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再会

 理解力と知識だけなら結奈を越えかねないほどの力を持っていた唯一の男、主人公。
 高校時代、そんな公の可能性に気づいて科学部に引きずり込んだのは結奈だ。目にとまったのはほとんど奇跡のような偶然なのだけど、ふと気になって公の成績データに携帯端末でアクセスした結奈はピンときた。入試時点やその前のデータにある成績の低さを考えると、目の前で公が解いている方程式は難しすぎる。もちろん勉強すればたどり着けるのかもしれないが、数ヶ月でたどり着くには学ぶべき基礎知識が多すぎる。
 何かの不正?ありえない。
 主人公が幼なじみを追って入学してきたのはわかっている。わざわざ成績を低く見せてリスクをしょいこむには彼の成績は低すぎる。落ちてしまったら意味がないではないか。
 ではなぜ?
 簡単だろう。ありえないのなら不正ではないということだ。
 つまり入試からほんの数ヶ月、たったそれだけの間に彼は、理系限定とはいえ落ちこぼれからトップクラスに成り上がってみせたのだ。
 
 ──おもしろい。この男を確保しよう。
 
 結果は結奈の狙い通りだった。
 公は言うなれば『秀才の原石』だった。ちょっとやる気を刺激してやるだけでおもしろいように劇的に伸びた。きらめき高校にぎりぎり入学したような男が半年とかけずに高校レベルの理系の履修を完了し、二年の終わりには結奈の助手をつとめていたのだから。
 だが、高校卒業でふたりの道は分かたれた。
 あれほどの才能を持ちながら、公は幼なじみの一挙手一投足に支配されていた。だから藤崎詩織の選んだ一流大学に、そのままついていってしまったのだ。
 馬鹿ねと結奈はためいきをついたものだ。公にではない。その公にひとことの助言もしない藤崎詩織にだ。
 公の才能には気づいているはずだ。なのになぜ、自分目当てに目が眩んでいる公に手をさしのべてやらないのか?
 女は男が考えるほど粛々とした生き物ではない。女を飾るのが男の甲斐性なら、男を飾るのだって女の甲斐性なのだ。男が才能を腐らせているのなら、それを花開かせ大成させる。近所づきあいが下手ならサポートしてやる。そうやって男を前面にだし、賞罰を一身に受けさせることで漁夫の利を得る、それが女というものだろう。男が成功すれば経済的な豊かさを享受できるし、男が落ちればさっさと見捨てて金だけふんだくればいい。男に擦り寄る女の本性とはつまり、そういうもの。
 歴史にもいい例がある。
 千数百年前。アラブの貧乏商人だった男にひとりの女性実業家が惚れ込んだ。彼女は男を自分の夫として逆玉に載せ、立派な豪商に育て上げたばかりか悟りまで開かせた。天使の幻影が現れ韻を詠まされたと怯える気弱な夫を励ましその気にさせ、とうとう宗教家にまでしてしまった。
 女の名はハディージャ。男の名はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ(محمد ابن عبد اللّه ابن عبد المطّلب)。
 そう。
 あの怪物的巨大宗教であるイスラム教は、ハディージャという女がいなければ誕生しなかったのだ。彼女が手を添えた事で彼は道を開き、人類史を変えてしまうほどの途方もない巨人に成長した。その才能は秘めたものだったのかもしれないが、それを引き出したのはまぎれもなく彼女だ。
 愛する者の支えと激励というのは、ひとりの人間をこうも変えてしまうという事。そのあまりにも典型的な例と言える。
 閑話休題。
 結局はそのあたりが、藤崎詩織の限界だったのかもしれない。
 藤崎詩織は確かに才女ではあったのだけど、くっついた男を背後から操るという女としての能力には欠けていたのだろう。だからこそ最初から理想が高く、女に操られなくとも自力で立っている男を理想としていたのかもしれない。
 あの頃の結奈にはわからなかったが、今こそ言える。
 少なくとも公の相手に藤崎は相応しくない。
 公のような男にとり、平均的高スペックの保守派の女なんてのは最悪の組み合わせだ。たとえバランスが崩れていようと突出した『何か』をもつ者が公には必要なのだから。
 藤崎詩織では、公には釣り合わない。
「……」
 結奈はそこまで考えたところで、その益体(やくたい)もない思考を止めた。
 藤崎の悪口を言ったところで過ぎた時間は戻らない。論文を見る限り公のレベルは低くないが、本当に今も使えるかどうかは会って、使ってみないとわからない。結奈個人としては公が来る事がちょっぴり楽しみではあったのだけど、紐緒博士としての評価は当然別問題。女として公を捕縛する役目は館林がやってくれるとしても、工学系技術者としての見極め、場合によっては再起動なども結奈が担当する事になるだろう。
 空はただ(あお)く、雲ひとつない。ちち、ちちち、と遠くで小鳥の鳴き声がする。
 機械の音は一切しない。空もただひたすらに蒼。
「空が綺麗ね。昔からこんな綺麗だったのかしら」
「それだけ世界中が停滞している。そういう事よ」
 世界的な不景気の波は、史上最悪と言われた2009年のさらに数倍以上とされていた。日本ほどひどくはないが、他の国でもそれなりに大変にはなっていたのだ。
 そういう理由により、昨年から今年にかけて世界の工場稼働率は例年の三割程度でしかなかった。
「ま、私が生きている間くらいには、全世界がフル操業中でもこれより綺麗な空にしてみるわ」
「大きく出たわね結奈」
 レイが横で微笑む。
