だんだんと時間が深夜になってきた。
既に刹那には場所の感覚も何もなかった。闇と、外灯と、道路が続くだけの時間。ただ止に指図されるまま、延々と車を走らせ続けていた。
「そこ、高速降りて」
「わかった」
お金を用意したりしなくていいETC装備を今ほどありがたいと思ったことはない。ただ指示通りに走らせればそれでいいのだから。
「降りたよ。まだ遠いの?」
「ううん、もうすぐ。あと2kmもないよ」
「そう」
いよいよか。いよいよ誠に再会するのか。
車が入ったのはフランスの静かな田舎街のようだった。さっき地名を見たはずだが刹那の頭にはそれが残っていない。止の指示通りに走り続けていたこと、誠のことで頭がいっぱいだった事が刹那の判断力を失わせていた。
誠に会ったらなんて言おう?
刹那はもうあの頃の高校生ではない。彼女は自分をあまり可愛い女の子とは思っていなかったから、当時ですらそうなのに今の
窓に写る田舎街の小さな洋品店が、やけにまぶしく見えた。
なるほど、所長がやけにあっさり許可をくれたわけだ。相当に慌てて見えたのだろうなと刹那は今になって苦笑いした。
市街地をぐるりと回る。どうやら2kmというのは道順の問題らしい。降りてきた高速のランプの光が窓から見えて、どうやらそこからそう遠くないことが刹那にもわかった。
なるほど、輸送のメインは道路ということか。TGVのような鉄路を使うならこういう場所に拠点は構えないだろう。
「着いたよ、ここ」
「うん」
車を止めて、刹那は止の指さすアパートを見上げた。
「ここの三階。あがっていったら目の前の部屋がそう。日本語で書いてあるからすぐわかる」
「ちょっと待って、まさか止ちゃんこないつもり?」
その懸念は大当たりだった。止は当然のように
「ここ駐車しとくのまずいと思う。駐車場あるけど、上でいちおうお兄ちゃんに確認してくれる?」
「わかった」
そういう理由ならまぁ仕方ない。刹那は車を降りて、そして止を振り返った。
いってらっしゃい、とにこにこ笑う止に一瞬何かを感じた刹那だったが、既に誠の事が頭を埋めつくしているからそれ以上気づかなかった。小さく
その背後の車の中で止がごそごそ動いているのに、刹那は気づくことがなかった。
アパートは古いものだった。
百年やそこらではきくまいと思える古くさいドアを開くと、そこには日本ではまずお目にかかれない、
だが下世話なことを言えば、それは数字なんて無意味ということでもある。日本では乞食すら新聞を読むが世界的にはこれはかなり異常な光景で、その意味ではフランスも普通の国である。昔も今も文盲のひとはまだまだ結構いる。
そんな国の事情にあわせたものだから、こういうデザインもありえたわけだ。
その、日本人的にはホラー映画を思わせるゴシックなデザインのエレベータを刹那は使わなかった。欧州の長い刹那だがこの手の機械はあまり慣れておらず、ちゃんと今も動いているのかいまいち不安だったからだ。昔世界と見た古いホラー映画のあれにそっくりだな、なんて刹那は思いつつ、まるで教会のようなステンドグラスばりの天井の装飾などをためいきをついて見、そして階段に足を運んだ。
階段もこれまた古くさい。昔の無声映画の階段のようだ。これは日本でいうと古い和風建築の家に出会うようなものなのだろうが、しかし日本人の刹那の目にはどうにも家ごとクラシック家具というか、やはりひとつ間違えるとホラーな感じのする空気がどうにもいけない。都会の安アパートなんかは「いかにも」な無機質なボロさなのだが、そこが田舎ということか。まぁ安アパートとしてのボロさは健在のようで、たぶん人間と広さの余裕が無駄ともいえるクラシックな装飾をそのまま残しているのだろうと、掃除はされているが必要以上の補修はされてなさそうな老朽化した階段のてすりを見た刹那は思った。
やがて三階に着いた。
なるほど、ドアには『
いや、これは刹那の名前にも言えることだ。刹那に好意的な一部の研究者は刹那を『ナノ』と呼ぶ。日本人としても非常に小柄な彼女を
呼称というのは難しいものなのだ。
そういえば『マコト』と『マコ』はどっちが発音しやすいのかな、なんて現実逃避なことを考えつつも刹那は息をのみ、そしてドアに近付いた。
薄汚れた灰色のドアに呼び鈴はない。こんこん、とちょっと強めに叩いた。
寝ているだろうか?
