は迷った末に瞬との対話を優先し、それから瞬を誠にお父さんなのと紹介しようとしたのだが、その時には既に手遅れになっていた。
「!」
 その日の事務室での瞬とのやりとりをうっすら思い出し、刹那は「あちゃあ」と苦々しい顔をした。
 あの時だったのか。あの瞬との会話を見て、それで決定的に誤解してしまったのか。
 そしてショックをうけ落胆した誠に桂姉妹が手をさしのべたのか。
「そっか。それで」
 あの日の誠の悲しげな、そして優しい笑顔や瞬への言葉を刹那は思い出した。
 父親を恋人と間違われたというのは本当に不本意だ。それさえなければあの時ふたりの破局はなかったはずなのだから。思い出しただけで悔しい思いが今も刹那の身を焦がす。刹那の口を背後から優しく押さえた(ちちおや)の大きな手の暖かさまでも、あの時の悲しい気持ち、行かないでという思いと共にはっきりと覚えている。
 そして、ラディッシュの事務室での瞬と自分の会話内容。浮気がどうの他の子に手を出すの出さないの、親子ということを知らなきゃそう疑われても仕方のないものだったと思う。
 なんの予備知識もなくあれを聞いてしまったのか。それでは誤解するなという方が無理だろう。
 どれだけショックだったろう。悲しかったろう。悔しかったろう。
 瞬のせい?いやそうではない。
 結局、それはやはりフォローを徹底しなかった自分のせいだろう。
「……ごめんね、まこちゃん」
 刹那の口から、あの頃の誠への謝罪が自然に口をついて出た。
 今さら遅すぎる。十年の時間は全てを変えるだけ変えてしまった。取り返すことなんかもうできるわけもない。
 だが、刹那にはそれくらいしかできることがなかった。
「それ」
「え?」
 ぽつり、と止はつぶやいた。
「それ、お兄ちゃんに言ってあげて。ごめんなさいって」
「はぁ?」
 ちょっとまって、と刹那は止に聞き返した。
「それって……まさか、まこちゃんに逢えってこと?」
「うん」
 冗談じゃない。刹那はぶるぶると首をふった。
 今さらどの面さげて逢うというのか。あの日のことが本当は二重の意味で間違いで、諦めるという自分の選択がたとえ間違いだったとしても、それでももうそれは終わってしまったこと。それも十年も昔の話だ。
 今さらそんなこと蒸し返しても過去は戻らない。お互いに災いの種になるだけだ。
「……」
 止はそんな刹那をどこか嬉しそうに見ていた。まるで刹那の内心を見透かすように、そのどこか遠く、透明な瞳でじっと見つめていた。
「行こうよ」
「……ダメ」
「ねえ、キオウラ」
「……」
「キオウラぁ」
 まっすぐ見つめてくる止。その目には曇りというものがない。
「ね」
 縋るような目でじっと見つめられた。狭い車の中で逃げ場もなくしかも刹那は運転中だ。どうしようもない。
 横顔で冷汗をしばらく流した後、ようやく刹那は言葉をひねりだした。
「私はやめとく。でも、止ちゃんを保護したことだけは報告しなくちゃダメだね。一応、お金盗まれたことを事件にするかどうかの相談もあるし」
「うんうん」
 言い訳じみた刹那の言葉に、止は嬉しそうにうんうんと頷いた。
 刹那は困惑顔でハンドルを握りしめた。



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