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幼きメイガス

 キスくらい誰だってしている。親しければ家族だってキスするだろう。そう言う者もいるかもしれない。確かにそういう部分の欧米化は日本でも進んでいて、そのうち欧州で下品と揶揄されるフランスにすら追い付いてしまうのかもしれない。
 フレンチキスといえば英国では下品なキス、人前で平然と濃厚に下品にやらかすディーブキスのことであると広く流布すればこういう面の欧米化は止まるんじゃないかと言う者もいるのだが、少なくとも現時点でそれは成功していない。それどころかフレンチという言葉が美しく感じるのか子供の恋愛の触れるようなキスをフレンチキスと描写してしまうありさまだ。
 ふざけているにもほどがある。白人の国をそこまで異常に美化したいのか。それとも日本人は一億総国際オンチ揃いなのか。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 とにかく忍はその瞬間切れた。理性が破滅の音とともにふっ飛んだ。
 なのはが恭也にキスしている、しかも一方的かつ濃厚にやらかしている。その光景を見た忍はたぶん生まれてはじめて完膚なきまでにブチ切れた。
 
 刹那、世界が、暗転した。
 
「──あ?」
 次の瞬間、忍は床に倒れていた。
 いや、一瞬だと思ったのは単に忍の感覚上のこと。実際には数秒が経過していたらしい。その証拠になのはは恭也に口づけしておらず、忍の方を向いてあの可愛い杖を突き出していて──、
「……やったわね」
 自分がこんな肉食獣のような声を出すことを、忍は知らなかった。
 どうやら自分はなのはに攻撃をしかけたらしい。最近は恋人の血を定期的に吸っているため忍の能力はかなり向上している。さくらのそれには敵わないだろうが、とりあえず恭也の足手まといになる心配はなかろうと忍は考えている。もちろんそんな実戦を経験したいというわけではないが。
 それを弾き飛ばされた。全力ではないとはいえ小さななのはに。ごくあっさりと。
 視界が一瞬赤く染まった。夜の一族としての能力を全開にしている自分を自覚する。
 忍は本来優しい娘だ。あの安次郎が殺戮モードに入りかけた忍を叱ったのは記憶に新しいが、それは別に策略があったためではない。彼は忍が本当は暴力を嫌う子だと知っていたから、ひとを傷つけることを嫌うおまえがそんなことしちゃいかんと叱ったにすぎない。あの安次郎ですら忍を暴力的な娘ではないと知っていて、しかもそれを悪く思ってはいなかった。忍にとっては迷惑な話かもしれないが。
 だが優しいとは戦えないという意味ではない。むしろ普段優しいからこそ本気で大噴火すると手のつけられない狂戦士(バーサーカー)と化す。それが人間というものだ。
 忍はゆっくりとたちあがり、なのはを睨み付けた。
 いくらなのはに特殊な能力があろうと人間の子供である。能力全開にした夜の一族を相手にしては、気迫だけで心臓すら止まりかねない。伝説の吸血鬼が視線だけでひとを幻惑するように、本気になった夜の一族は途方もなく恐ろしい存在なのだ。
 ──なのに。
「!」
 なのははそんな忍など眼中にないようだった。何かに気づいたようにハッと椅子に座る男を振り返る。慌てて男を揺り起こそうとして、
「……」
 あぁ……、と悲しげななのはの声が響いた。
「……?」
 忍はなのはの行動が理解できない。なんだろうと首をかしげていたが、
「……」
 ゆっくりと忍の方に向きなおったなのはは、忍どころか高町家の誰もみたことがないほどに怒りに満ちていた。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「──なんてことしてくれたんですか」
「は?」
 忍はわけがわからず、思わず問い返していた。
「何いってるの?」
