──泣かないで。
きみが泣くと僕は悲しい。きみが笑うと僕は嬉しい。
だから泣かないで。お願いだから。
そこは、どことも知れない遠い異世界だった。
現実は虚構であり、虚構は現実だった。実在するはずの町がその世界には存在せず、ゲームとしてお店で売られている。一見した見た目はそう変わらないのに、なんの冗談かと言いたくなるくらいにシチュエーションの異なる世界だった。
そんな中、ひとりの男が泣いていた。
男が向き合っているのはバーチャルの世界だった。ゲームの虚構でしか笑えない、そんな寂しい人生を送っている悲しい中年男だった。そのさまは客観的にはおぞましいほどみじめで、そして汚らしかった。子供のころの中学生日記のような恋しか知らない、そんな、歪な存在だった。
だけど忍は男を笑えなかった。
みっともない男だった。男に比べれば、あの月村安次郎だってダンディなおじさまだろう。そんな男だった。
なのに、架空の世界で泣いている女の子をみて涙する姿は、まるで何も知らない少年のようにピュアだった。
「……あれ、なのはちゃんだ」
那美が指さした。確かに泣いているのはなのはだった。
もちろんそれは現実のなのはではない。この世界におけるゲームの中の存在でしかない。
だが、泣くなのはをなぐさめようと男は手をさしのべた。
「何やってんのかしら?」
「涙を拭こうとしてるんでしょ?」
「はぁ?だってゲームでしょ?仮想空間でしょ?馬鹿?こいつ」
呆れたように忍がぼやいた。
実際、男の手はなのはをすりぬけてしまう。男は現実で少女は虚構。さしのべる手が届くわけがない。
『──泣かないで』
男の悲しそうな声が響いた。
男は何度となく無駄な努力を続けた。少女がそれに気づきさえしないというのに、
『なのはちゃん──なのは。泣かないで』
男は泣いていた。まるで彼女の涙のぶんまで泣こうとするかのように。
「……あわれな男」
忍の毒舌には、どこか力がなかった。
男の想いは続く。
場面は高町家に切り替わっていた。恭也と家族が団欒している、実世界にもありそうなごくごく普通の光景。
だけど、家庭すらない男には永遠に届かない世界。
「あれみて」
さくらが指さした。
恭也と二重写しにさっきの男が見えている。男は恭也と一緒に笑い、そして行動していた。これが仮想体験というものだろうかと皆は思った。
だが、なのはの前まで来たところでズレが生じた。
「行動が変わった?」
「うん」
懐いてくるなのはを恭也が軽く流した。
決してなのはを軽く思っているわけではない。実際なのはは恭也にとっても可愛い妹なのだけど恭也だって若い男の子である。気になる異性のことで気持ちがいっぱいになると、どうしてもそのために力を割くことになる。
にこにこと応対しているが、やっぱり寂しそうななのは。大好きなお兄ちゃんの気持ちが自分にないことに気づいているのだろう。子供とはいえ女の子は女の子なのだから。
そんな中、恭也に重なっていた男が動いた。
男は恭也になりすました。本物の恭也に比べると穴だらけで情けない感じではあったが、それでも恭也ではあった。そして恭也がかつてそうしたように、変わらずなのはにやさしく接した。
うれしそうに微笑むなのは。
なのはは相手が恭也でないと気づかない。おにーちゃんと幸せそうに男に呼びかける。男は自分がいいとこなしのピエロ以下とわかっているのに、それでもなのはにやさしく接し続ける。
相手は自分に気づいてもいないのに。なのはの好意を受け取るのは全て兄であって男ではないのに。
──まるで、喜ぶなのはを見ることだけが幸せであるかのように。
「……もうやめて」
あまりの痛ましさに泣けてきたのか、那美がとうとう音をあげた。
「……」
こういう話で泣くような娘でない忍だが、男の歪とはいえ無償の好意は理解できた。そのあまりの救われなさに、泣きはしないがもう言葉はなかった。
「……」
さくらはその光景を、ひたすらじっと見ていた。
なのはと男の光景はどんどん変わっていく。
もうゲームの領域からは外れていた。画像が少し不鮮明になったこともあり、忍たちにもそれがゲームでなく男の願いなのだろうと理解できた。
恭也が高町家に戻らなくなりはじめた。その理由を誰よりもわかっている忍はリアルに自分が非難されているような気がして、胸に痛みを感じていた。
そう。恭也は忍と接近しはじめたのだ。忍が知っている通りに。
『おにーちゃん』
なのはが笑っている。大好きな兄が側にいるなのはは嬉しそうだ。男は嬉しそうに兄を演じつづけ、戻ってこない兄のかわりになのはを構いつづける。
なのはも何かを感じているのだろうか、無心に兄に甘え続ける。
届かない願い。届かない想い。
『──なのは』
そんな日々の果て、溢れんばかりの想いをつい男はこぼしてしまう。
『なに?おにーちゃん?』
『……いや、なんでも。これ食べるか?』
『うん!』
男は鉄の想いで踏み止まった。
恭也はたとえ最愛の相手であっても激情を吐露しない。ひたすらベタ甘になるだけだ。最近は忍もそれがわかっていた。だから男の内心も手にとるようにわかった。
あくまで兄と偽らなければならない。兄でないとわかればなのはは泣いてしまうだろうから。
『ねえお兄ちゃん』
『ん?』
寂しさをかたくなに隠し妹に微笑む男に、なのはが無垢な笑みをなげた。
『忍さんが好き?』
『ああ、好きだ』
む、と不機嫌そうな顔になるなのは。困ったように笑う男。
「?」
対して、忍は首をかしげた。
男はロリコンの変態男のはずだ。なのにどうして他の娘を好きなどというのか?
