忍が海浜公園にやってきたのは偶然に近い。単に勘というか、気分に導かれてのことだった。
夜の一族である忍であるが、ウェアウルフとの混血である叔母のような異様な能力はない。ほとんど純血に近いということは正統派の能力は非常に優れているのだけど、それでも得手不得手というものはある。幸か不幸か忍の能力は知力や回復力に偏る傾向があり、戦闘に向いているとは必ずしもいえない。
しかも今は朝。これから昼にかけて力はゆっくりと減衰する時間。
海浜公園を歩きつつ、ふと恭也との出会いを思い出す忍。ちょっと赤くなってみたり、ためいきをついてみたり。その後ろをゆっくりとついてくるノエルは武装こそしていないが、いつでも戦えるよう臨戦状態で視界をゆっくりと巡らせている。
そんなこんなしながら周囲を見ていたのだが、
「……あれ?」
「恭也様ですね」
ふたりはほぼ同時に気づいた。
いつだったかたこ焼片手に座ったベンチ。そこに恭也がいる。
他に人はおらず、雀らしい小鳥が一羽ベンチの後ろできょろきょろしているだけ。ただそれだけだった。
──なのに。
「?」
誰かが見ているような気がして、忍は眉をしかめた。
『どうされましたか?』
ノエルが背後から小声が話しかけてきた。
『わからない。ノエル、誰か見てない?』
『いえ、誰も。ですが何かを感じます』
『ノエルも?』
『はい。対象がなんなのか分析できませんが』
ノエルでさえわからない何か?忍は首をかしげた。
『わかった。ノエル、なんでもいいから記録としといて。あとで分析するから』
はい、と頷くノエルを確認すると、忍は恭也の方に向きなおった。
考えごとでもしているのか、恭也は海の方をじっと見ている。視界に入らないよう気配を殺してゆっくりと背後から近付く。
そして声をかけた。
「きょーや♪」
「!」
驚いたように恭也は振り返った。いつものしなやかさの欠けた、本当にびっくりしたと思われる無防備な反応だった。
その動作と驚き顔に忍は内心ガッツボーズしながら声をかけたのだが、
「やっぱり恭也だ♪どうしたのこんな時間にこんなとこ……ろ……で……」
その声は途中で途切れた。
(違う)
忍の中で何かが警告した。彼は高町恭也ではないと。忍の愛しい男ではないと。
幸せに満たされた頭が一瞬で冷えた。嗅覚がいつもの恭也の匂いを感じると響く警告はさらに大きくなり、夜の一族としての感覚と彼をいつも観察している恋する女の子の視点がいりまじり、状況をごくおおざっぱに、しかしかなり具体的に把握していく。
「……あんた、誰?」
警戒色をふくんでトーンの落ちた声は、目の前の『恭也もどき』の現状を的確に言い当てたものだった。
「あんた何者?どうして恭也の身体を使ってるの?答えなさい!」
目の前の『もどき』は忍の声に劇的に反応した。どうやら大当たりらしい。
だが同時に忍には違和感があった。驚愕や恐怖ならともかく、男の表情には「悲壮感」も見てとれたからだ。自分に何か悲しいものを見出している、目の前の恭也もどき男はそういう風に見えた。
そんなこんなで忍が内心迷っていると……
「わかった」
男は唐突にそんなことをいうと、きちんと姿勢をただし座り直した。
その反応の奇妙さに内心首をかしげていると、さらにこんなことまで言い出したのだ。
「月村さんその通り、俺は高町恭也じゃない。そして今ちょっと困っている。問題解決のためにも全てを話すから、話したうえで貴女の助力を借りたい。貴女と、貴女の叔母さんである、綺堂さくらさんの助力をだ。
どうだろう、ぶしつけですまないが俺の話を聞いてもらえないだろうか」
「……え?」
なんなんだこいつは?忍はそう思った。
そもそもどうしてさくらのことを知っている?何者なのだこいつは?
「どーいうことよそれ?なんであんたがさくらを知ってるの?」
「知ってておかしいのか?彼女だって海鳴にいたことがあるじゃないか。君だって昔、彼女の親しい人達に逢ったことがあるはずだ。違うかい?」
ますますわけがわからない。
男のいうことは正しい。事実さくらは海鳴に縁があるし、今も忍の件でこの近くにいる。彼女の昔の友人たちも知っているし、その中のひとりは忍のいる学校で先生もしている。レンの担任だ。
だけど、それをなぜこの男が知っている?恭也にだってそんな話はまだ知らないはずなのに?