「おにーちゃん消えちゃったじゃないですか!」
「???」
 さっぱりわからない。この子は何を言いたいのか?
 なんなのと聞き返そうとした忍だったが、続いたなのはの言葉に忍は目を丸くした。
「もうちょっとでおにーちゃんを捕まえられたのに!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいなのはちゃん、それどういうこと?」
「どうもこうもないです!もうちょっとでなのはだけのおにーちゃんが手に入ったのに!どうして邪魔するんですか!」
「……は?」
 全然わけがわからない。
 忍の内心をひとことで表現するなら『呆然』というのが正直なところだろう。怒りの鉾先がいきなり消失し、忍はどう反応していいのかわからなくなってしまった。目が点になるというのはまさにこういうことだろう。
 だが、なのはが何か恭也にやらかそうとしたのには忍も気づいた。どうやら自分の一撃はなのはに何のダメージも与えられなかったようだが、何かの企みを邪魔することはできたらしい。
 いったい何を邪魔したんだろうと忍は思ったのだけど、口にする前に那美が口を開いた。
「まさか、なのはちゃん……彼を昇華させずに高町先輩に閉じ込めようとしたの?」
「え……?」
「……」
 なのはは語らない。だがその沈黙はなによりも雄弁だった。
 だが当然、忍は沈黙していられない。
「それどういうこと?」
「どうもこうもないです」
 当然でしょうといわんばかりになのはは眉をよせた。
「あのおにーちゃんは消えたくないって思ってました。なのはも消えてほしくなかったです。そりゃあおにーちゃんがおにーちゃんでなくなっちゃったらイヤだけど、たまにでもお話できたらなのはもうれしいです。
 なのに……どうしてくれるんですか!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいって」
 なのはの言動が理解できない。忍は頭をふり思考をまとめようとした。
 だが、その前にさくらがなのはの言葉を要約した。
「すると何?なのはちゃんは、あのひとにお兄ちゃんになってほしかったの?」
「はい。……だめですか?」
「ダメですかって……」
 あっけにとられる、という言葉はこういう時に使うべきだろう。まさに忍はあっけにとられてしまった。
「なのはちゃん、あれは恭也じゃないのよ?偽者だったのよ?そりゃさっきはなのはちゃんに優しくしてくれたかもしれないけど、いつか狼になってぱっくり食べられちゃうかもしれないんだよ?なのはちゃんにはまだわかんないかもしれないけど、とてもあぶない人なんだよ?
 なのはちゃんは、恭也がそんなあぶない奴にのっとられたままでもよかったっていうの?
 ううんそれよりも、恭也が恭也でなくなってもいいっていうわけ?」
 なんだかんだでなのはは八歳である。理解できそうな言葉を選びつつ忍は言った。むろんこの時点で既に怒りなどはどこかへ消えている。
 だが、忍の認識はある意味とても甘かった。
「……」
 なのははその瞬間、久遠を除くその場の全員が総毛立つような透明な微笑みを浮かべたのである。
 くふ、と淫蕩かつ可憐に笑う。愛くるしい外観とあいまって、その姿は夜の一族も裸足で逃げ出すほどに蠱惑的だった。
 忍は一瞬、比喩でなく本当に震え上がった。
「おにーちゃんはおにーちゃんのままですよ。あのおにーちゃんとおにーちゃんを入れ換えちゃったら別人じゃないですか。なのははそんなことしないです。
 ただあのおにーちゃんが、なのはのおにーちゃんの一部になってくれたらそれでいいんです。なのははそれだけでいいです。
 そうすれば……おにーちゃんはずっと、ずっとなのはのものになるから」
「……」
「……」
「……」
 忍は固まっていた。さくらすらも顔色を変えていた。那美に至っては、完全に神咲の顔でなのはを見ていた。
 
