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本編・四

 空港で受け取った書類は、守秘契約の都合上一般の郵送ができないものだった。今どき紙媒体(かみばいたい)なんてという意見もあるかもしれないが、紙でなくてはならない分野も未だ存在する。決して世界の全てがデジタル化したわけではないからだ。
 とはいえ、今の刹那にとってそれは余計な手間以外の何者でもなかったのだが。
 車を研究所に乗り付けると待ち構えていた研究員に渡したうえで事情を説明した。細かいことを話しても仕方ないから、家族に急病者が出たため緊急でそちらに行きたいという事にした。で、ついては急で悪いが少し休みを貰いたい旨を内線で所長にも伝えたのだった。
 ちょっと待てと言われて数分後に所長が現れた。わざわざ手ずから申請用書類を携えて。
 許可はあっけなく降りた。ただ書類のデータの吸い上げと整理に一ヶ月、それまでには一度連絡が欲しいと言われた。わかりました、よろしくお願いしますと刹那は頭をさげた。
 なお、その『挨拶』に所長が驚きに目を丸くして、それであっさり許可が出たなどという余談もあるがそれはまさに余談にすぎない。刹那は日頃徹底した無国籍な態度を貫いていて、東洋人であるのはわかるが日本人である事など知らない職員も結構いたものだ。もちろん所長はそれを知っていたのだけど、刹那が日本式の挨拶をするところなど彼ははじめて見たのだった。
 そして『徹底した無国籍趣味の彼女が日本式の挨拶をするとは。これはよほど切羽詰まった事態なのだな』と理解したわけだ。とにかく刹那の休暇手続きは即刻その所長の手によって受理され、十分後には刹那はふたたび車中のひととなったのである。
 