一瞬の刹那の逡巡にもかかわらず、奥からばたばたと走る音と「アロウ?」というあまり美しくない発音で懐かしい声が響いた。
少し低音になったが、刹那にはすぐわかった。懐かしい誠の声だ。一瞬声をつまらせそうになったが、刹那は冷静に少し声を大きくした。
「まこちゃん、いきなりだけどちょっとごめん。急用できたの」
え、という声がした。ばたばた、ばたんと何かをひっくりかえすような音がして、
「え?え……まさか」
「刹那です、おひさしぶり。でもそれどころじゃないの。パリで止ちゃんを保護したんだけど」
は?という声がドアの向こうで響いた。
「ちょっと待て、それどういうことだ?止は今、こっちにはいないはずだぞ」
「そうなの?だったらなおのことちょっと開けてくれる?今、止ちゃんこの前の道で私の車の中なんだけど」
げ、と絶句するような声がして、そしてがちゃがちゃと鍵を開くような音、そして、
ドアが開いた。
「……」
刹那と誠はその瞬間、お互いを目を見張って見つめあっていた。
誠はよれよれのスーツ姿だった。仕事から帰って軽く飲んでいたのか、それとも飲み屋の帰りなのか。深酒でなく軽くひっかけた程度のようで、酒の匂いはするものの態度におかしげなところはない。欧州に出稼ぎに来たアジアの田舎紳士、まさにそんな感じだ。
その誠が、レディーススーツの上に研究所の白衣を来たままの刹那を、あっけにとられた目で見ていた。
「呆けてるのはいいけど、止ちゃん」
「!」
その言葉で我にかえったのか、誠の表情がいきなり引き締まった。
「で、止は下だって?」
「うん」
「ちょっとごめん」
誠はその場で武骨なGSM式のビジネス携帯をとりだすと、やにわにどこかに電話をかけた。
「どこに電話してるの?」
「どこにって、止の携帯に決まってるだろ」
あれ、と刹那は首をかしげた。
ボディチェックをしたわけではないが、止は携帯をもっているそぶりなど全く見せなかった。その薄汚れた雰囲気となりで、おそらくそういうものはもってないだろうと刹那は判断してしまったのだが。
はたして、携帯の向こうは一瞬で出た。
「止、俺だ。今どこにいる?……なんだってぇ!?ちょっとまて、それどういう事だ!刹那は本当におまえの事心配して、来にくいだろうにわざわざ来てくれたんだぞ?
はぁ?……ふざけろ馬鹿!逃げるな!今そっちに行ってケツぶっ叩いてやるから……って、はぁ!?」
どうやら相当に混乱しているらしい。時間帯が時間帯でもあるし、このままでは近所迷惑だろう。
ちょっと考えた末に刹那は誠をそっと中にいれ、自分も玄関に入って後ろ手でドアを閉めた。
そして、驚いた顔をする誠に顔を向けるとドアの外を指さし、人差指で「しーっ」というジェスチュアをしてみせた。
それだけで誠もわかったのだろう。すまん、わかったと頷くと声のトーンを落とした。
外の空気と遮断されたことで、中の温かさが刹那をやんわりと包んだ。
「まこちゃん、止ちゃんどうしたって?逃げるってなに」
失礼とは思ったが不審すぎる言葉に、つい刹那はまだ電話中の誠に問いかけた。
誠はその言葉に頷くと携帯の口を押さえ、刹那の方を見た。
「あいつ、なんて言って下に残った?」
「ここに車止めたらまずいから、まこちゃんに確認してって」
刹那の声を聞いた瞬間、誠は頭を抱えた。
「それ嘘だ」
「は?」
「この下は住人なら一晩くらい止めてもいいんだよ。俺はよく管理人さんの荷役の手伝いとかもするからさ、友達とか家族が止める事もあってそこらへん確認してあるんだ」
「えっと、それって」
「ちょっと待っててくれ」
そう言うと誠は電話に戻った。
しばらく誠は電話の向こうとやりあっていたが、やがてあきらめたように電話を切った。
わけがわからない刹那は首をかしげている。誠はそれを見てためいきをついた。
「……はかられた」
「どういう事?何があったの?」
「いやその……止から伝言なんだけど」
「伝言?」
ごめんな、と誠は刹那につぶやき、そしてこう言った。
「一晩車貸してね、だと。誰か友達と遊びに行きたいらしい。まぁ、言い訳だろうけど本当の理由は言わなかった」
「貸すのはいいんだけど」
わけがわからない、と言いかけた刹那だったが、途中でハッとそれに気づいた。
「……はぁん」
「刹那?」
あははは、やられたと苦笑いする刹那。今度は誠の方がわけがわからず、刹那の顔をまじまじと見た。
「というわけでまこちゃん、おじゃまします」
「ってちょっと待て刹那!」
「まこちゃん。こんな夜中に女ひとりおっぽり出さないよね?」
そのまま誠の胸に両手をつき、ずいずいと中に押し込んでいく。
日本では映画にしか出てこないようなクラシックな部屋であったが、中身はまぁまぁ悪くない。中に入っていくと居間があり、おそらく誠がそこで寝起きしているだろう事はひとめでわかった。結構ちらかっている。
「はぁ、明日はお掃除だね」
「お、おい。俺にはさっぱりわけがわからないぞ、せつ」
「せっちゃん」
何年ぶりかに「せっちゃん」と訂正する。刹那は懐かしさに顔を綻ばせたが、誠の方はその意味をやっと理解したのだろう。「うげっ」と顔色を変えた。
「なぁに、まこちゃん。誰か女でも囲ってるの?」
「いない、ていうかこの部屋見たらわかるだろうが」
「そうだね。でも外にいるかもしれないし」
「そんな金はない」
「ふーん。心ちゃんの援助は全部貯金してるのに?」
「な、なんでそれを」
「やはりか」
「うわ、誘導尋問かよ、汚ねえ!」
「あっさりひっかかるまこちゃんが悪い。で、女は?」
「いない」
「溜ってる?溜ってるよね?」
「うわぁ!いきなり何言い出すんだおまえ!」
「おとなしくなさいって」
そのまま刹那は誠を寝室に押し込んだ。後ろ手でドアを掴み、そしてパタンと閉じた。
その夜、何が起こったかはふたりだけの話である。
(おわり)