そんな忍の気持ちを知るはずもない男は、なのはに微笑む。
『忍は恋人で、おまえは妹だ。比べることなんかできないぞ』
うわ、臆面もなく言い切りましたよ変態のくせにと忍が眉をしかめたのだが、
「へぇ……忍、この恭也さんにも愛されてるのね」
隣でうらやましい、なんてくすくす笑うさくらに忍の眉がつりあがった。
「やめてよね!変態に好かれたって迷惑なだけじゃない!」
「そうはいうけどね忍。あの恭也さん、どう見ても優しいお兄ちゃん以外の何者でもないと思うけど?ま、ちょっと甘すぎとは思うけど」
「……」
それはその通りだ。
男は完璧に「妹過保護の優しい恭也」を演じつづけている。まるでそれが自分の唯一の幸せであるかのように。
そして実際、それはその通りだった。
どんなにやさしくしようと男にとってこれは虚構だ。現実には寂しくみじめな生活が待っているだけなのだから。どう想おうとそれは報われない。
「……」
幸せそうな兄妹の幻に、忍は沈黙した。
「だ、だけど、これは結局こいつのキモい妄想でしょう?やっぱ」
そう言った忍だったのだけど、
『そう言うと思ってました』
唐突になのはの声が聞こえて、へ?と忍はその方を見た。
『こっちです、こっち♪』
「え?え?え?」
男の記憶の中。恭也となのはが縁側に座り西瓜を食べているのだが……?
「え?な、なんで?これ、あいつの妄想の中でしょ?」
妄想のはずの映像の中に、どうして自分たちと同じはずのなのはが混じって笑っているのか?おいしそうに西瓜を喰んでいるのか。
「……まさか……想い出に干渉してる?」
あっけにとられた顔で那美がつぶやいた。
「ひとの精神にまで干渉するの?……もはや八歳の女の子の能力じゃないわね」
さくらの言い分はもっともだが、これは無理もない。
彼女たちは知らないが、なのはを魔法使いにしたイデアシード事件はそういうものだった。たった八つや九つの女の子が大の大人の記憶に無数に入り込み干渉を続けた……そんな日々がなのはの精神や能力に影響をあたえないはずがない。
それは、魔法世界からきた人々には理解しえなかったこと。そうした魔法を道具のように使う、ここと異なる価値観と世界観の人間には想像もつかなかったこと。
ひとの精神という異世界を渡る、そんな稀有な力を得た娘。稀代の天才少女。
事件が終わり一人に戻ってからも、なのははその力を研き続けていた。兄と姉が熱心に剣を鍛錬し続ける姿を見ていたなのはは、特に疑問もなくその自らの能力を同じように研鑚し続けた。なのはにとってはそれがあたりまえであり、疑問を挟む理由もなかった。
結果、なのはの精神構造はすでに一般人の常識を外れ、
「……」
いや、穏やかな狐の友人だけはそれを知っていた。驚く皆を後目に久遠だけは普通にそれを見ていた。
そんな忍たちを見つつ、男の想い出の中でなのはは笑う。
『これがただの妄想でない証拠をお見せします……くーちゃんにはちょっとごめんなさいだけど』
「え?久遠が?」
那美が疑問を挟もうとした瞬間、場面は海鳴からどこかの山中に変わった。
それがゲームの中であることは皆にもわかった。
景色に鮮明さが戻っていた。それは曖昧な妄想でなく、男の記憶を元にしているということだった。
そんな景色の中、神官か巫女のような姿の娘と時代劇の村人のような少年がよりそっている。
「あれ誰?」
「!」
忍とさくらが首をかしげた。だが那美は文字どおりびっくり仰天した。
「まさか……ヤタ君!?そんな!」
「知ってるの?那美?」
「久遠に名前をつけた男の子です!前に久遠の夢で見せてもらったから間違いありません!
で、でも」
「でも?」
忍の言葉に、信じられないという顔で那美は首をふった。
「そんなばかな……恭也さんがヤタ君を知ってるはずない!だって、ヤタ君って何百年も昔のひとなんですよ!」
「ええっ!」
忍の目が点になった。
「それじゃあ……これって」
「本当にこれが『現実とゲームの入れ替わった異世界』の中なのか……どちらにしろ単なる妄想じゃあないわね。
ま、本物の恭也さんが那美さんのように久遠に記憶を見せてもらってて、それが影響してるって可能性もあるかもしれないけど」
「……」
冷静にさくらがつぶやき、忍はうなだれた。
『あ、その可能性はないです』
そんなふたりに、どこかからなのはの声が聞こえた。
『おにーちゃん、忍さんにべったりだから……那美さんのこともくーちゃんのことも知らないですよ?たぶん』
ちょっとだけ恨めしそうに、しかし笑うなのは。
『あ、そうそう。最後にもうひとつ面白いのみつけました。……これはさくらさんの』
「!」
ぴく、と自分の名前にさくらが反応した。
「なのはちゃん、それはやめて」
『……さくらさん?』
「なのはちゃん」
ふう、とさくらはためいきをつくと、どこにいるともしれないなのはに声をかけた。
「何をみつけたのかわからなくもないけど……私はそれ、見たくないから」
『で、でも』
「いいの。余計なことはしないで」
『……はい。ごめんなさい』
「ごめんなさいね。きっと良かれと思って言ってくれたんでしょう?」
「……さくら?」
ちょっと悲しそうに笑うさくらを、忍は首をかしげて見ていた。
そう。忍は知らなかった。さくらの高校時代の胸の痛み……相川真一郎にまつわる一連の事実を。忍の記憶にあるのは遠い夏の日、さくらと一緒に遊んでいた彼女の友人たちの姿だけだ。
「……」
何かあるのかな……そう忍は思ったにすぎなかった。