 この目の前にいる少女は何者なのか?
 この可愛い高町家の末娘に、いったい何が起きているのか?
 
 いったい、何がこの娘をこうも狂わせているのか?
 
「なのはちゃん」
 さくらが声を絞り出した。やさしく諭すように。
「そんなことしなくても恭也さんは優しいお兄さんでしょう?なのはちゃんにつらく当たったり蔑ろにするようなひとじゃないでしょう?
 どうしてそんなこと考えるの?」
 なのはは、嬉しそうにハイと頷いた。お兄ちゃんっ子の可愛い笑顔だった。
 だが次の瞬間、その顔は少し寂しそうなものにかわる。
「──でも、なのはのものじゃないです」
「あたりまえじゃない!」
 忍が思わず突っ込んだ。
「家族なのよ?おもちゃじゃないのよ?生きた人間なのよ?誰かが誰かのもの、なんてことあるわけないでしょ!」
「……でも今、おにーちゃんは忍さんのものじゃないですか」
「!」
 思わず絶句する忍。
「なのはが子供だから何も知らないって思ってるんでしょう?
 そりゃあ、なのはは子供です。少なくとも大人じゃないです。そんなことわかってます。
 ──でも、なのはは何も知らないわけじゃないです」
 なのはは怒りの目を忍に向けた。
「おにーちゃんだって男の子です。それに忍さんはとても綺麗で優しいひとです。わたしだって大好きです。おかーさんやおねーちゃんよりも好きってわけじゃないけど、でもなのはは大好きです。おにーちゃんが忍さんを好きになるのもしかたないって思います。
 ──でも、おにーちゃんをひとりじめするのは許さない」
「い、いやその……そんなこと言われてもね」
 忍は必死で反論した。するしかなかった。
「そ、そもそも恭也には恭也の気持ちがあるでしょ?恭也がどれくらい私のこと好きかわからないけど、だけど恭也は私が好きって言ってくれたわけで」
「言ってないですよ?ずっと一緒にいるって言っただけで」
 忍の言葉を、ざっくりとなのはは切捨てた。まるで全てを見透かしているかのように。
「だいたい、おにーちゃんは好きとか愛してるとか簡単に口に出すひとじゃないです。忍さんのことがすごく好きなのは事実ですけど……忍さん、言ってもないことを言ったっていうのは悪いことですよ?」
 むう、と眉を寄せる。そのしぐさは実に子供らしくて歳相応に可愛い。
 だが、その口が語る事は子供の愛らしさとはまったく正反対。
「……ふうん」
 そのさまをじっと見ていたさくらが、いつもと変わらない優しい口調でなのはに問いかけた。
「じゃあ、なのはちゃんは恭也さんにどうしてほしいの?
 もしかして、忍みたいな恋人になりたいの?」
「さくら!」
 とんでもないことを言い出す叔母に忍が驚愕の声をあげた。
 だが、
「──恋人、ですか?」
 そんなさくらの言葉に、なのはは夢見るような微笑みを浮かべた。頬をかわいくピンクに染めて。
「はい……なりたいです。なりたいなぁ……」
「ふふ、やっぱりそうなんだ」
「はい」
「えぇっ!」
 忍は目を丸くしてさくらを見、そしてなのはを見た。信じられないという表情を浮かべて。
「ふうん、そっかそっか。じゃあ忍に嫉妬しちゃうのも無理ないわね」
 さくらはゆっくりとなのはに近付き、その小さな身体をよいしょと抱きあげた。
「む、なんか子供扱いです」
「イヤ?」
「……イヤじゃ……ない、です、けど」
 困ったようにつぶやくなのは。でも逆らわないのはさくらの腕の中が心地よいからだろう。
「桃子さんはだっこしてくれないの?」
「……なのは、最近大きくなったから。おかーさんそんなに腕力ないし。それに忙しいし。
 おねーちゃんやフィアッセさんだと赤ちゃん扱いされちゃうし、レンちゃんと晶ちゃんはそういうキャラじゃないです」
「恭也さんは?」
「おにーちゃんは……もう子供じゃないぞってそっぽ向かれちゃいます」
「あらあら」
 うふふ、とさくらは笑い、なのはに頬ずりした。にゃあ、となのはは猫のような声をあげて避けようとするが、本気で嫌がってはいない様子でむしろその目は嬉しそうだった。
「ところでなのはちゃん、おなかすいてない?もうお昼まわってるし」
「……すいてます」
「じゃ、何かノエルに作ってもらいましょうか。
 あーでもその前になのはちゃん。その杖仕舞ってくれないかな?出したまんまでしょ?」
 なのはは素直に頷いた。その瞬間に左手に持ったままだった杖が消え、なのはの胸元にペンダントが戻った。
 それを確認したさくらはウンウンと優しく頷くと、
「あと、忍にごめんなさいしてくれる?なのはちゃん、気持ちはわかるけど忍のことも好きなんでしょう?
 なのにあんなこと言って。このままだと忍、すねちゃうわよ?」
「あ……はい」
 そういうとなのはは忍の方を見た。
「……」
 忍はというと、さっきからそのまま固まっていた。あまりの展開に事態がまったく理解できなかったからだ。
 あの怪物じみたなのは。まるで異星人のようなぶっとんだ論理を展開し、実の兄をモノ扱いしたり忍のような関係になりたいと言い放ったなのはも異様なら、それをにっこり笑ってあっさり鎮めてしまったさくらも理解できなかった。ふりあげた拳の行き場がない。
 で、さくらの腕の中でなのはは悲しそうな顔をした。
「忍さん、ごめんなさい。なのは、ちょっと悪い子でした」
 ちょっとじゃないだろと忍は内心思ったが、さくらの顔が「怒っちゃだめよ」と言っているようでどうにもきつく言えない。
 ちょっとだけ逡巡したのだが、
「ま、いいよ。なのはちゃんの忌憚のない気持ちも聞けたしね。……でも本気でライバル宣言されたのには焦ったけどなぁ」
 そう言って苦笑いすることにした。
 対するなのはも苦笑いして、
「それは全然本気なんですけど……でも忍さんに嫌われるのもイヤですから」
「あっはは、なのちゃんもなかなか複雑だね」
「はい」
 それもまた忌憚のない本心。
 どういう価値観と思考を持っているのかわからない。この小さな少女が秘めた異様さを理解できるだろうか、そう思うと忍は内心ためいきをつきたくなる。兄にとりついた変態男をそのまま兄の中に閉じ込めようとしたり、実の兄と恋人になりたいと放言したみたり。
 さくらとの会話を鑑みるになのははやっぱり子供だ。まだ子供だから意味がわかってないのかもしれないが……それにしてもさっきの表情と態度は子供のそれとはとても思えない。
 ──まぁ、時間をかけて観察するしかないか。
 忍は結局、そう結論づけた。
「えっと……とりあえず解決、かな?」
「くうん」
 最初から最後まで傍観者も同然だった那美と久遠の声が、静かに部屋の中に響いた。



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