何か話そうとした忍だったが、意外なことを男は言ってきた。
「実はここにくる前、神咲さんにも逢ったんだ」
「那美に?」
そして男は自分の途方もない身の上について話しはじめた。
話は少し長かった。
ちょっと理解に苦しむというか正気を疑うような話だった。なんなのよそれ、と忍は投げ出して黄色い救急車を呼びたい気持ちに何度もかられたが、相手は恭也の身体を乗っ取っている。呼べば精神異常の疑いがかかる不審人物は恭也だ。忍は必死でその誘惑に抗った。
それにしてもすさまじい、というかむちゃくちゃな話だ。
男は、那美の目利き通りなら自分は別の世界から来たのだろうという。
忍たちのいるこの現実が男のいる世界では恋愛ゲームとして売られてて、男はそのゲームを何度となくクリアした熱狂的ゲーマー。一番のお気に入りはなんと恭也の妹、高町なのはだというのだ。
話だけ聞けば狂人の妄想でしかない。
しかも忍はそのヒロインのひとり、主人公は恭也なのだという。男は忍とノエル、那美が大好きで三人のシナリオは何度クリアしたか知れないなどと幸せそうに言われては、普通の女の子なら間違いなく警察を呼ぶ、あるいは尻に帆かけて全力で遁走だろう。これで男がエロゲーなどと発言していようものなら、忍は発狂して恭也の肉体ごと惨殺していたかもしれない。
男の視線に身体の中までかき回されているような気がして、忍の全身に鳥肌がたった。悲鳴をあげて逃げ出したい気持ちを止められない。
気を抜けば自分が何をしでかすかわからない。震えが止まらない。
(…………って、待って、ちょっっっと待って!)
冷静になろうとしてふと、男の発言の最初を思い返す忍。
男は忍たちがお気に入りだという。だけど一番は違うと言ってなかったか?
そう。男は『高町なのは』が好きだと言い切ったのだ。
忍の頭が一瞬で冷えた。そして状況が把握できた。
この町を舞台とし、自分をはじめとする年頃の女の子たちとの恋愛を描いたゲームがかりに実在したとする。それはそれで気持ち悪さ全開の話だが、なのはが好きというのは明らかに別の問題を秘めている。たった八歳のなのはは『年頃の女の子』とは御世辞にも言えないからだ。
恋愛ゲーマーのうえに妄想狂!しかもロリコン!とどめに
(……)
さすがの忍も絶句した。
おぞましいとかそれ以前に、目の前で恭也の身体でしゃべっているこの男が、実はおぞましい昆虫型の知的生命体か何か、とにかく人類とは似ても似つかない途方もない化け物のように思えてならなかった。まるで現実の自分たちが何かとてつもないオーバーテクノロジーで電子の世界に押し込まれ、見知らぬ男の姿をした異形の怪物どもに全身嬲られるような底知れない不気味さ。忍は足元が突然崩れ、何か得体の知れない異次元に飲み込まれるような錯覚すら味わった。
だが事態はそれどころではない。
よりによって
恭也を助けること自体はさくらや那美に頼れば可能かもしれない。
だが、万が一なのはを餌食にされでもしたら、回復した恭也にどんな思いをさせることになる?乗っ取られた自分の肉体が何をしでかしたか知ったとして、あの自覚のない兄馬鹿男がどんな衝撃を受けるか。
──ぞく、と寒気がした。
忍は振り返り、背後のノエルに声をかけた。
「ノエル、那美に連絡とって。久遠も連れてすぐうちに来いって。あと──いい、さくらには私が連絡するから」
そして男の方に向きなおった。
「──いいわ、協力したげる」
怒りも恐怖もなかった。あまりの衝撃に忍のどこかが醒めてきており、その発言は忍自身があとで不思議に思ったほどに機械的だった。
「恭也を取り戻すために、あんたなんかとっとと恭也から追い出してやる。私はそっち系得意じゃないけどさくらは違うんだからね、お望み通りに跡形も残さず消してやるわよ。
ノエル、これ車に積んで。ああ、様づけなんかすんじゃないわよこいつ恭也じゃないから。少しでも怪しいそぶり見せたらふん縛っちゃいなさい。手加減はいらないわ、死ななきゃいいんだから。なんなら意識落としてから運んでもいいわよ?」
男は抵抗の意志はないらしい。まるで銃でも突き付けられたように両手をあげた。
ただ、男がとても悲しそうな顔をしていたのも忍の記憶に残った。