「まさか。公が高校時代からずっと私の助手なら、今現実にそうなってるところよ」
「断言するのね」
「当然でしょう?公を科学の世界に引き込んだのはこの私なのよ」
 そう、公がいれば。結奈は思った。
 公の頭脳が健在ならば、助手どころか相棒にすらなってくれるだろう。ふたりで組めば自分の力は何倍にも使える、できる事も当然何倍にもなるのだ!
 館林見晴が女として公との時間を取り戻すのなら、私は科学者として公との時間を取り戻そう。そう結奈は思っていた。
「きた」
 二人は廃棄されたGS、道路脇に立っていた。目の前の道路は市道にあたる。
 錆だらけのGSは外見上は廃墟にしか見えない。裏に巨大な工場があるのだが、ここが操業していた頃は工場まわりや従業員の需要でいつも賑わっていたものだ。そして工場が停止してしまったその日、このスタンドも終わった。国道にも面さず工場需要で百パーセント支えられていたがゆえの結末だった。
 ヒビだらけで、その割れ目から雑草まで生えた道路脇。元々は工業地帯だったのかもしれないが、今は見渡す限り道路と廃墟ばかり。ゴーストタウンそのもの。
 そんな光景に、はるか向こうから何かが近づいていた。
 それは軽自動車だった。女が運転し、助手席に誰かがいる。
 空色に塗られた古くさいそれは、しかしその古さに関わらず快調そうだった。燃費を考えてかゆっくりと、しかし確実にふたりの待つところに向かってきていた。
「ふてくされてるわね、彼」
「当然、でもちゃんと現実は受け入れてるはずよ。公はそこまでバカじゃないわ」
 あの頃だって、結奈も驚くほど現在の自分を理解していた。「詩織とつりあうには」という枕詞がいつもついていたが、現状を理解し順応する能力は高いということだろう。実際、科学部に引き込んでから順応にかかるのもあっというまで、気づいたら他の部員に混じって普通に活動していた。
 やがて軽自動車は、ふたりの前にゆっくりと停止した。
「こんにちはー」
「お疲れ様館林さん。燃料入れるから手伝ってくれる?」
「はい!」
 館林が車を降りた。レイにしたがってGSの機械の始動を手伝いはじめる。「こんなので給油できるんですか?」「もちろんよ。でなきゃ私がいるわけないでしょう?」「そっか」などという声が聞こえている。
 結奈はそんなふたりを見ながら、公がふてくされている側の窓に歩み寄った。
「ずいぶんとシケた顔ね公」
「紐緒さんか」
 久しぶり、と公は苦笑いした。自分の立場を思っての自嘲だろう。
「失業したって聞いて人買いにきたわ。また私の助手をなさい公」
「は?いやちょっと待て」
 いきなりの事に公は慌て出した。
「俺、今朝の今日でまるっきりわけがわからないんだけど。そもそも失業ってなんだよ」
 なるほど、全くわかっていないらしい。
「だって、館林さんと住むんでしょう?今の職場に通いつづけるのは不可能よ」
「いや、横浜だろ彼女。だったら」
 どうも何か勘違いしているらしい。やれやれと結奈は内心ひとりごちた。
「どこをどう誤解してそうなったのか知らないけど、館林さんが住んでいるのは私の住んでる工場兼研究所のすぐ近くよ。当然横浜どころか神奈川県ですらないわ。
 彼女に聞いてないの?公、ここにくるまで貴方何してたの?」
「いやその、俺酒場で寝ちまってさ。気づいたら館林さんの車で御殿場近くにいて」
「……」
 どうやら泥酔したところを文字通りかっさらわれたらしい。それどこのヒロインよと結奈は呆れた。
 だがまぁいい、経過なぞどうでもいい事だ。
「そ。じゃあ簡単に説明するわね。
 彼女が今いるところはまぁ、簡単にいえば農村なのよ。隣村との間に伊集院所有の工場があってね、で、関係者はどちらかの村に住んでいるってわけ。村の方には税金の他に工場から電力も供給していて、かわりに職員の衣食住の点でいろいろ便宜をはかってもらってるわ。
 とりあえずこんなところ。わかったかしら?」
「なるほど」
 ふむ、と公は結奈の言葉を吟味するように頷いた。
「まぁ住居とか細かいところは館林さんと相談すればいい、そっちには私もレイも口をだしはしないわ。
 口を出すのは週末の余暇でなく本業の方ね。で、どうする?」
「いや、どうするって言われても」
 公はぽりぽりと指で頬を掻いていたが、
「館林さんとこで厄介になる以上そのへんも確認してから返事する。だけど俺の希望としては」
「わかった。待ってるわ」
「っておい、返事聞かなくていいのかよ」
 聞くまでもないでしょ、と結奈は背を向けて肩をすくめた。
「あの論文──ツッコミどころが山ほどあるけどまぁ使えるわ。たたき台としてね」
 背後で、あっという声がした。
「研究を続けたいんでしょう?だったら私のところに来るしかないわ。選択肢なんて最初から貴方にはないのよ」
 それについての返事はなかった。
 だがそのかわり、マヌケな質問を結奈は聞くことになった。
「なぁ、紐緒さん」
「何かしら?」
「レイって誰だ?まさかあの伊集院が関係してるのか?」
「──は?」
 どうやらこの男は、いろいろと浦島太郎のままらしかった。
 結奈は「何バカなこと言ってるの?」と不機嫌そのものの顔をしてみせた。そんなつまらない事までいちいち説明しなくちゃならないのかと。
 だが。その目はちっとも不機嫌そうではない。
 もちろんその事に女ふたりは気づいていた。わかっていないのは結奈本人、それと目の前のにぶちん男ふたりだけなのであった。



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