 外はいつしか夕闇に染まり、車は快適に走りつづけていた。
 研究所に立ち寄った後、止に刹那はシャワーくらい浴びるかと聞いた。しかし止は首を横にふり、兄のところに直行してほしいと返してきた。
 近郊といっても大陸規模の話だろうと思っていたが、その目的地は聞けば本当にパリからそう遠くなかった。飛ばせば刹那の運転でも今日中に着いてしまいそうだ。
 入口を探し、高速に乗った。
 フランスの高速道路は日本とほとんど変わらない。右側通行であるが、右端とその隣くらいが一般の料金所、そしてそれ意外は「t」マーク、つまり日本でいうETC(いーてぃーしー)のゲートになっている。
 刹那はあまり高速を使わないが、面倒が嫌という理由で車にはETCが装備されている。そんなわけで刹那はETCレーンに車を入れた。
 通過する。しばらくゆったりとしたカーブをまわり、本線に入った。
「止ちゃん」
「なに?」
「道順わかる?地図読めるならそっちでもいいけど」
 もうここからは刹那の生活圏ではない。さっき読んだ地図からするとこの道で間違いないと思うが、間違えてしまっている可能性もないとはいえない。
「まちがいないよ」
「そう」
 止は地図でなく周囲を見て断言した。どうやら道順を知っているらしい。
「もしかして、誰かの運転でここ通ったことある?」
「お兄ちゃん。フランスで免許とったから」
 聞けば、最初は国際免許だったが後で改めて取得したのだという。という事は正規滞在か、あるいは最初ワーキングホリデーか旅行用のビザで来て就労ビザに書き換え、その時に免許の切替えを怠ったのか。
 フランスで免許をとればEU圏内で有効になるし、しかも定期更新のいらない終身免許だ。だが日本より安いといっても最短で1000ユーロかそれ以上にかかり教習は全てフランス語。面倒なことこのうえない。
 さらにいうと、フランスでの国際免許の利用はわりと面倒なのだ。ビザの種類によっては更新できなかったり色々あるのは在仏邦人(ざいふつほうじん)の間では有名なのだが、おそらく誠もそれにひっかかり国際免許が失効する羽目になったのだろう。
 そもそも日本で免許がなく、フランスで普通に取得した刹那にとっては、まぁ御愁傷様といったところだが。
 と、そこまで考えたところで刹那は忘れていた質問を思い出した。
「止ちゃん、ひとつ確認していい?」
 なに?と止は聞き返してきた。
「まこちゃんのお仕事は何か知ってる?今はひとり暮らし?」
 仕事もそうだが、誰かと住んでいるところにいきなり自分が現れたらまずいだろう。昼間ならともかく、このぶんでは到着は深夜か早朝だ。
 最悪、どこか近郊のホテルに入って明日中に到着とする必要があるかもしれない。仕事によってはアポイントメントが必要な可能性もある。それに止といる事はすぐにでも電話連絡した方がいいだろうし。
 だが、そんな疑念を止はあっさりはねのけた。
「一人暮らしだよ。離婚してるし今いるところはアパートだし」
「アパート?あー、お部屋あるかな」
 日本のアパートよりは広いが、仕事によっては荷物もあるだろう。泊めてもらえると簡単に考えるわけにもいかない。
 やはりこれはホテルいきか。
 しかし、それを刹那が口にするよりも早く、
「お部屋の心配はないよ。
 お兄ちゃん、桂のおばさんの仕事のお手伝いしてたの。こっちでおばさんが仕入れた荷物の発送の手伝いとかしてたから、荷物置場にしたり人を泊めたりする関係で部屋だけは多めにあったの。ぼろいけど。
 今はその仕事してないから、広いよ」
 あらら。それは喜ぶべきか悲しむべきなのか。
「でも、それじゃ収入はどうしてるの?」
 たとえ貯金があったとしても、いつまでももつわけではないだろう。離婚したなら状況にもよるが相手に払わなくちゃならないお金もあるし。
「お部屋代は心ちゃんがこっそり助けてあげてもいるみたい。全額じゃないと思うけど。
 あとは……どうかな。こっちでできたコネでちょっと仕事したりしてるみたい」
「どうして帰国しないの?」
 なるほど、離婚したが心ちゃんとは切れてないのか。全額援助じゃないのはアパート代が高いからなのか、それとも全額頼る気が誠にないのか。両方かもしれない。
 だが、そうまでして助けてもらうくらいなら帰国したほうがいいのではないだろうか。それで一時的に借金したとしても、渡航費用くらいなら日本でまじめに働けば返せるはずだ。
 そういうと、止はふふっと笑った。
「帰国したら心ちゃんに捕まるからだよ」
「は?」
「心ちゃん、お兄ちゃんゲットする気まんまんなんだけど、表向きはしらんぷりしてるの。万が一おねえちゃんが対抗意識燃やしてよりを戻そうとしたらうざいから。
 で、お兄ちゃんが帰国するか自分が大学出たら追いかけるかして、ふたりどこかで暮らすつもりみたい」
「うわ」
 離婚で収束したかと思いきや、まだドロドロやっていたのかと刹那は(うめ)いた。しつこいというかなんというか。
「まこちゃんは……その気ないんだ?」
「ないみたい」
 心の返事に内心ほっとしつつ、しかし刹那は首をかしげる。
「だったらどうして援助を断らないのかな?やっぱりお金の問題?」
 定期的な仕事が切れているのなら、やはり理由はそっちだろうか。
 だが止はちっちっと指をふってみせた。
違う(Nein)。それは(いたる)の入れ知恵」
「は?」
 なぜかドイツ語で否定してきた止に、刹那の目はちょっとだけ泳いだ。
「そこまで援助断ったら、心ちゃん大学抜けてこっち来ちゃうかもしれないでしょ?だからここは『頼りにしてる』ふりだけはしといた方がいいよって。
 ま、お兄ちゃんのことだから心ちゃん名義で貯金しといて後で返すとかするんだろうなー。貰っとけばいいのに」
「止ちゃん。それって」
「うふふ、えらい?」
「……」
 得意そうにふんぞり返る止に「それちょっと(ひど)いよ」とも言えず、刹那は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。



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